宝玉の侍女の襲人に、実家に帰る話が出てきます。襲人と別れたくない宝玉は、襲人に留まるよう懇願し、襲人に言われた自分の性格上の欠点を改めると約束します。一方、宝玉は黛玉の部屋に行き、黛玉の身体からなんともいえない良い香りがすることを発見します。
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情は切切として良き宵に花(花襲人)は語(ことば)を解す
意は綿綿として静かな日に玉(林黛玉)は香りを生ず
さて賈妃は宮殿に帰り、翌日皇帝に朝見してご恩に感謝し、また帰省の事を奏上すると、皇上の龍顔は甚だ悦び、また皇室収蔵の彩色を施した緞子、金銀等の物を授与し、以て賈政や賈妃の実家の人々に賜ったのだが、細かく解説する必要はない。
さて栄国、寧国両府の中では連日全力で対応したので、本当にひとりひとりが肉体的にも精神的にも疲れ果てた。また大観園中に配置された一切の移動可能な物品や装飾品は、その片付けに二三日をかけてようやく終了した。第一に鳳姐は担当する事が多く任務も重く、他の人なら或いは雑務を避けて楽ができたかもしれないが、ひとり彼女だけはそれらを避けることができなかった。二に性格的に負けん気が強く、他人に負けてけなされたくなかったので、なんとか努力して問題が起こらないようにした。一方宝玉はたいへん閑にしていて、何もすることが無かった。たまたまこの日の早朝、宝玉の侍女の襲人の母親がまた自らやって来て賈のお婆様に申し上げるに、襲人を連れ帰り、家で新年のお茶会をして、夜には戻って来させるということだった。このため、宝玉はただ小間使いの女たちとサイコロを投げて、碁石を碁盤の上でサイコロの目だけ動かす賭けをして遊んだ。ちょうど部屋の中は、遊んでいても面白くなかったのだが、ふと小間使いたちが来て、報告して言った。「東府(寧国府)の珍旦那様がお越しになり、芝居を見て、ランタンを点しに来るよう言われておりますが。」宝玉はそれを聞いて、衣裳を着替えさせるよう命じた。これから行こうという時に、ふとまた賈妃から賜った糖蒸酥酪(牛乳、甘酒、氷砂糖、杏仁スライスを混ぜて蒸したもの)が出された。宝玉は前回襲人がこれが好きだったのを思い出し、襲人にこれを残しておくよう命じ、自分は賈のお婆様のところに戻り、芝居を見に行った。
思いがけず、賈珍がこちらで歌わせたのは、『丁郎認父』、『黄伯央大擺陰魂陣』、更に『孫行者大鬧天宮』、『姜太公斬将封神』などの類の芝居の歌であった。突然神様やお化けが飛び出し、また妖怪が出て来た。中では幟(のぼり)を挙げ、法会を行い、念仏を唱えながら仏殿の中を歩き回り、銅鑼を鳴らしながら大声でお経を唱え、その音は路地の外にまで聞こえた。兄弟や息子、甥たちが互いに酒を勧め合い、女兄弟や妾、女中たちが笑顔で心から愉しんだ。ひとり宝玉だけはこのように繁華でにぎやかなのがここまでになると我慢できず、しばらくはそこに座っていたが、やがてあちらこちらに行くと、勝手に遊んだ。先ず宝玉が部屋の中に入っていくと、尤氏や小間使い、妾たちとしばらく談笑し、二の門から出て行った。尤氏たちは相変わらず宝玉が芝居を見に行くと思っていたので、ほったらかしにしておいた。賈珍、賈璉、薛蟠らは酒席でジャンケンをして酒を飲ませ合う遊びに熱中し、あまりに熱中していたので、たとえ一時でも宝玉が席にいるのが見えなくても、ただ奥の部屋に行ったのだと思い、気にしなかった。宝玉の子供の召使たちに至っては、その中で年かさの者は、宝玉がこういう時は必ず夜遅くなってからようやく帰ると知っていたので、時間が空けば、博打でお金を賭ける者がいれば、友達の家に行く者もいて、博打をしたり酒を飲んだり、勝手にちりじりになり、夜になってからまた戻って来るつもりだった。歳の幼い者は、役者たちの楽屋に潜り込み、賑やかな様子を見に行った。
宝玉は誰もいないので、こう思った。「普段、ここの書斎の中には美人画が掛かっていて、その絵はとてもすばらしかった。今日はこんなに賑やかだから、あそこには誰もいないに違いない。あの絵の美人は寂しそうだったから、僕が行って慰めてあげよう。」そう思って、その部屋に行った。ちょうど窓の前まで来ると、部屋の中から喘(あえ)ぎ声が聞こえた。宝玉は跳び上がるほど驚き、心の中で思った。「あの美人は生きているの。」それで勇気を奮い起こし、指を舐めて窓の紙に穴を開けて中を覗くと、――あの掛け軸の美人が生きているのではなく、(家塾で宝玉の学友の)茗煙がひとりの少女と抱き合い、かの警幻が教えてくれた行為をしており、ちょうど気持ちが高まり、それでうめき声を上げていたのだった。宝玉は我慢できず大声で叫んだ。「なんてことだ。」バーンと扉を足で蹴って中に入ると、ふたりはびっくりしてブルブル震えていた。
茗煙は入って来たのが宝玉だと知ると、急いで跪いて許しを請うた。宝玉は言った。「真昼間に、これは何としたことだ。珍旦那様に知れたら、おまえ生きていられると思うのか。」一方でその少女の方を見ると、真っ白な皮膚、清楚な容貌をしていて、幾分心を動かされたが、そこで恥ずかしさのあまり顔を耳まで真っ赤にし、うなだれて一言も発しなかった。宝玉は足を踏み鳴らして言った。「早く逃げないのか。」そう言って促すと、その少女は慌てて逃げて行った。宝玉はまた追いかけて出て行き、大声で言った。「おまえ、心配しなくていい。人には言わないから。」慌てて茗煙は後ろで叫んだ。「旦那様、そんなこと言って、きっと人に言いつけられるんでしょう。」
宝玉はそれで尋ねた。「あの娘は十幾つなの。」茗煙は言った。「まだ十六七です。」宝玉は言った。「あの娘の歳も聞かずに、こんなことをするなんて、あの娘はおまえと知り合ったばかりに、こんなことになって、可哀そうに。」また尋ねた。「名前はなんて言うの。」茗煙は笑って言った。「名前のことを言うと、話が長くなります。本当に珍しい、不思議な話なんで。――あの娘が言うには、あの娘の母親があの娘を生む時、夢を見たそうなんです。夢で錦を一匹得て、錦の上には五色の、切れ目のない「卍」の模様が織られていたので、あの娘の名を万兒としたそうなんです。」宝玉はそれを聞いて、笑って言った。「きっとあの娘は将来幸運を運んで来るよ。明日になったら君に奥さんを捜してあげるよ。」
茗煙もニコッと笑った。そして尋ねた。「若旦那様はどうしてこんな良い芝居をご覧にならないのですか。」宝玉は言った。「半日見ていたけど、退屈でたまらなくて。出て来てぶらぶらしていたら、君たちに出逢ったんだ。――これからどうするの。」茗煙は微かに微笑んで言った。「これからのことなんて、誰にも分かりませんよ。わたしが、こっそり若旦那様を連れて城外に遊びに行って、それでしばらくしたら、またここに戻って来ましょう。」宝玉は言った。「だめだよ。注意しないと、人さらいにさらわれてしまうよ。まして家の者たちが知ったら、また大騒ぎになるよ。それより、少し近いところに行くだけなら、まだいいんじゃないか。」茗煙は言った。「近くって、誰の家に行くのがいいですかね。それも難しいですよ。」宝玉は笑って言った。「僕に考えがある。僕たち、花叔母さん(襲人のこと)のところへ行って、あの人が家で何をしているか見てみようよ。」茗煙は笑って言った。「いいですね。そうだ、あちらの家のことを忘れていました。」そしてまた言った。「皆さんがこのことを知って、わたしが旦那様をでたらめに連れて歩いたと知れたら、わたしを殴られますよね。」宝玉は言った。「僕がいるから、大丈夫さ。」茗煙はそう聞くと、馬を牽き、ふたりは裏門から出発した。幸いにも襲人の家はそれほど遠くなく、半里ほどの道のりに過ぎず、あっという間に門前に着いた。
茗煙が先に家の中に入り、襲人の兄の花自芳を呼んだ。この時襲人の母親は襲人を迎えて、何人か姪たちが家に来て、ちょうど点心をつまみながらお茶を飲んでいたのだが、外で誰かが「花兄さん」と呼ぶのを聞き、花自芳が急いで出て行って見ると、ご主人と召使のふたりが来ていたので、びっくりして、どうしたのかいぶかり、急いで宝玉を抱きかかえるようにして中に入れると、家の中に向かって叫んだ。「宝若旦那様がお越しになりました。」他の人はそれを聞いてもそれで良かったが、襲人はそれを聞くと、なぜだか分からぬが、急いで走り出て来て宝玉を出迎えると、手でギュッと宝玉を掴んで、上着を引っ張りながら尋ねた。「どうしてここに来られたの。」宝玉は笑って言った。「僕、とっても気がふさいでいたので、ちょっと何をしているのか見に来たんだ。」
襲人はそう聞いて、ようやく安心し、こう言った。「驚かせないでくださいよ。でも何をしに来られたの。」一方でまた茗煙に尋ねた。「あと誰が一緒に来たの。」茗煙は笑って言った。「他の人は知らないんですよ。」襲人はそう聞くと、また驚いて慌てて言った。「これはまたとんでもないことよ。もし人に遇ったら、万一旦那様にお会いしたら、街は人や馬で溢れ返っているのよ、万一のことがあったら、冗談では済まないのよ。あなたがたの肝っ玉は本当に大きいのね。――それも皆茗煙がそそのかしたんだね。わたし、お屋敷に帰ったらばあやたちに言いつけますからね。きっとおまえ、こっぴどくぶっ叩かれるよ。」茗煙は口をとがらせて言った。「旦那様が叱ったり叩いたりしてわたしにここへ連れて来させたのに、今度は悪いのをわたしのせいにするんだ。わたしはここに来ちゃだめだと言ったのに。――そうでなければ、わたしたち、もう帰りましょう。」花自芳は慌てて諫めて言った。「もういいよ。来てしまったんだから。そんなにあれこれ言わなくてもいいよ。でも藁葺きのあばら家で、狭いし汚いし、旦那様にどうやって座っていただけばいいんだろう。」
襲人の母親も早くも迎えに出て来た。襲人は宝玉の手を引いて部屋に入った。宝玉は部屋の中には何人か女の子がいたが、宝玉が部屋に入って行くと、皆下を向いて、恥ずかしくて顔を真っ赤にした。花自芳と母親は宝玉が寒いのではないかと心配し、彼をオンドルに上がらせ、また急いでお茶請けを並べると、良いお茶を淹れた。襲人は笑って言った。「あんたたち、そんなに慌てなくても大丈夫。わたしはもう分かっているけど、やたらにこの子に食べ物を勧めてはだめよ。」そう言いながら、一方では自分の座布団を持って来て、腰かけの上に敷いて、宝玉に手を貸して座らせ、また自分の足元のコンロを足の下に敷いて、荷包の中から梅花香餅を二個取り出し、また自分の手あぶりのコンロの蓋を開けて火を付け、ちゃんと蓋を閉めると、宝玉の懐に置いてやり、それから自分の茶碗にお茶を注ぐと、宝玉に渡した。この時、彼女の母親と兄はテーブルの上にお茶請けをきちんと並べるのに忙しかったが、襲人が見てろくな食べ物が無かったので、笑って言った。「もう来てしまったんだから、何もせずに帰る道理もないし、良かれ悪しかれちょっと味見していきなさい。せっかく来たんだから。」そう言うと、松の実をいくつか取り、細かい皮を吹き飛ばすと、ハンカチに載せて宝玉に渡した。
宝玉は襲人の両眼が少し赤くなって、白粉(おしろい)が光ってすべすべしているのが見えたので、そっと襲人に尋ねて言った。「どうして泣いていたの。」襲人は笑って言った。「誰が泣いるもんですか。さっき眼にごみが入って、擦(こす)っただけよ。」こう言ってごまかした。宝玉が真っ赤な生地に金の蟒蛇(うわばみ)の刺繍がされ、袖口に狐の脇の下の毛皮の付いた筒袖の上着を着て、その上から深い藍色のテンの毛皮で、下の方は房飾りが下がった上っ張りを羽織っているのを見て、言った。「あなた、ここに来るのに、わざわざ新しい衣裳に着替えて、あの人たち、どこに行くのか聞かなかったの。」宝玉は言った。「元々珍叔父さんが芝居を見に来るよう言ったので、着替えたのさ。」襲人は頷き、また言った。「ちょっと座ったら、お帰りなさい。ここはあなたが来るところじゃあないわ。」宝玉は笑って言った。「おまえが家に帰ってくれたらいいんだ。僕、おまえのためにいいものを取っておいてあげたから。」襲人は笑って言った。「秘密にしておいてね。あの人たちに聞き付けられたら、何をされるか分からないわ。」一方でまた手を伸ばして、宝玉の首の上から「通霊玉」をはずすと、自分の女兄弟たちに向かって笑って言った。「あなたたち、ちょっと見てみて。いつも言っているけど、とても珍しいもので、一瞥するのも難しいものだから、今日はできるだけよく見ておいて。どんなに珍しいものだと言っても、結局はこういう物なのよ。」そう言うと、妹たちに渡してひと通り回して見てもらい、それからまた宝玉の首にちゃんと掛けてやると、兄に言って、きれいでぴったりした車を一輌雇うよう頼み、宝玉を送って帰らせようとした。花自芳は言った。「わたしが送って行くよ。馬に騎乗しても大丈夫だ。」襲人は言った。「大丈夫かどうかでなく、誰かに出逢うといけないからよ。」
花自芳は急いで一輌車を雇って来ると、人々はお互いに引き留めるのも良くないので、宝玉を見送りに出るしかなかった。襲人はまたいくらか干した果物の類を掴んで茗煙に与え、また多少の小銭を彼に与えて、爆竹を買って来て上げさせ、彼に言った。「人に言わないで。あなたもこのことを言っちゃだめよ。」そう言いながら、ずっと宝玉を門の前まで送ると、車に乗るのを見届け、車のとばりを下した。茗煙らふたりは馬を牽いてそれに従った。寧府街まで来ると、茗煙は車に止まるよう命じ、花自芳に言った。「わたしと兄さんは、やはり東府に行ってちょっとごまかした方が良いでしょう。人に疑われるといけないので。」花自芳は確かにその通りだと思い、急いで宝玉を抱いて車から下すと、馬を連れて行った。宝玉は笑って言った。「面倒をかけたね。」そして裏門から中に入ったが、それについては特に言うべきこともない。
さて宝玉が出かけて行ってから、彼の部屋付きのこれらの小間使いの女たちは皆勝手気ままに遊び回り、駒を動かし博打をし、サイコロを転がしカードを捨て、床中に割ったヒマワリの殻をまき散らした。間が悪いことに乳母の李婆やが杖をついて入って来て挨拶をし、宝玉の顔を見ようとしたが、宝玉は家におらず、小間使いたちが気ままに遊び惚けているので、とても見るに堪えず、ため息をついて言った。「わたしがここを離れてから、おまえたちの行為は益々秩序、規律が無くなった。他の乳母ではなおさらおまえたちに意見する勇気も無いだろう。あの宝玉ときたら、「丈八(1丈8尺。約6メートル)の灯台」――他人の欠点は見えるけど、自分の欠点は分からないんだから。人の嫌なところを嫌悪し見捨てることしかできない。ここがあの子の部屋で、おまえたちが大事にしないから、益々体を成さなくなっているんだ。」
ここにいる小間使いたちは、宝玉がこうしたことにとやかく言わないことがよく分かっていた。ふたつには、李婆やはもう年老いたので、職を辞して引退したので、今や彼女たちを管理する立場になかった。このため、見かけ上はふざけているように見えるが、実際には李婆やに対し真面目に相手をしていなかったのだ。かの李婆やは、それでも構わず尋ねた。「宝玉は今は一度にご飯をどれだけ食べるの。何時頃寝るの。」小間使いたちは総じていいかげんに答えていたが、中には、「本当に鬱陶しい年寄りなんだから。」と言う者もいた。
李婆やはまた尋ねた。「このお碗の中にあるのは酪(チーズ)だね。どうしてわたしに食べさせてくれないの。」そう言うと、お碗を取って食べた。小間使いのひとりが言った。「手を着けちゃダメ。それは襲人に残しておくよう言われたもので、帰って来たらまた癇癪を起こされるわ。あんたという年寄りは自分で勝手に決めて、罪をわたしたちになすりつけて、怒られるようなことをしないで。」李婆やはそれを聞くと、腹を立てるやら羞じるやらで、こう言った。「わたしはあの子がそんな薄情だなんて信じないわ。わたしが一碗牛乳を飲んだのは言うに及ばず、もっと値の張るものだって、食べる権利があるのよ。どうして襲人がわたしより大事なの。どうしてあの子は、自分がどうやって大きくなったか考えてみないことなんてあるでしょう。わたしの血がおっぱいに変わって、それを飲んでこんなに大きくなったんだから。今わたしがあの子の牛乳を飲んだから、あの子が怒るとでも言うの。わたし、わざとこれを食べて、あの子がどうするか見てやろう。あんたたちは襲人がこれまでどうであったか知らないだろうが、あのアマはわたしの手の中でしつけてやった、なんということも無い小娘さ。」一方でそう言いながら、一方で意固地になって酪を全部食べてしまった。またひとりの小間使いの女が笑って言った。「みんな何も言わないわよ。あんたみたいな年寄りを怒らせたらかなわないからね。宝玉がまだ年寄りのあんたに何か持ってきてくれるかもしれないのに、どうしてこんな好き勝手をなさるの。」李婆やは言った。「あんたたちもそんな言葉巧みにわたしを騙さなくてもいいんだよ。おそらく前回お茶のことで茜雪が追い出された(このエピソードは第八回にあり)ことを、わたしが知らないとでも思っているんだろう。もし間違っていたら、わたしが責任を取るわよ。」そう言うと、腹を立てて行ってしまった。
しばらくして、宝玉が帰って来て、人に言って襲人を迎えに行かせた。ふと見ると、晴雯がベッドに横になって動かないでいたので、宝玉は尋ねた。「ひょっとして病気なの。それとも博打に負けたの。」秋紋は言った。「あの娘は勝っていたんですよ。それがなんとしたことか、李の大奥様が突然やって来たものだから、おかげで負けてしまい、怒ってふて寝しているんですよ。」宝玉は笑って言った。「おまえたち、あの人とまともに遣り合っちゃあだめだよ。あの人の好きなようにさせてあげなきゃ。」
そう言っていると、襲人がやって来て、お互いに顔を合わせた。襲人はまた宝玉にどこで食事を食べたか、いつ戻って来たか尋ねた。また自分の母親や妹たちに代わり、同席の女たちに挨拶した。しばらくして衣服を着替え、化粧を落とした。宝玉が酪を取って来るよう命じると、小間使いたちは、「李婆やが食べてしまわれました。」と回答した。宝玉が一言言おうとすると、襲人が急いで笑って言った。「ああ、あなたが残して置くと言われたのはこのことでしたか。ご配慮ありがとうございます。以前、わたしが美味しいと言って、食べ過ぎてしまい、酷い腹痛に襲われ、最後は吐いてようやく良くなりました。あれは食べると美味しいのですが、ここに置いておくと、傷んで無駄になってしまいます。わたし、干し栗が食べたいわ。わたしに栗を剥いてくださらない、わたし、オンドルに布団を敷きますわ。」
宝玉はそう聞いて、それを真に受け、酥酪(チーズ)を捨ててしまうと、栗を取って来て、自ら灯りの下で、栗を確かめながら皮を剥いた。一方で、皆が部屋の中にいないのを見て、襲人に笑って尋ねた。「今日、あの赤い服を着ていたのは、あなたの何に当たる人なの。」襲人は言った。「あれはわたしのふたりの姪っ子なんです。」宝玉はそう聞いて、思わず賛嘆した。襲人は言った。「何を感心しておられるの。わたしはあなたが心の中で何を思っているか分かっているんですよ。どうしてあんなところで赤い服を着ているんだと思っているんでしょう。」宝玉は笑って言った。「違うよ。あのような人は赤い服を着ないものだよ。誰が敢えて着るものか。僕はあの人が実際とてもきれいだったので、なんとかしてあの人がうちに来てくれたらいいのにと思ったんだ。」襲人は冷ややかに笑って言った。「わたしひとりが奴隷である運命であればいいんです。どうしてわたしの親戚まで皆奴隷となる運命を担わないといけないのでしょう。きっとまたとてもきれいな娘さんが選ばれて、あなたがたの家に来られるに違いないわ。」宝玉はそう聞いて、急いで笑って言った。「おまえはまた要らぬことを考えるんだから。僕が、うちに来る者は、必ず奴隷でないといけなくて、親戚は使えないなんて言ったかい。」襲人は言った。「それではあなたの身分に釣り合わないのですよ。」
宝玉はそれ以上言うのを好しとせず、ひたすら栗の皮を剥いた。襲人が笑って言った。「どうして喋らないの。思うにわたしがさっき言ったことで、あなたの気を損ねたかしら。今後また腹を立てられるんだったら、何両か銀子を払ってあの娘たちをお買入れになったらいいわ。」宝玉は笑って言った。「おまえが言ったことに、どう答えたら良いか分からないよ。僕はあの人はきれいだと褒めただけさ。僕たちはこの広い屋敷の中で暮らしているけど、僕たちのような平凡で浅はかな人間はこうした汚らしい場所でしか生きていけないのさ。」襲人は言った。「あの娘はお金持ちの家の子供のようなすばらしい運命には恵まれていないけれども、家では可愛がられて育ち、叔父さんも叔母さんもとてもあの娘を可愛がり、今十七歳で、色々な嫁入り道具も皆準備できて、来年には嫁入りするのよ。」
宝玉は「嫁入り」と聞いて、「ああ」とため息をつくのを禁じ得なかった。ちょうど気持ちのやり場が無くなった時に、また襲人がため息をついてこう言うのが聞こえた。「わたしはこの何年か、女兄弟たちとあまり会う機会がなく、今わたしが帰っても、あの娘たちは皆出て行ってしまうんだわ。」宝玉はこの話には隠された意味があると思い、思わずびっくりして、慌てて栗を落としてしまい、尋ねた。「どうしたって言うの。おまえ、家に戻らないといけないの。」襲人は言った。「わたし、今日母と兄が相談しているのを聞いたんですが、あと一年辛抱して、来年になったらわたしを身請けして行くそうなんです。」宝玉はこの話を聞いて、益々慌てて、尋ねた。「どうしておまえを身請けするの。」襲人は言った。「奇妙なことをおっしゃるのね。わたしはこちらの家で生まれた子とは違うんです。うちの家の者たちは皆別の場所にいて、わたしひとりだけがこちらにいたのでは、どうやって落ち着くことができるでしょうか。」宝玉は言った。「僕はおまえを行かせたくないよ。」襲人は言った。「未だ曾てそんな理(ことわり)は無いのですよ。たとえ宮廷だって、決まりがあって、何年かに一度人選があり、何年かに一度お解き放ちがあります。長らく人を留めておく理屈は無いのです。ましてやお宅の家では当然なのです。」
宝玉はしばらく考えていたが、果たして理由を思いつき、言った。「お婆様がおまえを手放さないと言ったら、どうするの。」襲人は言った。「どうして手放されないの。わたしがもし得難い存在だったり、お婆様の心を動かしたりして、わたしが出て行くのを良しとされず、更にわたしの家に何両かの銀子をお与えいただけるなら、まだ可能性はあるかもしれません。でも実際、わたしなんて極めて普通の人間に過ぎず、わたしより優れた方はたくさんおられます。わたしは小さい時からお婆様にお仕えし、先に史お嬢様に何年かお仕えし、今回はまたあなたに何年かお仕えしております。うちの家からわたしを身請けに来たのなら、正に行かせてもらうべきだと思います。――おそらく、身請けの費用無しで、お慈悲でわたしを放免いただけるのではないかと思います。あなたにお仕えするためにわたしを行かせないというのは、絶対あり得ないことなのです。よくお仕えするというのは、職務柄当り前のことで、別に特別な功績ではありません。わたしが去っても相変わらずよくお世話するというのは、わたしがいなくてはできないことではないのです。」宝玉は話を聞いて、確かにここを去り、留まらない道理があるので、心の中では益々気があせって、それでこう言った。「確かにそうかもしれないが、僕は心からおまえに留まってほしいんだ。たとえお婆様がおまえの母親に言わなくても、ちょっと多くおまえの母親に銀子を渡せば、おまえの母親も申し訳なくておまえを身請けできないだろう。」襲人は言った。「わたしの母はもちろん、無理やりわたしを連れ帰るなんて、言う勇気はありません。かと言って、たとえよく相談し、もう少し銀子を出すと言われても、この決心を変えることはできないでしょう。また金は一銭も出さないが、あくまでわたしを留めたいとおっしゃれば、母もそれに従わない勇気はないでしょう。うちの家族は、これまで地位や権勢を頼みに、他人を虐げるようなことをしたことはないのです。これは他のこととは違います。喜んでもらえるなら、十倍の利を付けて、あなたに差し上げます。かの売主が損をしなかったら、それでも問題無いでしょう。今、もし縁もゆかりも無くわたしを留めても、こちらのお家になんの利益も無く、却って我が家は肉親が離れ離れになり、家庭に不和が生じるとしたら、このこと、大奥様、奥様はそうすることを良しと思われるでしょうか。」
宝玉はそう聞いて、しばらく考え込んでいたが、やがてこう言った。「おまえはあれこれ言っていたけど、行くと決めたのか。」襲人は言った。「はい、行くと決めました。」宝玉はそう聞いて、しばらく考えてから言った。「おまえという奴は、こんな薄情で義理人情を解さない人だったのか。」そしてため息をついて言った。「もっと早くおまえが行ってしまうと知っていたら、僕、おまえをここに来させるんじゃあなかった。おまえが出て行ったら、僕がひとりぼっちで残されてしまうんだから。」そう言いながら、むかっ腹を立ててベッドに横になって寝てしまった。
実を言うと、襲人は家で、彼女の母親と兄が彼女を身請けして連れ戻したいと聞いて、こう言った。「死んでも帰らないわ。」また言った。「曾て、元々あなた方が食べる飯が無く、残ったわたしが数両の銀子の値打ちがあったので、もしあなたがたにわたしを売らせなければ、父さんも母さんも飢え死にしていたことでしょう。今は幸いにもこちらに売られてきて、食べるものも着るものもご主人様と変わらず、朝に殴られ暮れに罵られることもありません。ましてや今は父は亡くなったけれど、あなたがたが努力して、家も家業も再建して、嘗てのように活力を回復しました。もし果たしてまだ生活が苦しいんだったら、わたしを身請けして、更に何がしかの銭を掴み取るのも、仕方ないし、実際難しくないでしょう。――でも、今度またわたしを身請けして、どうしようと言うの。むしろわたしはもう死んだと思ってもらった方がいいわ。またわたしを身請けし連れ戻すようなことは考えないでちょうだい。」そう言って、ひとしきり泣きとおした。
彼女の母親と兄は、彼女が頑ななのを見て、自然と無理強いはしなかった。ましてや元々終身の契約で売り渡したのであり、明らかに賈のお屋敷が情け深く寛大な家であることを頼みとして、ちょっと頼んでみれば、ひょっとすると襲人の身請け費用も無償にしてくれるのではないかと思ったのだった。二に賈のお屋敷ではこれまで召使を虐待したことがなく、ただ恩情が多く威張り散らすことが少なく、しかも凡そ老人や子供の部屋でお仕えする少女たちの地位や待遇は、一般の召使と異なり、普通の庶民の家の少女でもこんなに大事にされることはなかった。このため、襲人の母と兄は、彼女を身請けすることを諦めた。そんなことがあった後、突然宝玉がやって来て、襲人と宝玉ふたりがまたあのような関係の光景を見せたので、母と娘ふたりの心の中は一層はっきりし、一個の石が地面に落ちたように心が定まった。しかも意外なことに、お互いに安心し、もうそれ以上何も言わなかった。
さて襲人は幼い時から宝玉の性格が異常なのを見てきた。そのやんちゃで腕白なのは普通の子供の域を出て、更にいくつか様々な奇怪で言葉で言うことのできぬ性癖があった。最近は祖母が溺愛し、父母も十分に厳しく躾けできぬものだから、一層気ままに遊び歩き、自分の性癖を抑えようともせず、まともに学業に励むことを最も嫌った。いつも諫めようとする度、相手の忠告を聞こうとしなかった。今日はちょうど身請けの話が出たので、それで先ず多少巧い言葉遣いで宝玉の気持ちや態度を探ると、宝玉の気勢を削いでおいて、それから再び忠告や意見を出したのであった。今宝玉が黙って眠ろうとしたのを見ると、気持ちとしては忍び難いものがあるが、怒りは既に治まったのが分かった。自分は元々栗を食べたくなかったが、ただ酥酪(チーズ)のことで騒動が起きるのを恐れ、またあの茜雪のお茶の一件の時のように、わざと栗が食べたいというのを理由にして、宝玉がこのことを持ち出さないようだましたのだった。そして若い小間使いたちに命じて、栗を持って行って食べさせ、自分は宝玉の気持ちを押し動かそうとした。見ると宝玉は顔中泣いた痕があったので、襲人は笑って言った。「あなた、何がそんなに悲しいの。あなたがわたしを留めたいなら、わたしはもちろん出て行かないわ。」宝玉はこのことを聞くと、頭が回転し出し、そして言った。「じゃあ言って。僕がどうしたら、おまえは留まってくれるの。自分でも言い出しにくいんだ。」襲人は笑って言った。「私たちふたりの仲が良いことは、言うまでもないわ。けれどもあなたが安心してわたしを留めたいなら、それに頼ってはだめよ。わたしがそれとは別に三つの条件を出すから、あなたがそれに従うなら、それはあなたが本気でわたしを留めたいということだから、たとえ刃物を首に当てて脅されたって、わたしは出ていかないわ。」
宝玉は急いで笑って言った。「おまえが言うのは、どんな条件なの。僕はおまえの言う通りにするよ。すばらしい、親愛な姉さん。二三の条件に限らず、二三百条件があったって、僕はおまえの言う通りにするよ。おまえたちが僕を見守っていてくれさえすればいいんだ、僕が死んで灰になって飛んで行く日までね。――いや、灰になって飛んで行ったとしても、灰が尽きてもまだ痕跡が残り、感覚が残る。――僕が軽い煙になって、風が吹いて飛ばされれば、おまえたちも僕を管理しようがなく、僕もおまえたちのことを考えなくていい。おまえたちが行きたいところにどこでも勝手に行けばいいのさ。」慌てた襲人は急いで彼の口を塞ぐと、言った。「すばらしいご主人様。わたしは正にあなたにこういうことをお諫めしているのですよ。これ以上言ったら恨みますよ。」宝玉は慌てて言った。「もうこのことは言わないよ。」襲人は言った。「これが先ず一番目に改めないといけないことですよ。」宝玉は言った。「改めるよ、また言ったら、おまえ、口に栓をしてよ。あとは何だい。」
襲人は言った。「二番目は、あなたが本当に勉強が好きでも、好きなふりをしているのでもいいですが、旦那様の前や、他の方の前にいる時だけは、学問のある方をけなすようなことをおっしゃってはだめよ。勉強が好きな様子を示してちょうだい。そうすれば、旦那様もあまりお怒りにならなくていいし、人様の前でもご自分を誇ることができますから。旦那様は心の中では、我が家は代々学問の家柄であるのに、あなたになってから、学問を嫌うどころか、学問のある人を嘲笑されるものだから、――心の中で、お怒りになるやら悩まれるやら――それで背後で、或いは面前で叱責されているのですよ。凡そ学問を追求されている人に、あなたはあだ名を付けて、そういう方を「俸禄を食う虫」と呼んでいますね。また、「明徳を明らかにする」(『大学』の中の言葉)以外は書物は無いとかいったことを言われましたが、これは先人の言葉を自分で勝手に混ぜっ返されたものですね。――こうした言葉が、旦那様を怒らせ、いつもあなたを殴ろうとされるんですよ。」
宝玉は笑って言った。「もう言わないよ。あれは僕が小さい時に、ものごとへの理解が欠けていて、あまりよく考えずに、口から出任せに言ったことで、今はもう言う勇気が無いよ。あとは何。」襲人は言った。「もうお坊さんや道士を誹謗するのは許しませんよ。あともっと大事なことは、もう女の子をからかったり、こっそり人の口の上に塗られた口紅を食べたりといった、女好きの病気を出してはだめですよ。」宝玉は言った。「みんな改めるよ。他に何かあったら早く言ってよ。」襲人は言った。「もうありません。ただ何事ももう少し慎重にして、勝手気ままに振る舞ってはだめよ。あなたがもし言われた通り皆守ってくれたら、八人で担ぐ駕籠を持って来ても、わたしを連れて行くことはできないわ。」宝玉は笑って言った。「おまえがここに長く居てくれたら、八人担ぎの駕籠に乗れないのを心配する必要はないさ。」襲人は冷ややかに笑って言った。「そんなもの珍しくもないですわ。そんな幸運があれば、そんな道理がなくても、そんな駕籠になんか乗りたくないですわ。」
ふたりがちょうど話していると、小間使いの秋紋が部屋に入って来て、言った。「三更(夜の11時から翌日の1時)になりました、もうお休みの時間ですよ。先ほどお婆様が婆やを差し向けてお尋ねになられましたので、わたしはもう就寝されたとお答えしました。」宝玉は時計を持って来させて見てみると、果たして時計の針は子初の二刻(23時30分)を指していたので、それでようやく手を洗い口を漱ぎ、寝間着に着替えて休んだのだが、特に言うべきこともない。
翌日の早朝、襲人は起き上がったが、身体が重く、頭が痛くて眼が腫れ、四肢が燃えるように熱かった。最初はまだなんとか持ち堪(こた)えられたが、その後辛抱できなくなり、寝ているしかできなくなり、このため服を着たままオンドルの上に横になった。宝玉は急いで賈のお婆様に報告し、医師に連絡して診察してもらった。――医師が言うには、「たまたま風邪にかかっただけで、一二錠の薬を飲んでしばらく隔離すれば、良くなります。」とのことだった。薬を処方されてから、人に命じて薬を取ってそれをちゃんと煎じさせ、服用したら、彼女に命じて掛け布団を掛けて身体から汗を出させた。宝玉は自ら黛玉の部屋に、彼女に会いに行った。
この時黛玉はベッドで昼寝をしていたが、小間使いの少女たちは皆それぞれの用事で出掛けていたので、部屋の中はしんと静まり返っていた。宝玉は糸で刺繍を施した柔らかい帷をめくって、部屋の中に入ると、黛玉がそこで寝ているのが見えたので、急いで彼女を揺すって言った。「良い娘だ、ご飯を食べたばかりで、また寝るなんて。」そう言って、黛玉を目覚めさせた。黛玉は見ると宝玉であったので、こう言った。「あなた、ちょっと外でぶらぶらして来て、わたしは昨晩は一晩中騒いで、今朝はまだ休めていなくて、体中がだるくて痛いの。」宝玉は言った。「身体がだるくて痛いのは大したことじゃない。寝不足は身体に悪いよ。僕が君に気晴らしさせてあげれば、眠気も吹き飛ぶよ。」黛玉はただ眼を合わせて、こう言った。「わたし、眠いんじゃなくて、ただちょっと休みたいだけよ。あなた、ちょっと他所へ行ってしばらく騒いでから、また来てちょうだい。」宝玉は彼女を揺すって言った。「僕、どこに行けばいいのさ、他の人に会っても、うんざりするだけだよ。」
黛玉はそう聞いて、「くすっ」と笑って言った。「あなた、ここに居たいんなら、あちらに行っておとなしく座ってなさい。わたしたち、お話ししましょう。」宝玉は言った。「僕も横になりたいんだ。」黛玉は言った。「それなら横になりなさいよ。」宝玉は言った。「枕が無いよ。僕たち、同じ枕を使おうよ。」黛玉は言った。「この糞ったれ。外にあるのは枕じゃないの。ひとつ取ってきて枕にすれば。」宝玉は外の部屋に行って、ちょっと見ていたが、戻って来て笑って言った。「あれは要らないよ。どこの汚い婆さんのものかもしれないし。」黛玉はそう聞くと、眼をぱっと見開いて、起き上がって笑って言った。「本当にあなたって人は、わたしが命中した「心の悪魔」ね。――いいわ、これを枕にして。」そう言いながら、自分の枕を宝玉に渡し、また起き上がって、自分用にまたひとつ枕を取って来て敷き、ふたりは顔を見合わせながら横になった。
黛玉が一目見回すと、宝玉の左側の頬の上に、ボタンの大きさの血の痕が見えたので、身体を曲げて近づいて見て、手で撫でながら細かく見て言った。「これはまた誰の指の爪で引っかかれてできたの。」宝玉は身体の向きを変えると、一方で隠れながら、一方で笑って言った。「引っかかれたんじゃあないよ。たぶんさっき彼女たちのために口紅を練ってあげている時に、ちょっと飛び散ってしまったんだろう。」そう言いながら、ハンカチを捜して擦り取ろうとした。黛玉は自分のハンカチで、彼の代わりに擦り取ると、チェッと舌打ちしながら言った。「あなたはまたそんなことをしていたの。してもいいけど、それなら看板を出さないといけないわ。叔父様はご存じなくても、他人が見ていて、奇妙な話として噂に上れば、叔父様に吹聴する者も出てくるから、皆また心中穏やかでいられなくなるわ。」
宝玉は黛玉が言う話を全く聞いていなかったが、ふと優雅な香りがして、それが黛玉の袖の中から漂ってきて、この匂いを嗅ぐと、酒に酔ったようにうっとりし、全身の力が抜けるような気がした。宝玉は黛玉の衣裳を引っ張ってきて、何が中に籠められているのか見てみた。黛玉は笑って言った。「今になって、誰から何の香りをもらったのかしら。」宝玉は笑って言った。「それなら、この香りはどこから来たの。」黛玉は言った。「わたしも知らないわ。きっと引き出しの中の香りが染みついたのかもしれないけれど、分からないわ。」宝玉は首を振って言った。「いや違うよ。この香りの匂いは不思議だ。香の餅や球、香袋の香りじゃない。」黛玉は冷ややかに笑って言った。「まさかわたしまで「羅漢」様や「真人」様からこんな奇妙な香りをいただかないといけなくなるなんて。いただいたこの奇妙な香りは、お兄様や兄弟たちが、花の蕊や霜や雪を漬けて作ったものではないわ(第七回で薛宝釵の飲んでいる薬のとんでもなく手間のかかる処方を皮肉っている)。これは普通の香の香りよ。」
宝玉は笑って言った。「僕が何か一言言ったら、君はこうしてあれこれ引っ搔き回すんだから。君に厳しく言わないと、分かってもらえないな。今日からは君を許さないよ。」そう言うと、身体の向きを変え、両方の手に二回息を吹きかけて温めてから、手を伸ばして黛玉の両方の脇の下をめくらめっぽう引っ掻いた。黛玉は元々触られるとこそばゆく感じるのを禁じ得ず、宝玉が両手を伸ばしてやたらに引っ掻くのを見ると、可笑しくて息もつけなくなり、口ではこう言った。「宝玉、これ以上やったら、わたし、怒るよ。」 宝玉はようやく手を止め、笑って尋ねた。「君、まだこのことをごちゃごちゃ言うのかい。」黛玉は笑って言った。「もうそんなことする勇気がないわ。」一方でもみあげをいじりながら笑って言った。「わたしには奇妙な香りがあって、あなたには「暖かい香り」があるわね。」
宝玉は尋ねられたことを聞いて、しばらくは何のことか分からず、それで尋ねた。「「暖かい香り」って何のこと。」黛玉は頷き、笑ってため息をついて言った。「おバカさんね。あなたには玉があって、人は金があればあなたに釣り合うと言うわ。人に「冷たい香り」があると、あなたに「暖かい香り」が無いと釣り合わないじゃあない。」宝玉はようやく言っている意味が聞き取れ、それで笑って言った。「さっきは許すと言ったけど、今はもう容赦しないよ。」そう言いながら、また手を伸ばそうとした。黛玉は慌てて笑って言った。「大好きなお兄様。わたし、もうこんなことをする勇気はありません。」宝玉は笑って言った。「君を許すのは難しくないけど、ただ袖をちょっと臭わせて。」そう言って、袖を引っ張ると、顔の上に被せ、じっと匂いを嗅いだ。黛玉は手を振り解いて言った。「こんなことして、もうあっちへ行って。」宝玉は笑って言った。「向こうへ行くなんてできないね。僕たち、上品に横になったまま話そうよ。」そう言いながらまた横になると、黛玉も横になり、ハンカチで顔を覆い隠した。
宝玉はとりとめもなく作り話をしたが、黛玉は相手にしなかった。宝玉は黛玉に何歳の時上京したか、都への途中、どんな景色を見たか、揚州にはどんな旧跡があるか、土地の風習はどうか尋ねたが、黛玉は答えなかった。宝玉は彼女がまた眠くなったのではないかと思い、彼女の機嫌を取って言った。「あれ、おたくの揚州の役所で一件、大きな事件があったのは、君も知っているでしょ。」黛玉は宝玉が丁重な物言いで、言葉が厳かで、顔つきも厳しくなったので、本当のことだと思い、それで尋ねた。「どんなことなの。」宝玉は尋ねられたのを見て、笑いを堪え、口から出任せにこう言った。「揚州に黛山という山があり、山の上に林子洞という洞窟がありました、……」黛玉は笑って言った。「これはでたらめね。元々そんな山の名前、聞いたことがないわ。」宝玉は言った。「天下に山水はたくさんある。君がどうして全部知っているものか。僕が話し終わってから、批判するといいよ。」黛玉は言った。「続けて。」宝玉はまた出任せに言った。
「林子洞には元々一群の鼠の精が住んでいました。その年の十二月七日(臘月初八)、年寄りの鼠が席に昇って議論し、言いました。「明日は十二月八日(臘八)で、世の中の人は皆 臘八粥を煮るのですが、今、わたしたちの洞窟の中の干した木の実は残り少なくなって、この機会に少し強奪して来ないといけないです。」それで令箭(昔の軍隊で命令を発する時に証拠として用いた矢のような形のもの)を一本抜いて、有能な若い鼠を派遣し調べさせた。若い鼠はこう回答した。「各所に確認しましたが、ただ山の下の廟宇の中だけが、木の実や米が最も多いことが分かりました。」年寄りの鼠がそれで尋ねた。「米は何種類、木の実は何種類あるんだ。」若い鼠は言った。「米も豆も蔵一杯あります。木の実は五種類しかありません。一にナツメ、二に栗、三に落花生、四にヒシ、五にタロイモです。」
年寄りの鼠は大いに喜び、すぐに一本の令箭を抜いて、尋ねた。「誰が米を盗るに行くのか。」一匹の鼠が命令を受けて米を盗りに行った。また令箭を抜いて尋ねた。「誰が豆を盗りに行くのか。」また一匹の鼠が命令を受けて豆を盗りに行った。その後ひとつひとつ、それぞれ命令を受けて盗りに行った。最後にタロイモが残った。それで令箭を抜いて尋ねた。「誰がタロイモを盗りに行くのか。」とても小さくとても弱そうな若い鼠が答えて言った。「わたしがタロイモを盗りに行きたいです。」
年寄りの鼠とそれ以外の鼠たちは、この小さな鼠が仕事に慣れておらず、臆病で無力であるのを恐れ、仕事に行くのを許さなかった。小さな鼠は言った。「わたしは歳若く身体も弱いですが、法術は限りが無く、口や歯は利発で、機智謀略に富んでいます。この任務を行かせてもらえば、必ず他の鼠たちより巧みに盗んできますよ。」他の鼠たちは急いで尋ねた。「どうやって他の鼠たちより巧く盗むんだ。」小さな鼠は言った。「わたしは彼らのように直接は盗ることはせず、身体を揺すって変身すると、タロイモに変身し、タロイモを積んだ山の中に紛れ込み、人に見られていない隙に、こっそりと運び出し、徐々に全部搬出してしまいます。こうした方が、直接盗って来るより巧妙でしょう。」
鼠たちはそう聞いて、皆言った。「巧妙と言えば巧妙だが、でもどういう風に変身するんだ。おまえ、先に変身して我々に見せてくれ。」小さい鼠はそう聞いて、笑って言った。「それは容易いことです。変身するのを見ていてください。」そう言うと、身体を揺すって言った。「変身。」ところがなんと、たいへん美しい、ひとりの少女に変身した。鼠たちは笑って言った。「違うよ、違うよ。元々木の実に変身すると言ったのに、どうして少女に変身してしまったの。」小さい鼠は元の身体に戻って、笑って言った。「わたしに言わせると、あなたがたは世の中のことをご存じない。この木の実がタロイモ(香芋xiāng yù)であることしか認めず、巡塩御史の林旦那様のお嬢様こそ真の「香玉」(xiāng yù、香芋と同じ発音)であることをご存じないのだ。」」
黛玉は話を聞いて、身体の向きを変えて起き上がると、宝玉の身体を押さえながら笑って言った。「あなたという人は余計なことを言う人ね。あなたがわたしの欠点を捏造してしまうのが分かったわ。」そう言うと、宝玉をつねった。宝玉は何度も何度も懇願して言った。「良い娘だから、僕を許して。もう言わないから。僕は君のあの香りを嗅いだので、ふとこんな昔話を思いついたんだ。」黛玉は笑って言った。「人を怒らすだけじゃなく、それを口実に昔話を引用するんだから。」
話し終わらないうちに、ふと宝釵がやって来て、笑って尋ねた。「誰が昔話を話したの。わたしにも聞かせて。」黛玉は慌てて場所を空けて宝釵を座らせると、笑って言った。「見てみて。あと誰がいると思う。この人ったら、人を怒らすだけじゃなく、それを口実に昔話を引用するのよ。」宝釵は笑って言った。「あらまあ、宝兄さんじゃない。この人なら無理もないわ。この人のお腹の中の昔話は元々たくさんあるんだから。――でもただひとつ残念なのは、昔話を使うべき時に、この人はあいにく忘れてしまうんだから。今日憶えているんだったら、先日の晩の芭蕉の詩は憶えているわよね。実際の問題に直面すると、却ってこれまで学んだことを忘れてしまうし、関係の無いことは冷静に見ていられる。この人は汗で出してしまうけどね。今回は却ってまた良く憶えていたみたいね。」黛玉はそう聞いて、笑って言った。「南無阿弥陀仏。やっぱりわたしのすばらしいお姉様ね。――あなた、ある意味好敵手に出逢われたのね。ひとつ悪いことをすると、必ず一度その報いを受ける。このことは間違いないと知りました。」ちょうどそう言っていた時、宝玉の部屋で大声でわめく声が聞こえた。何事が起こったのでしょうか、次回に解説いたします。

