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中国語学習者、Congziのブログ

京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

普陀宗乗之廟

 

(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順

 普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した。普陀宗乗はすなわちチベット語のポタラ(布達拉)の漢訳である。乾隆の詩の中でいわゆる「普陀はもと遐(とお)きの人を撫(なぐさ)め、神道は誠にこれを相する有るを看る」(『普陀宗乗廟即事』)というのは、「神道教えを設く」を以て辺境地区の各民族を安撫するの意味である。

 普陀宗乗之廟は山勢に依って建ち、前部と中部は河谷と緩い斜面に築かれ、後部は高き山の巅(いただき)に盤踞し、宏偉(雄大)巍峨(高く聳え立ち)、たいへん壮観である。廟の前部はかなり整った漢式(中国式)建築で、主に黄色の瑠璃瓦で屋根の頂を覆いた方形の重檐(ひさし)の碑亭である。碑亭を北に往くと、極めてチベット族の色彩の濃い五塔門で、門の上には五基のラマ塔がある。

更に北に往くと、光華艶麗(光り輝き色鮮やか)な瑠璃牌坊(アーチ状の門。牌楼)である。牌坊は北に延び、20基余りの白台が、間隔が異なっているが趣があり、まちまちの高さで徐々に昇って行く斜面に設置されている。

更に北には、廟の中心の建物の大紅台である。大紅台の高さは43メートルに達し、正面の赤い壁の上には、上から下に向け6つの交互に黄色と緑の瑠璃瓦の仏龕(ぶつがん)嵌め込んで装飾され、最も上端の女児墻(城壁の上にある凹凸形の小さな壁)の上には更に瑠璃瓦の宝塔が嵌め込まれていた。

大紅台の四方には慈航普渡殿、洛伽勝境殿、千佛閣等の建物があり、中心には楼閣群より一段高い万法帰一殿で、建物のてっぺんの金メッキをした銅瓦がきらきらと光を発し、左右を照り映えさせている。

 普陀宗乗之廟は1767年(乾隆32年)に着工した。1771年(乾隆36年)の竣工時、ちょうど乾隆の母親の80歳の誕生日で、ここで盛大な宗教儀式を挙行し、皇太后のため祝福した。この時、トルグート部(土尔扈特)の人々数万人を率い、半年余りの期間、1万里余りの行程を費やし、祖国に戻った渥巴锡(ウバシ・ハーン)も、ちょうど承徳に到着したので、このことは乾隆をとりわけ喜ばせ、彼は万樹園で歓迎宴を催した他、更に万法帰一殿でこのために経典を唱え祝福した。普陀宗乗之廟の碑亭内の巨大な石碑に、満州語、漢語、モンゴル語、チベット語の四種の文字で乾隆が著した『普陀宗乗之廟碑記』と『土爾扈特全部帰順記』。『優恤土爾扈特部衆記』を刻んだ。前方の一基の石碑には廟宇建設の経緯が記載され、後方の二基の石碑にはトルグート部が祖国に戻った壮挙と清政府がトルグート部に同情した情況が記述された。

 

(四)須弥福寿之廟と班禅(バンチェン)六世の乾隆との朝見(覲見)

 

須弥福寿之廟

 須弥福寿之廟はチベットの日喀則(シガチェ)の扎什倫布寺(タシルンポ寺)の形式を真似て建てたもので、避暑山荘北側の獅子溝の、普陀宗乗之廟の東側に位置する。「扎什」とは福寿の意味、「倫布」は須弥山を指し、須弥福寿とは即ち福寿が須弥山のようだという意味である。

 1780年(乾隆45年)乾隆帝70歳の誕生日の際、各民族の王公貴族が熱河行宮に集まり、彼の長寿を祝った。事前に、班禅(バンチェン)六世が自ら求めて都、北京に赴き、「以て中国が黄教(ラマ教)を振興させ、万物を撫育し、国内を安寧にし、万物が静まり安らかな光景を見」て、更に避暑山荘に至って乾隆の長寿を祝った。乾隆はこれに対してたいへん喜び、そして命令を出し、バンチェンが暮らしている タシルンポ寺の形式を真似て廟宇を建立させ、バンチェンが経典を唱え仏法を伝え、居住する場所とした。

 バンチェンはラマ教の重要な指導者であり、モンゴル、チベット地区でたいへん高い声望を享受していた。バンチェン六世は熱河に来て乾隆に謁見し、疑い無く重要な政治的影響をもたらし、中央の朝廷とチベット地方の関係を強化し、民族の団結を維持するのに有利であり、それゆえ乾隆の特別な重視を引き起こした。17807月に、バンチェン六世は熱河に到り、乾隆は直ちに避暑山荘の澹泊敬誠殿で接見し、自ら茶や点心を賜り、チベット語でバンチェンと談話し、並びに金冊金印を賜った。翌日、乾隆は自ら班禅行宮、すなわち須弥福寿之廟に来てバンチェンを尋ねたが、これは極めて特殊な待遇であった。

 須弥福寿之廟は華麗で堂々としている。バンチェン六世が経典を唱え仏法を伝えた大紅台主殿、妙高庄厳殿は、屋根が二重の檐(のき)を持つ(重檐)とんがり屋根(攢尖)で、頂には魚鱗状の金メッキ(鎏金)の銅瓦で覆われ、四方の仏殿の棟(屋脊)は各々二匹の金の龍で覆われ、一匹は上を向き、一匹は下を向き、姿かたちが活き活きとし、まるで飛び立たんばかりである。

殿内には今も乾隆当時、バンチェンが経典を講じた時のふたりの坐床(座席)と銅造と木造の仏像が残っている。大紅台の北西には吉祥法喜殿があり、これはバンチェンの居室であった。廟の一番後ろは山の斜面の高い所に建てた七層の瑠璃塔である。

 乾隆が著した『須弥福寿之廟碑記』の中で、次のように書かれている。百年余り前(1652年、順治9年)チベットのダライ・ラマ五世が清朝廷の「敦請」(切なる要請)により北京に赴いた。当時、辺境地域は尚朝廷に服していなかったが、この時はバンチェン五世が「自ら進んで」皇帝に拝謁(朝觐)し、オイラト部が「亦無不帰順」(また帰順せざること無く)、須弥福寿之廟が建立されたのは、「答列藩傾心向化之悃忱」(列藩が心から帰順したことの忠誠)を表すためだった。こうも言うことができる。この廟の建立は、ひとつの側面では乾隆時代に辺境地域の統一事業がより一層強固になったことを反映している。

承徳外八廟・普寧寺

 避暑山荘の建設が始まってから、康熙帝、乾隆帝は山荘の周囲に次々と多くの寺院を建立した。1713年(康熙52年) 康熙帝 玄燁(げんよう)が六十歳の誕生日を迎えた時、モンゴルの王公たちが熱河に来て朝見し、うやうやしく礼拝しやすいように、溥仁寺、溥善寺を建立した。これは山荘の周囲に最初に建てられた寺院で、規模が小さく、乾隆帝在位時に建てられた寺院には遠く及ばなかった。乾隆帝は費用と大量の人力物力を惜しまず、避暑山荘の東側と北側の山麓に、ひとつ、またひとつと寺院を造営した。1755年(乾隆20年)から始まり、およそ三から五年毎に一寺建立した。1755年に普寧寺を建立、1760年に普佑寺を建立、1764年に安遠廟を建立、1766年に普楽寺を建立した。17672月普陀宗乗之廟の建設に着手、17718月に完成、工期は4年半で、この寺院の建設時間が最も長く、規模も最大であった。1770年広安寺建立、1774年殊象寺と羅漢堂を建立、1780年(乾隆45年)須弥福寿之廟を建立した。

 以上、全部で11の寺院があった。そのうち10の寺がそれぞれ8つの「下処」(事務機構)により管理されたので、習慣上これら山荘の外側の寺院は外八廟と総称される。普佑寺、広安寺、溥善寺は既に廃棄され、羅漢堂は落雷で焼け、現存するのは七ヶ所である。

 外八廟の建造には、一定の政治的歴史的背景があった。清王朝前期、国内の政治は安定し、農業、手工業、商品経済が発展し、いわゆる「康乾盛世」の時代が出現した。当時の国勢は強く盛んで、対外的には帝政ロシアの黒竜江流域の侵略に対して対抗、撃破する力があり、対内では、辺境地域のいくつかの民族の分裂分子の反乱を粉砕し、中国は統一した多民族国家として極めて強固であった。清王朝は「宇内(国内)統一」のため、中央政府の少数民族に対する連携と統轄を強化し、いくつかの政策を採用したが、宗教による連携こそが、重要な政策のひとつであった。清朝皇帝はモンゴル、チベットの両民族が信奉するラマ教を尊重し、広く寺院を建立した目的はここにあった。次に、外八廟の主要寺院について紹介する。

(一)普寧寺と中国最大の木造の仏像

 普寧寺は別名大佛寺と言い、熱河行宮の北東の山の斜面に位置している。この寺の建立は、北西側の境界を安定させることが直接関係している。

普寧寺大乗之閣

 1755年(乾隆20年)清が出兵し、天山の麓のオイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)のジュンガル部(准噶尔)の反逆者、ダワチ(達瓦斉)の反乱を討伐した。清軍が直接ダワチが防備するイリに攻め入ったので、ダワチは天山の南に逃げ、ウイグル族の首領、ホッジス(霍集斯)に捕えられ、清軍の大営に引き渡された。乾隆はこの度の反乱平定の勝利を記念するため、熱河にラマ廟を建立することを決定し、その名前を普寧寺とし、北西の辺境が「その居を安んじ、その業を楽しみ、永久に普寧が続く」という願いを込めた。この寺の山門の北の碑亭の中に、満州語、漢語、モンゴル語、チベット語の四つの言語で刻まれた、乾隆が著した『平定准噶尔勒铭伊犁之碑』には、この度の反乱平定の経緯が記されている。碑文の中に、こう書かれている。「衆く王公を建て、遊牧し各々安んじ」、「疆を分けて各々守り、相侵凌する毋れ」。各民族が仲良くし、辺境を安定させよという願望を表している。

 その後、ジュンガル部の別の反逆者、アムルサナ(阿睦尔撒納)が帝政ロシアとの密約の下、再び公然と反乱を起こした。1757年(乾隆22年)清が軍を派遣し討伐すると、アムルサナは人心を得られず孤立し、恥知らずにもロシアへ逃亡し、間もなく病死した。それて乾隆帝は普寧寺に更に『平定准噶尔勒铭伊犁之碑』を追加で立てた。碑文の中でこう言っている。「イリは既に(我が)版章(版図)に帰したからには、久しく安んじ善後策を執ろう。ここにもう定まっているものを、どうしてまた失うを宜しとできよう!」祖国が分裂するのを許さない決意をここに公表した。

 早くも779年(唐の代宗の大歴14年)、当時の吐蕃王、赤松徳賛(ティソン・デツェン)は三摩耶寺、またの名を桑鳶寺(今の貢嘎県桑鳶区に位置する)を建立したが、これはチベット最初の仏教寺院であった。普寧寺はチベットの仏教聖地である三摩耶寺に似せて建立された。この寺の中心となる建造物の中の大乗之閣は、中に重さが120トンの木造の千手千眼観世音菩薩像があり、巨大な蓮華座に立ち、仏像の高さは22メートル余り、胸部の幅は6メートルある。大仏の両側には、二体の高さ16メートルの善才と龍女像が立っている。大仏の頭のてっぺんには、更に高さ1.5メートル余りの無量光仏がある。観世音は仏教の中で、「仏法は無辺」で、また「苦を救い難を救い」、「普く衆生を渡る」を楽しむ仏であり、我が国古典文学作品の中でも、しばしば観世音の姿が出現する。観世音が千手千眼仏と言われる所以は、それが四十四本の手を持ち、各々の手のひらの中にひとつの眼があり、更に仏教経典の中でいわゆる「二十五有(う)」の成数を乗じると、「千手千眼」となるのである。

普寧寺千手千眼観世音菩薩像

頭上の無量光仏

 この千手千眼仏は、我が国の木造の仏像の中で最大のものである。伝説によると、この仏像は一本の古い楡の木から彫られたという。実際には、その内部は三層の楼式の構造となっていて、高く聳えるコノテガシワの大柱の周囲に、14本の支柱が立ち、且つ分厚い木の板が釘で打ちつけられ、この像の中心を組成し、更に麻布、膠(にかわ)、漆でしっかり覆って、その上から精緻な彫刻を施してある。大仏は高く大きく均整がとれ、造形が優美で、衣服、スカート、手に持った哈達(ハダ。チベット族が尊敬のしるしとして人に贈ったり仏に供える赤、白、黄、藍などの帯状の絹布)は何れも質感があり、この像は中国古代の木造彫刻芸術の傑作である。

(二)安遠廟とダシュダワ(達什達瓦)部の帰順(内遷)

 安遠廟は避暑山荘の東側、普楽寺の北側の山の斜面の上に位置し、深い藍色の瑠璃瓦で頂が覆われ、建物は独特の風格を有している。この廟はイリ川の北のクルチャ(固尔札)廟に似せて建設された。それゆえまたイリ(伊犁)廟とも呼ばれる。

安遠廟普度殿

 伝説では、乾隆帝がイリ地方で生まれた妃を娶り、彼女は山荘の暢遠楼に住んでいた。妃がホームシックにかかったので、乾隆は暢遠楼の向かいの丘の上に彼女のために故郷のクルチャ廟に似た廟宇を建てて郷愁を癒してやったという。しかしこれは伝説に過ぎず、実際には以下のような事情があった。

 オイラトモンゴル(厄魯特蒙古)の一部族、ダシュダワ(達什達瓦)部は、祖国の統一という方針を堅持し、分裂に反対し、前後して達瓦斉(ダワチ)、阿睦爾撤納(アムルサナ―)と不撓不屈の戦いを行った。1755年、ダシュダワ部は積極的に出兵し、ダワチの反乱を平定する戦いを行った。同年秋、アムルサナ―の反乱後、ダシュダワ部は人数が少なく、勢力が手薄であることから、イリ東南の元々居住していた地区から移転させられた。当時、ダシュダワ部の首領、ダシュダワは既に死亡しており、部族の人々はダシュダワの妻に率いられ、清軍の駐留地、巴里坤(バルクル)に移った。乾隆帝はダシュダワの妻が反乱勢力に反対し、清朝に投降しようとしているに鑑み、「誠悃可嘉」(誠実ですばらしい)とし、「車臣黙爾根哈屯」(賢く知恵のある王妃の意味)の名を封じた。彼女は1756年バルクルで病のため亡くなった。この年、清軍がアムルサナ―の反乱軍を討伐した時、敗れて潰走した反乱軍がイリ川北のクルチャ(固尔札)廟を焼き払った。その後、ダシュダワ部は何度か転々とところを変え、1759年(乾隆24年)熱河に移った。清政府はダシュダワ部の宗教習慣を考慮し、1764年(乾隆29年)、彼らの駐留地の丘の上に、クルチャ廟に似せた形状で安遠廟を建設し、この部族の人々が参詣しやすいようにした。安遠廟の中心の建物である普渡殿の前の臥牌には、乾隆が作った『安遠廟瞻礼書事』牌が刻まれ、碑文の中で廟建立の経緯と清国西北地区統一の意義が述べられている。

永佑寺舎利塔

 湖地区の北側には平原地区が広がる。東部平原は、熱河泉の北に位置し、元々春好軒、嘉樹軒、永佑寺など幾組かの建物があった。永佑寺内には御容楼があり、曾ては康熙と乾隆の肖像画が安置されていたが、とっくに破壊されてしまった。ただ永佑寺の後ろには舎利塔が尚存続し、この塔は南京の報恩寺塔を真似て作られ、十層の八角形で高さは60メートル余り、頗る壮観である。

 中部平原は、万樹園と試馬埭(しまたい)から成り、土地の広さは数千畝ある。湖のほとりには甫田叢樾、濠濮間想、水流雲在、鶯囀喬木の四亭があり、亭の上では湖や山の景色を見渡すことができる。四亭以北は、すなわち万樹園と試馬埭である。ここには日差しを遮る木々の生い茂った森林、青々とした草が敷物のような草原がある。

試馬埭

曾ては万樹園の中は自由に遊びまわる鹿の群れがおり、園中の青草は鹿に食べられて短くなり、草原全体が極めて平らになり、遠くから望むと緑の絨毯のようになっていた。乾隆はこのため『緑毯八韻詩』を書き、万樹園南部の臥碑に刻み、今日まで保存されている。万樹園、試馬埭では、草が柔らかく土地が広く、良い樹木がきめ細かく植えられており、駿馬が勢いよく走り回っている。乾隆は毎年木蘭圍場で秋狝をする度に、その前に必ずここで校閲と武芸の試合を行い、時にはここにテントを張り、各少数民族の王公貴族の歓迎宴を行い、遠方より来た外国使節を接見した。ここで二つの事柄を特に言及する必要がある。それは乾隆が万樹園で「三策凌」(或いは「車凌」とも書く。ツェリン)に夜宴を催したことと、イギリス特使ジョージ・マカートニー(馬戈尔尼)を接見したことである。

乾隆帝の万寿園での夜宴図

 万樹園で三策凌に夜宴を催したのは、1754年(乾隆19年)5月のことである。この時の行事は乾隆が前年の冬に決定していた。実は、ガルダン・ハーン(噶尔丹)の死後、ジュンガル部(准噶尔)の首領たちは引き続き割拠する一方、オイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)の統治権を争奪し、内部闘争が止まなかった。1753年、オイラト・モンゴルの統治権を奪ったジュンガル部首領、ダワチ(達瓦斉)が、エルティシ川(額尔斉斯河)流域で遊牧するドルボタ部(杜尔伯特部)に対して野蛮な襲撃と掠奪を行い、ドルボタ部の人々に重大な災難をもたらした。ダワチの圧迫と掠奪から逃れるため、ドルボタ部の首領、ツェリン(策凌)、ツェリンウブシ(策凌烏布)、ツェリンモンケ(策凌蒙克)(史書では彼らを「三策凌」と呼ぶ)は部族の人々を率いて東遷し、清朝に帰順することを決定した。この年10月、彼らは厳寒の風雪を衝いて、老人を扶助し幼子を携え、ダワチの追手を逃れ、11月に清兵が駐留する烏里雅蘇台(ウリヤスタイ。現在はモンゴル人民共和国の領内)に到達した。

 ドルボタ部の東遷は、オイラト・モンゴルの人々の部族統一、群雄割拠反対の強い願望を反映していた。乾隆はこの重大な政治事件をたいへん重視し、ドルボタ部が困難を極めていた時に、彼は高級官僚を派遣し大量の牛や羊、食糧を送り、翌年夏に避暑山荘で 三策凌を接見することを決定した。

  三策凌が引率する随従人員がウリヤスタイから出発する際、乾隆は特に申しつけを伝え、ウリヤスタイから熱河行宮に到る行路の途中に、24の兵站を設置し、各々の兵站には十分な数量の乗り換え用の馬と食物を準備し、三策凌一行の使用に供した。三策凌接見の重要性を突出させるため、彼は北京の朝廷内の王公大臣に命じ、少数人数を北京に駐留させる以外、皆避暑山荘に赴き、皇帝の接見、宴会に参加させた。1754年閏413日、三策凌は熱河に到着した。512日、乾隆は喀喇河屯から避暑山荘に来て、直ちにツェリンを親王に、 ツェリンウブシを郡王に、ツェリンモンケを貝勒(ベイレ。清朝の爵位名。)に封じた。翌日、乾隆は澹泊敬誠殿で初めて三策凌を接見した。516日、乾隆は万樹園にて盛大な宴会を挙行し、三策凌を歓迎し、北京から来た王公大臣、各地から来た少数民族の王公貴族たち全てを参加させた。引き続き四日間、毎晩園内にちょうちんを掲げ、色絹を飾り付け、宮廷音楽を演奏し、花火を上げ、雑技の出し物を催し、こうした賑やかな催しは、避暑山荘で空前のものとなった。

 この期間、三策凌は乾隆に多くのダワチに関する情報を報告し、このことが乾隆に速やかにダワチ平定を決意させることを促した。乾隆は十分な準備をしたうえで、1755年(乾隆20年)春、叛徒平定の大軍のイリ出兵を命じ、三策凌も部隊を率いて参戦した。叛徒平定戦争に勝利後、三策凌は再び乾隆の恩賞を受けた。万樹園での三策凌への夜宴は、乾隆の民族関係の処理の一面を反映しており、このことは辺境地区を固め、分裂に反対し国家統一を守るうえで良い作用を果たした。

 乾隆が万樹園でイギリス特使ジョージ・マカートニー(馬戈尔尼)を接見したことは、清朝前期の対外関係上の重大事件であった。1792年(乾隆59年)、イギリス政府はマカートニー特使、スタントン(司当東)副使が率いる200人余りの大型代表団を中国に訪問させた。彼らはイギリス国王ジョージ三世から乾隆皇帝への信書と贈り物を携え、海路天津に上陸し、先ず北京に到り、古北口を出て、17939月に避暑山荘に到着した。914日(旧暦810日)乾隆帝は万樹園の大テント内でマカートニー、スタントンらを接見し、イギリス国王の贈礼に謝意を表し、並びに礼物を贈った。当時、ちょうど乾隆の83歳の誕生日に当っており、お祝いに来た外国使節、少数民族の上層の人物などが山荘に多く集まっており、イギリス使節団も祝典行事に参加した。乾隆は万樹園で宴席を設え、使節団を招待し、彼らに花火や芝居、踊りなどの出し物を鑑賞させ、また慣例を破って彼らに避暑山荘を遊覧させた。

 乾隆はこの度の初めて外交ルートで中国に来たイギリス使節団に対し、優待し礼遇したが、併せて彼らへの警戒を緩めることはなかった。実際、このイギリス使節団は確かにその対外拡張の目的を有していた。当時、イギリスは正に産業革命後の資本主義勃興時期に当り、イギリス資産階級の政府は、長年外交に従事してきたマカートニー卿を特使に任命し、使節団を中国に派遣したが、その目的は清王朝の扉を開かせ、イギリス資本主義勢力が中国に侵入する道筋を開くためであった。マカートニーは乾隆帝に、イギリスの使節が北京に常駐し、イギリス商人が中国沿海都市の寧波、天津などで「泊貨貿易」(販売前の商品を在庫して必要な時期に相手と取引きする)を行うこと、及び北京で洋行(貿易商社)を設立することを認めるよう要求したが、全て乾隆に拒絶された。乾隆が外国勢力の侵入を警戒していたというのはその通りだが、彼は清朝を「天朝」と自認する尊大な心理を持ち、門戸を閉ざす鎖国政策の実施は行わなかった。

 西部平原は、万樹園の西に延びる西嶺の山麓に位置し、文津閣、寧静斎、玉琴軒などの建物がある。 文津閣は17741775年(乾隆3940年)に建てられたが、その目的は『四庫全書』を収めるためで、浙江寧波の有名な蔵書楼である範氏天一閣を真似て建造された。この蔵書楼は、外観は二層だが、内部は実際は三層で、中間の一層は陽光が蔵書庫に差し込まないようにするためである。建物の東の古松の下に、乾隆が自ら題した『文津閣記』碑が立っている。乾隆年間に作られた『四庫全書』は全部で七部作られ、 文津閣の一部は辛亥革命後の1915年に北京に移され、その後は京師図書館、つまり現在の北京図書館に保存されている。北京図書館の所在地の文津街は、このことにより名付けられた。 文津閣には元々、これ以外に『古今図書集成』一部が蔵せられていたが、後に軍閥の湯玉麟により奪い去られた。

文津閣

 文津閣には元々院墻が築かれ、院内は蔵書楼の他、各種の景観がその間を引き立てた。文津閣の前には泉の水が合流する小さな湖があり、晴れた日の日中には水中に新月が映り、見る者に奇観と称えられた。これについては、実は文津閣の向かいに築山を造営する時、山洞の前の壁に三日月形の小さな穴が残り、光が漏れて池の中に逆さに映り、昼間に静観すると、初めて昇る月のように見えたのだった。ここの築山は他にも別の見どころがあり、高さのまちまちの石が立ち並び、不思議な形の峰が重なり合う中、趣亭と月台が建てられ、詩意に富んでいる。乾隆は曾てこう詩に詠んだ。「閣外假山堆碧螺,山亭名趣意如何。泉声樹態則権置,静対詩書趣更多。」(『趣亭』)

 熱河行宮の山岳地区は、山荘の西部と北部にあり、山荘の総面積の五分の四を占める。ここでは山々が重なり合い、木々が生い茂り、谷や渓谷はひっそり静かで、山並に沿って44か所の亭台楼閣、寺院などが建てられていた。そのうち山近軒、梨花伴月、食蔗居、秀起堂、広元宮、珠源寺、鷲雲寺など大多数の建物は全てもう破壊され、今も残るのはただ南山積雪、錘峰落照、四面雲山など数か所だけである。

 南山積雪はひとつのあずまやで、山荘の真北の山頂に聳え立ち、山区の建物の中で最も容易に遊覧者に見える場所である。文津閣から北に行くと、松雲峡に進み、曲がりくねった山道を登り、北枕双峰の跡を過ぎてしばらく行ったところが南山積雪である。ここからは東にゆったりと東に流れる武烈河が望め、北には高くそびえる壮観な普寧寺を眺めることができる。

  錘峰落照もひとつのあずまやで、西嶺の平らな丘の上に建てられている。このあずまやは山荘の東側の群山の中の磬錘峰を鑑賞するために建てられた。磬錘峰は上が太く下が細い、ひとつだけまっすぐ突っ立った奇峰である。夕陽が西に沈む時、落照亭から東を望むと、磬錘峰は「迥出孤標、揚暉天際」、この景色は見る者を感動させる。

 この他、四面雲山と呼ばれるあずまやがあり、西山の最も高いところにある。あずまやの中に立って四方を望むと、承徳市の全景が見れるだけでなく、有名な「承徳十大景」のうちの八大景を見ることができる。すなわち、僧冠山、羅漢山、磬錘峰、蛤蟆石、天橋山、鶏冠山、月牙山、饅頭山である。四面雲山のあずまやは西山の頂に高く聳え、その足元には、諸峰が並び、或いはお辞儀し、或いは拱手し、あずまやの中は遠くから風が流れてきて、暑さに伏せる季節でも秋のように爽快である。

 避暑山荘の設計や造営は、独自の風采を備え、中国内の著名な園林とは一線を画する。ここでは自然の地勢を十分に利用し、山岳、平原、湖泊の変化に富んだ地形の上に、それぞれ宮殿や苑景を造営し、人工の建築を自然の風光と調和をとり一体にしている。建物の風格は、北方の四合院形式の整った対称性だけでなく、南方の園林の弾力的な不揃いさ、精緻な設(しつら)えも併せ持っている。景観の特色は、雄壮で荒々しい北国の風光だけでなく、明媚で秀麗な南国の情緒も取り入れている。つまり、南北の造園芸術の集大成と言うことができる。そのうち宮殿区の建物は、北京故宮のように高大雄壮、華麗で堂々としたものではなく、厳かでしめやか(荘厳肅穆)な中に、簡素で上品で、古色蒼然(古色古香)とし、見る人に新たな風格を感じさせた(別開生面)。

 避暑山荘の建物は、離宮外の風景も借景として利用している。山荘の東側の 磬錘峰は、これを重要な借景として利用されている。南側の 僧冠山、羅漢山、及びもっと遠くの 鶏冠山も、自然と山荘の遠くの眺望風景の中の組成部分になっている。後に北東の斜面に建てられた普楽寺、安遠廟など外八廟は、極彩色の美に輝き(金碧輝煌)、且つ濃厚な地方色に富んでいて、避暑山荘と入り乱れて輝き(交相輝映)、武烈河河谷に、非常に美しく(瑰麗)、様々な表情を見せる(多姿)膨大な芸術性に富む建築群を形成している。

慈寿寺塔(明万暦6年(1578年)建立)

第五節 明代の北京の文化

寺院と園林

 明代、北京の人々は、北京城の郊外に多くの大小の寺院を建設した。明代の北京の寺院は全部で千か所以上あり、宛平県の1県だけでも570ヶ所あった。いくつかの寺院は、今日でも完全な状態で残っている。(沈榜『宛署雑記』巻言、闕名『燕京雑記』

 これらの寺院には、道教、仏教、ラマ教の寺院や、回教の清真寺が含まれていた。寺院の建物には、漢族、蒙古族、チベット族、回族、ウイグル族等、各民族の独特な芸術やスタイルが表され、同時にまたベトナム、朝鮮、インド、ネパールを含めた東方の各国の民族の芸術スタイルが混ぜ合わされていた。北京の安定門内、東四、牛街、錦什坊街の回教四大清真寺は、 牛街清真寺が明朝期に再建されたのを除き、その他は何れも明代の創建である。数多くのチベットとモンゴルのラマ教僧侶が絶えず往来したことにより、明代の北京では、チベット、モンゴルの建築様式の寺院が増加していった。

 香山の弘光寺は、朝鮮人鄭同が建立し、その中の円形の殿宇は完全に朝鮮金剛山圓殿の様式を模倣したものであった。(『帝京景物略』巻6)五塔寺の後ろの石塔はインドの造形手法を採用し、塔の上には更に黄緑色に光輝く瑠璃亭が建築された。この美しい建物はずっと今日まで、北京の西の郊外に聳え立っている。

五塔寺石塔

大鐘寺外景

 明代、北京に建設された各種の寺院では、更に当時の人々が木彫り、石刻、銅像、塑像、絵画などの面で、すばらしい成果を残した。北京石景山模式口法海寺、西直門外大慧寺、阜成門外宝塔寺、城内東四の清真寺、北海の天王殿では、明代の壁画、彩色画が保存されている。拈花寺(ねんかじ)の壁面の瑠璃の仏像群、長春寺の金箔か金粉で表面を覆った(渗金)銅塔、摩訶庵の石刻金剛経、五塔寺の石刻仏像と梵文、万寿西宮のとぐろを巻いた龍の模様の刻まれた(盤龍花紋)大鼎炉、大鐘寺の大鐘など、これらひとつひとつが高度な芸術レベルを備えていた。

 永楽年間に釣鐘鋳造工場で鋳銅の職人が制作した大鐘は、今日に至るまで北京西郊外の大鐘寺の中で保存されている。この鐘は総重量87千キロ、鐘の表面、内面に華厳経(譲廉『春明歳時瑣記』(京津風土叢書参照))全81巻が刻まれていて、品質の良い銅を使い、彫刻は細かく、この鐘を衝くと鐘の音は数十里先まで聞こえた。このような大鐘は世界でも極めて珍しいものだ。

大鐘寺大鐘

 人々は北京城郊外に更に多くの静かで美しい園林(庭園)を建設した。明代、北京城郊外の風致地区に園林が盛んに作られたのは、それ以前の如何なる時代も上回っていた。当時、有名な大園林には、定国公園、成国公園、英国公園、李皇親園、恵安伯園、宜園、曲水園、米万鐘の勺園など、その他の小庭園は枚挙に暇が無かった。これらの園林、別荘は上品できれいにレイアウトされ、山、水、石があり、泉水が流れ、花や木があり、あずまや、高殿、回廊、楼閣があり、欄干や橋梁があり、うねうね曲がった小道がきれいな風景の場所をめぐり、花や木が群生していた。明代、園林が大量に修築されるのは、中期以後であり、勲功のある皇族、官僚、大地主、大商人が北京城郊外の川や泉、山林地区を使って園林を切り開いた。

 避暑山荘の苑景区(園林地区)は面積がたいへん広く、宮殿区を除いて山荘の全ての面積を占めている。「山庄山水佳,天然去雕飾」(山荘は山水が佳く、自然に装飾を加えている)(乾隆詩)。青い波が波打つ湖地区、山の峰や尾根が折り重なる山岳区、美しい樹木が生い茂る平原地区に分かれている。

 湖地区は避暑山荘の南東部に位置し、宮殿地区の北側で、上湖、下湖、澄湖、東湖、鏡湖、如意湖の6つの湖から成り、総称を塞湖と言う。水面面積は60万平方メートル余りに達する。湖の水は輝き波打ち、長堤がくねくねと続き、中州や島が交錯している。島の上にはあずまや壇、楼閣や高殿 があり、或いは山の斜面の上に聳えていたり、或いは濃い緑の茂みの木陰の中に深く隠れていた。静かな水面にはアーチを描く屋根の庇や彩絵された棟木が逆さに映し出され、湖水はさざ波を立て、小船が揺れ動き魚が戯れ、極めて江南の風光に似ている。

 水心榭は東湖と下湖の間に位置し、東宮の巻阿勝境から湖区に入る時に必ず通る所で、これは横に並んだ三棟の二重の檐(のき)式の亭榭(高殿)で、飛桷(飛檐垂木)が高くつりあがり、建物の影が水中に映り、絵のように秀麗である。正に乾隆が詩の中で描いた情景と同じである。「一縷堤分内外湖、上頭軒榭水中図。因心秋意蕭而淡、入目煙光有若無。」

水心榭

 有名な文園獅子林は、東側は避暑山荘の虎皮石宮墻に隣接し、西側は湖を隔てて水心榭と相望んでいる。これは1786年(乾隆51年)蘇州獅子林(元代の大画家、倪瓚が設計、築造)に似せて修築した、極めて精巧で幽美(静かで美しい)な園林であり、熱河行宮内の園中の園であると言うことができる。文園獅子林内には全部で十六景がある。獅子林、虹橋、假山、納景堂、清閟閣、藤架、磴道、占峰亭、清淑斎、小香幢、探真書屋、延景楼、画舫、雲林石室、横碧軒、水門である。この多彩多姿(姿や色彩が様々な)南方式園林は、残念ながら軍閥統治時代に破壊されてしまい、現在は崩された築山や残された基礎の跡は遊覧客が往時をしのぶのに任されている。

 金山は 澄湖の東の隅に位置するひとつの小島で、湖を隔てて西を望めば、如意洲と青蓮島が見える。これは康熙年間に鎮江金山の景勝を真似て設計、構築された。巨石を積み上げた築山は、切り立ち険しく、築山の下にはほの暗く奥深い法海洞があり、容易く人々に水漫金山(大水が金山を水没させる)の物語を連想させる。山の上には三方が湖に臨む鏡水雲岑殿があり、周りを望むと、水の波がきらきら輝き、もやが影をつくり、佳い景色は際限がない。また有名な天宇咸暢の西向きの殿堂楼閣は、回廊が外を廻り、半月形に取り囲んでいる。金山の一番高い所は上帝閣で、いわゆる「制仿金山聳翠螺、三層楼閣建巍峨」、すなわちこの三層の高閣である。ここで大空を仰ぎ見、うつむけば青い水に臨み、山に登り眺望すれば、様々な美しい景観が、尽きることなく眼の中に収まる。

金山

 金山の北には、著名な熱河河源から発する熱河泉である。ここは澄湖の北東の隅に位置し、既に湖区のへりであり、更に北に往くと平原区の万樹園である。熱河泉は当時清皇帝が舟を浮かべて湖を遊覧し、ドラゴンボートの試合の起点であり、現在も当時のドックの跡を見ることができる。熱河泉の広い水面の上には、数えきれない泉が湧き出る穴から水の泡が吹き出し、水温が高いので、冬も凍結せず、早朝には蒸気が沸き起こり、暖かさが人を喜ばせる。

熱河泉

 有名な月色江声は、ひとつの小島で、長い堤と小橋が宮殿区と東路の金山に通じている。島上の南部は静寄山房で、山房の門殿には、元々康熙の「月色江声」の四文字の題額が掛かっていた。静寄山房と北側の瑩心堂で、更に北側は題名を「湖山罨画」という殿宇で、清帝が読書、休養した場所である。これらの建物の間には回廊があって、全体が連なっている。島の南西の湖に臨むところには、冷香亭が建てられ、これはハスの花を鑑賞するところである。「月色江声」の境地は、宋代の文豪、蘇東坡の前、後『赤壁賦』から取られている。ここには雄渾な大河の絶壁は存在しないが、ひっそり静まった夜になると、真っ白い月がゆっくりと東の山から昇り、さざ波がリズミカルにそっと岸辺を打ち、その時その時の月の色、水の音が、確かに人を陶酔させる。

 如意洲はその形が玉の如意のようであることから名付けられ、湖地区の中の大洲である。その南は芝径雲堤(杭州の蘇堤に似せたもの)に接し、環碧半島に通じている。1711年(康熙50年)以前に、山荘の宮殿区は如意洲にあり、その後正宮が落成し、如意洲は苑景区になった。そのうち洲の北西に位置する滄浪嶼は、部屋が三間あり、室外の築山は趣があり、絶壁を成し、流水が流れ落ち、それが絶壁の下で小さな池となり、池の水は澄んで底が見え、魚がすばしこく行き来する。ここは面積は大きくないが、別天地である。滄浪嶼は解放前に破壊されてしまったが、1978年以降に再建された。洲の北西には更に「金蓮映日」と命名された殿室五間があり、中庭には五台山から移植された金蓮花が植えられていた。朝日が射すと、旱金蓮(キンレンカ)が色鮮やかに輝き、まるで黄金が地面に敷かれたかのようである。現在来訪者が見る金蓮花は、もはや五台山の原種ではないが、囲場県から移植されたものである。 金蓮映日の南側の観蓮所は、水辺のあずまやで、清の皇帝が蓮を鑑賞する場所であった。当時、敖漢(敖漢旗。内蒙古自治区赤峰市管轄)や関内(居庸関の内側。長城以南)から移植された赤蓮、白蓮が、湖面一杯に咲いていた。塞湖の水源は熱河泉から来て、水温が比較的高く、それでここのハスの花の開花期間は比較的長く、耐寒で名高く、時には霜が降る季節になっても、尚赤いハスの花がほころび開き、ほっそりと立つのを見ることができた。乾隆の『九月初三日見荷花』の詩はこう詠んだ。「霞衣猶耐九秋寒,翠蓋敲風緑未残。応是香紅久寂寞,故留冷艶待人看。」

 如意洲の北側の澄湖の中の青蓮島には、有名な煙雨楼がある。乾隆の南巡の時、浙江嘉興の南湖で五代銭元璙(呉越王銭鏐の子)が創建した煙雨楼を見て喜び、避暑山荘の中にこれに似せて同名の建物を建てた。煙雨楼は二階建の建物で、周囲は水で、遍(あまね)く蓮や葦が植えられた。毎年細雨が澄湖に降る季節になると、水面をしとしととした煙霧が巻き上がり、煙雨楼を霧の中に閉じ込める。この時、湖水も上空も同じ色で茫漠とし、何もはっきり見えない。ただハスの花から絶えず清い香りが伝わって来るばかりである。こうしたうるわしい雨の景色は、南湖の煙雨楼で見える景色に比べても、あたかも一層勝っているかのようである。

煙雨楼

 康熙、とりわけ乾隆は、精一杯に熱河の行宮の中を江南の景色で飾り付けた。前記で紹介した芝径雲堤、文園獅子林、上帝閣、煙雨楼などの地点を除いて、環碧半島北端に位置する採菱渡も、その一例である。採菱渡は乾隆と彼の后妃(嬪妃)たちが湖で遊ぶ時に舟に乗る場所だった。渡口には草亭が建てられ、亭は瓦が無く、黄草で屋根が葺かれ、遠くから望むと、形が笠のようで、これは山荘内で最も質素で飾り気のない建物である。夏になると、ここは完全に江南の風景である。

北京城

第五節 明代の北京の文化

北京城の建設

 明の北京城は元の大都城の基礎の上に建設され、後に清朝で流用されることになり、元の大都城よりもっと雄大で壮麗であった。

 元の大都の旧城は周囲60里(30Km)、全部で11の城門があった。1368年(明の洪武元年)、大将軍徐達が元の大都城を攻め落として占領し、その城の範囲があまりに広く、守備に不便であったので、次第に広々とした北部は放棄し、東西の両方の城壁と北側の光熙、粛清の二門を廃棄し、元の北城壁の南5里に、別途新たな城壁を築き、相変わらず二つだけ北門を開け、元の安貞門を安定門に改め、健徳門を徳勝門に改め、同時に東壁の崇仁門と西壁の和義門を東直門と西直門に改め、それ以外の七門は旧来通りとした。(光緒『順天府志』巻1『城池』)

内城西直門甕城、城門楼、甕城門楼、箭楼、護城河

1419年(永楽17年)、明朝はまた南城壁を南に2里移動し、相変わらず三つ門を開け、名称は旧来通りとした。ここに至り、城の周囲は全部で40里となった。1436年(正統元年)、明朝はまた9門の城楼、月楼、角楼、外堀、水門を建設し、4年で完成すると、すぐに麗正門を正陽門、文明門を崇文門、順城門を宣武門、斉化門を朝陽門、平則門を阜城門に改めた。(光緒『順天府志』巻1『城池』、『明故城考』)9門の名称は清朝を通じて変わらず、これがすなわちいわゆる北京内城である。

内城角楼、城垣と馬面(楼台、櫓)

 洪武初年、元朝の北城を圧縮すると同時に、いわゆる「王気」を消し去るため、また元朝の故宮を取り壊した。(蕭洵『故宮遺録』北京出版社1963年版)これは破壊的な作業ではあったが、今後、計画的に北京を造営するための前提となった。1406年(永楽4年)明朝は北京宮殿の造営を決め、準備作業に着手した。1417年(永楽15年)大挙して土木工事を開始し、1420年(永楽18年)基本的に竣工した。(『明成祖実録』永楽4年閏7月壬壱戌条及び1812月)この工程では紫禁城及び皇城の宮殿、門闕(宮門前の両側にある望楼)、城池(城壁と堀)が完成しただけでなく、太廟、社稷壇、天壇、山川壇、及び鼓楼、鐘楼など一連の建物が完成した。今回造営された宮殿の門闕は、規格が南京と同様であった。紫禁城はまたの名を大内と称し、周囲6里3Km)、元朝の大内の旧跡からやや南に移動した。四つの門があり、南を午門、東を東華門、西を西華門、北を玄武門(清に神武門と改称し、辛亥革命後、中華門と改められた)と言った。皇城の周囲は18里余りあり、主に6門あり、南に面した一番目の門が大明門(清に大清門と改称され、辛亥革命後、中華門に改められた)、二番目の門が承天門(清に天安門に改められた)、三番目の門は端門、東に面するのが東安門、西に面したのが西安門、北に面したのが北安門(清に地安門と改称された)であった。明朝の宮殿は全て清朝が引き続き使用したが、清朝は建築物に対して大いに再建、或いは改造を行い、且つ一部増築を行った。

金中都、元大都、明清北京城の変遷略図

 明朝中葉になって、北方の蒙古族の騎馬隊が度々南下して騒ぎを起こし、引いては都に肉薄した。北京城の人口は大量に増加し、城外の人口が日増しに密集してきた。このため、朝廷の中では絶えず外城を建設するよう主張する者があり、城外の住民を城壁の中に取り囲み、それにより防御を強化した。それで1564年(嘉靖43年)都の南側を取り囲む外羅城(城外の大城)が完成した。これがすなわちいわゆる北京外城である。(光緒『順天府志』巻1『城池』、『明故城考』)元々、外城は京城の四面を取り囲むよう議論していたが、経費が足りないため、南側一面だけ修築された。このため、北京城全体が凸型の輪郭を形作った。外城は長さ28里に過ぎず、門が7か所あり、南正面が永定門、南の東側が左安門、南の西側が右安門、東側が広渠門、東北角が東便門、西側が広寧門、西北角が西便門であった。

 元朝大都城は土城であったが、明朝は内城の土壁を全部レンガで包んで積み上げることにし、洪武年間(13681398年)に城壁の外側をレンガで包んで積み上げ、正統年間(14361449年)に更に城壁の内側を包んで積み上げた。嘉靖年間(15221566年)に外羅城を追加で築き、更に最初からレンガを積み上げていた。また、内城の9つの門の外側の外堀(護城河)には元々木の橋が架かっていたが、正統初年に一律で石橋に変更した。明代の北京城の堅実さは、元の大都をはるかに上回っていた。

 明代の北京城の設計レイアウトはたいへん厳密で完璧なものであった。城全体から見ると、外城は内城の南側を囲み、内城は皇城を囲み、皇城は紫禁城を囲んだ。そして外城から紫禁城まで、どの城の周囲も、幅広く深い堀がめぐらされていた。こうして、皇帝が居住する紫禁城は城全体の中心となり、何重にも取り囲んで守られていた。次に、北京城のデザインには、一本の南北に貫く中軸線によって全ての建物を配置する原則を採用していた。この中軸線は紫禁城の中心を貫き、南は永定門に達し、北は鐘楼に達し、長さは約13であった。城全体で最も広大な建物と土地は大部分がこの中軸線上に配置され、その他の各種の建物もこの中軸線に基づいて有機的に配置され、またそのように調整された。

故宮(紫禁城)

外城角楼、城垣と馬面(楼台、櫓)

 明代の北京城の設計レイアウトは全くもって封建帝王のために奉仕していた。全ての城壁や堀の修築は、何れも封建帝王統治を守り、強固にするためだった。全ての宮殿や祭壇、廟宇や、中軸線上の広大な建物や体裁は、封建帝王の至高で無上の威厳を際立たせるものだった。

 紫禁城の主要な建物は中軸線上に配置され、南から北に、午門、皇極門(元は奉天門と称し、清代に太和門に改められた)、皇極殿(元は奉天殿と称し、清代に太和殿に改められた)、中極殿(元は華蓋殿と称し、清代に中和殿に改められた)、建極殿(元は謹身殿と称し、清代に保和殿に改められた)、乾清門、乾清宮、交泰殿、坤寧宮、御花園、玄武門が置かれた。他の副次的な建物は対称に配列するという原則に基づき、中軸線の左右両側に配置された。皇極殿、中極殿、建極殿の左右には、文華殿、武英殿。乾清宮、交泰殿、 坤寧宮の左右には更に幾重にも重なった楼閣が置かれ、たくさんの人戸があった。午門から建極殿までで外朝を形作り、 乾清門から玄武門までで内廷を形作った。外朝は皇帝が政令を発布し、国家の大典を挙行する場所であり、内廷は皇帝と皇后、妃が居住する場所であった。

 午門は明清両代では百官が皇帝に朝見するため集合する場所で、また征伐、凱旋の度に「捕虜を宗廟に捧げる」儀式を行う場所であった。明代には、ここはまた皇帝を皇帝の怒りに触れた官吏に対して棒打ちの刑(廷杖)を行う場所であった。皇極門は明代の朝廷の所在で、皇帝はいつも「御門決事(事案の決裁)」を行った。皇極殿は明清両代、皇帝が政務を聞く金銮殿(太和殿のこと)であった。毎年、元旦、冬至、万寿節(皇帝の誕生日)の三大祝日には、ここで祝祭式典が挙行された。その他、例えば新皇帝の即、詔書(詔(みことのり))の公布、科挙の進士合格の黄榜(皇帝の公告)や将軍の出師の命令の公布など、ここで厳かな儀式が挙行された。中極殿は明清代の皇帝が行事で皇極殿に行くと、ここでしばらく休憩する場所であった。建極殿は清代毎年大みそかに少数民族の王公貴族を宴席で歓待した場所であった。雍正帝以降、進士の試験がここで行われるようになった。乾清門は明代の皇帝の寝宮で、清朝皇帝も、康熙帝、雍正帝以前はここを寝宮とし、またここで文武の諸官吏(臣僚)を引見(召見)し、平素は執務を行った。交泰殿は清代は皇帝の玉璽(じ)を保管する場所であった。坤寧宮は明代の皇帝の寝宮で、清代は神を祭る場所であった

 紫禁城以北で、中軸線上に配置されたのは万歳山と鼓楼、鐘楼であった。万歳山は俗に煤山と称し、清初に景山と改称された。言い伝え(相傳)では、建物を取り壊して出た廃土が積み重なってできたと言われ、上には峰が五つあり、山頂に登ると、北京城全体を俯瞰することができた。この山は元朝の後宮の旧跡の上に聳え立ち、その意味は前の王朝に圧勝したということであり、それゆえ「鎮山」とも呼ばれた。鼓楼、鐘楼は後に清朝の再建するところとなり、北京城全体の時を知らせる中心であった。

明北京城午門から正陽門までの平面図

 紫禁城以南は、午門を出ると、中軸線に沿って、左側には皇帝が祖先を祭祀する太廟があり、右側には皇帝が土地の神様と五穀の神様を祭祀する社稷壇があり、真南は端門で、更にその真南が承天門であった。ここは明清両代にいつも詔書を公布する儀式を行う場所で、明代には、詔書は承天門の上で読み上げられて(宣読)から、「雲匣」の中に入れられ、彩色した縄で縛って「龍竿」の上から吊り下げ、その後、礼部から全国に公布施行された。清代、詔書は城楼の上で読み上げられてから、「朵雲」の中に入れられ、木彫りの金色の鳳凰にくわえさせ、「金鳳頒詔」と称した。(『明史・礼志・頒詔儀』。呉長元『宸垣識略』巻3『皇城一』)

 承天門外には「T」字形の広場があり、名を天街と言い、外に宮墙を建造した。天街の東西両端には各々長安左門と長安右門を建て、その南に突き出た部分は大明門に通じ、壁の内側は千歩廊、壁の外側は中央官署の所在地で、五府(前、後、中、左、右軍都督府)と各部(吏、戸、礼、兵、工部)が東西に対に並んでいた。長安左右門の外は、また各々門があって五府と各部に通じており、東公生門と西公生門と言った。

 明代、長安左右門は何れも禁軍により守られ、毎日百官が皇帝に上奏する時は、この二つの門から出入りした。およそ国家の大典を行う際は、大明門を開いて出入りし、さもなければ常に閉じて開かなかった。各々の科の新たな進士のトップから三名は、殿上で名前を伝えて(胪唱lú chàng)後、長安左門から退出し、順天府尹が出迎えて、役所に行き歓迎の宴を催し、祝賀した。毎年、霜降(そうこう。二十四節気の一つ。102324日頃)の後、吏部などの役所は広場の西側で「朝審」を行い、死罪や重い刑罰の囚人に対し再審を行い、刑を確定させた。

 大明門前には一本の碁盤状の街路が跨り、これが東西両城の交通の往来の要路(孔道)であった。真南は正陽門で、さらにその真南には永定門があった。永定門里以東が天壇で、皇帝が天を祭る場所であり、以西が山川壇(初めは地壇と称し、後に先農壇と改称した)で、農神を祭る場所であった。

天壇祈年殿

 明代、北京の大通りや小路の配列は、正方形に水平、垂直の形式が採用され、これは都市全体の正方形と水平垂直により決定した。大通りは多くが南北方向に作られ、胡同は多くが東西方向に作られた。内城、外城に全部で16の門があり、全ての城門に一本のまっすぐな大通りが通っていた。北京城全体の有名な大通りは三十本余りあり、縦横に交わりながら走り、碁盤の目状の道路システムを形作った。通りの大小には決まりがあり、大通りは幅24歩、小路は幅12歩であった。最も小さな道路は巷、或いは胡同と言い、胡同は内城、外城にあまねく分布し、その数は1千本余りに達し、住民の住宅が集まる場所であった。

避暑山荘正宮の中心、澹泊敬誠殿内部

 

 前回、清の康熙帝が避暑山荘を造営した背景について説明してきましたが、今回は避暑山荘の宮殿地区の紹介となります。

避暑山荘宮殿地区

 避暑山荘の宮殿地区は、山荘全体の南側にあり、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の四組の建造物から構成されている。これらの宮殿の共通の特徴は、決して華麗で立派ではなく、屋根には瑠璃瓦を用いず、屋根の棟は飛翔させず、梁の柱は多く着色せず、彩色した絵で飾られておらず、見たところ素朴でさっぱりしている。それぞれの建物の中庭には青松が何本も植えられ、あるものは築山や石段の道を築いて美しく見せている。それぞれの建物の間は回廊でつながれ、一体化されている。

 正宮は宮殿地区の西側にあり、麗正門、閲射門、澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)、四知書屋、煙波致爽、雲山勝地などの建物から構成されている。これらの建物の建築様式は左右対称で、配置は緻密で、北方の四合院の様式である。

  麗正門は、避暑山荘の正門である。麗正門を入って北に行くと、 閲射門であり、門の上には康熙帝が自ら揮毫した「避暑山荘」の扁額が掲げられ、それゆえまたの名を避暑山荘門と言う。

康熙帝揮毫の「避暑山荘」扁額

 避暑山荘門の中は、熱河行宮の正殿、 澹泊敬誠殿である。この御殿は1710年(康熙49年)と1754年(乾隆19年)、全て四川、貴州から徴発したクスノキを用いて建造、改築されたことから、楠木殿とも呼ばれる。クスノキで作った梁、柱、門、窓は全て元の木材の色が保たれ、彩色彩絵されておらず、雨季や霧の季節になると、クスノキの香りが絶えず漂った。

澹泊敬誠殿

澹泊敬誠殿の「澹泊」の二字は、諸葛亮の「非澹泊無以明志,非寧静無以致遠」(無欲でなければ志を明らかにできない。静かで安らかでなければ遠望を持つことができない。『誡子書』)の名句から採ったものである。康熙帝は「澹泊」を標榜し、彼の孫の乾隆帝も「標言澹以泊,継曰敬兮誠」(無欲を標榜し、日々誠を敬う)などと言った。もちろん、こうした封建皇帝は無欲な生活をするすべがなかった。この正殿は清帝が盛大な典礼を挙行する場所であった。もし皇帝が山荘で暮らす間に誕生日を迎えると、大いにお祝いを行い、王公大臣たちがここで皇帝にお祝いの言葉を高々と叫んだ。皇帝は少数民族の首領の人物や外国使節を接見する盛典もいつもここで挙行した。特に提起するに値するのは、澹泊敬誠殿は清代の歴史上意義のある一幕、乾隆帝が万里を帰還(東帰)してきた土尔扈特(トルグート)部の傑出した指導者、渥巴錫(ウバシ・ハーン)を接見したことである。

  トルグート(土尔扈特)は元々新疆北部のオイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)四大部族のひとつで、その他三部はホシュート(和碩特)、ジュンガル(准格尔)、ドルベト(杜尔伯特)である。明朝末期、彼ら部族はジュンガル部上層貴族のいじめに堪え難く、西に移動し、1630年(明崇禎3年)ボルガ川下流に引っ越した。帝政ロシアはトルグート部に対して長期間残酷な圧迫と掠奪を行い、またこの部族の青年壮年の人々を徴用して侵略や戦争の拡大を行い、多くの人々が命を失った。トルグート部はこれ以上容認できなくなった。1771年(乾隆36年)初め、英雄、 トルグート部首領 ウバシ・ハーンは、部族の人々を率いて東へ帰還し、途中帝政ロシアの軍隊の追撃と阻止を粉砕し、様々な困難や危険を克服し、巨大な犠牲を払って、半年余りの時間を経て、行程1万余里、遂に元々暮らしていた清国領に戻り、貴重な保存されてきた明永楽8年(1410年)にその祖先が明朝から賞賜された漢篆玉印を清政府に献上した。

トルグートの西遷と東帰

  ウバシ・ハーン率いる部族が帰還したことは、ちょうど木蘭圍場で秋狝していた乾隆帝を大いに喜ばせ、彼は ウバシを熱河に来させて朝見した。この年の98日、乾隆帝は木蘭の蒙古式のゲルの中で親しくモンゴル語でウバシと談話し、東帰の情況を尋ねた。乾隆帝は続いて避暑山荘に戻り、再び澹泊敬誠殿で厳かにウバシを接見し、彼が部族を率いて祖国に帰還した壮挙を称賛し、彼を卓里克図汗(「英雄のハーン」の意味)に封じ、また山荘内の万樹園等で何度も宴席を設け、夜は灯火を灯した。この時ちょうど普陀宗乗之廟が落成し、乾隆帝はウバシに随行して参詣させ、新疆、青海等の少数民族の王公貴族と一緒に盛大な法会に参加した。

 次に、引き続き正宮の建物を説明する。澹泊敬誠殿の北側には四知書屋があり、清帝は時々ここで各少数民族の首領を招いて接見した。更に北側には 煙波致爽と雲山勝地がある。煙波致爽は前三十六景の中の第一景で、この土地は「四方が秀嶺、十里の澄湖にて、爽気を致す」、これは康熙帝がこう名付けた由来である。

 しかし、咸豊時代になり、 煙波致爽は清王朝の屈辱や醜悪な史実と関係が発生した。煙波致爽は皇帝の寝宮であり、清の嘉慶帝、咸豊帝はここで死亡した。皇帝の居室はその真ん中にあり、東西に各々ひとつ小院があり、東西所と呼び、皇后、妃が居住する場所であった。1860年(咸豊10年)9月、英仏連合軍がすさまじい気勢で北京を侵犯した。咸豊帝は北京の円明園からあわてふためき出奔し、熱河に来て、930日に 煙波致爽に入り、咸豊帝の貴妃の叶赫那拉氏が西側の小院で暮らした。咸豊帝は彼の六番目の弟の奕訢(えききん)に命じて北京に留まり「講和交渉」を管轄させ、英仏、及び帝政ロシアと不平等な『北京条約』を締結し、中国は大版の領土と主権を喪失した。

 1861822日、咸豊帝は煙波致爽で病死した。彼の遺詔により、まだ6歳の息子の載淳(同治帝)が山荘で皇位を継承し、怡親王載垣、鄭親王端華、戸部尚書粛順等の八大臣が「一切の政務を補佐」し、載淳を補佐した。咸豊帝の貴妃の叶赫那拉氏(イェヘ・ナラ氏)は載淳の生母で、載淳の即位後、咸豊帝の皇后の鈕祜禄氏(ニオフル氏)と共に皇太后になり、那拉氏が慈禧太后、鈕祜禄氏が慈安太后となった。慈禧は御簾(みす)を垂れてその奥で聴政(垂帘听政)し、朝廷の大権を操った。粛順ら八大臣は彼女に対して早くから警戒し、彼女が政事に干渉することに断固反対した。このため慈禧は政務を補佐する八大臣をひどく怨んだ。彼らを排除するため、彼女は急いで恭親王奕訢を召して北京から熱河に赴任させた。95日、奕訢は避暑山荘に咸豊帝の葬儀に駆けつけた。山荘の離宮で、慈禧は奕訢と秘密裏に協議し、北京に戻って政変を発動する計画を立てた。続いて、慈禧は八大臣に命じて馬車を準備させ、咸豊帝の柩を北京に護送させた。111日(旧暦925日)慈禧は北京に戻り、翌日彼女は同治帝の名義で上諭(勅命)を発布し、載垣、端華、粛順らの職務を解除し、逮捕させた。118日(同106日)、また命令を発し粛順を斬首し、 載垣、端華に自尽させ、八大臣中の残り五人は罷免や流刑に処した。慈禧は直ちに彼女が渇望した垂帘听政を実現し、清王朝の最高権力を奪い取った。その後の半世紀の期間、慈禧は対内には残酷な圧迫、対外には膝を屈して投降し、中国近代史に暗黒の1ページを残した。

 次に正宮の東側に位置するもうひとつの建築群の松鶴斎を紹介する。これは乾隆年間に建設され、松鶴斎、継徳堂、楽寿堂、暢遠楼が含まれる。そのうち主要な建物が松鶴斎である。これは乾隆帝の母親の孝聖憲皇后が居住した場所である。これら建築群の最後部が暢遠楼で、建物の後ろの門は宮殿地区の別の建築群の万壑松風に通じている。

 万壑松風(ばんがくしょうふう)は康熙年間に建設された。万壑松風、鑑始斎、静佳室等から構成される。これら建築群は高い丘の上に建築され、青い湖に面し、松林の緑で覆われ、谷間を風が通り抜け、殿宇が入り乱れて趣があり、レイアウトが変化に富み、北方の四合院の様式とは明らかに異なり、極めて南方の園林に似ている。 万壑松風の主殿は康熙帝が章奏に目を通し、臣下に指示を与えた場所である。主殿の南側は 鑑始斎で、乾隆帝が少年時代にここで勉強をし、直接康熙帝の教戒を受けた場所である。乾隆帝の即位後、祖先を紀念し、主殿を紀恩堂に改称した。

 東宮は 松鶴斎の東側にあり、ここには乾隆年間に建設された膨大な建築群があり、南の徳匯門から始まり、北の塞湖之浜に到った。ここには乾隆帝が日常大臣を引見し、詔(みことのり)を頒布した前殿、乾隆帝の誕生日に芝居を催した清音閣(俗称は大戯楼)、宴会を挙行した福寿園、政務を処理した勤政殿があった。これらの建物は1933年の日本の侵略軍による破壊と1948年の火災で消失した。現在は塞湖之浜の巻阿勝景、これは勤政殿の後殿であるが、唯一残っているが、これは1979年に再建されたものである。

 中国清王朝の時代、北京の北方250Kmの河北省承徳市に造営された避暑山荘。海抜1千メートルの燕山山脈山中に作られ、都北京から近く、避暑に最適な離宮であるが、その造営目的は、帝政ロシアの中国領侵略を防ぎ、モンゴルやチベット地区の少数民族との融和を強化することにあった。避暑山荘を主に造営したのは、清朝第4代皇帝、康熙帝であった。尚、避暑山荘は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。

 今回ご紹介する避暑山荘に関する歴史背景のお話は、中華書局出版から1984年に出版された『名勝古跡史話』に掲載された、郭秋良、劉建華『避暑山荘史話』の内容に基づきます。

 

一、康熙北巡と避暑山荘創建

 康熙帝の意志に基づき、清朝宮廷は避暑山荘の造営工事を始めた。山荘は1703年(康熙42年)に正式に着工し、1708年(康熙47年)に初歩的に供用され、1792年(康熙57年)に最終的に完成し、前後90年近くの時間を要した。どうして北京北東の燕山山脈の中に規模の十分巨大な行宮を修築したのか。実は、これは康熙帝の北巡と密接な関係がある。

 17世紀後半、帝政ロシアは中国東北の黒竜江流域で侵略活動を強めた。1685年(康熙24年)正月の康熙帝の詔(みことのり)でこう指摘した。「曾てロシアは故無く国境を犯し、我が逃亡者を収め、その後次第に国境を越えて来て、索倫(鄂温克)、赫哲、費雅喀、奇勒などの地(黒竜江流域、大興安嶺一帯の少数民族居住地)をかき乱し、人口を強奪し、村落を掠奪し、テンの毛皮を奪うなど、さんざん悪事を働いた。」西北の辺境地帯のオイラト・ジュンガル部(厄魯特蒙古准格尔部)の首領のひとり、ガルダンツェリン(噶尔丹)も、帝政ロシアの支援の下民族の分裂活動を行い、兵を興して南下した。このような形勢下、康熙帝は北方の辺境の管理を強めるため、モンゴル族各部との関係を密接にし、国家の統一を維持し、帝政ロシアの侵入を防ぎ止めるため、北巡制度を実行した。

 1677年(康熙16年)、康熙帝、愛新覚羅・玄燁(げんよう)は初めて塞外の北巡を行い、1681年(康熙20年)、木蘭圍場(今の河北省承徳市圍場県)を設置した。(「木蘭」は、満州語で、「鹿」の意味狩猟の時、兵士が鹿の毛皮を身に纏い、口で鹿の鳴き声を真似て、鹿を誘い出して捕まえる。これを「鹿」と言う。「圍場」は皇帝や貴族の狩猟地。1820年(嘉慶25年)までの130年余りの長い期間中、清朝皇帝は木蘭で軍事演習を行うことが百回以上に及んだ。こうした軍事活動を、当時は「秋狝qiū xiǎn」と称し、ほぼ毎年秋に一度実施された。毎年「木蘭秋狝」の度に、皇帝は宗室の親王、内閣六部、各少数民族の王公貴族、八旗の兵士を率い、威風堂々と木蘭圍場に向かった。この周囲千里余りの広々とした狩猟地区で、皇帝は彼の従者たちと馬を駆って弓を引き、獲物を射た。金鼓が鳴り響き、何度も歓声が上がり、権勢が雄壮であると称するに堪えるものであった。狩猟が終わると、皇帝は猟で仕留めた熊、虎、鹿、ノロジカ、キツネ、ウサギなどを随行した王公大臣や各少数民族の首領に分け与えた。清朝皇帝のこうした狩猟活動は、決して単に野生動物を狩猟するためだけではなく、その主要な目的は軍事演習と同時に各少数民族間の団結を強化するためだった。

 ここで提起すべきなのは、ガルダンツェリンに対する烏蘭布通(ウラーン・ブトン。内蒙古自治区赤峰市)の戦いであった。1690年(康熙29年)78月、康熙帝は圍場南側の波羅河屯(今の河北省承徳市隆化県)に布陣し、自ら作戦を手配し、圍場北側の烏蘭布通(今の内蒙古自治区克什克騰旗の南)でガルダンツェリンの反乱軍を徹底的に殲滅した。当時満州、モンゴル、漢族、回族の人々は労役で日夜軍需物資を時間通り運搬し、清軍は奮闘して作戦を推敲し、ガルダンツェリンの反乱軍に致命的な打撃を与えた。その後ガルダンツェリンの反乱軍は捲土重来を図ったが、康熙帝の再度の親征の下再び失敗に帰し、最後は1697年(康熙36年)人心を得ることができず孤立し、服毒自殺した。

康熙帝のジュンガル部親征、烏蘭布通の戦い

  しかし木蘭圍場は北京から7百里余り離れており、一度の「秋狝」活動はしばしば34ヶ月続き、このような遠距離で長期間の行軍には、事前に途中に大量の物資を準備する必要があり、しかも皇帝は巡行し狩りを行う途中で政務を処理し、官吏を接見し、上奏文を見て批准し、食事や宿舎を手配する必要もあった。こうした需要のため、古北口から木蘭圍場に至る途中に16ヶ所の行宮が建設された。その中で現在の承徳市に最も近いのが、承徳南西、灤河(らんが)南岸の喀喇河屯(からがとん。今の承徳市灤河鎮)行宮で、その位置はたいへん重要で、規模もかなり大きかった。承徳は当時はまだ人煙稀な荒野であり、十数戸の人家のある小村落がひとつしかなかった。康熙帝が「村の長を訪ねて石碣を尋ね」、熱河のこの場所を発見し、喀喇河屯よりも自然条件がもっと優れていて、しかも「京師(都、北京)に行くに至近で、上奏を朝に発せば夕方に至り、万机を総理するに宮中と異ならない」と思い、ここに熱河行宮、つまり避暑山荘を建設することを決定した。これより、避暑山荘が清代の皇帝が木蘭での 秋狝期間の活動の中心となった。

二、塞外の真珠、避暑山荘

  避暑山荘はまたの名を熱河行宮と言い、承徳離宮は、武烈河、すなわち熱河の西岸に位置し、北京から250キロの距離にある河北省承徳市に立地している。

避暑山荘は武烈河の西岸に位置する

 承徳は殷や周の時代、中国の北方少数民族、山戎、東胡の居住地だった。戦国時代、承徳、及びその付近は燕国の漁陽、右北平、遼西の三郡に属していた。秦、西漢初期は依然この三郡に属したが、漢の武帝の時に新たに設けられた幽州に属した。西漢から東漢を経て魏晋南北朝時代まで、匈奴、烏桓(うがん)、鮮卑等の民族が居住した。隋、唐の時代、奚(けい)、契丹の居住地であった。遼王朝の時、ここは中京道澤州滦河県及び北安州の地であった。金王朝に至り、北京路興州興化県、宜興県の地となった。元朝の時代は上都路に属した。明朝の時代は興州衛に属し、その後諾音衛に併合された。

 清の康熙帝の時に避暑山荘が建設されて後、外地から熱河に引っ越す人が引きも切らず、人口が増加し、市場が興隆し、熱河は次第に新興都市として発展し、そして行政機構の設立が必要になった。1723年(雍正元年)先ず熱河庁が設置され、1733年(雍正11年)承徳州に改称され、承徳の名称がこれより始まった。1742年(乾隆7年)熱河庁が復活し、1778年(乾隆43年)承徳府に昇格した。当地が軍事上重要な拠点であったので、1738年(乾隆3年)熱河副都統が設けられ、1810年(嘉慶15年)熱河都統に昇格、都統署は依然として承徳府の管轄であった。承徳府は直隷省に隷属した。辛亥革命後、直隷省の長城以北の地域は熱河、察哈爾の両特別区に区分された。熱河特別区の治所は承徳にあった。1928年熱河特別区は熱河省に改められ、省府は引き続き承徳にあった。1948年承徳解放後、市が設定された。1955年熱河省が廃止され、承徳市は河北省に帰属することとなった。

 承徳は景勝都市である。全市のほぼ半分を避暑山荘が占め、山が連なり木々が青々とし、谷や川の静けさ、古松が青々と茂り、湖水は澄み渡り、宮殿が林立し、楼閣が見え隠れしている。この我が国で著名な古代の園林は、その格別な北国の景観により益々多くの国の内外からの観光客を惹きつけ、「塞外の真珠」と褒め称えられている。

 避暑山荘の所在地は燕山山脈の中、武烈河河畔の狭く長い谷の中にあり、周囲には気勢が雄大な、石を積み重ねて築いた虎皮石宮墻(虎皮石は花崗岩の一種)があり、宮墻(宮壁)の長さは20華里(10キロメートル)、幅は1.3メートルある。宮壁の上には雉堞(ちちょう。城壁の上に付けられた凹凸状の突起。ひめがき)があり、哨兵を布陣させることができた。

虎皮石宮墻

山の地形に沿ってうねうね起伏のある宮壁の内側には、564万㎡の湖や山が広がり、総面積は北京の頤和園の二倍である。避暑山荘の正面は麗正門で、門の前には赤色の照壁(目隠しの塀)があり、門の傍らには石の獅子が雄々しく盤踞(ばんきょ)している。麗正門の西側には碧峰門、東側には徳匯門、小南門がある。この他、北東には恵迪吉門、北西には西北門があり、更に専用の流杯亭門や倉門などがある。東側の宮壁の外側には谷間をうねうね流れる武烈河の流れで、山荘の中の熱河泉水は宮苑から流れ出し、武烈河に合流し、南へ向かい滦河に注入する。山荘の地勢は海抜1千メートル以上で、西側は山地、東南部は平原と湖で、全体の地形は西側が高く東南部が低い。ここの夏季の平均気温は摂氏356度くらいだが、生い茂った古樹が天高くそびえて日差しを遮り、広々とした湖面の水や空気は清々しく、そのためたとえ盛夏でも、山荘の気候は涼しく過ごしやすく、避暑に絶好の場所である。

 

雑技

第五節 明代の北京の文化

民間の技芸と歌謡

 明代中葉以後、都市住民と商工業者の文化娯楽の需要を満足するため、北京の街頭の講談(説書)、弾詞(江蘇、浙江の語り物)、琵琶、雑技も空前の隆盛を迎えた。

 琵琶を弾くのは北京でたいへん盛んになり、多くの店舗の前には「琵琶教えます」という張り紙が貼られた。歌姫たちは皆、陳大声の小曲を愛唱し、「聞く者を生き生きした表情にさせる」ことができた。陳大声は明代江南の著名な散曲(元曲の一形式で、せりふが入らない)家で、名を陳鋒といい、彼は微に入り細に入り人々の生活を思いやることができた。彼の作品は人々を褒め称えた。それゆえ彼の散曲を、各地の人々は皆喜んで聞き、愛唱した。

 北京の講談も、琵琶の伴奏を多用した。講談の演者の多くは最も圧迫を受け、最も蹂躙された男女のめくらで、彼らは「古今の小説を語り、以て生活を探求する。北方に多く、京師は特に盛ん」(姜南『洗硯新録』)であった。

 更に茶店で演じられる相声(漫才)のものまねがあり、ひとりで福建人、江西人、浙江人、安徽人、北京人の五種の方言を操ることができ(『野獲編』巻24『技芸』)、民間の芸人の驚くべき才能を表している。

 また一種の雑技があり、それには扒竿(さお登り)、觔斗(とんぼ返り)、𠴼喇(倒喇。ひとりで色々な楽器を演奏しながら歌う)、筒子(3本の空の筒の中からハトなどを出す手品)、馬弹解数(馬の曲乗りと弓矢の曲打ち)、烟火水嬉(渓流の上での仕掛け花火)などの演目があった。「筒子」は一種のマジックで、三つの筒をテーブルの上に置き、たちまちハトが中から飛び出し、猿が中から躍り出てきた。解数(武術の動作やスタイル)には馬解と弾解があり、各々24種の手(手段。招数)があった。馬解は馬の上で様々な曲乗りをすることで、弾解は騎馬上から弓を射て百発百中させることだった。祭日になる度、芸人たちが、西直門外の高梁橋の傍らの「アンペラ小屋を掛け、周りを黒い布で覆い」、そこで観衆に芸を披露した。祭日の観衆は、平均で1万人以上に達し(『帝京景物略』巻5『高梁橋』)、そこから彼らがどんなに北京市民に歓迎されていたかが分かる。

 嘉靖(15221566年)、隆慶(15671572)年間と万暦初年(1573年)、北京には更に「八絶」があり、李近楼は琵琶絶と号し、蘇楽壺は投壺絶と号し、王国用は吹簫絶と号し、蒋鳴歧は三弦絶と号し、郭従敬は踢毬絶と号し、閻橘園は囲棋絶と号し、張京は象棋絶、劉雄は八角鼓絶であった。正にこうした残酷な階級社会の中で地位が極端に低く、しかも勲功のある皇族や官僚たちに中傷され、蹂躙され、もてあそばれた民間の芸人たちは、彼らの際立った芸術によって幅広い群衆の文化生活を豊かにし、北京の文化を豊かなものにした。

 最も戦闘的で国民的な歌曲は、直接人々の間から現れた民間歌謡や民謡であった。北京では、人々は極めて切れ味の良い言葉で、しばしば統治者に対して強く心に響く非難や風刺を行った。こうした簡素で、粗野な歌声は、何千何万という搾取を受けた人々の感情や意志を代表していた。

 成化年間(14651487年)、宦官の専制による収賄を、民謡はこう歌った。「韋英の家、梁芳の馬、尚銘の銀子は磚瓦に似たり。正徳年間(15061521年)、宦官の馬永成、張永、谷大用、魏彬らの専権を、民謡はこう歌った。「馬が倒れれば餌をやる必要はなく、鼓が破れれば張る必要はない。」北京の人々は、宦官が権力をほしいままにしたことに憤慨した。嘉靖年間、厳嵩の専制を、民謡はこう歌った。「笑う可し厳介渓、金銀を山の如く積み、刀鋸を手当たり次第施す。常将は冷たい眼で蟹を見、おまえはいつまでのさばるのか。」人々のこうした終日人々の頭上にまたがっている統治者を極端に嫌悪していた。崇禎年間(16281644年)、あらしのような農民の大蜂起が勃発し、北京の人々は腐敗した明王朝を極めて恨んでいた。民謡はこう歌う。「崇皇帝、温閣老」。またこう歌う。「崇禎皇帝は疫病に罹った。」(計六奇『明季北略』巻10『京師謡』。 温閣老 は温体仁を指す。)当時、圧迫を受けるばかりだった大衆は、ようやくこのように勇ましい歌声を唱えることができた

 

科学の発展

 明代の中葉の社会生産レベルの向上により、科学技術面でも突出した発展があった。この時、前後して李時珍、徐光啓、宋応星らのような傑出した科学者が出現した。彼らは人々が長期にわたり医学、農業、手工業の生産経験を総括し、世界的に有名な三部の科学文献を著した。すなわち『本草綱目』、『農政全書』、『天工開物』であり、中国文化史上、三本の目を奪うばかりにあでやかな花が開花した。1556年(嘉靖35年)、明朝廷は各地の医学人材を推薦するよう命令し、傑出した医学者、李時珍は湖広官吏の推薦を受け、北京に来た。しかし、御殿医たちは、彼を田舎の医者に過ぎないと見なし、しかるべく重視することが無かったので、一年もしないうちに、李時珍は北京を離れた。1596年(万暦24年)、李時珍の息子が明朝廷に上書し、朝廷が彼の父の著した『本草綱目』を出版し、より広範に流通させることを望んだが、この請願は如何なる結果も得ることができなかった。『本草綱目』は幅広い人々の間で次々と人々の手に渡り、筆写されることで、ようやく保存されてきた。

 1600年(万暦28年)、西洋の宣教師、マテオリッチらが北京にやって来た。この時、中国の天文、暦法、算術学者、徐光啓もちょうど北京にいた。徐光啓は統治階級内部で、開明的な人物であったので、彼はマテオリッチといっしょに西洋の幾何学、天文、暦法、算術、水利、測量関係の書籍を翻訳し、これにより、西洋の自然科学が中国国内で伝播を開始した。ここに到り、この古い都は西洋科学の影響を受け始めることとなった。

マテオリッチ墓

 

特別な手工芸品

 明朝統治者は大量の職人を徴用して、彼らのために北京の城壁や宮殿を建築させただけでなく、手工芸に長けた塑工、玉工、堆朱工、銅刻工などを民間の各地から徴用して北京に集め、皇室のために精巧な文物や珍しい愛玩品(珍玩)を制作させた。

 しかし明代中葉になって商品経済発展に伴い、民営の手工業がさらに発展してきて、元々皇室の人々だけが手に取り鑑賞していた文物、例えば堆朱(ついしゅ。雕漆)、宣徳炉、七宝(景泰蓝)なども、私営の工房での制作が開始された。

 永楽年間(14031424年)、北京皇宮内の果園廠制作の堆朱(ついしゅ)はたいへん有名であった。堆朱は金、銀、錫、木の四種の原料を土台とし、朱漆を厚く塗り重ねて模様を彫ったもの(剔紅)、漆器の表面に模様を陰刻してから、異なる色の漆で模様を埋めたもの(填漆)の二種類がある。「剔紅」は朱漆を36回上塗りし、彫りが細かくきらびやかで、土台の漆が黒光りし、「大明永楽年制」の文字が針刻されている。

果園廠制作の堆朱

「填漆」は漆器の上に各種の花鳥を彫刻し、磨いた後は絵のように滑らかになり、作品は多くが小さな容器で、容器の縁に五色の霊芝や截金(きりかね。細金(ほそがね)とも呼ばれ金箔・銀箔・プラチナ箔を数枚焼き合わせ細く直線状に切ったものを、筆と接着剤を用いて貼ることによって文様を表現する技法)の模様を刻みつけた。(『帝京景物略』巻4『城隍廟市』、高士奇『金鰲áo退食筆記』下)

 果園廠の漆工は大部分が雲南人で、雲南の堆朱芸術は当時既に全国的に有名で、これらの職人は皆統治者に無理やり徴用されて北京に集められ、以後彼らの子孫は統治者に長期間北京に拘留され、彼らの仕事の成果も完全に皇室に独占された。(『野獲編』巻26『玩具』)

 明朝中葉になって、元々皇室が独占していた文物や珍しい愛玩具が、間もなく街角の工房で制作されるようになり、堆朱の技術も大いに発展し、一個の「剔紅」の容器に朱漆を百回以上塗らなければならず、製品は以前より更に精緻になった。堆朱(雕漆)は別名を「北京漆」と言い、また北京の有名な特産品となった。

 宣徳年間(14261435年)のいわゆる「御制」である宣徳炉は専ら精緻で小さいことで勝ちを制し、一般に口径が三寸(約10センチ)に過ぎない。銅の地金は12回の鍛錬を経なければならず、炉色は栗色、茄子皮色、棠梨色、褐色、蔵経紙(虎皮宣。虎斑(とらふ)模様のある画仙紙)色の五種類であった。宣徳炉は銅工たちが優れた芸術的な技巧を凝らし、しかも銅の製錬技術の発展が無かったことが分かる。このような精巧な物は、また制作を成功させるのがたいへん難しかった。

宣徳炉

 明朝中葉以後、各地で真似て作られた宣徳炉は益々増え、しかも民間の模倣品の品質もたいへん良かった。

 「景泰蓝」は明代北京の最も著名な手工芸品で、「景泰御前作坊」で作られたものが最も精巧であった。 景泰蓝は明朝の時に勃興した手工芸で、明代の北京の人々の発明であり創造である。

  景泰蓝の分業はたいへん細かく分かれていて、土台制作(制胎)、模様の形に針金を曲げる(掐丝)、土台の表面に接着剤を塗る(粘面)、針金を貼り付け模様を作る(圈花)、針金の溶接(捍烧)、釉薬を充填する(填色)、焼成(焼造)、メッキ(错工)、磨き(磋磨)などの複雑な過程があった。景泰蓝は焼成されると、色彩がきらびやかで、まばゆいほどに美しく、しかも豊かな模様と各種の異なる様式の製品があった。

景泰蓝

 景泰蓝は当時既に国の内外で有名で、後に、市場でも互いに競い模倣し合い、技術レベルも日増しに向上した。そして今日に到るまで、景泰蓝は国の内外の人々の珍重する工芸品であった。

 

 明代、花火には「響砲」、「起火」、「三汲浪」、「花筒」、「花盆」といったものがあり、これ以外にも何百種類もの違った名前の模様があり、その中には「百の技巧を集めて一つの花火にした」ものもあった。(『宛署雑記』巻上『民風』)もちろん、こうした最も貴重なものは、当時でも勲功のある皇族や官僚の子弟だけが思う存分楽しむことができた。

 飾り灯籠の制作の技巧は更に精緻で、紗(しゃ)を張った灯籠( 紗灯)、宮灯、紙灯や、様々な形の灯籠、上に色々な色彩で山水、人物、花鳥を描いたものもあった。灯籠の中には、一基が銀百両するもの、更には一千両するものまであり、明朝の人々はこう言った。「灯籠は高価できらびやかで、細工は神様が行ったようで、浮世には未だ無かったかのようだ。」(『談往』(『説鈴本』))これからも当時の灯籠を作る職人の技術がたいへん精巧であったことが分かる。この他、3厘の銀で買える「梅花紙灯」があり、貧しい市民はこうした安価な紙灯しか買えなかった。

 一般市民に最も喜ばれた手工芸品には他に凧(たこ)、風車、ガラス製の「葫芦」(ひょうたん形の容器)、「金魚鉢」、「風鈴」、「響葫芦」(空中ゴマ。唐ゴマ)、「玻璃片」があった。早くも400年前、これらの玩具が北京の廟会(社寺の縁日)で出現した。

 以上挙げた漆器、景泰蓝(七宝)、飾り灯籠、花火、凧など精緻な手工芸品は、北京地区の民間芸術の精華であり、また今日北京の人々が最も好み、最も貴重な文化遺産であり、これらの文化遺産中の精華は既に人々によって完全に継承されてきて、しかもより高く、より完璧に、より健全に発展してきた。搾取制度の下から解放された手工芸の職人たちは、より際立ってすぐれた労働により、民間芸術上より光輝く花を開かせた。

 

国子監

第五節 明代の北京の文化

 明代の北京は封建政治と軍事の中心であり、且つ封建文化の堡塁(ほうるい)であった。ここで、統治する立場を占めた文化は封建文化であった。これは封建統治階級の独占した文化であった。しかし、直接一般の人々に属する民間文化と進歩した文化も絶えず闘争の中で成長した。

統治階級の北京での文化統治

 明朝の統治者が北京に建都後、直ちに北京にいくつかの文化教育機構を設置した。明の統治者はこれらの機構をを用いて文化を独占し、同時にまたこれらの機構を利用し、地主階級の子弟を養成、選抜し、それによりさらにうまく封建統治を維持しようとした。明朝廷で試験を管轄していたのは礼部で、礼部の主な職責のひとつは三年に一回の会試殿試であった。明朝では、地主階級の子弟は会試や殿試を通じて選抜され、上層の統治グループの中に入ることができた。このため三年毎に、何千何万の受験生が北京に集まって来た。会試、殿試の主要な内容は、四書五経から出題される問題に、八股の対句形式の文章を作ることで、八股文は一定の格式に基づいていなければならず、「聖人の代わりに立言」しなければならず、且つ朱熹四書注を根拠にしなければならなかった。八股文成化帝9代。1465年‎ - ‎1487年)の時に始まり、その後、一般に名誉や利益を求める地主階級の知識分子の間で広まり、思想的には完全に程朱理学の範囲内に限られていた。

 明朝の最高学府である国子監は地主階級知識分子を養成するところで、一般の人々は根本的に入学できなかった。明朝の国子監は二か所あり、南京のものは南監と呼ばれ、北京のものは北監と呼ばれた。国子監の中には孔子廟、講堂、宿舎、図書館、刻書処があり、国子監に入学し勉強する生員を監生と呼んだ。第5宣徳帝14251435年)の時、北京の国子監で学習する学生は約1万人に達し、明朝中葉でも56千人おり、その中で国子監に寄付をする人数はもっと多かった。ここにはまた各地の少数民族の学生もおり、高麗、シャム(暹罗。タイの古称)、ベトナムの学生もいた。学生は主に四書を読み、八股文を学び、学習の内容はまた程朱理学の範囲を越えてはならなかった。

 明朝廷はまた太医院、欽天監、四夷館にそれぞれ学習班を附設して専門の人材を育成し、ここで学習するのも地主階級の子弟であった。太医院は大方脈、小方脈、婦人、瘡瘍(腫瘍)、針灸、眼、口歯(口腔)、接骨、傷寒(腸チフス)、咽喉、金鏃、按摩等、13科に分かれていた。1443年(正統8年)、ここで人の体の各つぼの位置を示した銅の人形が鋳造され、この銅の人形はたいへん高い科学的価値を備え、しばしばこれを用いて針灸科の学生の試験が行われた。欽天監には天文、暦日、回回、漏刻の4科が設けられ、これ以外に観象台(天文台)が設けられ、この中には各種の測定用の計測器が置かれた。四夷館は八つの館に分かれ、学生たちはここで各種の少数民族と各国の言語や文字を学習し、その中にはモンゴル語、チベット語、ウイグル語、タイ語、ビルマ語、梵語があった。

 明朝廷は更に地主階級の知識分子を組織し、図書編集の仕事に従事させた。図書編集の目的は、文化を独占し、より多くの人を集めて封建統治者に奉仕させるためであった。明初に南京で『永楽大典』を編集した時は、2100人余りの文人が参加し、この本を編集した後、皇帝はこれを北京に運び、文淵閣の中に置き、皇帝の御覧に供する以外は、特別な許可が無ければ、如何なる人も中に入って読むことを許されなかった。

 『永楽大典』は全部で22,937巻あり、中国で最も古く、最大の百科事典であり、中国で最も貴重な文化遺産である。明朝では正副二部を写し取っていたが、正本は既に消失し、副本は今日尚300冊余り現存する。これらの貴重な図書は大多数が英仏連合軍と八か国連合軍が北京に侵攻した際、帝国主義者により焼かれたり掠奪されたりした。

 明朝廷はまた多くの禁令を発布し、全ての統治者の利益に反する、進歩的、民主的な思想、文学、小説、戯曲については、徹底的に破壊した。しかし、封建地主階級が如何に文化を独占し、文化に損害を与えても、民間文化と文化の進歩は依然として争いの中で成長し、発展した。

王学左派の北京での活動

 明朝初年、封建統治者は客観唯心主義の程朱理学(宋、明代の唯心論哲学思想で、程は程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟、朱は朱熹(しゅき)(朱子)のこと)を強力に提唱し、程朱理学は地主階級知識分子の思想の中で支配地位を占めるものであった。

 

程顥・程頤兄弟

明朝中葉になって、程朱理学の思想界での支配的地位は動揺を始め、王陽明が広く宣伝した主観唯心論の「致良知」(「良知」(先天的に人の心にそなわった理性知)を推し究め発現すること)学説がこれに代わって流行した。王陽明は「天地万物は皆吾が心中に在り」、「物の理(ことわり)は吾が心に外ならず」、そのため彼は「致良知」を用いて程朱の「挌物致知」(後天的知を拡充(致知)して自己とあらゆる事物に内在する個別の理を窮め、究極的に宇宙普遍の理に達する(挌物)ことを目指す)に反対した。王陽明の学説と程朱理学は同様に唯心主義の範疇に属し、何れも統治階級の利益を擁護するものだった。しかし、王陽明の弟子の王艮(おうこん)らに到り、彼らは程朱理学に対しなお反対しただけでなく、君主専制体制についても厳しく非難した。王艮らは比較的一般大衆に近く、彼らに同情していたので、「王学左派」に発展し、王学の対立者となった。

 王学左派の代表は、王艮を除き、他に顔山農、梁汝元、李贄らがいた。

  梁汝元顔山農の学生で、彼には空想的原始社会主義の理論があり、同族の人の「貧富互助、有無相通」を主張した。こうした理論は正に当時の農民の未来の見通しに対する一種の理想と互いに符合し、そのため彼の理論は一部の人々の擁護を得ることができた。嘉靖年間、梁汝元は北京で「辟谷(断食)派会館にて、四方の士を招来し」、会館を利用して講演を行い、当時の統治者の専制や腐敗した権力に対して攻撃を加え、「方技雑流、これに従わざるは無し。」明朝の人は、北京は嘉靖から隆慶年間にかけ(15221572年)、商人や侠客が活躍し、そのいわゆる侠客とは梁汝元などを指した。梁汝元のこうした活動は、統治者をたいへん不安に感じさせ、彼らは百方手を尽くして彼を逮捕しようとした。万暦初年、張居正が宰輔(宰相)になり、専制統治を強め、湖北巡撫に梁汝元を殺すよう、ほのめかした。

 王学左派のもうひとりの代表人物は李贄(りし)で、1601年(万暦29年)通州に来て講義を行った。李贄は君主専制、旧礼学、程朱一派の理学に反対した。彼は孔子が提起した是非の基準も疑ってみるべきだと考え、卓文君が司馬相如と駆け落ちをしたのは「良き伴侶をうまく選んだ」のだと考えた。彼は民間の文学、芝居、民間歌謡をたいへん好み、彼が評注を加えた『忠義水滸伝』の中で、梁山泊の好漢たちにも心からの同情を寄せた。李贄は当時の政治制度、統治思想に猛烈な攻撃を展開したので、彼が通州に来るや、北京の統治者たちは恐れおののき、甚だしきは彼を「魔物」と呼んだ。

 

李贄

 統治者たちが李贄を恐れるのは、李贄の思想が多くの人々の共鳴を得ているからであった。1602年(万暦30年)になり、明朝朝廷は「敢えて乱道を唱え、世を惑わし民を偽る」という罪状で李贄を逮捕し、北京に連行した。この時、李贄は既に76歳の老人であったが、彼は自分が無実の罪に貶められたことにたいへん憤懣し、錦衣を着て獄中で刀で喉を割き自殺した。

 李贄の専制に反対し個性の解放を追求する思想は、当時たいへん進歩した思想であった。李贄は統治者たちに対し真正面から痛撃を与え、当時圧迫を受けていた人々の願望を最大限表現した。明、清の統治者は李贄が書いた『蔵書』、『焚書』、彼が評注を加えた『忠義水滸伝』などに対して、何度も焼き払うよう命令を出したが、しかしながらこれらの書物はずっと社会の中で人々に読み継がれていた。

 李贄の墓は今なお通県にあり、彼を記念するため、新たに修築されている。

 

文学

 明朝統治者は八股文で人々の思想を束縛し、甚だしき場合、検閲によって専制主義に抵触する書物を書くことを厳禁した。こうした措置は文学の発展を甚だしく阻害した。

 永楽年間の北京遷都以後、専制主義の中央集権体制が安定期を迎え、この時北京の文人の中で、地主階級が天下太平を引き立て、その功績をほめたたえた「台閣体」の文章が出現した。明の翰林、李時勉の『北都賦』がその一例である。

 明朝中葉以後、封建士大夫たちの文壇では、専らことばのあやを弄した 台閣体はもはや歓迎されず、これに代わり起こったのが、「前後七子」の復古派の文体であった。復古派は、「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」を主張し、ひたすら古人を模倣しなければならず、そのため形式の上でも内容でも如何なる創造的な成果も見られなかった。万暦年間になり、進歩性を帯びた文学が活発になり、反復古主義の改良運動が出現した。これは明らかに当時の社会経済の発展と、哲学の先進思想の影響を受け、生まれたものである。反復古主義改良運動の提唱者は公安、竟陵の両派で、公安派の代表は袁宗道、袁宏道、袁中道の三人で、彼らは文学での模倣に反対し、「挌套」(格式、型を守ること)に反対し、 「文は必ず秦漢」の復古主義者に反対し、「ただ情感を表現し、型にとらわれない」ことを主張した。彼らと李贄は、「師友」(師として敬い仰ぐほどの友人)の関係で、李贄の言葉や行動に対し、たいへん敬服していた。彼らは、当時正に日増しに盛んに興っていた小説、芝居、民間歌謡、メロディを好み、圧迫を受けていた大衆に対しても一定の同情を感じていた。彼らが書いた文章は比較的わかりやすく親しみがあった。袁氏兄弟は北京に住んでいたことがあり、多くの北京の名所に関する文章を書いている。竟陵派の代表は鐘惺、譚元春らで、彼らも復古に反対であった。竟陵派の作家、劉侗が書いた『帝京景物略』は、北京城郊外の庭園の古跡を描いた名著で、多くの北京をたたえる詩歌や、北京に関する史料を記録している。

 公安派、竟陵派の作者は皆地主階級の知識分子であり、彼らの生活圏は限られており、一般大衆との接点は少ない。彼らの闘争性は希弱で、とりわけ 公安派には退廃的消極的な一面があった。

 

芝居

 明朝統治者は民間の芝居の歌詞や曲に対しても厳しい制限と危害を加えた。永楽年間、刑科給事中の曹潤がこう上奏した。「今後、人民は雑劇を歌い演じる際、戒律を守る仙人や道士、妻への忠義を守る夫、夫に節操を守る妻、親孝行の子や孫、人に善行を勧め平和を喜ぶ者は禁じないが、帝王や聖賢を冒涜する歌詞や曲、皇帝の登場する芝居、戒律を守らず、敢えて収蔵、語り伝え、出版販売する者は、その場で逮捕、護送、訴訟、追求する」。「上意を承った内容:これらの歌詞や曲は、告示後、五日以内に処分し、役所に行き焼却すること。敢えて収蔵した者は、家族全員殺害する。」(顧起元『客座贅語』巻10『国書榜文』)ここから、明初の統治者は大衆的なシナリオや歌詞をたいへん恐れていたことが分かる。また、当時「帝王や聖賢を冒涜」した芝居は確かに既に結構あったことが分かる。

 明の統治者が大いに提唱したのは、彼らの統治に有利な芝居であった。例えば、明初の朱有燉 らが創作した雑劇は、その内容が封建倫理を大いに宣伝するものであることを除き、でたらめでとりとめがない仙人や仏教道教の物語で、農民蜂起に対し極端に中傷していた。そして当時の宮廷の勲戚(功績のある皇族)たちは専らこうした雑劇によって退屈しのぎをした。宮廷内で流行した「宮戯」(宮廷内で上演された人形劇)には「打稲」「過錦」などの芝居が含まれ、これらはなおさら単調で退屈なものだった。ただ民間の人形劇を利用して、半身を水上に浮かべたものがあり、これは「宮戯」の中でも最も人々を惹きつけたものだった。

 明朝中葉になり、都市の商工業が日増しに盛んになると、こうした都市の住民たちにたいへん喜ばれる芝居が雨後の竹の子のように広がってきた。この時、各地で上演された民間雑劇は既に千余りにもなっていた。多くの劇の脚本が統治者による出版禁止や上演禁止の処分を受けていたが、その中で強烈な反封建的な礼儀道徳意識を備えた『小尼下山』、『墻頭馬上』などは依然として広く伝わり、しかも上演され、更には『元夜鬧花灯』(水滸伝の中の物語)さえも禁止できなかった。さらに注目すべきは、江南の芝居までもがたいへん速いスピードで北京に入って来たことで、万暦年間、弋陽腔(よくようこう。江西省弋陽県から始まった地方劇の節回し)や昆曲が北京でたいへん流行した。更には統治者までも「宮戯」は単調だと感じ、何人かの宦官に命じて宮廷外の芝居の演出を勉強させた。外の芝居は既に 宮戯を圧倒していた。

 1583年(万暦11年)明代の著名な演劇作家湯顕祖(とう けんそ)が北京にやって来た。彼は科挙の受験で来たのだが、政権当事者の排斥に遭い、すぐに故郷へ帰ってしまった。湯顕祖の哲学思想は王学左派に近く、彼は李贄に対してもたいへん尊敬していた。文学の面では、彼は公安派の、ただ人の情感を表現するという主張に完全に同意し、芝居の上で過度に音韻や形式、韻律を重んじることに断固反対した。そのため彼が創作した脚本の中でも音韻や形式、韻律の制限を打ち破り、その構成や思想内容に注意した。彼の代表作、牡丹亭は、労働者も含む北京の人々が最も愛し、幅広く伝播した劇本である。この劇の中で、彼は一組の男女の恋愛の物語を通じ、自由で幸福な愛情をたたえ、彼らの個性解放を強く求める心情と、人間性を奪う礼儀、道徳がもたらす情け容赦の無い鞭打ち(鞭笞)を描写した。

 長編戯曲の昆曲が北京に伝わって以後、専ら勲功のある皇族や王公が楽しんだ朱有燉のような作家が創作したものは、とっくに正に進展する巨大な浪の中に埋没してしまった。芝居の劇団はこの時も王侯の邸宅から劇場に移動した。今日の広和劇場の前身、査楼は、明末には既に建てられていた。