中国語学習者、Congziのブログ

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京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

 この回でのポイントは、宝玉が黛玉に対して、自分の思いのたけを切々と語るところ。宝玉が本当に好きなのは黛玉であることが明らかになります。しかし黛玉の身体は徐々に病に犯され、この先あまり長くないことが語られ、史湘雲は両親を早くに亡くして、家では嫂(あによめ)達に冷遇され、肩身の狭い思いをしていることが明らかにされます。そんな中、王夫人に暇を出された侍女の金釧(きんせん)が、突然井戸に身を投げ、死んだことが告げられます。『紅楼夢』第三十二回の始まりです。

 

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肺腑に訴え心迷う活ける宝玉

耻辱を含み情烈しき死せる金釧

 

 さて、宝玉はその麒麟を見て、心中甚だ喜び、手を伸ばして手に取り、笑って言った。「よくもまあ君が拾っていたとは。君はどうやってこれを拾ったの?」湘雲は笑って言った。「幸い、これが出て来たから良かったけど、明日もし官印まで失くしてしまっていたら、まさか役人を辞めないといけなかったんじゃないわよね?」宝玉が笑って言った。「別に官印を失くしたってどうということはないけど、もしこいつ(麒麟)を失くしていたら、僕死なないといけないところだった。」

 

 襲人が茶を淹れて来て湘雲に飲ませ、一方で笑って言った。「お嬢様、わたし先日お嬢様にお喜び事があったと伺いましたが。」湘雲は顔を赤くし、首をかしげて茶を飲み、一言も応えなかった。襲人は笑って言った。「今回はまた恥ずかしがっておられますね?お嬢様、まだあの頃のことを憶えておられますか、わたしたちは西側の暖閣(大部屋と隣り合って往き来できる部屋で、暖房施設が取り付けられた部屋)で暮らしていて、夜お嬢様とお話をしたことを。あの時は恥ずかしがっておられなかったのに、今回はどうしてまた恥ずかしがられるんですか?」湘雲の顔は益々真っ赤になったが、無理やり笑って言った。「おまえ、まだあの時の話をするの。あの時はわたしたちはあんなに仲が良かったのに、その後うちの母が亡くなり、しばらく実家で暮らしている間に、どうしておまえをあの人に配したのかね。わたしが戻ってきたら、おまえはもうあの時のようにわたしの相手をしてくれなくなった。」

 

 襲人も顔を赤くし、笑って言った。「もういいですわ。以前だったら「お姉様」が長い、「お姉様」が短いとわいわい騒ぎながら、わたしが代わって髪を梳いたり顔を洗ったりしていましたが、今はお嬢様然としてお高く止まっていらっしゃいます。あなたが偉そうにされたら、わたしお傍に行けませんわ。」湘雲が言った。「南無阿弥陀仏。とても悔しいわ。わたしがそんなだったら、すぐ死んでしまうわ。ちょっと見てみて。こんな暑い日に、わたしがここに来たのは、先ずあなたの顔を見るためよ。信じないなら、縷兒に聞いてみて。わたし家ではいつも、一度だってあなたのことを忘れたことがなくってよ。」

 

 襲人と宝玉はそれを聞いて、笑いながらなだめて言った。「冗談を言ったのに、あなたまた真に受けられたわ。こんなに慌てて。」湘雲が言った。「あなたの話は刺激が強いって言われなかったかしら。それにしても性格もせっかちだけど。」そう言いながら、一方でハンカチで包んだ包みを開き、指輪を襲人に手渡した。襲人はどんなに感謝しても足らず、それで笑って言った。「先日あなたのお姉様方が届けて来られ、わたしもういただきました。今日はあなたが自ら持って来られて、わたしのことを忘れておられないのが分かったわ。これであなたがここに来られた誠意が確かめられた。指輪がどれだけの値打ちのものにせよ、あなたの真心が分かったわ。」

 

 史湘雲が言った。「誰があなたに渡したの?」襲人が言った。「宝お嬢様がわたしにくれました。」湘雲はため息をついて言った。「わたし、林姉さんがあなたに渡すとばかり思っていたら、実は宝姉さんがあなたに渡したのね。わたし、毎日家で考えているの。ここにいるお姉様方で、宝姉さんよりいい方はいらっしゃらないのね。でも残念ながらわたしたちは同じ母親の娘ではない。――もし宝姉さんのような実のお姉様がいたら、たとえ両親を亡くしても、ひとりぼっちで誰からも助けてもらえないとは思わないわ。」そう言うと、眼の周りを赤くした。

 

 宝玉が言った。「もうおやめよ。この話題はもうやめよう。」湘雲が言った。「この話を言ったら、どうなるの?わたし、あなたの心の病を知ってるのよ。おそらくあなたの林ちゃんが聞きつけて、またわたしが宝姉さんを褒めたのに腹を立てるんだわ。でもこれって事実よね?」襲人が傍らで「クスッ」と笑い、こう言った。「雲お嬢様、あなたは大きくなられて、益々はっきりものを言うようになられたわね。」宝玉が笑って言った。「僕、君たち何人かとは話しずらいんだ。確かに間違いではないし。」湘雲が言った。「いいお兄様、あなた、わたしが気分が悪くなるようなことは言わなくていいわ。こうして話をしていても、あなたの林ちゃんと会ったら、どうなるかも分からないし。」

 

 襲人が言った。「もう冗談はやめましょう。ちょうどひとつあなたにお願いがあるの。」湘雲が尋ねた。「何なの?」襲人が言った。「靴が一足、底がすり減っちゃったんだけど、わたしこの二日は身体の具合が悪くて、修理ができないの。あなた、わたしの代わりに直す時間があるかしら?」湘雲が言った。「これはまた不思議ね。あなたの家におられる手先の器用な人はどうなの?針仕事がうまい人、裁断がうまい人がおられるのに、どうしてわたしに頼むの?あなたがそのお仕事をお願いしたら、誰が平気で断れるというの?」襲人が笑って言った。「あなた、分かってないわね。あなた、まさかご存じないの?うちの家の針仕事は、ああした針仕事専門の人にお願いしちゃだめなの。」

 

 湘雲はそう聞いて、それが宝玉の靴だと知り、それで笑って言った。「そう言われるんだったら、わたしがあなたに代わってやってあげる。――でもこの一足だけよ。あなたのだからやってあげるけど、他の人のだったらわたし、やれないわ。」襲人が笑って言った。「ほらまた。わたしが何だと言うの、ただあなたに靴の修理をお願いしているだけよ。本当のことを言うと、これはわたしのじゃないの。――あなた、これが誰の靴かは聞かないで。どのみちわたしが頼まれたものなの。」湘雲が言った。「理屈から言って、あなたのものだって、わたしにどれだけ頼んでよいか分からないわ。今日わたしがどうしても針仕事をしない理由は、あなたもきっとご存じのはずよ。」襲人が言った。「わたしには何のことか分からないわ。」湘雲は冷ややかに笑って言った。「先日わたしはこんなことを聞いたわ。わたしが作った扇子入れの袋を持って行って、他人のものと比べてみていたら、癇癪を起こしてまたハサミで切り裂いてしまったって。わたし、とっくに聞いて知っていたのよ、あなたはまだごまかすつもりなの?今回またわたしに作らせたら、わたしはあなたがたの奴隷になってしまうわね。」

 

 宝玉は慌てて笑って言った。「先日のあの件は元々君が作ったものだとは知らなかったんだよ。」襲人も笑って言った。「旦那様は元々あなたが作ったものとは知らなかったの。わたしが旦那様をからかって、こう言ったの。「新しく外から手仕事の上手な小間使いが入って来て、すばらしい花の絵柄の刺繍をするから、あの人たちに扇子入れの袋を持って来てもらうから、良いかどうか試しに見てみてください」って。旦那様はそれを信じて、持って出て、こっちの人に見せたり、あっちの人に見てもらったりしたの。どうしてか分からないけど、さる人(黛玉のこと)の怒りを買うことになって、ハサミでふたつに断ち切られてしまったの。帰って来て、旦那様は急いで間に合わせて作らせるようにと言われたので、わたしはそれでようやく、あれはあなたが作ったものだと申し上げたの。そうしたら、旦那様は何か悔やんでおられたわ。」湘雲が言った。「これは益々奇妙ね。林お嬢様も腹を立てる訳にいかないわね。あの子は裁断ができるんだから、あの子に作らせるべきだわ。」襲人が言った。「林お嬢様は、でもお作りにならないわ。こんなこと(湘雲がせっかく作った扇子の袋をハサミで切ってしまったこと)をしてしまったけれど、大奥様は林お嬢様が(身体が元々弱いので)それでお疲れになるのを心配されているんです。医者の先生も安静にして身体を休めるようにと言われていますしね。それなのに誰がまた林お嬢様に作っていただくことを良しとするんですか。以前は一年も時間をかけて、匂い袋を作られていたんですよ。今年は半年過ぎましたけど、まだ針と糸を手にされているのを見たことがないですわ。」

 

 そんな話をしていると、人が来てこう伝えた。「興隆街の旦那様がお越しになりました。旦那様が若旦那様に出て来てご挨拶するようにとのことです。」宝玉はそう聞いて、賈雨村が来たと知り、心の中ではとても気まずく思った。襲人は急いで服を取りに行った。宝玉は靴で足踏みしながら、憎々し気に言った。「父上とあの方が座っていればそれでいいのに、毎回必ず僕に会いたいって。」湘雲は扇子で扇ぎながら、笑って言った。「もちろんあなたがお客様をお迎えし、接客ができるから、旦那様はあなたに出てくるよう言われたのよ。」宝玉が言った。「どちらの旦那様のことか?いつもあの方自身がわたしに会いたいって言われるんだ。」湘雲が笑って言った。「「ご主人が上品ならお客も来やすい」わ。もちろんあなたにあの方を驚かせるところがあるから、あの方もあなたに会いに来られるのよ。」宝玉が言った。「分かった。もういいよ。僕も俗の中でもまた俗なひとりの俗人に過ぎないが、別にこういった人たちと往き来したいとも思わないよ。」湘雲が笑って言った。「またこんな気性を出して、相変わらずね。もう大人なんだから、科挙の試験を受けて挙人に合格して進士になりたくないんだったら、日常こうした官職に就いておられたりお役所勤めをされている方にお会いして、ああした官職に就く道筋のお話を相談しておけば、将来人と交際する上で都合がいいし、今後本当の友達にもおなりになれてよ。あなたのように年がら年中お屋敷の女たちの部屋をうろうろして、何もしないでいてどうするの?」

 

 宝玉はこれを聞いて、大いに耳障りに思い、それで言った。「お嬢さん、どうか他の部屋に行って座ってくれない。僕のところを君のような世の中を治める術を知った人に細かく汚されたくないんだ。」襲人が急いで間に入って言った。「お嬢様、もうこの人にこんなことを言うのはやめて。前回も宝お嬢様が一度言われたことがあるけど、あの方は人の面子を考えもせずに言われたものだから、旦那様は「ああ」と一声ため息をつかれて、さっさと部屋を出て行ってしまわれたの。宝お嬢様の話も終わらぬうちに、旦那様が出て行ってしまわれたので、お嬢様もしばらくは恥ずかしくて顔を赤くされていたわ。だめと言うか、直接言わないまでも、態度で示すか。――幸い、宝お嬢様で良かったですが、それがもし林お嬢様だったら、またどんなに癇癪を起こされるか、どんなに泣かれるか、分からないわ。こうした状況になっても、宝お嬢様は人を丁重に扱われて、自分はちょっとばつが悪そうにされて、わたしが却って困っていると、あの方も当初は戸惑われても、あにはからんや、しばらくするといつもと変わらぬ表情に戻られて、あの方は本当に修養を積まれていて、心根がお広いの。それに比べ、林お嬢様ときたら、それと正反対ね。あの方は旦那様が腹を立てて聞き分けがなくなると、後でどれだけ償いを負わせられるか分からないわ。」宝玉が言った。「林ちゃんはこれまでこうしたろくでもない話をしたことがあるかな?もしあの子もこういったろくでもないことを言ったことがあったら、僕はとっくにあの子と縁を切っているよ。」襲人と湘雲は、ふたりとも頷いて笑って言った。「このことって、もともとろくでもない話かしら?」

 

 もともと黛玉は湘雲がこちらにいると知っていたが、宝玉がきっとまたこの機に乗じて麒麟の言われを言い出すに違いなく、心の中でいろいろ推察した。最近、宝玉が持ち出す外伝や野史の類は、多くが才子佳人が、精巧で綺麗な玩具や小物で結びつけられ、それは鴛鴦(おしどり)であったり、鳳凰であったり、玉環や金のアクセサリー、或いは薄い絹のハンカチ、鸞鳥の図柄の絹のベルトであったりした。それらは皆単なる小物から遂には一生の願望となった。今ふと宝玉が麒麟のことを言い出すのを見て、このことを契機に隙が生じ、宝玉が湘雲ともああした男女の間のことが起こりやしないかと恐れた。それでこっそり歩いて来て、この機会にどんなことを行っているか見て、ふたりの気持ちがどうか観察した。思いがけず中に入っていくと、ちょうど湘雲が「官職に就いて自立する」ことを話していて、宝玉も「林ちゃんはこんなろくでもないこ話はしない。もしこんな話をしたら、僕もあの子とは縁を切る」と言うのが聞こえた。

 

 黛玉はこの話を聞いて、思わず嬉しくもありびっくりし、また悲しくもあり嘆かわしかった。嬉しかったのは、自分の眼力が間違っていなかったことで、平素から宝玉とは気心が知れていると思っていたが、果たして自分の思った通りだった。びっくりしたのは、宝玉が人前で心から自分のことを称賛してくれ、その情熱が濃密であることで、このことは疑うべくもなかった。嘆かわしいのは、宝玉が自分と気心が通じ合っているなら、当然自分も彼の知己と見做すことができ、ふたりが気心が通じているなら、またどうして「金玉之論」(宝釵が身につける金鎖と宝玉の通霊宝玉で「金玉良縁」になるという考え方)などと言うのか?天意或いは世俗として「金玉配対」の言い方がある以上、宝玉と黛玉の間にも相応するお互いを結びつけるものがないといけないはずなのに、どうして一方的に宝釵という第三者が出て来て、宝玉と黛玉の純粋な知己の関係を打ち壊すのか?悲しむべきは、父母が早逝し、心に深く刻まれ永遠に忘れることのできない言葉があっても、誰も自分のために主張してくれない。ましてや最近は精神が集中できなくなる度、病気が次第にひどくなり、医者はこうも言った。「気が弱り血が不足し、恐らく労咳(結核)で身体が虚弱になっている。」わたしはあなた(宝玉)の知己だが、恐らくこの先長くは生きられない。あなたがわたしの知己になってくれたのに、どうしてわたしは薄命なのだろう。――ここまで考えると、涙が流れるのを禁じ得ない。部屋に入ってお互い顔を合わせるのは、意味が無いように感じ、涙を拭くと、ここを離れ、帰って行った。

 

 ここで宝玉が急いで衣裳を着て出て来ると、ふと黛玉が前をゆっくりと歩いて行くのが見え、あたかも涙を拭いているようだったので、急いで近づくと笑って言った。「お嬢ちゃん、どこへ行くの?どうしてまた泣いているの?また誰かに虐められたの?」黛玉が振り返ると、宝玉であったので、無理に笑って言った。「何でもないわ、わたしがいつ泣いていたと言うの?」宝玉が笑って言った。「ほら、見てご覧、眼の上の涙の粒がまだ乾いていないよ。また嘘をついて!」そう言いながら、一方で我慢できずに手を伸ばし、彼女に代わって涙を拭いてやった。黛玉は慌てて後ろに数歩後退すると、こう言った。「あなた、また死にたいの?またこんないらないことをして。」宝玉が笑って言った。「話をしていて我を忘れてしまっていた、思わず手が動いてしまったんだ。生死を顧みる余裕も無くなってしまっていたんだ。」黛玉が言った。「死んでしまったら何の値打ちも無くなってしまうわ。ただあの「金」(宝釵の金の鎖)だとか、「麒麟」だとかが無くなってくれたら、どんなに良いか!」

 

 

 その一言で、宝玉はまた慌て出し、急いで問い質した。「君はまだこんなことを言って、いったい僕を呪っているの、それとも腹を立てているの?」黛玉は問われたもを見て、ようやく先日のことを思い出し、遂に自らまた軽はずみなことを言ってしまったと後悔し、急いで笑って言った。「あなた、焦らないで。わたし、実は言い間違っていたの、大したことじゃないわ、そんな緊張して慌てて、顔が汗びっしょりよ。」そう言いながら、一方で近寄って手を伸ばし、彼に代わって顔の上の汗を拭いてやった。

 

 宝玉は黛玉の方をしばらくじっと見ていたが、それからようやくこう言った。「君、安心していいよ。」黛玉はそう聞いて、しばらくポカンとしていたが、こう言った。「わたしにどんな心配事があると言うの?わたし、あなたの言っている意味がよくわからないわ。ねえ言ってみて、どう安心できないと言うの?」宝玉はひとしきりため息をつくと、尋ねて言った。「君、本当にこのことが分からないの?まさか僕がふだん君の身の上にかけてきた心配は皆間違いだったの?君の気持ちも思いやることができないなんて、道理で君が日々僕に腹を立てているはずだよ。」黛玉が言った。「わたし、本当に何が安心できないのかよく分からないわ。」宝玉は頷きため息をついて言った。「良い子ちゃん、僕を騙さないで。君が本当にこのことが分からないなら、僕はふだんいらぬ心配をしていたことになるし、君がふだん僕に接する気持ちまで皆無にすることになるよ。君が何にでも安心できないものだから、体中に病気が出てきてしまうんだ。でも凡そもう少し気楽にしていれば、この病気も日に日に重くなるなんてあり得ないよ。」

 

 黛玉はこの話を聞いて、雷に打たれたようになった。細かく考えてみるに、意外にも自分の心の奥底から取り出したものよりもっと懇ろに感じられ、意外にも万の言葉を使って、心を込めて話をしても、言葉半分も吐き出すことができず、ただただぼんやりと宝玉を見つめていた。この時宝玉の心の中でも、言いたいことが山のようにあったけれども、すぐにはそのどの言葉から言い出せばよいか分からず、彼の方もぼんやりと黛玉を見つめるばかりだった。ふたりはしばらくぼんやりと見つめ合っていたが、黛玉が「ゴホン」と咳払いすると、眼の中で涙が流れ落ちてきて、向こうを向いて出て行こうとした。宝玉は急いで前へ進み出て、黛玉を引っ張って言った。「良い子ちゃん、ちょっとお待ちよ、僕がもう一言言ってからお行きよ。」黛玉は一方で涙を拭きながら、一方で手を振りほどき、こう言った。「まだ何か言うことがあるの?あなたの言いたいことは、わたし皆分かっているわ。」口でそう言いながら、振り返りもせず、遂に行ってしまった。

 

 宝玉はそれを眺めながら、ただ気もそぞろでポカンとしていた。実は先ほど出て来る時はバタバタして、扇子を忘れて来たのだが、襲人が宝玉が暑いといけないと思い、急いで扇子を持って、追いかけて来て彼に手渡そうとしたのだった。彼女がいきなり頭を上げて前を見ると、黛玉と宝玉が立っていて、しばらくして黛玉が歩いて行ってしまったが、宝玉は立ったまま動こうとしなかった。襲人はそれで宝玉に近づいて行って言った。「あなた、扇子を持たずに出られましたよ。幸いわたしが気がついたので、急いで持って参りました。」

 

 宝玉はちょうどぼんやりしていて、襲人が彼に話しかけても、誰が話しているか見ようともせず、ただぼんやりとした表情でこう言った。「良い子ちゃん、僕の気持ちは、これまで話す勇気がなかったけど、今日は思い切って言うことにするよ。たとえ死んでも後悔しない。僕は君のことを思うと心身ともに疲れて、病気になりそうだけど、それを人に言うこともできず、ただこらえているしかないんだ。君の病気が良くなったら、たぶん僕の病気も良くなるに違いない。――寝ても夢の中でも君が忘れられないんだ。」

 

 襲人はそれを聞いて、驚くやら訝(いぶか)るやら、また惧れ、慌て、また恥ずかしくなり、急いで宝玉の身体を推して言った。「それは何のことなの?あなた、どうされたの?早く旦那様のところに行かないといけないんじゃありませんか?」宝玉はしばらくして我に返り、ようやくそれが襲人であったと気づき、恥ずかしくて顔中を真っ赤にし、けれども相変わらずポカンとして、扇子を受け取ると、一言も発せず、遂に自ら歩いて行った。

 

 ここで襲人は宝玉が行くのを見送ってから、彼が先ほど言ったことが、きっと黛玉のことが発端であるに違いないと思い、こうして見ると、ひょっとして将来不名誉なことが起こってしまうんじゃないかと恐れ、おかげでびっくりするやら恐ろしくなった。それにしても、どう対処したら、そんなみっともない過ちを防ぐことができるんだろうか?――そんなことを考えていると、襲人も思わず知らずぼんやりと立ちつくした。

 

 そこへ思いがけず、宝釵がちょうどあちらから歩いて来て、笑って言った。「こんな暑い陽の下で、何をぼんやりされているの?」襲人は尋ねられたので、急いで笑って言った。「わたし、さっき二羽の雀が喧嘩するのを見たんだけど、とっても面白くて、見とれていたの。」宝釵が言った。「宝兄さんはさっき服を着て、急いでどちらへ行かれたの?わたし、呼びかけて尋ねようと思ったのに、兄さんはあたふたと行ってしまわれて、わたしのことなど気にも留められなかったから、尋ねられなかったの。」襲人が言った。「旦那様がお呼びだったんですよ。」宝釵はそう聞いて、急いで言った。「あらまあ!こんな暑い日に、兄さんに何をさせようというのかしら。別段何も思いつかないけど、お腹立ちで、お兄様を呼び出してひとしきりお説教をされるのかしら?」襲人が笑って言った。「違いますよ。おおかたお客様があって、お会いする必要があるんですわ。」宝釵が笑って言った。「このお客様も面白くないでしょう、こんな暑い日に、家で涼むんじゃなくて、走って来てどうされるんでしょう。」襲人が笑って言った。「あなたも言われるわね。」

 

 宝釵はそれで尋ねた。「雲お嬢様(湘雲)はこちらの家で何をされていたの?」襲人が笑って言った。「今しがたまであれこれ無駄話をしていました。またちょっと先日貼り付けた鞋の、足の甲を包む両側の部分( 鞋帮子)を見てもらい、明日また雲お嬢様に作っていただこうと思っていますの。」宝釵はこの話を聞いて、両側を振り返って見て、誰も来ていないと分かると、笑って言った。「あなたのようにものの道理の分かった人が、どうして少しの間でも人を思いやることができないの?わたしは最近雲お嬢様のお顔をお見受けしたのだけれど、風の噂によると、家では少しも自由にさせてもらえないそうよ。あちらのお家では、費用がかかることを嫌がり、ああしたお針子さんさえ雇わず、たいていのものは皆女たちが自分で作られるそうよ。どうして最近何度かあの方が来られて、わたしともお話しして、周りに誰もいない時に、家での暮らしが辛くてたいへんだと打ち明けられたのかしら?わたしがまたあの方にふだんの生活をお尋ねすると、あの方は眼の周りを赤くされて、口ごもられ、言いたそうにされるても結局何もおっしゃらないの。あの方のご様子を見ると、自然と小さい時に父母を亡くされ、ご苦労されている。わたしはあの方も知らず知らずのうちに心に傷を負われていると思うわ。」

 

 襲人はこの話を聞いて、「ポン」と手を叩き、言った。「そうだわ、道理で先月、わたしがあの方に蝶々の形の組みひもを十本作ってほしいとお願いしたら、何日か経ってから、やっと人に頼んで届けて来られ、またこう言われました。「これは粗い出来なので、とりあえず別のところで使ってください。きちんとしたのが要るなら、明日こちらに泊まりに来てから、もう一度作り直します。」今、お嬢様からこの話を聞いて、そうするとわたしたちがお願いすると、あの方は断るのを申し訳なく思われ、ひょっとするとお家では夜中までかかって作られていたのかもしれませんわ!――それにしてもわたしもぼんくらでした、こういうことだと早く知っていたら、わたしもあの方に頼んではいけなかったのに。」宝釵が言った。「この前、あの方はわたしにこうおっしゃったわ。家では針仕事を三更(午後23時から午前1時)までして、もしその中の少しでも他の人に代わってもらおうとすると、あちらのお家の女性たちは、嫌な顔をされるそうなの。」

 

 襲人が言った。「うちのあの頑固な旦那様ときたら、家の中の大小の仕事を、一切お屋敷の中のこうした仕事をする人にやらせてはならないと言われるんですが、わたしもこうした仕事のことはよく分かりませんわ。」宝釵が笑って言った。「あなたがあの方を動かさないと。気兼ねせず人にやらせれば、いいのよ。」襲人が言った。「どうやってあの方をなだめるんですか。やっとおわかりになったばかりなのに。わたしがぼちぼちと辛い目をするしかないんですわ。」宝釵が笑って言った。「あなた慌てなくていいのよ。わたしがあなたの代わりに手伝ってあげるから。」襲人が笑って言った。「本当ですか?それならわたし幸いだわ。夜にわたしが自ら伺いますわ――」

 

 話が終わらぬうちに、ふとひとりのおばあさんが急いでやって来て、こう言った。「これはどこから伝わった話かしら。金釧jīn chuàn(きんせん)お嬢さんが何の前触れもなく井戸に身を投げて亡くなったわ!」襲人はそれを聞いて、びっくり仰天し、急いで尋ねた。「どちらの金釧のことなの?」そのおばあさんが言った。「どこにまだ別の金釧兒がいるものかね?他でもなく奥様のお部屋付きの方ですよ。先日どうしてだか知らないがお暇を出され、家で泣きの涙に暮れておられたけど、誰にも相手にしてもらえず、思いがけず姿が見えなくなったと思ったら、ようやく水汲みの男が、「あちらの東南角の井戸で水を汲んでいたら、死人の首を見つけた」と言ったんです。慌てて人を呼んで引き揚げたら、思いがけずあの子だったんですよ。その人たちはまたひたすらなんとか救おうとしたけど、それがどれだけ効果があるかね?」宝釵が言った。「これも奇遇なことね。」襲人はそう聞いて、頷いてため息をつき、平素同じ境遇にいた者としての気持ちを思い、思わず涙を流した。宝釵はこの話を聞いて、急いで王夫人のところに来た。ここで襲人は自ら戻って行った。

 

 

 宝釵が王夫人の部屋まで来ると、ひっそり静まり返り、ひとり王夫人が奥の部屋の中に座り、涙を流していた。宝釵はそれでこのことを持ち出す訳にもいかず、ただ傍らに座っていた。王夫人がそれで尋ねた。「あなた、どちらに行って来られたの?」宝釵が言った。「大観園に行って来ました。」王夫人が言った。「あなた、大観園に行って来たなら、おそらく宝兄さんに会われたわね?」宝釵が言った。「先ほどあの方にお会いしました。服を着て出て行かれましたが、どちらに行かれたか存じません。」王夫人は頷いてため息をついて言った。「あなた、おそらく例の事件をご存じね?――金釧兒が突然井戸に身を投げて死んだことを。」宝釵はそれを聞いて、言った。「どうして何の前触れもなく井戸に飛び込んだのかしら?奇妙なことですね。」王夫人が言った。「実を言うと、先日あの子がわたしのものを壊してしまったので、わたしが怒って、あの子を数回叩いて、暇を出したの。わたしは腹が立っただけで、何日かしたら、またあの子を呼び戻すつもりだったの。思いがけずあの子がこんなに癇癪持ちで、井戸に身を投げて死んでしまうなんて、これはわたしの過ちじゃないかしら。」宝釵が笑って言った。「叔母様は情け深い方です。固よりそんな風に思われているんでしょうが、わたしが見るところ、あの方は別に腹を立てて井戸に飛び込んだのではなく、おおかた田舎に行って暮らしていて、或いは井戸の傍で遊んでいて、足をすべらせて落ちたのかもしれません。あの方はお屋敷の中で上の方の厳しい躾けに慣れておられたから、ひとたびお屋敷の外に出ると、当然あちこちへ行って遊び歩いたでしょうに、どこにそんなに怒り狂う道理があるでしょう?よしんば怒り狂ったとしても、ぼんくらに過ぎませんから、別に惜しむまでもありませんわ。」王夫人は頷いてため息をつき、言った。「そうだとしても、結局わたし、どうなるか不安なの。」

 

 

 宝釵が笑って言った。「叔母様、心配しなくて大丈夫です。気が済まないなら、あの方に褒美として何両か銀子を送ってあげるだけでも、主人と召使の間の情を尽くすことになりますわ。」王夫人が言った。「先ほどわたしは五十両の銀子の褒美をあの子の母親に与えたわ。それと元々あなた方女兄弟たちの新しい衣裳であの子の死に装束を二着作ってやろうと思っていたのだけれど、ちょうど何も新しく作る衣裳が無かくて、林ちゃんの誕生日用のが二着しかなかったの。わたしは林ちゃんという子は平素から細かいところまで考える性質(たち)で、ましてやあの子もさまざまな災難に遭ってきたから、もうあの子に誕生日の晴れ着を作ると約束したけど、今またその服で他の人の死に装束を作ると言ったら、それは不吉なことにならないかしら。そう思ったから、わたしは今しがたお針子を呼んで、急いで一式を作らせて金釧兒に着させることにするわ。もし他の小間使いだったら、褒美に数両の銀子を与えれば、それで済むわ。金釧兒は小間使いだったけど、平素わたしの前では、わたしの娘みたいなものだったの。」口でそう言いながら、思わず涙を流した。宝釵が急いで言った。「叔母様は今回どうしてお針子を呼んで、急いで間に合わせる必要があるの?わたしが先日二着服を作らせたばかりだから、持って来てあの子にあげるようにすれば、手間が省けるんじゃないかしら。ましてあの子は生きていた時にわたしの古着を着たこともあるから、背丈も同じだから。」王夫人が言った。「そうだとしても、まさかあなたが嫌じゃないの?」宝釵が笑って言った。「叔母様、安心して。わたしはこれまでこんなことを気にしたことはないから。」そう言いながら、立ち上がり、歩いて行った。王夫人は急いでふたりの小間使いを呼んで、宝釵に付いて行かせた。

 

 しばらくして宝釵が衣服を取って戻って来ると、宝玉が王夫人の傍らに座って涙を垂れているのが見えた。王夫人はちょうど今しがた宝玉に話をしたところだったが、宝釵が来たので、口をつぐみ、もう話をしなかった。宝釵はこの情景を見て、ふたりの顔色をうかがうと、早くも七八割は事態に感づいていた。それで衣服を王夫人にちゃんと手渡すと、王夫人は金釧兒の母親を呼んで、服を持って行かせた。この後どうなったか、次回に解説いたします。

 

 『紅楼夢』の話の筋の展開の中で、登場人物が手にする小物類に大きな意味が持たされています。第三十一回の前半では、宝玉と小間使いの晴雯のやり取りで、晴雯が宝玉の扇子を落として骨を折ってしまい、宝玉が激怒。その後、ふたりは仲直りして最後は宝玉が晴雯に扇子を引き裂かせます。実は第三十回で、宝釵が小間使いの靚兒の扇子を借りたので、扇子に宝釵を託し、宝玉は宝釵との婚姻を望んでいないことを暗に示しています。そして後半は、 史湘雲の麒麟のアクセサリー。湘雲のふくよかな白い首に、湘雲が自分の麒麟と宝玉が落とした金の麒麟のふたつの麒麟を持ったことから、双星、牽牛と織姫のふたつの星を象徴し、湘雲の短く儚(はかな)い婚姻生活を暗に示しています。こんなことを念頭に、『紅楼夢』第三十一回を読んでみましょう。

 

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扇子を(さ)き千金で一笑を作(な)す

麒麟に因り白き首に双(ふた)つの星を伏す

 

 さて襲人は自分が吐いた鮮血が床に着いているのを見て、気持ちが半ばぞっともしたが、昔よく人がこう言うのを聞いたことを思い出した。「少年が血を吐くと、生存できる年月は保証できない。たとえ命は長らえたとしても、終には廃人になるかもしれない。」この言葉を思い出し、思わず普段思っていた将来栄誉を追い求め自分をひけらかしたいという思いが、尽く灰燼に帰した。目から思わず涙がこぼれ落ちた。宝玉は襲人が泣いているのを見て、自分も思わず悲しみが胸にこみ上げ、それで尋ねた。「おまえは心の中でどのように感じているの?」襲人は無理やり笑みを浮かべて言った。「何ともないのに、どうも思っていませんわ。」

 

 宝玉の言った意味は、即刻人を呼んで黄酒を温め、山羊血黎峒丸lí dòng wánを飲ませる必要があると思ったのだ。襲人は宝玉の手を引くと、笑って言った。「あなた、これしきのこと何でもありません。騒いでいろんな人に来てもらうと、却ってわたしが軽薄だと恨まれるわ。物事を判断できる人はご存じなくて、騒いだ者だけ知っているんじゃあ、あなたも良くないし、わたしも困るわ。まともにいけば、あなたが小者を遣って王先生にお願いしてもらい、薬を処方してもらってそれを飲めばいいのよ。こうすれば、誰にも知られず秘密にしておけるけど、どうかしら?」宝玉はそう聞いて道理に思い、そうするしかなかった。机の上に茶を淹れさせ、襲人に口を漱がせた。襲人は宝玉が内心不安に思っているのが分かったが、これから宝玉に世話をさせる訳にもいかないし、彼女も頼らないようにしないといけなかった。その上、それ以外の人を驚かせてもいけないので、やはり宝玉が行った方が良いと思った。このためベッドに寄りかかり、宝玉が世話をした。

 

 その日夜が明けるとすぐ、宝玉は髪の毛を梳いたり顔を洗っている暇もなく、急いで服を着て出て来ると、医者の王済仁を呼びに来て、自らひとつひとつ確認した。王済仁は症状が出た原因を尋ねたが、怪我をしたに過ぎなかったので、丸薬の名前、どのように飲ませるか、どのように塗り薬を付けるか説明した。宝玉はそれを憶えて、大観園に戻り、処方通りに調剤したのだが、そのことは言うまでもない。

 

 この日はちょうど端陽節(端午節)の祝日で、菖蒲とヨモギを門にかざし、虎のお守りを腕に括(くく)りつけ、お昼には王夫人が酒席を催し、薛家の女性たちを招き、節句を過ごした。宝玉は宝釵の態度が冷淡で、彼と話もせず、自ずとこれは昨日のことのせいだと分かった。王夫人は宝玉が打ちしおれて元気がないのを見て、昨日の金釧兒の事件のせいだとばかり思い、自分でも申し訳なく思ったので、いよいよ宝玉のことはほったらかしにした。黛玉は宝玉が元気が無いのを見て、それは宝釵を怒らせてしまったせいだとばかり思い、心中面白くなく、振舞いも物憂げであった。鳳姐は昨晩王夫人が自分と宝玉、金釧兒のことを言ってくれて、王夫人が面白く思っていないことを知ったので、自分からどうして敢えて冗談めかして言えようか。また王夫人の顔色や振舞いを見ても、一層冷ややかに感じられた。迎春姉妹は人々がつまらなそうにしているのを見て、自分たちも面白くなかった。それで、皆はしばらく座っていたが、その後お開きとなった。

 

 かの黛玉は生まれつきひとりでいるのが好きで群れるのを嫌ったが、彼女の考え方も道理があった。彼女はこう言う。「人は集まれば離散があり、集まるときは楽しく、別れの時はどうしてうら寂しくないことがあろうか。寂しければ悲しみが生じるから、だからやはり集まらないのがよい。例えばあの花が咲く時は人に愛されるが、散る時はたくさんの悲しみが増える。だからやはり咲かないのがいい。」このように、人が楽しく思う時、彼女は却って嘆き悲しむ。かの宝玉の性格は人がいつも集まり分かれない、花は常に開いて散らないことだけを願ったが、宴席が終わり花が散るに及び、数え切れぬ悲しみが生じるが、それもどうしようもなかった。このため今日の宴席では、皆が興無く別れ、黛玉はそれでも何とも感じなかったが、宝玉は心の中で悶々として楽しまず、部屋に戻るやしきりにため息をついた。

 

 折悪しく晴雯が近寄って衣裳を着替えさせたのだが、うっかりまた扇子を手から落としてしまい、床に落として、扇子の骨が落ちた拍子に折れてしまった。宝玉はそれでため息をついて言った。「このばか、間抜け!これからどうなるんだ。明日おまえが家の管理を任されたら、まさかこのように前ばかり見て後ろは注意しないんじゃあるまいね?」晴雯は冷ややかに笑って言った。「若旦那様は最近怒りっぽくおなりで、ややもすると面子ばかり考えられてるわ。昨日は襲人まで叩いて、今日はまたわたしにいちゃもんを付けられるのね。蹴ろうが叩こうが、旦那様のお好きになさって。――たとえ扇子を落としたところで、それがどんな大事だと言われるの。この前は何ですかガラスの壺だ、瑪瑙の碗だって、いくつ壊してしまったか分からないのに、そんな怒られることもなかった。今回は一本の扇子でこんなになって。何をそんなにお怒りなの。わたしたちがお嫌だったら、わたしたちを追い出して、また良い子を選んでお使いになったらいいわ。離れ離れになりお別れするのも、また良くなくって?」

 

 宝玉はこうした話を聞いて、腹が立って全身ぶるぶると震えた。それでこう言った。「おまえ、そんなに慌てなくてもいいよ。将来、どのみちお別れする日が来るよ。」襲人はあちらでとっくにこのやり取りが聞こえていて、急いでこちらに駆けつけると、宝玉に言った。「よい子ちゃん、またどうされたの?でもわたし、言いましたよね、「わたしがいない時に限って事故が起きる」って。」晴雯はそれを聞いて、冷ややかに笑って言った。「お姉様、そんなこと言うんだったら、もっと早くお越しになって。そうすればわたしたち、腹を立てずに済みましたのに。これまで、お姉様おひとりがお仕えし、わたしたちは元々お仕えしていませんでした。お姉様がちゃんとお仕えされているんだったら、どうして昨日はみぞおちを蹴られたのよ。わたしたちはお仕えなんてできませんわ、明日またどんな罪を犯すことになるか分かりませんもの。」

 

 襲人はこの話を聞いて、腹立たしくもあり、恥ずかしくもあり、ちょっと意見してやらないといけないと思ったが、宝玉が既に怒りの余り顔から血の気がひいていたので、自分の方がじっと我慢して、こう言うしかなかった。「あなた、いい子だから、ちょっとお散歩でもして来なさいよ。元々わたしたちが間違っていたんだから。」晴雯は襲人が「わたしたち」と言ったので、当然彼女と宝玉のことだと思い、思わず焼餅を焼き、冷ややかに笑って言った。「わたしはでも知らなかったのよ。あなたがたというのはどなたのことなの?わたしにあなたがたの代わりに恥をかかせないで。あなたがたが陰でこそこそ何かしたって、わたしを騙すことなんてできないわよ。――これはわたしが言ったわけじゃなくて、確かに公明正大に言って、襲人お姉様だってまだ偉くなられた訳じゃなく、わたしと変わらないのに、どうして「わたしたち」なんて言えるものかしら。」

 

 襲人は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にし、思い返せば元々自分が話を言い間違えたせいであった。宝玉は一方でこう言った。「おまえたち、怒って喧嘩しないで。僕が明日なんとか彼女を抜擢するようにしてやるから。」襲人は慌てて宝玉の手を牽いて言った。「あの子は大した人間じゃありませんよ。あなたがあの子の何を弁解してやるの?ましてあなたは平素から寛大にされているのに、今より上げたら、これまでもいろいろしてきたのに、今回はどうされるの?」晴雯は冷ややかに笑って言った。「わたしは元々ぼんくらだけど、どこに差配して話をしていただけるのかしら。わたしはごくつまらない人間に過ぎませんが。」襲人はそれを聞くと、言った。「あなたはいったいわたしと口論しているの、それとも若旦那様と口論されているの?もしわたしに腹を立てているなら、わたしにそうおっしゃいよ。若旦那様と喧嘩するようなことはなさらないで。もし若旦那様に腹を立てているなら、こんなふうに万人に知られるような喧嘩をしちゃだめよ。わたしはさっきもこのことで、間に入ってお諫めしただけよ。皆さんお大事にって。あなたはでもわたしの気持ちを逆撫でしたのよ。わたしを怒らせた訳でもなく、若旦那様を怒らせた訳でもなく、遠回しに言ってるけど、いったい何が言いたいの?――わたしは何も言わないわ。あなたがちゃんと言いなさいよ。」そう言うと、外へ出て行った。

 

 宝玉は晴雯に言った。「おまえも怒る必要はないよ、僕もおまえの心の内は想像できる。僕がお母さまに報告に行くよ。おまえも大人なんだから、おまえに閑を出そうと思うんだが、いいかな?」晴雯はこの話を聞いて、思わず一層気持ちが傷つき、涙を浮かべて言った。「わたしがどうして出て行かないといけないんですか?わたしが嫌いなら、わたしを追い出すのではなく代わりのやり方をする、ということもできないんですか。」宝玉が言った。「僕がこれまでこんなにやかましく叱ったことがあったかい?これもおまえから出たことだ。お母さまに言いつけて、おまえに閑を出した方がいいんだ。」そう言うと、立ち上がって出て行こうとした。

 

 襲人は急いで戻って来ると宝玉を遮り、笑って言った。「どちらに行かれるの?」宝玉が言った。「お母さまに言いつけに行くんだ。」襲人が笑って言った。「なんてつまらないことをされるの。よくお考えになってから報告にお行きなさい。あなたも奥様に恥をかかせたくないでしょう。この子を本当に追い出したいなら、今のお怒りが収まるのを待って、冷静になってから話をして、奥様にご報告しても遅くないですわ。このように慌てて真面目な話をしに行かれたら、奥様も疑いを持たれるに違いないわ。」宝玉が言った。「お母さまが疑われるなんてあり得ないよ。僕がはっきり彼女が面倒を引き起こしたから閑を出すと言うだけのことさ。」晴雯が泣きながら言った。「わたしがいつ面倒を引き起こしたから出て行かないといけないんですか?お怒りになったうえに、そんなわたしを抑圧するようなことまで言われて。――どうあっても奥様に言いつけに行かれるなら、わたし、ひと思いに頭をぶつけて死んでも、ここのお屋敷の門を出ないですからね。」宝玉が言った。「またおかしなことを言うね。おまえは出て行かないし、遠慮せずに面倒を引き起こすし。僕はこんなにぎゃあぎゃあ騒がれるのは耐えられないよ。いっそ出て行ってくれたら、却ってすっきりするよ。」そう言うと、どうあっても王夫人に言いつけに行こうとした。

 

 襲人はもう宝玉を止めきれないと思い、跪(ひざまず)いて控えているしかなかった。碧痕、秋紋、麝月ら小間使いの女たちはひどく言い争うのを見て、皆ひっそり静まり返って外で様子を見ていたが、今度は襲人が跪いて懇願するのを見て、一斉に部屋に入って来て、皆跪いた。宝玉は急いで襲人を引っ張って立ち上がらせ、大きくため息をついて、ベッドの上に座り込み、女たちを出て行かせた。襲人に言った。「僕にどうさせたらいいんだ。僕の心は砕けてしまったよ、誰にも分かってもらえないだろうけど。」そう言いながら、思わず涙が滴り落ちた。襲人は宝玉が涙を流すのを見て、自分も涙が出た。晴雯はその横で泣きながら、ちょうど話をしようとしていると、黛玉が入って来るのを見たので、晴雯は外に出て行った。黛玉は笑って言った。「端午節のお祝いなのに、どうしてみんな揃って泣いているの?まさか粽(ちまき)を食べるのが競争になって、喧嘩になってしまったんじゃないわよね?」宝玉と襲人は揃って「プスッ」と笑った。黛玉が言った。「お兄様、わたしにおっしゃらなかったけど、聞かなくても分かりますよ。」そう言いながら、一方では襲人の肩を叩いて、笑って言った。「お姉様、おっしゃって。きっとあなたがたおふたりが口喧嘩されたのね。わたしにおっしゃって。あなたがたの代わりに仲裁してあげるから。」襲人は黛玉を押して言った。「お嬢様、あなた何を騒いでらっしゃるの。わたしたちは小間使いに過ぎないのに、わたしのことをお姉さんなんておっしゃって。」黛玉は笑って言った。「あなたは自分が小間使いだとおっしゃるけど、わたしはあなたのことをお姉様だと思っているのよ。」

 

 宝玉が言った。「君はどうしてわざわざ彼女に代わって叱られるようなことを言うの?こうしておくのを許しても、誰かが要らぬことを言ったら、また君がこんなことを言いに来るのをほっておけるだろうか。」襲人が笑って言った。「お嬢様、あなたにわたしの気持ちはお分かりにならないわ。息が止まって死んだって、それだけのことよ。」黛玉が笑って言った。「あなたが死んだら、他の人はどうか知らないけど、わたしは先ず死ぬほど悲しむわ。」宝玉が笑って言った。「君が死んだら、僕が坊さんになるよ。」襲人が言った。「あなた、ちょっと静かになさって。どうしてわざわざ混ぜっ返すの。」黛玉は二本の指を伸ばして、唇をすぼめて笑って言った。「坊さんがふたりになった。わたしはこれから、あなたが坊さんになるって何回言ったか憶えておくわ。」宝玉はそう聞いて、彼が前日に言ったことだと分かり、自らにやりとしたが、それだけのことだった。

 

 しばらくして黛玉が行ってしまうと、人が来てこう言った。「薛旦那様からお招きでございます。」宝玉は行かざるを得なかったが、実は飲酒の誘いで、辞退することができず、歓楽を尽くしてお開きとなり、夜帰って来た時には、既に酔いが回っていて、千鳥足で自分の屋敷内に戻ると、屋敷中に早くも夏用のベッドや枕が据え付けられ、ベッドでは誰かが眠っていた。宝玉は襲人だとばかり思い、ベッドの縁に座りながら、一方で女の身体を押して、尋ねた。「痛みは良くなったかい?」するとその女は身体の向きを変えて起き上がり、言った。「どうしてわざわざ来てまたわたしに関わり合うの。」

 

 宝玉がその女を一目見ると、実は襲人ではなく、晴雯であったのだ。宝玉は彼女を引っ張ると、自分の横に座らせ、笑って言った。「おまえの性格は益々甘やかされてわがままになっているな。朝起きたら扇子を落とすわ、それで僕が一言二言言ったら、おまえはあんなことを言って。おまえが僕にあれこれ言うのは構わないよ。襲人が好意でおまえを諫めてくれたのに、また彼女を巻き添えにするとは。おまえ、自分でもちょっと考えてみて、あんな風に言うべきかな?」晴雯は言った。「とってもお熱いこと。いちゃいちゃと何をされているの。誰かにどんな様子か見てもらいなさいよ。わたしの身体は元々ここに座るよう差配されていませんから。」宝玉が笑って言った。「おまえがここに配されていないと分かっているなら、どうしてここで寝ているんだ?」

 

 晴雯は何も言わず、「クスッ」とまた笑うと、言った。「あなたが自分から進んでわたしを近づけるつもりがないなら、それでいいわ。あなたが自らわたしに近づいてきても、わたしはそのように配されていませんから。――起き上がってください。わたしが背中を流して差し上げます。襲人も麝月も身体を洗ったから、わたしがあの娘たちを呼んで来ますわ。」宝玉は笑って言った。「僕はさっきお酒をさんざん飲んだばかりなのに、身体を洗わないといけないのかい。おまえがまだ身体を洗っていないなら、水を持っておいで。僕たち一緒に洗おうよ。」晴雯は手を横に振って笑って言った。「もういいです。わたし、旦那様を敢えて怒らすつもりはありません。まだ憶えていらっしゃるかしら、碧痕が遣わされて、あなたが身体を洗うお世話をしたのを。二三時間も時間をかけて、何をされていたのかは存じ上げません。わたしたちも中に入るのは具合が悪かったです。その後身体を洗い終えてから、中に入って見てみたら、地面の水が、ベッドの脚まで水浸しにして、敷物の上まで水が溜まっていました。どんな洗い方をしたのかしら。しばらく笑いが止まりませんでした。――わたしも水を片付ける暇は無いですから、あなたもわたしと一緒に身体を洗わなくていいですよ。今日は涼しいから、わたしも身体を洗いません。わたし、むしろ盥(たらい)に一杯の水を汲んできて顔を洗い、髪の毛を梳きますわ。そうしたら、鴛鴦がいい果物を持って来ますから、皆あの水晶の甕の中で氷水に浸します。あの子たちを遣わして、あなたに食べさせようと思うんだけど、どうかしら。」

 

 宝玉は笑って言った。「そうするんだったら、おまえ身体を洗わなくても、手は洗って、僕に果物を持って来て食べさせてよ。」晴雯は笑って言った。「でもそうすると、わたしという愚か者は、扇子まで落として折ってしまったのに、また果物を食べてもらうお世話係に配されることになるわ。もしひょっとしてまたお皿を割ってしまったら、もっとひどいことになるわね。」宝玉が笑って言った。「おまえが割りたければ、割ればいいよ。これらのものは、元々人から借りて使っているだけで、君がこんなのが好きでも、僕はあんなのが好きで、皆それぞれ性格が違うんだ。例えばあの扇子は、元々あおいで風を起こすものだけど、おまえが引き裂いて遊びたいなら、そうしてもいい。だけど腹が立った時にこれでうっぷんを晴らしちゃだめだ。ちょうどコップや皿が、元々ものを入れるものなのに、ガシャンという音が聞きたくて、わざと割るのも構わない。だけど癇癪(かんしゃく)を起こしている最中にこれを持ち出してうっぷんを晴らすのだめだ。――ものを大事にしないとね。」晴雯はそれを聞くと、笑って言った。「そう言われるのなら、あなた扇子を出してわたしに引き裂かせてください。わたしはものを割く音がいちばん好きなの。」宝玉はそう聞くと、笑いながら扇子を彼女に手渡した。晴雯は果たして扇子を受け取るや、「クスッ」と笑って、真っ二つに割いた。続いてまた「クスッ」、「クスッ」と何回か笑い声が聞こえた。宝玉は横で笑いながら言った。「割くのが上手だ、また割く音を聞かせて。」

 

 

ちょうどそう言っていると、麝月が歩いて来て、驚いて目を見開き、吐き捨てるように言った。「あんまり悪さをしないで!」宝玉はそこへ走り寄ると、麝月が手に持つ扇子まで奪い取って、晴雯に渡した。晴雯はそれを受け取ると、何度か割いてしまい、ふたりは大声で笑った。麝月が言った。「これはどういうことなの?わたしのものを取って、ご機嫌ね。」宝玉が笑って言った。「おまえ扇子の箱を開けて選んで取って来て。どんないいものがあるか。」麝月が言った。「わたし、でもこんな悪さできないわ。この子が手を折ってないなら、この子に自分で運ばせなさいよ。」晴雯は笑いながら、ベッドに寄りかかり、言った。「わたしもくたびれたわ。明日また割きましょう。」宝玉が笑って言った。「昔の人が「千金で一笑を買い難し」と言ったけど、扇子数本で、値はいくらだろう?」そう言いながら、一方で襲人を呼んだ。襲人は今しがた服を着替えたばかりでやって来たが、子供の小間使いの佳蕙がやって来て、壊れた扇子を拾うと、皆が夕涼みをしたのであるが、細かく言うには及ばない。

 

 翌日のお昼に、王夫人、宝釵、黛玉と女兄弟たちが賈のお婆様の部屋の中に座っていると、こう報告する者がいた。「史のお嬢様が来られました。」しばらくして、史湘雲(賈のお婆様の甥の孫娘)が多くの小間使いや女房たちを連れて屋敷に入って来た。宝釵、黛玉らは急いで階(きざはし)の下まで出迎えに行って顔を合わせた。若い女たちは、しばらく会っていなくても、一旦顔を合わせると、自然と親密になった。しばらくして部屋に入ると、お互いに挨拶を済ませた。賈のお婆様が言った。「暑い盛りだから、外出に着てきた服は脱いでしまいなさい。」湘雲は急いで立ち上がって上着を脱いだ。王夫人がそれで笑って言った。「こんなものを着て来るなんて見たことがないわ。」湘雲が笑って言った。「これは皆うちの叔母様が着るように言ったの。誰がこんなもの着たいと思うの。」

 

 宝釵は傍らで笑って言った。「叔母様はご存じないんだわ。この方が着る服は、他の人のものを着るのがもっとお好きなの。確か去年の三、四月だったかしら、この方がここに滞在された時に、宝お兄様の上着を着て、靴も履いて、ベルトも締めて、さっと見ると、宝兄さまにそっくりなの。――ただイヤリングがふたつ多いだけなの。あの方があの椅子の後ろに立っていると、大奥様が間違えてこう言ったの。「宝玉、こっちにおいで。あの上に掛かった灯りの芯から灰が降ってきて、眼がくらまないよう気を付けて」って。あの方は笑うばかりで、ほっておかれた。その後みんなが我慢できなくなって笑うと、大奥様もようやく笑って、またこう言われたの。「子供の格好をしたら、もっと可愛らしかったのに」って。」黛玉が言った。「そんなの大したこと無いわ。ただ去年の正月にあの方が来られた時、二日泊まられたけど、雪が降ってきて、大奥様と叔母様がその日になってご先祖の絵を拝んでいきたいと言われ、大奥様の新調された真っ赤なフェルトのマントをそこに置かれたんだけど、思いがけず、知らぬ間にあの方が羽織ったんだけど、大きいわ長いわで、あの方は手ぬぐいを使って腰のところで結びつけ、小間使いたちと裏庭で追いかけっこをして雪の中に飛び込む遊びをしていたが、うっかり転んでひっくり返ってしまい、体中泥だらけになってしまったの。」そう言いながら、皆がその時のことを思い出し、大笑いになった。

 

  宝釵はニコニコして乳母の周婆やに尋ねて言った。「周の母さん、お宅のお嬢さんは今もあんなにお転婆なの?」周婆やも笑った。迎春は笑って言った。「お転婆でもいいわ、わたしが嫌なのは、あの方がおしゃべりなことなの。どこでもゲラゲラ大声で笑っては、べらべら喋って、寝られやしない。ああした嘘、出鱈目が、どこから来たのかも分からないわ。」王夫人が言った。「今はいいけど、今後はどうなるのか。――先日あるお宅の方とお会いしたのだけれど、実際に自分の目で嫁ぎ先を見ると、やっぱり相変わらずでしょう?」賈のお婆様はそれで尋ねた。「今日は泊まって行かれるの、それともお家に戻られるの?」周婆やは笑って言った。「大奥様は見られてなかったんですね。衣服は皆持って参りました。二日泊まっても大丈夫かしら?」湘雲は宝玉のことを尋ねて、言った。「宝兄さんは家におられないの?」宝釵が笑って言った。「この方は他の人のことは考えずに、宝兄さんのことしか考えていないのね。おふたりは本当に面白い。こうしてみると、お転婆は変わってないようね。」賈のお婆様が言った。「もうおまえたち大きくなったんだから、子供の頃の名前で呼んじゃだめよ。」

 

 ちょうどそんな話をしていると、宝玉がやって来て、笑って言った。「雲ちゃん、来てくれたんだね。どうしてこの間人を遣わして君を迎えに行った時は、来なかったの?」王夫人が言った。「さっきお母さまがお互いの呼び方のことを言ったばかりなのに、また直接名前で呼んだりして。」黛玉が言った。「あなたのお兄様は良いものを準備して、あなたをお待ちしていたのよ。」湘雲が言った。「どんな良いものかしら?」宝玉は笑って言った。「君、本気にしないでよ。――何日か会わないうちに、また背が伸びたね。」湘雲が笑って言った。「襲人姉さんはお元気?」宝玉が言った。「元気にしているよ。気にしてくれて、ありがとう。」湘雲が言った。「わたし、あの人に良いものを持ってきたの。」そう言うと、ハンカチを出してきて、中から塊をひとつ引っ張り出した。宝玉が言った。「これはまた何か良いものなの?でも先日持って来たあのザクロ石の指輪をふたつあげる方がいいよ。」湘雲が笑って言った。「これは何かな?」そう言いながら包みを開き、周りの人々が見てみると、果たして前回持ってきたのと同じザクロ石の指輪で、包みの中に四個入っていた。

 

 黛玉が笑って言った。「あなたがた、この人をちょっと見てみて。先日のように人を遣わしてわたしたちに届けるより、あなたがあの子の分も一緒に持ってくれば、手間が省けるんじゃない?今日はわざわざ自分で持ってきて、――わたしはまた何か新奇なものじゃないかと思ってたのに、やっぱりまたあの指輪か。本当にあなたはぼんくらね。」湘雲が笑って言った。「あなたこそぼんくらよ。わたしがその理由を説明してあげるから、皆さん誰がぼんくらか評価してちょうだい。あなたがたにものを送る時、お遣いに来る人が何も言わなくても、持ってきて一目見れば、当然これがお嬢さんたちに送られたものだと分かります。でもそれぞれの分を持って来てもらうとなると、わたしが来る人に、これはどのお嬢さんの分、あれはどのお嬢さんの分と説明しなければならず、それで来る人が分かればいいけど、ちょっとぼんくらな人だったら、皆さんの名前がたくさんあるから、はっきり憶えられず、こんがらがってしまったら、却って皆さんがたまで混乱させてしまいます。もし女の人にお遣いに来てもらえればまだしも、この間のように小者を遣わしたら、どうやって女の子たちの名前をどう説明すればいいの?やはりわたしが皆さん方のために持ってくれば、間違いが無いですわ。」そう言うと、指輪を下に置いて、説明した。「襲人姉さんにひとつ、鴛鴦姉さんにひとつ、金釧姉さんにひとつ、平兒姉さんにひとつ。これで四人よ。まさか小者たちがこんなにはっきりとは憶えられないでしょう?」

 

 周りの人々はそれを聞いて、皆笑って言った。「なるほど、よく分かりました。」宝玉が笑って言った。「やっぱりこんなにうまく説明できるんだったら、他の人に任せられないな。」黛玉はそう聞いて、冷ややかに笑って言った。「この方が口が上手いんじゃなくて、「金の麒麟」を身に付けているおかげよ(第29回で清虚観の張道士の弟子たちが宝玉の通霊玉を見せてもらったお礼にくれたアクセサリーの中の麒麟のアクセサリーに似たものを、湘雲が身に着けていたと宝釵が言ったことから)。」そう言うと、立ち上がって行ってしまった。幸い、他の人々はそれが聞こえなかったが、ただ宝釵は口をすぼめて笑った。宝玉は黛玉の言うのが聞こえたので、却って後悔し、要らぬことを言ったと思った。ふと宝釵が笑うのが見えたので、思わず自分も笑った。宝釵は宝玉が笑うのを見て、急いで立ち上がって出て行き、黛玉を捜し、よもやま話をした。

 

 賈のお婆様はそれで湘雲に言った。「お茶を飲んで、ちょっと休憩してから、あなたの姉さんたちに会いにお行き。大観園の中は涼しいから、お姉さま方とお散歩するといい。」湘雲は「はい」と答え、それで三つの指輪を包んで、ちょっと休むと、立ち上がって鳳姐らに会いに行った。乳母や侍女たちが付き従い、鳳姐の屋敷に着くと、いろいろよもやま話をした。出て来て、大観園の方に来ると、李紈に会い、しばらく座ると、怡紅院に行って襲人を捜した。それでお付きの乳母や侍女たちに向け振り返って言った。「おまえたち、付いて来なくていいよ。おまえたちの親戚に会いにお行き。縷兒(翠縷のこと)が残って世話をしてくれればいいから。」お付きの乳母や侍女たちは「はい」と答え、それぞれ兄弟の奥さんや夫の兄弟に会いに行き、湘雲と翠縷のふたりだけが残った。

 

 翠縷が言った。「このハスの花はどうしてまだ咲かないのですか?」湘雲が言った。「まだ花が咲く時期じゃないのよ。」翠縷が言った。「ここもうちの家の庭の池のハスと同じで、楼子花(ハスの一種で、花びらが何重にも重なる品種)ですよ。」湘雲が言った。「こちらの花は、うちの庭のに及ばないわ。」翠縷が言った。「こちらではあそこに石榴の木がありますが、四五枝連なっていて、本当に楼子の上に楼子が咲いて(ハスの花の上に石榴が何重にもつぼみを付け)、なかなかこうは育たないですわ。」湘雲が言った。「草花も人と一緒よ。気脈が充実していると、よく育つのよ。」翠縷は顔を顰めて、言った。「わたしはそんな話信じません。もし人と同じと言われるなら、わたし、どうして頭の上にもうひとつ頭の出た人を見たことがないのかしら?」

 

 湘雲はそう聞いて、思わず苦笑いをして、言った。「おまえ、無駄話はおやめ、本当におじゃべりなんだから。このことはどう言われているか?天地の間には陰陽ふたつの気が生じるようになっていて、正でなければ邪、奇でなければ怪、千変万化して、皆陰と陽が順行するか逆行するかなの。つまり一生で見ると、人々にとって珍しいことでも、結局道理はやはり同じことなのよ。」翠縷が言った。「そのように言われるなら、昔から今まで、天地開闢以来、なんでも陰と陽なのですか?」湘雲が笑って言った。「おばかさんね。話せば話すほど屁のツッパリみたいね。何が「なんでも陰と陽」ですか。ましてや「陰」と「陽」の二文字は、実はひとつの字なの。陽が尽きれば、陰となり、陰が尽きれば、陽になるの。陰が尽きたら新たに陽が生まれ、陽が尽きたら新たに陰が生まれる訳ではないの。」

 

 翠縷が言った。「これはわたし訳が分からず死んでしまいそうです。何が陰で何が陽か、陰も形も無いのですか?わたし、お嬢様にこれだけ聞きたいのですが、この陰陽というのはどんなものなのですか?」湘雲が言った。「この陰陽というのは気に過ぎないのよ。器物になれば、そこでようやく形や質が作られるの。例えば天は陽で、地は陰。水は陰で、火は陽。日は陽で、月は陰ね。」翠縷はそれを聞いて、笑って言った。「そうです、そうです。わたし、今分かりました。道理で人はお日様を「太陽」と呼び、占い師は月を「太陰星」と呼びますが、つまりこの理屈なのですね。」湘雲は笑って言った。「南無阿弥陀仏。やっと分かったのね。」

 

 翠縷が言った。「これらのものが陰と陽なのはいいとして、まさかあれら蚊、蚤、ヌカ蚊、花、草、瓦、レンガにも陰陽があるのはだめですかね?」湘雲が言った。「どうしてそうじゃないの。例えばあの一枚の木の葉でも、陰と陽に分かれるわ。上を向く朝日は陽、背の陰、覆い隠した方は陰よ。」翠縷はそう聞いて、頷いて笑って言った。「実はそうだったのですね。わたし、分かりました。――ただわたしたちが手に持つ扇子は、どうしたら陰で、どうしたら陽なのですか?」湘雲が言った。「こちらの正面が陽で、あちらの裏面が陰よ。」

 

 翠縷はまた頷いて笑った。まだいくつかものを持ってきて聞こうと思ったが、何がいいか思い浮かばず、ぐっと頭を下げたところ、湘雲が腰に巻いた宮縚gōng tāo(シルクの糸で編んだベルト)の上の金の麒麟が見えたので、これを取り上げ、笑って言った。「お嬢様、これはいったい陰ですか、陽ですか?」湘雲が言った。「走る獣、飛ぶ鳥は、オスが陽、メスが陰よ。牝pìnが陰、牡が陽よ。無いはずがないわ。」翠縷が言った。「これはオスなの、それともメスなの?」湘雲が吐き捨てるように言った。「何がオスかメスかよ。またでたらめ言って。」翠縷が言った。「そういうことにしておきましょう。――どうして物には皆陰陽があるのに、わたしたち人には陰陽が無いのですか?」湘雲は表情を暗くして言った。「卑しい身分の者は、しっかりしないとね。尋ねれば尋ねるほど賢くなるわ。」翠縷が言った。「何かわたしに言われていないことがありますか?わたしも知っていれば、わたしも困らされることがないわ。」湘雲は「クスッ」と笑って言った。「あなたが何を知っているの?」翠縷が言った。「お嬢様が陽で、わたしが陰です。」湘雲はハンカチを取って口を覆い、ケタケタ笑い出した。翠縷が言った。「言ったことが正しいから、こんなふうに笑われたんですか?」湘雲が言った。「その通りよ。」翠縷が言った。「人様はご主人が陽で、召使が陰だと言われますが、わたしはこんな大原則も理解していないのでしょうか?」湘雲が笑って言った。「あなたはたいへんよく理解しているわ。」

 

 ちょうどそう話していると、薔薇の棚の下に金色にきらめくものがひとつ見えたので、湘雲がそれを指さして尋ねた。「おまえ、あれは何だと思う?」翠縷はそう聞いて、急いで薔薇の棚の方に行って拾って来ると、それを見て笑って言った。「陰と陽に分けられるものが来ました。」そう言うと、先に湘雲の麒麟を手に取って見た。湘雲は選び取ったものを見てみたが、翠縷は気にせず手を離さず、笑って言った。「このお宝は、お嬢様は見ることが許されないものです。これはどこから来たんだろう?本当に不思議だ。わたしはこれまで、ここで誰もこれを持っているのを見たことがないです。」湘雲が言った。「持って来て、わたしにちょっと見せておくれ。」翠縷は手を下げると、笑って言った。「お嬢さん、ご覧ください。」

 

 湘雲が目を上げて一目見ると、それは果たして華やかな色彩が光り輝く金の麒麟であり、自分が身に着けているものより大きく、またより華やかな色彩だった。湘雲は手を伸ばし、掌(たなごころ)の上でそれを持ち上げていたが、心の中がどのように動いたか分からなかったが、感じるところがあったようであった。ふと見ると宝玉があちらからやって来て、笑って言った。「君はこの日差しの下で何をしていたの?どうして襲人を捜しに行かないの?」湘雲は急いであの金の麒麟を懐に隠し、言った。「ちょうど行こうとしていたのよ。わたしたち、一緒に行きましょう。」そう言うと、皆は怡紅院に入って来た。

 

 

 襲人はちょうど階(きざはし)の下で欄干にもたれて風を受けて涼んでいたが、ふと湘雲が来るのが見えたので、急いで迎えに出て、手を携え、にこやかに笑いながら前回別れて以来の友情を温め、一方で部屋に入ると席を勧めた。宝玉はそれで尋ねて言った。「君、もっと早く来るべきだったね。僕、いいものをひとつ手に入れたので、君が来るのをずっと待っていたんだ。」そう言うと、一方で懐をしばらくまさぐっていたが、「おや、まあ」と声を発し、襲人に尋ねた。「おまえ、あれをどこかに仕舞わなかったかい?」襲人が言った。「何のことですか?」宝玉が言った。「先日手に入れた麒麟だよ。」襲人が言った。「あなたがいつも体に身に着けているのに、どうしてわたしに尋ねるの?」宝玉はそう聞いて、「パン」と手を叩き、言った。「こりゃあ落としたのかもしれない。どこに捜しに行けばいいんだろう?」立ち上がって、自ら捜しに行こうとした。

 

 湘雲はそれを聞いて、ようやく宝玉が落としたものだと分かり、それで笑って尋ねて言った。「あなたは何時麒麟を手に入れたの?」宝玉が言った。「先日やっとのことで手に入れたんだ。いつ失くしたのか、分からない、――僕もぼんくらだった。」湘雲が笑って言った。「幸運にこんなおもちゃを手に入れたのに、失くして慌てることになってしまったのね。」そう言って、手を取り除き、笑って言った。「あなた、見てみて、これじゃなくって?」宝玉が一目見ると、思わず喜ぶことひとかたならなかったのですが、さてこの後のことが知りたければ、次回に解説いたします。

 宝玉と黛玉はなんとか仲直りをすることができましたが、今度は宝釵がふたりに焼餅を焼き、しかも宝玉が宝釵のことを、体つきのふくよかな楊貴妃に譬えたものだから、宝釵は癇癪を起こし、ちょうど失くした扇子を捜しに来た小間使いの靚兒にきつく当たってしまいます。季節は旧暦五月の端午節の暑い盛り。栄国府に買われてきて芝居を学ぶ十二人の少女のひとりが、薔薇の棚の下で、一心に「薔」の字を地面に画くのを見ていた宝玉。そこへ急に大雨が降り出し、あわてて怡紅院に戻りますが、あいにく襲人らが気づかず、なかなか門を開けてくれません。やっと気づいて襲人らが門を開けますが、怒った宝玉は、たまたま門のところにいた襲人を、相手が誰か確かめもせず、足でひどく蹴ってしまいます。さて蹴られた襲人はどうなったか。『紅楼夢』第三十回の始まりです。 

 

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宝釵は扇を借りるその机(き)に双(ふた)つの敲(敲打。当てこすり)を帯びる

椿齢は薔(の字)を画き痴は局外に及ぶ

 

 さて林黛玉は自ら宝玉と喧嘩をした後、また後悔の念にかられたけれども、彼女の方から謝りに行くこともしなかった。このため日夜悶々とし、あたかも大事なものを失ったような気がした。紫鵑も八九割方事情を理解し、諫めて言った。「この間のことを言えば、結局お嬢様があまりにお気持ちがふらついておられました。他の皆さんは宝玉様のご気性をご存じ無いのに、まさかわたしたちも知らないなんてことはございますまい?あの玉のことだって、おふたりの喧嘩は一度二度のことではないでしょう?」黛玉は吐き捨てるように言った。「ふん、それならあなたが代わりにわたしの間違いを謝って来てよ。わたしがどうして気持ちがふらついていたの?」紫鵑が笑って言った。「何でも無いのでしたら、どうしてあの玉の房を切られたんですか?宝玉様は三分の間違いしかなく、お嬢様がむしろ七分の間違いがあったからでしょう?わたしが思いますに、あの方は平素お嬢様にとてもお優しいのに、皆お嬢様の癇癪(かんしゃく)のせいで、いつもあの方を責められて、挙句の果てにこうなったんですよ。」

 

 黛玉が答えようとしていると、ちょうど屋敷の外で来意を告げる声がし、紫鵑が聞いてみると、笑って言った。「これは宝玉様の声ですわ。きっと自分の過ちを謝りに来られたんですわ。」黛玉はそう聞くと、言った。「開けちゃダメ。」紫鵑が言った。「お嬢様、またそんなことを言って。こんなに暑い天気で、強いお日さまの日の下で、あの方を日照りで病気にしてしまったら、どうするんですか。」口でそう言いながら、出て行って門を開けると、果たして宝玉であった。一方で彼を家の中に入れ、一方で笑いながら言った。「わたしは宝若旦那様が二度とうちの門を潜られることは無いと思っていたのですが、思いがけず今回また来られるなんて。」宝玉が笑って言った。「あなたがたは極めて小さなことを、大げさに言うんだね。何でもないのに、どうして来ないものか。僕が死んだら、魂だって毎日百回来るよ。林ちゃんはでも、身体の具合はいいの?」紫鵑が言った。「身体の病気は良くなりました。でも心の癇癪はまだあまり良くなっていないわ。」宝玉が笑って言った。「分かったよ。何か気に食わぬことがあるんだ。」そう言いながら、部屋の中に入って来た。すると黛玉がまたベッドで泣いていた。

 

 かの黛玉は元々泣いてはいなかったのだが、宝玉が入って来ると聞いたので、つい思わず悲しくなり、涙が転がり落ちた。宝玉が笑いながらベッドに近寄って来て言った。「林ちゃん、身体は良くなったの?」黛玉はただ涙を拭くことに気がとられ、答えようともしなかった。宝玉はそれでベッドの縁に近寄って腰を下ろすと、一方で笑って言った。「僕は君が僕に腹を立てているんじゃないとは分かっているけど、ただ僕が来なかったら、傍の人が見ると、まるで僕たちがまた喧嘩をしているように見えるんだ。あの人たちが僕らに諫めに来るのを待っていたら、その時には、僕たちは却ってお互いの気持ちが疎遠になっていると感じるんじゃないかな?それだったらこの機会に、君が僕を罵ったり叩いたりしたいなら、君の思う通りにすればいいけど、決して僕を無視しないで。」そう言うや、また「好妹妹」(良い子ちゃん)と何十回も叫んだ。

 

 黛玉は心の中では元々もう宝玉のことを相手にしないつもりだったが、今回宝玉が「他人に僕たちが喧嘩して、気持ちが離れていっていると分からせないようにしよう」という言葉を言うのを聞いて、また他の人たちより元々親密であることが分かり、それでまた気持ちが押さえきれなくなり、泣きながら言った。「あなたもわたしの機嫌を取りになんて来ないで。今日からは、わたしも敢えて若旦那様と仲良くしないし、とりあえず出て行くわ。」宝玉はそう聞いて笑って言った。「君、どこに行くの?」黛玉が言った。「わたし、家に帰るわ。」宝玉が笑って言った。「僕が一緒に行くよ。」黛玉が言った。「わたしが死んでしまったら?」宝玉が言った。「君が死んだら、僕が坊さんになるよ。」黛玉はこの言葉を聞くや、すぐさま顔を上げ、尋ねた。「あんたなんか死んでしまえばいいのよ。何をいいかげんなことを言うの?あなたの家には何人も実の姉さんや妹がいるけど、明日みんな亡くなったら、あなたはいったい何人分の身体で坊さんになると言うの?後でわたし、このことを他の人に言って判断してもらうわ。」

 

 宝玉は自ずと言ったことが軽はずみだったと知り、後悔したがもう遅く、すぐさま顔を真っ赤に腫らして、首を垂れ、声を出す勇気も無かった。幸いにも部屋には他に誰もいなかった。黛玉は両目をまっすぐ見開き、宝玉をしばらく見つめ、怒って「ああ」と声を上げたが、言葉が出て来なかった。宝玉を見ると、今度は興奮して顔を紫に腫らしていた。それで歯ぎしりしながら、指先で思い切り宝玉の額を突っつくと、「フン」と声を上げて言った。「あなたのこの――」そう言うと、またため息をつき、ハンカチを手に涙を拭いた。

 

 宝玉は心の中で元々数えきれないほどの心配事があり、また間違ったことも言ってしまったので、ちょうど自分でも後悔していた。また黛玉が宝玉を突っつくのを見て、言おうにも言葉が出てこず、自らため息をつき、涙を流した。このため自分でも感じるところがあり、思わず涙がこぼれ落ちた。ハンカチで涙を拭こうと思ったのだが、図らずもまた持ってくるのを忘れたので、シャツの袖で涙を拭(ぬぐ)った。

 

 黛玉は泣いていたが、宝玉を見ると真新しい少し赤みを帯びた薄紫色(藕荷色)の紗のシャツを着ていたが、こともあろうに袖で涙を拭ったので、一方では自分も涙を拭い、後ろを振り向いて、枕に懸かっている一枚の薄手の絹の布を取り上げ、宝玉の胸めがけて投げつけると、一言も発せず、相変わらず顔を覆って泣き続けた。宝玉は黛玉が布を投げつけてきたので、急いでそれを掴むと涙を拭き、また少し前に近寄ると、手を伸ばして彼女の片手を引っ張り、笑って言った。「僕の五臓は皆ずたずたにされたのに、君はまだ泣いている。――行こう、僕たち、お婆様のところに行こうよ。」黛玉は手を叩きつけて言った。「あなたったらまたこうして纏わりついて。毎日毎日こんなに厚顔無恥で、ものの道理も知らないんだから――」

 

 そう話し終わらぬうち、大声でこう言うのが聞こえた。「もういいわ。」宝玉、黛玉のふたりは無防備だったので、びっくり仰天し、振り返って見ると、鳳姐が走って入って来て、笑って言った。「お婆様があちらで天を恨まれ、地を恨まれ、わたしにおまえたちが仲直りしたかどうか見てくるように言われたの。わたしはこう言ったわ。「見に行くまでもなく、三日もしないうちに、あの子たちは自分で仲直りしますわ」と。お婆様はわたしを罵り、わたしが「怠け者」だと言うので、わたしがここへ来たの。でも果たして、わたしの言った通りになっているわ。――あなた方ふたりに会ったわけでもないのに。どんな口論のネタがあるのか知らないけど、三日順調だと思ったら、二日は喧嘩して、大きくなればなるほど子供みたいになるんだから。今日は手を引っ張って泣いているけど、昨日はどうして「仇同士」みたいになったのかしら。やはりわたしと一緒にお婆様の前にいかないと、お年寄りに多少でも安心していただけないわ。」そう言うと、黛玉を引っ張って行こうとした。

 

 黛玉は振り返って侍女たちを呼んだが、ひとりも居なかった。鳳姐が言った。「あの子たちを呼んで、どうするつもり?わたしがお世話してるのに。」そう言いながら、一方では黛玉を引っ張って行こうとした。 宝玉はその後ろに付いて行き、大観園の門を出て、賈のお婆様の前に着くと、鳳姐が笑って言った。「わたし、この子たちのことは心配しなくても大丈夫で、自分たちで仲直りできると申し上げましたでしょう。ご長老様が信用されず、必ずわたしに行って仲直りさせるよう言われました。わたしが急いであちらで仲直りさせていると、思いがけずふたりが一緒に間違いの償いをしていたのです。むしろ「鷹がハイタカの脚を掴む」、――ふたりは「ボタンをかけた」ように離れ難くなって。どこに他人が口をはさむ必要があるんでしょう?」そう言うと、部屋中から笑い声が湧き起こった。

 

 この時宝釵はちょうどここにいて、かの黛玉は一言も言葉を発せず、賈のお婆様とくっついて座っていた。宝玉は何も言わず、宝釵に対して笑って言った。「お兄様(薛蟠)は誕生日を楽しく過ごされたけど、僕だけは(病気で)楽しくなかったよ。特に何もお祝いを送らなかったし、ご挨拶もしていない。お兄様は僕が病気だとご存じなく、むしろ僕がわざと来ないんだと思われたんじゃないかな。もし明日お姉様がお暇なら、僕に代わってちょっと言い訳をしておいてよ。」宝釵は笑って言った。「それも余計なことよ。あなたが来られるんだったら、騒ぎを起こさないようにすべきだけど、ましてや身体の具合が良くないのではね。兄弟がいつも一緒にいると、往々にして仲違いが生じるものよ。」宝玉がまた笑って言った。「お姉様、分かっているなら僕を許してよ。」また言った。「姉さんはどうして芝居を見に行かなかったの?」宝釵が言った。「わたし、暑いの苦手なの。芝居を二幕見たら、暑くてたまらず、出て行こうと思ったけど、お客様まだ帰られないし。それで身体の具合が良くないことを理由に、身を隠したの。」

 

 宝玉はそう聞いて、思わず顔につまらなそうな表情を見せたが、バツが悪くなって笑って言った。「道理であの人たちはお姉様のことを楊貴妃に喩えたんだ。元々体つきがふくよかだし。」宝釵はそう聞いて、すぐさま顔を真っ赤にし、癇癪(かんしゃく)を起こしそうになったが、それも好ましくないので、もう一度よく考えてみたが、怒りの気持ちが収まらないので、冷ややかに「ホホ、ホホ」と二声笑うと、言った。「わたしが楊貴妃のようだとしても、楊国忠になれるような良い兄も兄弟もいないわ。」

 

 そう話していると、ちょうど子供の小間使いの靚兒jìng érが扇子が見当たらないので、宝釵に笑って言った。「きっと宝お嬢様がわたしのを隠されたんですね。お嬢様、どうかわたしにお戻しください。」宝釵は靚兒を指さして厳しい声で言った。「おまえ、よくお探し。いったい誰に向かって冗談を言っているんだい。おまえと平素ふざけてにやにや笑っているあの娘たちに向かって聞きなさいよ。」言われた靚兒は逃げ出してしまった。宝玉はまた自分の言葉が軽率だったことを思い知った。周りの多くの人々を前にして、先ほど黛玉の前で言った時より更に申し訳ない事態となり、急いで振り返ると、また他の人に向けお愛想を言って取り繕った。

 

 黛玉は宝玉が宝釵にからかわれているのを見て、心中たいへん得意になり、ちょうど受け答えしようと思い、またその場で勢いで冗談を言おうと思ったのだが、思いがけず靚兒が扇子を捜していて、宝釵がまたそれに対して答えたので、黛玉は改めて言った。「宝お姉様、あなたは二幕、どの芝居を見られたの?」宝釵は黛玉の表情に得意げな色が出ていたので、きっと宝玉が先ほどからかわれた言葉を聞いて、彼女の意にかなったに違いないと思った。ふとまた黛玉がこんなことを聞いて来たので、笑って言った。「わたしが見たのは、李逵lǐ kuí(りき)が宋江を罵り、後にまた過ちを詫びる話よ。」宝玉はそれで笑って言った。「お姉様は現在のことから古代のことまで、様々なことをご存じだけど、どういう訳かこの芝居の名前もご存じないから、こんなことを言われたんですね。この芝居は「負荊請罪」fù jīng qǐng zuì(自ら罪人を鞭打つ荊(いばら)の杖を負って罪を請う。過ちを認めて深く詫びること)というんですよ。」宝釵は笑って言った。「ああなるほど、これは「負荊請罪」という名前なのね。あなたがたは今に通じ古きことにも博識だから、「負荊請罪」をご存じだけど、わたしは何が「負荊請罪」(過ちを認めて深く詫びる)ということなのか分からないわ。」

 

 そう言い終わらないうちに、宝玉と黛玉のふたりは心にわだかまりが生じ、この話を聞くと、早くも顔を恥ずかしさで真っ赤にした。鳳姐はこうした話を聞いてもチンプンカンプンだったが、彼ら三人の様子を見て、どういうことか察し、笑って尋ねた。「こんな暑い日に、生姜まで食べてどうするの?」周りの人々はその意味が分からず、それで言った。「生姜なんて食べていないですよ。」鳳姐はわざと手で頬をさすり、不思議そうに言った。「誰も生姜を食べていないのに、どうしてこんなにカッカとするんでしょう?」宝玉と黛玉のふたりはこの話を聞いて、益々申し訳なく思った。宝釵はまだ何か言いたげであったが、見ると宝玉がたいへん恥ずかしそうにしていたので、形勢が変わり、もうこれ以上言うのも申し訳なく思い、ただ一笑して収めざるを得なかった。他の人々は彼ら四人の話を別に理解もしていなかったので、このため一笑に付した。

 

 しばらくして宝釵と鳳姐が出て行ったので、黛玉が宝玉に言った。「あなたもわたしより厳しい人に試してみたでしょ。みんなわたしのように頭の働きが鈍くて口下手(くちべた)だから、人に言われたままに信じてしまうのよ。」宝玉はちょうど宝釵が気を回し過ぎたので、自分でも気まずくなり、また黛玉まで自分を問い正したので、心中益々面白くなくなってしまった。ちょっと待ってもう一言二言言いたかったが、また黛玉があれこれ気を回すのを恐れたので、口に出してはいけないと思い、じっと怒りをこらえ、しょんぼりと、出て行ってしまった。

 

 思いがけなく、現在は夏の暑い盛りで、また朝ごはんの時間も過ぎ、お屋敷の方々では主人と召使たちの大半が、夏バテでぐったりとなり、宝玉は手をこまねいていたが、行くところ先々、ひっそりと静まり返っていた。賈のお婆様のところを出て、西へ行き穿堂(通り抜けのできる部屋)を抜けると、そこは鳳姐の屋敷であった。彼女の屋敷の門の前まで来て見ると、家の門は閉ざされ、鳳姐の普段の習わしでは、毎日日が昇り暑い時間になると、午後は二時間休息を取られるので、入って行くのは具合が悪く、それで角門を入って、王夫人の母屋にやって来た。すると、何人かの小間使いの女たちが、手に針や糸を持ちながら、居眠りをしていた。王夫人は中の茣蓙(ゴザ)を敷いたベッドで寝ていて、金釧兒‌jīn chuàn érは傍らに座り、足を叩きながら、寝ぼけ目でぼんやりとしていた。

 

 宝玉がそっとその前まで歩いて行き、金釧兒の耳に掛かったイヤリングをちょっと掴むと、彼女ははっと目を見開き、宝玉を見た。宝玉はそれで声を立てずににっこり笑って言った。「眠くて船を漕いでたでしょ?」金釧兒は口をすぼめて笑うと、手を振って彼を出て行かせようとし、相変わらず目をつむった。宝玉は彼女を見て、恋々としてここを離れるに忍びず、そっと頭を前に突き出して王夫人がまだ目を閉じ眠っているのを確認し、自分の身体の脇の荷包(ポシェット)から持って来た香雪潤津丹(暑気中りを防ぐ漢方薬)を一錠取り出すと、金釧兒の口に放り込むと、彼女は目をつむったまま、構わず口に含んだ。宝玉は近づくと、手を牽きながら、そっと笑って言った。「僕、母さんからおまえを僕にもらえば、僕たち一緒に居れるじゃない?」金釧兒はそれに答えなかった。宝玉がまた言った。「母さんが起きたら、僕が言うよ。」金釧兒は目を見開くと、宝玉をちょっと推して、笑って言った。「あなた、何をそう焦っているの?「金の簪を井戸の中に落としてしまった、――(すぐに手元に戻らなくても)あなたのものはあくまであなたのもの」なのよ。こんな俗語もまさかお分かりにならないんじゃないでしょ?わたしがあなたにいい方法をお教えするわ。東側のお家の環兄さんと彩雲を見てご覧なさい。」宝玉は笑って言った。「やつらのことなんか知るもんか。僕たちは僕たちのことだけ相談しよう。」

 

 

 すると王夫人が身体の向きを変えて起き上がり、金釧兒の顔を目掛けて頬を叩くと、彼女を指さし罵って言った。「恥知らずの売女(ばいた)め!旦那様方が甘やかすから、おまえたちをつけあがらせてしまったわね。」宝玉は王夫人が起き上がったのを見ると、瞬く間に逃げ出した。ここで金釧兒は頬が叩かれて痛いし、恥ずかしくて真っ赤になり、カッカと火照り、一言も言葉を発することができなかった。するとすぐさま小間使いの女たちが王夫人が目覚めたのを聞き付け、皆バタバタと部屋に入って来た。王夫人はそれで言った。「玉釧兒(金釧兒の妹)、あなたの母さんを呼んで来て。あなたの姉さん(金釧兒)を連れて行かせるから。」金釧兒はそれを聞いて、急いで跪くと、泣きながら言った。「わたし、もうしませんから。奥様、叩かれようが罵られようが構わずしてください。でもわたしを追い出さないでくださいまし。神様の思し召しをくださいませ。わたしは奥様に十年来お仕えし、今回追い出されてしまったら、わたし、人に会わす顔がございません。」

 

 王夫人は固より寛大で慈愛深い人であるので、未だ曾て侍女たちを少しでも叩いたことがなく、今日もたまたま金釧兒がこのような恥知らずなことをするのを見たので、これは普段でも最も恨めしいことであったので、怒りが収まらず、少し叩き、二言三言罵ったのであった。金釧兒が切実に許しを請うたが、それでも気持ちが収まらなかった。結局、金釧兒の母親の白老媳婦に金釧兒を連れて帰らせた。かの金釧兒は恥を忍んで出て行ったのであるが、そのことは言うまでもない。

 

 さて宝玉は王夫人が目覚めたのを見て、自分は興ざめし、急いで大観園に戻って来た。夏の炎天下、木陰が地面を覆い、耳にはセミの鳴き声が響き、人の話声は全く聞こえなかった。ちょうどバラの棚に着いた時、人が喉を詰まらせたような声が聞こえてきたので、宝玉は心の中で怪訝に思い、それで立ち止まってあたりを伺うと、果たして棚の下に人がいた。この時はちょうど五月で、かのバラの花や葉が盛んに生い茂る時期であり、宝玉がそっと芍薬の垣根を隔てて見ると、ひとりの女の子が花の下でしゃがみ、手に先がくるりと曲がった簪を持って、地面に字を刻み、一方ではそっと涙を流した。

 

 

 宝玉は心の中で思った。「よもやこの子も気の振れた女の子で、また顰兒(黛玉のこと)のように花を埋葬しないといけないんじゃないだろうな。」そのため、また自ら笑って言った。「もし本当に花を埋葬しないといけないなら、「顰(ひそみ)に倣う」(東施效顰)ということだね。別に新奇でもなんでもないだけでなく、うんざりするよ。」そう思って、その女の子に呼びかけ、こう言おうとした。「君、林ちゃんの真似をするに及ばないよ。」この言葉が口から出ぬうちに、幸いもう一度見ると、この女の子は面識が無く、女の召使ではなく、どうもかの十二人の芝居を学んでいる女の子の内のひとりであるようだったが、この娘が生、旦、浄、丑(男役、女役、敵役、道化)のどの役柄なのか区別できなかった。

 

 宝玉は伸ばした舌を口の中に塞ぐと、自ら思った。「幸い、早まらなくて良かった。前の二回は、どちらも早まって言ってしまったので、顰兒も怒ったし、宝兒(宝釵)も気をまわし過ぎたんだ。今また彼女たちを怒らせようものなら、益々面白くなくなってしまう。」そう考えながら、一方ではまたこの少女が誰か、思い浮かばなかった。また注意してよく見ると、この少女は春の山のようになだらかな眉の先をひそめ、秋の湖のように深く清らかな眼は悲しみを浮かべ、顔はほっそりとし、腰はすらりとし、なよなよとして、まるで黛玉のようなしぐさをした。宝玉は早くも彼女のことをほってこの場を去るにしのびず、ひたすらぼんやり眺めていたが、彼女が金の簪で地面に線を引いているのは、土を掘って花を埋めているのではなく、意外にも土の上に文字を書いていたのであった。

 

 宝玉は視線を簪の上下するのに沿って、ずっと最後まで、一画、一点、一段落と見ていって、数えてみると、十八画あり、自分でも手のひらに指で彼女の筆を下したやり方の通りに書いて見て、何の字か推察してみた。書き終わって考えてみると、実は薔薇の花の「薔」の字であった。宝玉は思った。「きっとあの娘も詩を作って、言葉を埋めているんだ。今回はこの花を見て、感じるところがあったのか、それともたまたまふたつ句ができて、一時興味が湧いて、忘れてしまうのを恐れ、地面に書いて推敲していたのかもしれない。あの娘が次になんて書くか見てみよう。」そう思いながら、また見ていると、その少女はまたそこで線を画いた。書いていったが、それもやはり「薔」の字であった。――また見たが、やはり「薔」の字であった。

 

 少女はとっくにこのことに夢中になり、「薔」をひとつ画くと、また「薔」を画き、既に数十個も画いていた。外から見ると、気がふれたように見えたが、両方の眼でひたすら簪の動きを追っていて、心の中ではこう思った。「この少女はきっと何か口に出して言えない悩みがあって、こんなことをしているんだろう。外から見てこんな様子であるからには、心の中ではどんなに痛めつけられていることだろう。彼女の有り様を見ていると、こんなにか弱いのに、心の中はまだふつふつと痛めつけられたままでほっておかれて――残念ながら僕はこの娘に代わって痛みを負担してあげることはできない。」

 

 さて夏の天気は曇と晴が絶えず変化し、ちょっとした雲でも雨を降らせることがあり、突然涼しい風が吹いてきたと思うと、ザーッと一陣の雨が降ってきた。宝玉はかの少女の頭に雨水が滴り落ち、衣裳が見る間に濡れるのが見えた。宝玉は思った。「雨が降ってきてしまった。この娘の身体を、どうやったらにわか雨の水しぶきに耐えられるだろうか。」それで我慢できずにこう言った。「もう書くのはお止め、ご覧、身体がびしょ濡れだよ。」

 

 その少女はそれを聞いて、びっくりし、頭を上げて一目見ると、薔薇棚の外から誰かが「書くのをやめなさい」と叫んでいるのが見えた。ひとつには宝玉の顔の容貌がきれいで、ふたつには花や葉が生い茂っていて、上下が共に枝や葉で覆い隠されていて、やっと顔半分が見えていた。かの少女は言っているのが女の子だと思い、宝玉だとは思わなかったので、笑って言った。「ありがとう、お姉さん注意してくれて。――でもお姉さんは外でどうやって雨を遮るの?」

 

 その一言が宝玉を気づかせ、「おやまあ」と一声上げると、ようやく体中冷たく濡れているのに気が付いた。下を向いて自分の身体を見ると、体中びしょ濡れだった。「こりゃまずい」と言うと、ひと息に怡紅院に走って帰ったが、心の中ではまだあの少女が雨を避ける場所がないことを気にしていた。

 

 元々明日は端陽節(端午節と同じだが、特に屈原の死を記念してこう言う)で、かの文官ら十二人の(芝居を学ぶ)少女たちは練習が休みになり、大観園に入って来て各処で遊んでいたのだが、ちょうど小生(芝居で若い男、二枚目役)の宝官、正旦(女形。娘役)の玉官のふたりの少女が、ちょうど怡紅院で襲人とふざけて、雨水を閉じ込め、皆で水路を塞ぐと、水を屋敷の中に溜め、何羽か緑の首の鴨、花鸂鶒(オシドリの一種)、色とりどりの鴛鴦(オシドリ)を連れて来て、捕まえるものは捕まえ、追いかけるものは追いかけ、翅(はね)を縫い合わせ、屋敷の中に放って遊び、屋敷の門を閉ざした。襲人らは回廊でクスクス笑っていた。

 

 宝玉は門が閉まっていたので、手で門を叩いたが、屋敷の中では人々の笑い声しか聞こえず、それはどこから聞こえてくるのだろうか。しばらく門を開けるよう叫んでいると、パンと門が大きな音を立て、中の方ではようやくそれが聞こえた。おそらく宝玉が今日はもう帰ってこないと思っていたので、襲人が笑って言った。「誰が今呼ばわっているの?誰も門を開けに来ていないわ。」宝玉が言った。「僕だよ。」麝月が言った。「宝釵お嬢様の声だわ。」晴雯が言った。「でたらめ言って。宝釵お嬢様が今何しに来られたと言うの?」襲人が言った。「わたしが門の隙間から覗いてみるから、ちょっと待って。開けて良いなら開けましょう。この方を濡れたまま帰っていただけないわ。」そう言いながら、回廊に沿って門の前に来て外を覗くと、宝玉が「雨に打たれた鶏」のようにびしょ濡れになっているのが見えた。襲人はこれを見て、慌てて、またニコニコ笑って、急いで門を開け、笑いながら、腰を曲げて手を打ち、言った。「旦那様が帰って来られるなんて思いもしなかったわ。あなた、どうして大雨の中を走って来られたの?」

 

 宝玉は腹の底からついておらず、心の底から門を開けと地団太を踏んでいたが、ようやく門が開いたので、ちゃんと相手が誰かとも確認せず、あの女の子供の小間使いたちだとばかり思い、足を上げて相手の胸のあたりを蹴った。襲人が「あらまあ」と声を上げた。宝玉はまた罵って言った。「卑しい奴らめ、僕が平素おまえたちをいい気にさせてやっているから、少しも恐れず、益々僕をだしに物笑いの種にしているな。」口でそう言いながら、下を見ると襲人が泣いていて、そこでようやく蹴る相手を間違えたことを知った。それで慌てて笑って言った。「おやまあ、お前が来てくれたのか。どこを蹴ったのかな?」

 

 

 襲人は未だ曾てこんなに罵られたことは無く、今突然宝玉が怒って彼女を蹴りつけたので、多くの人たちの前でもあり、恥ずかしいやら、腹立たしいやら、また痛くて、本当にしばらく身の置き場が無かった。この後どうなるにせよ、おそらく宝玉は必ずしも自分を蹴りたくて蹴ったのではないと思い、気持ちを押さえてこう言わざるを得なかった。「蹴られていませんよ。早く服を着替えられないと。」

 

 宝玉は部屋に入って服を脱ぐと、一方で笑って言った。「僕はこんなに大きくなって、初めて怒って人を叩いてしまった。まさかおまえがいるとは思いもしなかったよ。」襲人は痛みを堪えながら服を着替えさせながら、一方で笑って言った。「わたしが先陣を切らないといけないから、大事であれ小事であれ、良いことも悪いことも、当然わたしから始めないといけません。けれども、わたしを叩いたとは言ってはだめよ。明日は手あたり次第、誰を叩いても構わないわ。」宝玉が言った。「僕はさっきはわざとやったんじゃないんだ。」襲人が言った。「誰がわざとなんかやるものですか。普段は門の開け閉めは、子供の小間使いたちの仕事です。あの子たちはいたずらに慣れていて、とっくに恨みに思う人は歯ぎしりをしているのに、あの子たちはそれを恐れてもいない。あの子たちだったら、蹴っ飛ばして、ちょっと脅してやってもいいわ。さっきはわたしがいたずら心で、門を開けさせなかったの。」

 

 そう言っているうちに、あの雨も止んだので、宝官、玉官もとっくに帰って行った。襲人はただ胸の下が痛くて、気持ちが動揺し、夕飯も食べられなかった。夜になって服を脱ぐと、胸の上にお碗大の青痣がひとつできていて、自分でもびっくりしたが、また声に出すこともできなかった。しばらくして眠りに着いたが、夢の中で痛みを感じ、思わず「ああっ」と声を上げ、眠りながらうめき声を上げた。

 

 宝玉はわざとじゃないと言ったが、襲人がしんどそうにしているのを見て、心の中で不安に思っていた。夜中に襲人が「ああっ」と叫ぶのを聞いて、ひどく蹴ってしまったと知り、自らベッドから出ると、そっと灯りを持って照らした。ちょうどベッドの前まで来ると、襲人が二度咳をするのが聞こえ、痰を一度吐き出すと、「ああっ」と声を上げ、目を開けると宝玉が立っているのが見え、思わずびっくりして言った。「何をなさっているの?」宝玉が言った。「君が夢で「ああっ」と叫んだので、きっとひどく蹴ってしまったと思ったんだ。ちょっと見せてみて。」襲人が言った。「わたし、頭がぼおっとして、喉の中が生臭かったり甘かったりして。ちょっと床を照らしてみてください。」宝玉はそう聞いたので、果たして手に持った灯りで床を照らしてみると、鮮血が一口床に着いているのが見えた。宝玉は慌てて、言った。「たいへんだ。」襲人はこれを見て、気持ちが半ばぞっとした。さてその結果はどうなりましたでしょうか。次回に解説いたします。

 今日は奈良の天理へ、うなぎを食べに行きました。天理のうなぎ屋と言えば、みしまやさんが有名。行列必死の名店です。事前予約は不可です。今日は雨模様のせいか、お店に10時40分ごろに到着した時点で、5番目でした。11時開店です。

 

 

 さあ、何を頼みましょうか。本日のうなぎは宮崎県産と表示されています。このお店は、焼き方が関西風で、蒸さずにじっくり焼き上げたかば焼きです。

 

 

 メニューはこれだけのシンプルなもの。嫁さんと相談し、特上丼でいくことに。あと、う巻を2人でシェアしました。

 

 

 

 うなぎは大ぶりで、身も結構厚かったのですが、皮が香ばしく、身はふっくらと上手に焼かれていました。ご飯もタレに染みたご飯がたっぷり入っていて、これだけで十分満足できました。また、付け合わせのキュウリの糠漬けが、芯のところに人参の細切りが入っていましたが、まだサクッとした歯触りが残り、良い口直しになりました。また、う巻はたまごがたっぷり使われた大きなもので、2人でシェアでも十分でした。

 

 

 

 帰りにレジのところで嫁さんがビニール袋に入った、大阪で言う「半助」が置かれているのを発見。無料でいただけるとのことで、いただいてきました。半助は、関西風にかば焼きを焼くとき、頭をつけて焼いて、最後に頭を切って落とすので、タレ付で焼かれたこの部分を、豆腐と一緒に炊いたりするのですが、ここのは骨が硬くて食べられない頭の部分は除いて、その周りの身のところや、料理に出せなかった皮のところなどで、帰宅後ちょっとつまんでみると、十分そのままおつまみで食べられる状態、香ばしくて美味しいので、後日食べさせていただきます。

 

 

 その後、店の前の国道169号線を奈良の方へ30分ほどテクテク歩くと、櫟本(これ、いちのもとと読みます。JRで天理のひとつ手前の駅で、難読地名)の中西ピーナツへ。ここの豆菓子を買って帰ってきました。なかなか充実した1日になりました。

 今日は京都西陣にある五辻昆布のご主人がやられている、完全予約制のこだわりラーメンをいただいてきました。昆布の消費がジリ貧となっていることに危惧を抱かれたご主人が、昆布のすばらしさの啓蒙を兼ねて始められた、ラーメン。

 

 メインのラーメンが出てくる前に、ご主人から、昆布の紹介と、おぼろ昆布作成の実演があります。

 

 ご主人がカウンター越しに説明をしてくださいます。客はカウンター越しに毎回10名。11時、12時、13時と3回やられるので、1日30食です。

 

 使う昆布です。右から利尻、真昆布、羅臼の3種類。それぞれ水出しで出汁を取って、テイスティングをさせてもらいます。

 

 

 

おぼろ昆布作りの実演。おぼろ昆布は職人が手で挽いたもの。とろろ昆布は機械で挽いたものの違いがあるそう。酢につけて柔らかくした昆布を、専用の刃物で挽いていきます。

 

 

 これがこだわりのラーメン。出汁は昆布出汁とカツオやサバの魚介出汁がメイン。醤油は使われていません。麺は全粒粉で特別に作ってもらったもの。具は鶏むね肉、タケノコ、九条ネギ、そしておぼろ昆布。

 

 

 後で昆布出汁で炊いたミニおむすびが出てきます。

 

 あくまで昆布屋の昆布の販売促進用なので、料金は、ラーメン代として、「いいこぶ」の語呂合わせで1杯、1152円+お店の昆布製品を1品以上購入すること、という条件になっています。

 

 この後、ついでに近所にある釘抜地蔵(正式名は石像寺(しゃくぞうじ))にお参りに行ってきました。

 

 

 

 

 弘法大師空海が、庶民の苦を抜くという意味で、苦抜地蔵として創建したお寺が、その後、訛って釘抜地蔵として、信仰を集めるようになったとか。身体と心の苦しみを抜いてくださる、ということで信仰を集めています。

 

 

 

 

 八寸釘と釘抜きを並べた絵馬がお堂の周りに掛かっているのが、なんとも個性的なお寺です。

 

 端午の節句になり、元春妃の命で、道教寺院の清虚観で芝居の奉納をすることになり、賈のお婆様はじめお屋敷の女たちが清虚観に出かけます。そこで清虚観の張道士がお婆様に宝玉の縁談話を持ちかけますが、どうもその相手というのが宝釵のよう。宝玉は前回の元春妃からの贈り物の一件や、第八回の宝釵の金のネックレスと自分の 通霊玉との関りの件など、ここへ来て自分と宝釵の運命的なつながりを感じつつ、一方幼い時から兄弟のようにいっしょに育った黛玉への愛情を強く持ち、心が乱れます。一方黛玉も宝玉を慕いつつ、口では冷たく突き放すようなことを心にもなく言ってしまい、ふたりの関係は収拾がつかぬほど険悪になってしまいます。さあ宝玉と黛玉、宝釵の関係はどうなっていくのでしょうか。『紅楼夢』第二十九回をご覧ください。

 

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(う)ける福深きといえども還(ま)だ(いの)る

多情きも(ますます)(おしはか)る

 

 さて宝玉がちょうどぼんやりしていると、思いがけず黛玉がハンカチを放り投げて来て、ちょうど宝玉の眼に当たり、びっくりして、尋ねた。「これは誰の仕業(しわざ)だ?」黛玉は首を横に振って笑って言った。「ごめんなさい、わたし手が滑ったわ。それというのも、宝姉さんがばかな雁を見たいと言われるものだから、わたし手まねをしてお見せしようとしていたら、思わず手が滑ってしまったの。」宝玉は眼をさすりながら、何か言おうとしたが、言葉がうまく出て来なかった。

 

 しばらくして鳳姐がやって来て、五月一日に(道教寺院の)清虚観で祈祷を行うことを話し、宝釵、宝玉、黛玉らと芝居を見に行く約束をした。 宝釵は笑って言った。「もうたくさん。暑過ぎて、芝居なんて見ていられない。わたしは行かないわ。」鳳姐が言った。「あそこは涼しいのよ、両側にやぐらもあるし。わたしたちが行くとなったら、わたし事前に人を遣って、あそこの道士たちを追い出して、やぐらの上を掃除して、帷(とばり)を掛けて、部外者はひとりも廟宇に入れないようにしないとね。わたしはもう奥様にご報告したから、あなたがたが行かないんだったら、わたしひとりでも行くわよ。ここんとこ、むしゃくしゃしていたから、家でひとつ芝居でも上演させて、わたしも心地よくそれを楽しみたいの。」

 

 賈のお婆様はそう聞いて、笑って言った。「こんなことなら、わたしとあなたで行きましょう。」鳳姐がそれを聞いて、笑って言った。「お婆様も行かれるんですか?それは願ってもないことですけど――でもわたし、それはお受けできませんわ。」賈のお婆様が言った。「明日になったら、わたしが正面のやぐらの上に居るから、あなたは隣のやぐらの上に居るようにすれば、あなたもわたしの方に来ていちいち伺候する必要がなくなるわ。そうすればどう?」鳳姐が笑って言った。「お婆様のご配慮痛み入りますわ。」賈のお婆様はそれで宝釵に言った。「あなたも行きなさい。あなたのお母さんもお連れなさい。夏の盛りで、家に居ても眠くなるだけだから。」宝釵は「はい」と答えるしかなかった。

 

 賈のお婆様はまた人を遣って薛叔母さんを招待し、そのついでに王夫人に言い、女兄弟たちを連れて来るよう言いつけた。王夫人はひとつには身体の具合が良くなく、ふたつ目に元春妃が里帰りされる準備で誰か出て来るよう言われていて、早くから清虚観には行けないと回答していた。賈のお婆様がこのように言うのを聞いて、笑って言った。「やはりこんなに嬉しそうにされて。人を遣って大観園の中にも連絡してやって、もし清虚観に遊びに行きたい者がいるなら、気兼ねせず五月一日にお婆様と一緒に遊びに行くよう言いつけましょう。」

 

 この話が伝わると、誰でも行きたい者は連れて行くとのことで、小間使いの女たちにとって、日々お屋敷の門の敷居を出るのも許されない中、この話を聞いて、行きたくない者などいようものか。たとえそれぞれのご主人がものぐさで行きたくなくても、彼女たちは何とかして行くよう勧めた。このため李紈らは皆行くと言った。賈のお婆様は心の中で益々嬉しくなり、早くも人々に掃除や据付に行くよう言いつけたのであるが、それは細かく言うまでもない。

 

 暦で五月一日その日になり、栄国府の門前には車輛が次々やって来て、人馬が密集し、お屋敷で家事の管理を担当する執事らは、元春妃が善行を積まれるのだとお聞きし、賈のお婆様が自ら線香を上げに行かれ、ましてや端午節の佳き日であった。このため凡そ使う必要のある物は、皆漏れの無いように、ちゃんと準備され、平素とは異なっていた。

 

 しばらくして賈のお婆様らが出て来られた。賈のお婆様は一台の八人で担ぐ大型の駕籠に乗られ、李氏、鳳姐、薛叔母さんそれぞれ一台の四人で担ぐ駕籠に乗り、 宝釵、黛玉はふたりで一緒に一輌の緑の羽で飾られ真珠を連ねた房の付いた装飾を施した車に乗り、迎春、探春、惜春の三人は一緒に一輌の赤い車輪の傘状の屋根の付いた車に乗った。その後、賈のお婆様の侍女の鴛鴦、鸚鵡、琥珀、珍珠、黛玉の侍女の紫鵑、雪雁、鸚哥、 宝釵の侍女の鶯兒、文杏、迎春の侍女の司棋、綉橘、探春の侍女の侍書、翠墨、惜春の侍女の入画、彩屏、薛叔母さんの侍女の同喜、同貴、この他に香菱、香菱の侍女の瑧兒、李氏の侍女の素雲、碧月、 鳳姐の侍女の平兒、豊兒、小紅、並びに王夫人のふたりの侍女、金釧、彩雲も、 鳳姐に従いやって来た。乳母が鳳姐の娘を抱いて、別の車に乗った。それ以外に何人かの雑役をする小間使い、それぞれの家の乳母たちまでいて、また嫁に行った女たちも後に続き、黒山のように通りが車で一杯になった。

 

 

 その通りにいた人たちは、賈のお屋敷の人々が線香を上げに行かれるのを、皆道路の両側に立って見ていた。そこらの小さな家々の女たちも、皆家の門を開けて入口のところに立ちながら、多くの人が同時に侃々諤々議論し、手振り身振りを交えてあれこれ批判をし、まるで寺の縁日のような賑やかさであった。すると前の方では正式な儀仗の隊列が展開され、ひとりの青年公子が、銀の鞍の白馬に騎乗し、色鮮やかな手綱を持ち、冠の顎紐(あごひも)は赤色で、お婆様の乗った八人で担ぐ駕籠の前でこれらの車馬の隊列を率い、威風堂々として、行列の隊伍はきらびやかで、お香の良い香りがたなびき、そんな行列が天地を圧倒せんばかりにやって来た。あたりは鳥の鳴き声も聞こえぬ静けさの中、ただ車輪の回る音と馬の蹄の音のみが聞こえた。

 

 しばらくして、既に清虚観の門前に着き、鐘や太鼓の音が聞こえ、早くも張法官が手に線香を持ち法衣を羽織り、多くの道士を連れて路傍で出迎えた。宝玉は馬を降り、賈のお婆様の駕籠がちょうど寺院の山門内に至ると、境内の鎮守の社や土地の様々な塑像や聖像が見えたので、駕籠を止めるよう命じた。賈珍は子弟たちを連れて出て来て出迎えた。鳳姐の駕籠は行列の先頭を急いで先に到着し、鴛鴦らを連れて出迎えた。賈のお婆様が駕籠を下りられるのを見ると、急いで手を貸す必要があった。ちょうど十二三歳の子供の道士がいたのであるが、蝋燭の燃え滓を回収する筒を持ち、方々で燃えさしを切り取るお世話をし、ちょうどこっそりそこから離れようと思っている時に、思いがけず頭が鳳姐の懐の中にぶつかってしまい、鳳姐が手を上げ、顔を目掛けて口をひっぱたき、その子供をこかして、怒って言った。「こん畜生、どこ見て走ってるんだ?」その子供の道士も蝋燭の燃え滓を拾うのをほっぽって、這い上がると外に向け走って逃げようとしたが、ちょうど 宝釵らが車を降りて来るところで、多くの女たちに取り囲まれて身動きが取れない状態であったが、この子供の道士はそこから抜け出して来て、大声で叫んだ。「捕まえてみやがれ。叩くがいいや。」

 

 

 賈のお婆様が聞き付け、慌てて「どうしたの?」と尋ねた。賈珍が急いで駆けつけ、どうしたのか尋ねた。鳳姐はお婆様の元に行き、身体を支えながら答えて言った。「ひとりの子供の道士が蝋燭の滓を切っていたのですが、よけてくれなかったので、この度は中に紛れ込んでしまったのです。」賈のお婆様はそう聞いて、急いで言った。「早くその子を連れておいで。怖がらせちゃだめだよ。小さな家の子供は、皆甘やかされて育っているから、こんな大それた行列は見たことが無いだろう。それなのに叱ってやっては、その子が可哀そうだ。その子の両親がその子を可愛がらないはずがないじゃないか。」そう言うと、賈珍を呼んだ。「行ってあの子をちゃんと連れておいで。」賈珍は行ってその子供を連れて来るしかなかった。――手に蝋燭の芯を切るハサミを持ち、地べたに跪いてブルブル震えていた。賈のお婆様は賈珍に命じて連れて来させ、男の子に言った。「怖がらなくていいのよ。」そう言って、彼に尋ねた。「幾つなの?」その子は終始ものが言えなかった。賈のお婆様がまた言った。「可哀そうに。」また賈珍に向け言った。「珍兄さん、この子を連れて行っておやり。この子に何枚か銭をやって、点心でも買って食べるようにさせてあげて。この子が誰かに困らされることのないようにしてあげて。」賈珍は「はい」と答え、子供を連れて行った。

 

 ここで賈のお婆様は人々を連れて、清虚観の中を一階二階と参拝し、また内部の設えを眺めた。外の子供の召使たちは賈のお婆様たちが二の門の山門に入るのを見ていたが、ふと賈珍が子供の道士を連れて出て来て、人に言いつけてこの子を連れて行かせ、彼に数百枚の銅銭を与え、彼が困らないようにしてやった。家の者がそれを聞き付け、急いでやって来て彼を連れて行った。

 

 賈珍は階(きざはし)の上に立ち、尋ねた。「ここの執事はどこにおられる?」階下に立っていた子供の召使たちは賈珍がこう尋ねるのを見て、皆一斉に大声で言った。「執事を呼んで。」すぐさま林之孝がひとりで帽子を整えながら走って入って来て、賈珍の目の前に到った。賈珍が言った。「ここは場所は大きいが、今日はわたしたちの人間が多いから、おまえの使用人たちを、こちらのやぐらの中に連れて来なさい。使いきれないようだったら、あちらのやぐらの方に行かせて、若い召使たちは少し多めにここの二の門と両側の角門に割いて、必要なものの手配や伝言の伺候をさせなさい。おまえ、分かったかね?今日はお嬢様や奥様方が皆出て来られたんだから、ひとりの部外者もここに入らせないようにしてくれよ。」林之孝は急いで「分かりました。」と答えた。また何回か「はい」と答えた。賈珍が言った。「行きなさい。」また尋ねた。「どうして賈蓉の姿が見えないんだろう?」

 

 その言葉が終わらぬうちに、賈蓉が鐘楼の中から走って出て来た。賈珍が言った。「おまえ、見てごらん。ここは暑くないのに、こいつったら、もう涼みに行ってるんだから。」召使たちに命じて賈蓉に唾を吐きかけるように言った。かの子供の召使たちは、賈珍の平素の性格をよく知っていたので、逆らうことができず、ひとりの子供の召使が近づいて来て、賈蓉の顔目掛けて唾を吐きかけた。賈珍はまた彼を睨みつけ、かの子供の召使は賈蓉に尋ねた。「旦那様がまだ暑さを気にされていないのに、お兄様はどうして先に涼みに行かれたんですか?」賈蓉は恭しく手を下に垂らすと、一言も敢えて発しようとしなかった。かの賈芸、賈萍、賈芹たちはこれを見て、彼ら自身が慌てふためいただけでなく、また賈璉、賈㻞、賈瓊たちも慌てて、ひとりひとりが皆壁の基壇の下からゆっくり走り出て来た。

 

 賈珍はまた賈蓉に言った。「おまえ、ここに立って何をしているんだ?まだ馬に乗って家まで走って帰って、母親に報告していないのか?お婆様やお嬢さん方が皆来られたんだから、彼らに言って早く伺候させなさい。」賈蓉はそう聞いて、急いで走り出て来て、何度も立て続けに「馬を持て!」と叫び声を上げた。一方で不満げに言った。「元々何をするのか知らなかったのに、今になってわたしに聞いて来るんだから。」一方でまた小者を罵った。「手を縛っていたのかい?馬も牽いて来ないとは。」子供の召使を遣わそうと思ったが、また恐らく後で調べられるのを心配し、自ら一度行って来るとは言い出せず、馬に騎乗し出て行った。

 

 さて賈珍はようやくここを抜け出して中に入ると、張道士が傍らに立っているのが見えたので、追従笑いを浮かべて言った。「実を言うと、わたしは他の皆さんとは比べものになりませんので、中で伺候すべきところですが、ただ天気があまりに暑いので、お屋敷の若い女性たちが皆外に出て来られました。法師様といえども勝手に中に入るのは憚られますので、どうかお師匠様からご指示ください。おそらくお婆様が、ひょっとするとあちらで皆さんと一緒に善行をしたいと言われるかもしれないので、わたしはただここで伺候したいと思います。」

 

 賈珍はこの張道士が曾ては栄国公の身代わりであったことを知っていて、以前先の皇帝陛下が自ら口頭で「大幻仙人」とお呼びになり、今は「道録司」(道教の事務を所轄する役所名)の印を持っておられ、また今は「終了真人」に封じられ、現在は王公藩鎮から皆「神仙」と呼ばれていたので、軽率な対応はできなかった。ふたつには、張道士がいつもふたつのお屋敷の中を往き来していて、奥様や娘たちとは皆面識があった。今、彼に会ってこのように言うと、笑って言った。「わたしたちはわたしたち、あなたはまたその話をされるんですね。これ以上言われたら、わたしはあなたの髭を掴んで引っ張りますぞ。それでもまだわたしと一緒に入られませぬのか。」かの張道士は「ハハ」と笑いながら、賈珍と一緒に中に入った。

 

 賈珍は賈のお婆様の前で、背筋をピンと伸ばし追従笑いを浮かべて言った。「張お爺様がお入りになりご挨拶をされます。」賈のお婆様はそう聞くと、急いで言った。「どうかお入りになっていただいて。」賈珍は急いで道士に手を貸してお連れした。張道士は先ず「ハハ」と笑って言った。「無量寿佛。ご長老様はいつも福寿康寧であられ、奥様お嬢様方も幸福であらせられます。しばらくお屋敷にご挨拶にうかがっておりませんが、お婆様のお顔の色つやは益々きれいになっていらっしゃいます。」賈のお婆様は笑って言った。「神仙様はお元気であらせられましたか?」張道士は笑って言った。「お婆様のご幸福のお陰を持ちまして、この道士めも健康を保っております。他のことはともかく、ただ若様のことが気がかりなのですが、ずっとお身体はご健勝ですか?この前、四月二十六日に、こちらの寺院で遮天大王の生誕のお祝いをしましたが、人の来訪も少なく、ものも無くさっぱりしているので、どうか若様に遊びに来てくださいと申し上げたのですが、どうしてご不在と言われたのか?」賈のお婆様が言った。「確かに家にいないね。」一方で振り返って宝玉を呼んだ。

 

 ところが宝玉はトイレに行っていたので、戻って来ると、急いで近寄って来て尋ねた。「張お爺様お元気ですか。」張道士も宝玉を抱きしめて挨拶をし、また賈のお婆様に笑って言った。「若様は益々ふくよかにおなりです。」賈のお婆様が言った。「この子は外面は良いのですが、内面が弱いのです。またそれに加えてこの子の父親がこの子に無理やり勉強させようとするのですが、みすみすこの子が無理やり病気になるようにしているんですわ。」張道士が言った。「先日、わたしはあちこちで若様が書いた字や、作った詩を見ましたが、どれも並外れてすばらしかったです。どうして旦那様はまだ若様があまり学問をお好きでないことを不満に思われているんでしょう?この坊主が見たところ、それもやむを得ないでしょう。」またため息をついて言った。「わたしが見たところ、若様のこのような容貌や体つき、言論や挙動は、曾ての栄国公とそっくりです。」そう言いながら、両眼を赤く腫らした。賈のお婆様もそれを聞いて、訳もなく幾分もの悲しくなり、言った。「本当にそうだわ。わたしはこれらの子供や孫たちを養ってきたけど、ひとりとして彼らにお爺様のような者がいない中、ただこの宝玉だけがお爺様似だわ。」

 

 かの張道士がまた賈珍に言った。「当時の栄国公様のご容貌は、旦那様方の世代は言うまでもなく、当然会われたこともないので、おそらく旦那様や若旦那様でもよく憶えておられないでしょう?」そう言い終わると、また「ハッハッ」と大笑いをして言った。「先日あるお宅で、ひとりのお嬢様をお見受けしました。今年十五歳で、とても美人におなりです。わたしは、若旦那様も結婚を申し込まれるに違いないと思います。――このお嬢様のご容貌、賢く機転が利くこと、家柄やお家の身代と、皆釣り合っておられます。でも、大奥様がどう思っておられるか。この坊主めも軽はずみなことをする勇気がありませんので、ご指示をいただきましたら、その時はお話を進めさせていただきます。」賈のお婆様が言った。「この前、とある和尚様が言われていたのは、この子の運命では、焦って嫁を娶ってはいけない、もう少し年をとってから決めた方がいいとのことでした。あなたが今も尋ねられているように、その方の家柄やご身代に関わらず、ご容貌が釣り合っておいでなら、わたしに言いに来てください。たとえその方のお家が貧しくても、そちらに数両の銀子をご援助してさしあげれば済むこと。ただ容貌と性格は、良い方がなかなかおられませんから。」

 

 そう言っていると、鳳姐が笑ってこう言うのが見えた。「張お爺様、うちの娘の寄名符(お守り)をまだいただいていませんわよ。この前はあいにくあなたがまだあんなにずうずうしくされて、人を遣って来られてわたしに黄色い緞子が欲しいと言われました。もしお断りしたら、またひょっとするとあなたの面子が潰され、体面を維持できなかったもしれませんわ。」張道士は「ハッハッ」と大笑いして言った。「ちょっと見てご覧なさい、わたしの眼は老眼でかすんでしまって、奥様がここにおられるのも見えませんでしたし、お礼も申し上げていません。寄名符はとっくに準備ができていまして、先日元々お送りしようと思っていたのですが、お婆様がお越しになって善行をなさると承知していませんでしたので、忘れてしまっていました。やはり仏前でお待ちください。しばらくしたら、わたしが取って来ますので。」そう言うと、本殿まで駆けて行き、しばらくして茶盆を持って来たが、その上に真っ赤な蟒蛇(うわばみ)が刺繍された緞子の風呂敷(経袱子)が敷かれ、お札が載せられていた。

 

 (鳳姐の娘の)巧姐の乳母がお札を受け取り、張道士がちょうど巧姐を抱き上げようとしていると、鳳姐が笑って言った。「あなたがご自分の手で持って来なさいよ。わざわざお盆の上に載せて持って来るなんて。」張道士が言った。「手は不浄でありますからな。どうやって持つんです?お盆を使えば清潔でしょう。」鳳姐が笑って言った。「あんたはお盆を持って来ることばかり考えてるのね。わたしはびっくりしましたよ。わたしがあなたにお札を届けるよう言わなかったら、おそらくわたしたちにお布施を求めに来られたみたいね。」周りの人々はそれを聞いて、どっと笑い声を上げ、賈珍まで我慢できずに笑った。賈のお婆様が振り返って言った。「お猿さん、お猿さん。あんた、舌割き地獄に落ちるわよ。」鳳姐が笑って言った。「わたしたちは旦那様方と関わりがありませんのに、あの方はどうしていつもわたしたちに陰徳を積むように、遅れると早死にするとおっしゃるのかしら?」

 

 張道士も笑って言った。「わたしがお盆を持って来たのは、ふたつの目的のためで、決してお布施のためではなく、若様のあの玉をお外しいただき、お預かりし、あれらの遠方から来た道士の友人たちや弟子、孫弟子たちに見聞を広めさせるためでもあるのです。」賈のお婆様が言った。「そうであるなら、あんたというお年寄りはもう身体も自由が利かないんだから、何を走り回っておられるの。宝玉を連れて行って、その方たちを中に入れて見てもらえばいいじゃないですか。」張道士が言った。「大奥様はご存じない。わたしを八十歳の老いぼれと見ておられるが、大奥様のお陰を持ちまして、まだ至ってかくしゃくとしております。ふたつ目に、外の者どもは多くが臭いが臭く、ましてや酷暑の気候で、若様は慣れておられませんから、万一若様が汚い臭いに中(あた)るようなことがあれば、一大事です。」賈のお婆様はそう聞いて、宝玉に命じて「通霊玉」を外して、盆の中に置くように言った。かの張道士は慎重に蟒蛇の柄の風呂敷を下敷きにし、「通霊玉」を捧げ持って行った。

 

 ここで賈のお婆様は周りの人々を伴い、清虚観の各処を一度遊覧して回った。ちょうど二階に上がると、賈珍が回答して言った。「張お爺様が玉を届けに来られました。」ちょうどそう言っていると、張道士がお盆を捧げ持って皆の前に歩み出て、笑って言った。「皆さまのわたくしへのご配慮ありがとうございます。若様の玉を拝見しました。実に珍しいもので、何と言ってお敬い申し上げたら良いのか。これはここの道士たち各人が道を伝える法器であり、心から敬いお祝いの礼をしたいと願っております。若様におかれましては、見慣れたものかもしれませんが、留め置いて弄ばれ、他人にも鑑賞させてあげてください。」

 

 賈のお婆様がそう聞いて、お盆の中を見ると、金璜(金で作った半璧形の法器)や玉玦(ぎょっけつ。玉環の一部に切れ目のある佩玉(はいぎょく。貴族が腰に帯びる装身具))、或いは「事事如意」、「歳歳平安」の文字を真珠や宝石の象嵌で刻んだり、玉や金を彫刻したアクセサリーが、全部で十五個入っていた。それで言った。「おまえもでたらめをやるものだね。あの人たちは出家されているのに、これらはどこから来たんだい?どうしてこんなことをするの?これは断じて受け取れないわ。」張道士は笑って言った。「これはあの者たちのちょっとした敬意なのです。この坊主めも止めることができなかったのです。大奥様が受け取られませんでしたら、却って彼らにこの坊主めが力不足と見做し、門下の出身ではないと思われてしまいます。」賈のお婆様はこのように言うのを聞いて、ようやく人に命じて受け取らせた。宝玉は笑って言った。「お婆様、張お爺様がこうおっしゃっていて、また辞退もできない。わたしはこんなものもらっても役に立たないし、小者にこれを持たせ、わたしに付いて出かけさせて、貧しい者たちにばら撒いてやった方がいいと思います。」賈のお婆様が笑って言った。「本当にその通りだね。」張道士が慌ててそれを遮って言った。「若様は良い行いをしようとされていますが、これらのものはあまり珍しくないとおっしゃるかもしれませんが、でも結局は何件かの器なので、もし貧しい者に与えると、一に彼らにとっても無益で、二番目に却ってこれらのものが無駄になってしまいます。貧しい者に喜捨するのであれば、どうして彼らに銭を配らないのでしょう?」宝玉はそう聞いて、それで命じた。「しまっておしまい。夜になったら、銭を持って施しをしよう。」そう言うと、張道士はようやく退出した。

 

 ここで賈のお婆様と人々は二階に上がられ、正面の建物の上で、席に着かれた。鳳姐らは東側の建物に上がられた。小間使いの女たちは西側の建物で交替で伺候した。しばらくして賈珍が上がって来て回答して言った。「神前にお芝居をお供えします。最初の一本目は『白蛇記』です。」賈のお婆様はそれで尋ねた。「それはどんなお話なの?」賈珍が言った。「漢の高祖が蛇を切って首を挙げる話です。二本目は『満床笏』(唐の郭子儀が、七子八婿に恵まれ、富と地位に恵まれ、長寿を全うする話)です。」賈のお婆様が頷いて言った。「やっぱり二本目の芝居もまたその通りね。神仏がこのように決められたからには、こうなるしかないわね。」また尋ねた。「三本目は何?」賈珍が言った。「三本目は『南柯夢』です。」賈のお婆様はそう聞いて、何も言われなかった。賈珍が退出し、外まで歩いて行き、神前で燃やす上奏文、紙銭などを準備し、芝居が開幕したが、このことはこれで置く。

 

 さて宝玉は二階で、賈のお婆様の傍らに座り、子供の小間使いを呼んで、先ほどの盆に入っていたものを持って来させ、自分の玉のベルトの上で、手であれこれ弄びながら、一件一件選んでは賈のお婆様にお見せした。賈のお婆様は純金にカワセミの羽毛を貼り付けた麒麟のアクセサリーを見つけ、手を伸ばして取り上げると、笑って言った。「これは、わたし、どちらかのお家の子供さんも付けていたような気がするわ。」 宝釵が笑って言った。「史ちゃん(史湘雲)がひとつ持っていたけど、これより少し小さいわ。」賈のお婆様が言った。「誰かと思えば、雲兒が付けていたんだね。」宝玉が言った。「彼女はこんなに頻繁にうちに泊まりに来るのに、僕は見たことがないよ。」探春が笑って言った。「宝姉さんは下心があって、どんなことでも皆憶えているのよ。」黛玉が冷ややかに笑って言った。「この人は他の事はあまり気にも止めないくせに、こういった人たちが身に付けているものは、気にされるんだから。」 宝釵は聞こえていたが、横を向いて聞こえなかったふりをした。

 

 宝玉は 史湘雲がこんなものを持っていると聞いたので、自らその麒麟を急いで手に取り、懐(ふところ)にしまった。ふとまた誰かが、彼が史湘雲が持っていると聞いたので、これを持っておこうしているのを見られるのを恐れ、それで手の中で持ちながら、目であたりをちらちら窺(うかが)った。ただ周りの人々は皆関心を示さず、ただ黛玉だけが宝玉を見ながら頷き、賛嘆の意を表しているかのようだった。宝玉は心の中で思わずつまらなく感じ、またそれを取り出すと、黛玉を見ながら、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべて言った。「これ、面白いんで、君の代わりに持っておくよ。家に帰ったら、君の付けてる房に付けてみようよ。どう?」黛玉は首を傾(かし)げて言った。「わたし、どうでもいいわ。」宝玉は笑って言った。「君が関心ないんだったら、僕が持っているよ。」そう言いながら、また懐にしまった。

 

 

ちょうど話をしようとしていると、賈珍の妻の尤氏と賈蓉が後添いに娶った嫁の胡氏の、姑(しゅうとめ)と嫁のふたりがやって来て、賈のお婆様にお目にかかった。賈のお婆様が言った。「おまえたち、また来てどうするの、わたしは用も無くぶらぶらしに来ているだけなのに。」そう一言言っていると、取り次ぎの者が報告した。「馮将軍のお宅の方が来られました。」実は馮紫英の家では賈のお屋敷で道教の祭祀をされると聞き付け、急いで豚や羊、線香や蝋燭、茶菓子の類を準備し、儀式に間に合わせて届けに来たのであった。鳳姐はそれを聞いて、急いで正楼にやって来て、手を叩き笑って言った。「あらまあ。これもやむを得ないですわね。わたしたち女たちはここにぶらぶらしに来ただけですのに、人様はわたしたちが大々的に祭事を催すと思われ、贈り物を届けられるのですから。――皆お婆様が起こされたことですわ。今回は祝儀も準備していませんわ。」そう言うや否や、馮家のふたりの執事の女が二階に上がって来た。馮家のふたりが帰らぬうちに、続いて趙侍郎の家からも贈り物が届けられた。それから続けざまに、皆賈のお屋敷で道教の祭祀をされると聞いて、女の親族は皆寺院の中に、およそ全ての遠縁の親戚や近しい友達、つきあいのある高官たちが、皆贈り物を届けに来た。

 

 賈のお婆様はそこでようやく後悔して言った。「何も正式な祭礼ではなく、わたしたちはただぶらぶらしに来ただけなのに、思いがけず人々を驚かせてしまったわ。」このため一日芝居を見たけれども、午後にはお屋敷に戻った。翌日は家で何もせずぼおっとしていた。鳳姐がまた言った。「「壁を作るにも土地の神様へのお祭りが要る」ですわ。もう人々を驚かせてしまったのですから、今日は楽しく、また清虚観へ行ってぶらぶらしましょうよ。」賈のお婆様は、昨日張道士が宝玉の縁談の話を持ち出したので、あろうことか宝玉が一日中不快な気持ちが已まず、家に帰るや怒り出し、張道士が自分の縁談のことを言ったのに腹を立て、二言目には、「今後、もう二度と張道士には会わない」と言った。他の人たちも、何が理由か分からなかった。ふたつ目に、黛玉は昨日帰宅すると、また暑気当たりしてしまった。これらふたつのことがあったので、賈のお婆様は頑なに行かないと言い張った。鳳姐はお婆様が行かれないと分かり、自分は何人かを連れて清虚観に行ったのであるが、このことはこれで置く。

 

 さて宝玉は黛玉が病気だと知り、心配でたまらず、食事も食べる気がしなかった。たびたび具合を尋ね、彼女が良くなったかどうか心配した。黛玉はそれで言った。「あなたは気兼ねせずにご自分のお好きな芝居をご覧に行きなさい。家にいてどうするの?」宝玉は、昨日張道士が縁談の話を持ち出したので、心の中では全く受け入れられず、今黛玉がこのように言ったので、心の中でこう思った。「他の人たちは僕の心の中が分からないのだから、まだ大目に見てもいい。黛玉まで僕のことをからかうとは。」このため心の中では昔の煩悩が百倍に増幅された。もし他の人がそばにいたら、断じてこんな癇癪(かんしゃく)は起こさなかったろう。ところが黛玉がこんなことを言ったものだから、それは以前他の人がこの話をした時とは違い、思わず顔色を変え、こう言った。「僕は君のことを誤解していたよ。もういい、もういいよ。」黛玉はそれを聞いて、冷ややかに笑って言った。「あなたはわたしを誤解してらしたの?わたしのどこが誰かさんのように、あなたと釣り合いが取れると言うの。」宝玉はそれを聞くと、歩み寄って来て、黛玉の顔をじっと見つめて言った。「君がこんなことを言うのは、安心して僕のことを呪って、天地によって誅されて我が身をこの世に長らえさせない(天誅地滅)ようにするためかい?」黛玉はしばらくの間、この言葉の意味が理解できなかった。宝玉はまた言った。「昨日このことで誓ったよね。今日君がまた僕の言葉を繰り返すとは。僕がもし「天地によって誅されて我が身をこの世に長らえ」(天誅地滅)されなかったら、君にどんな利益があるんだい?」黛玉はこの言葉を聞いて、ようやく昨日の出来事を思い出した。今日は元々自分が言葉を間違えたのであり、焦るわ、恥ずかしいわで、「ワーワー」と泣きじゃくり、言った。「わたしが心安らかにあなたを呪うなら、わたしも「天誅地滅」されないといけないわ。……なんでわざわざこんなことしないといけないの。わたしも昨日張道士が縁談の話をしたのを知っているけど、あなたが自分の良い縁組をじゃまされるのが心配で、心の中でむしゃくしゃしているなら、わたしに当たっても構わないわ。」

 

 元々宝玉は幼い時から生まれつき一種の下品な馬鹿げた癖があり、ましてや幼い時から黛玉とは耳と鬢の毛が互いに触れ合うほどの距離で育ち、気心が知れていたのだが、今は多少物事も分かって来て、またいくらかいかがわしい書籍にも目に触れ、およそ遠くの親戚近くの友人の家で見かける才能と容姿に優れた娘たちは、どれも皆黛玉には少し及ばなかったので、とっくに彼女に対し特別な感情を抱いていたが、ただうまく言葉にして言うことができなかった。それゆえいつも喜んだり怒ったりし、手を変え品を変え、いろいろ試したり探ったりしていたのである。かの黛玉も、あいにく生まれつき幾分意固地なところがあり、彼女もまたいつもわざと心にもないことを言って、宝玉の気持ちを試していた。片方が真心と本当の気持ちで相手を騙せば、もう片方も真心と本当の気持ちで相手を騙し、ふたりとも心にも無いことを言って相手を試し、このように「ふたつの嘘が出逢い、遂には真(まこと)が生じる」のだが、その間に細々と煩わしいことが起こり、口喧嘩が起こらないとは保証できなかった。

 

 こういう時であっても、宝玉が心の中で思っていたのは、「他人が僕の気持ちが分からないのは、まあ仕方がない。まさか君が僕の心の中眼の中に君しかいないのが分からないんじゃあないだろうね?君が僕のために煩悩を解いてくれなかったら、却ってこの話が僕の心を塞いでしまい、僕の心の中にはいつだってはっきりと君がいるのに、君の心の中には結局僕がいないことが分かったよ。」ということであった。宝玉はこう思ったのだが、口に出しては言わなかった。かの黛玉が心の中で思っていたのは、「あなたの心の中にはもちろんわたしがいるんでしょう。「金と玉が相対す」という言葉があるけど、あなたはどうしてこんな怪しい言葉を重んじて、人を重んじないのかしら?わたしはいつもこの「金と玉」ということが出てくる度に、あなたがひたすら全く聞こえなかったかのような態度を取っていたけど、ようやくわたしを大事に思い、少しも私心雑念が無いことが分かったわ。どうしてわたしが「金と玉」のことを持ち出すと、あなたはそんなに慌てるの?あなたの心の中にはいつもこの「金と玉」という考えがあることが分かったわ。わたしがそれを持ち出すと、あなたはわたしが疑いを抱いてるんじゃないかと心配して、わざと慌てて、わたしをなだめようとしたのね。」ということであった。

 

 かの宝玉は心の中でまた思った。「僕はどうでも構わない、君が構わないんだったら、僕は今すぐ君のために死んでも、自ら望んですることだ。君が知っていようが、知らなかろうが、僕の気持ちに則ってさえいれば、君と僕の距離は縮まり、遠くなることはないんだ。」黛玉も心の中でこう思った。「あなたはご自分が納得するようになさればいい。あなたが良ければ、わたしももちろんそれでいい。あなたが自分を捨ててしまったら、どんなにわたしを相手にしてくれても、それはあなたがわたしをあなたに近づけてくれるんじゃなく、却ってわたしを遠ざけているのよ。」

 

 読者の皆さん、皆さんはこのふたりが元々同じ気持ちであったとお思いだが、このように見てくると、それぞれ様々な枝葉が出て来て、かの近しくなりたいと思う気持ちが、却ってふたりの関係を疎遠になるよう導いてしまっております。これは皆、彼らふたりが元々持っていた私心のせいでありますが、それを詳しく述べるのは困難です。今はただ彼らの外面の形容を述べるに留めます。

 

 かの宝玉はまた黛玉が「好姻縁」の三文字を言うのを聞き、ますます己の意志に逆らい、心の中で押しとどめ、言葉に出さなかった。そして意固地になって首から「通霊玉」を外すと、それをグイッと歯で噛むと、思いっきり地面に叩き付け、言った。「何が何を労してくれるんだ。おまえをだめにしてやる、そうすればお終(しま)いだ!」あいにくこの玉は極めて硬いものであったので、少々地面に投げつけても、どこ吹く風でびくともしなかった。宝玉は壊れないと見ると、振り返って壊すものを捜した。黛玉は宝玉のこうした様子を見て、早くも泣き出し、言った。「どうしてあなたはそんな、ものも言えぬものを壊そうとするの?それを壊すぐらいだったら、わたしを壊して。」

 

 

 ふたりが騒いでいると、紫鵑や雪雁らが急いでなだめに入った。その後、宝玉が懸命にその玉を壊そうとしているのに気づき、急いでそれを取り上げようとしたが、取り上げることができなかった。これまでの騒ぎより酷いので、襲人を呼んで来ざるを得なかった。襲人が急いで駆けつけると、ようやく玉を奪い取った。宝玉は冷ややかに笑って言った。「僕は自分のものを壊しているだけで、おまえたちとは何の関係もないだろう!」襲人は宝玉の顔が怒りで土色になり、目つきも変わって、これまで怒りでこんなになることがなかったので、彼の手を引きながら、笑って言った。「あなたは妹と喧嘩してるのに、ものを壊す必要はないでしょ。もし壊してしまったら、彼女の気持ちも面子もどうやって申し訳が立つの?」黛玉は泣きながらこの話を聞いていて、自分の心の奥の話になった。宝玉が襲人にも及ばないと分かり、益々傷ついて大声で泣き出した。気持ちが焦ると、さっき飲んだ香薷飲(ナギナタコウジュを使った漢方薬で、のぼせや咳、暑気中りに効果がある)が、我慢できずに、「ゲーッ」と声を上げ、皆吐き出してしまった。紫鵑は急いで近寄りハンカチで受けて、すぐさま一口一口と、ハンカチを吐いたものでビショビショにしてしまった。雪雁が急いで近寄り、トントン肩を叩いたりさすったりした。紫鵑が言った。「腹を立てられたとはいえ、お嬢さん、やっぱり身体をもう少し大事にしないと。さっきお薬を飲んで、お加減が少し良くなられたのに、今度は宝若旦那様と口論をされて、また吐いておしまいになって。万一病気になってしまわれたら、宝若旦那様がどうしてなんとも思わないなんてことがございましょう?」宝玉はこの話を聞いて、自分の気持ちのことまで言われたので、黛玉はやはりまだ紫鵑にかなわないのが分かった。また黛玉が顔を真っ赤に腫らして、泣きながら、息を荒くし、一方では涙、一方では汗をかきながら、この上もなく畏れてびくびくしていた。宝玉はこの有り様を見て、自分でも後悔した。「さっきは林ちゃんに反駁するようなことを言うんじゃなかった。今回この子がこの有り様じゃあ、僕がこの子に代わってやることもできない。」心の中でそう思いながら、またひとりでに涙のしずくがこぼれ落ちた。

 

 

 襲人は宝玉を見守りながら、彼らふたりが悲痛に泣く様を見て、彼女も悲しみがこみ上げて来た。また宝玉の氷のように冷たい手をさすりながら、宝玉に「もう泣くのはおやめ」と諭した。ひとつには宝玉が(元春妃からの贈り物の事件(第28回参照)以来)何か悔しい思いを心に抱えているんじゃないかと心配し、ふたつにはまた(宝玉の冷淡な態度のせいで)黛玉が自分が軽視されていると感じているのではないかと心配した。ふたりとも意固地になっていた。正に女性の心理として、思わず涙が流れた。紫鵑は一方で吐いた薬を片付け、一方でうちわを持って来て、黛玉のため軽く扇(あお)いでやった。見ると、三人は皆ひっそり静かに、各自それぞれしくしくと泣いていたので、いっそのこと、紫鵑自身も心が傷ついたので、ハンカチを出して涙を拭いた。

 

 四人は皆無言でそれぞれ向かい合って泣いた。そんな中で襲人が無理やり笑みを浮かべて宝玉に言った。「あなた、他のものは見なくていいけど、この玉の上に通した飾りの房を見てみて。やっぱり林お嬢様と喧嘩をしてはいけないわ。」黛玉はそう聞いて、病を顧みず、急いで近づいて奪い取ると、その手ではさみを掴み、切ろうとした。襲人、紫鵑がちょうどそれを奪い返そうとした時には、もう何段か切られてしまっていた。黛玉は泣きながら言った。「わたしも無駄な努力をしたものだわ。これも別に珍しいものじゃない。元々誰か他の人に代わって付けてもらえば良かったのよ。」 襲人が急いで玉を受け取って言った。「なにもわざわざ苦労することなかった。これはわたしがいらないことを言ったせいね。」宝玉が黛玉に言った。「君は気兼ね無く切ればいいよ。僕がどのみちこれを付けていなければ、何でも無かったんだから。」

 

 中の騒ぎばかり気にしていたが、思いがけなくかのばあやたちが、黛玉が泣くや吐くや、宝玉も玉を叩き割ろうとしているのを見て、何のことで大騒ぎをしているのか分からず、慌てて一斉に母屋へ行って、賈のお婆様や王夫人に報告して知らせ、自分たちに累が及ばないようにした。かの賈のお婆様、王夫人は彼女たちが急いで一件の重要な事件として報告に来て、皆どんな理由があったのかも分からなかったので、一斉に大観園に入って現場を見た。慌てた 襲人は紫鵑に恨み言を言った。「どうして大奥様、奥様を驚かすようなことをしたの?」紫鵑も襲人が人を遣って報告したのだと思い、襲人を恨んだ。

 

 かの賈のお婆様と王夫人が入って来て、宝玉を見ても無言、黛玉も話をせず、問いかけても、何があったか話さず、この災いは 襲人、紫鵑ふたりの身に降りかかり、こう言われた。「どうしておまえたちは注意してお仕えしないの?今回騒ぎが起こったのに、ふたりとも知らんぷりかい?」このためふたりを叱責しつつ話をし、説教をした。ふたりとも何も言わず、聞いているしかなかった。やはり賈のお婆様が宝玉を連れて外出したので、ようやく落ち着いたのであった。

 

 一日が過ぎ、五月三日になった。この日は薛蟠の誕生日であった。家の中に酒を並べ、芝居を上演し、賈のお屋敷の人々は皆出かけて行った。宝玉は黛玉の機嫌を損ねたので、ふたりは全く顔を合わすことがなくなり、心の中で正に自ら後悔し、しょんぼりとしてしまい、どこにまだ芝居を見る気持ちになるだろうか。このため病気を理由に行かなかった。黛玉はしかし先日幾分蒸し暑さに中(あた)ってしまい、元々そんな大病ではなかったが、宝玉が行かないと聞いたので、心の中でこう思った。「あの人はお酒を飲んだり芝居を見るのがお好きなのに、今日は却って行かれないとは、もちろん昨日の癇癪(かんしゃく)が引き起こしたんだわ。そうでなければ、あの人がわたしが行かないと知って、あの人も行く気がしなくなったんだわ。それにしても昨日は、断じてあの玉に付いた房を切ってはいけなかったんだわ。きっとあの人はもう玉を身に着けないに違いない。またわたしが房を付けてあげれば、あの人はまた身に着けてくれるわ。」そのため心の中ではたいへん後悔した。

 

 かの賈のお婆様は彼らふたりが何れも怒っているのを見て、今日ちょうどあちらで芝居をやるから、ふたりが見に行けば、ふたりの喧嘩も収まると思っていたのだが、思いがけず、ふたりとも行かないと聞いた。年寄りは慌てて恨みがましく言った。「わたしという罪人は、この世に生まれた罰当たりなのかね?こともあろうにこんなふたりのわがままな仇敵に出逢い、一日たりともわたしが気を使わなくていい日が無いよ。本当に、俗にも言うように「会いたくない人に限って顔を合わせる」ものだ。いつか(わたしにあの世からお迎えが来て)わたしが目を閉じ、息をするのを止めたら、おまえたちふたりの仇同士が世の中をどんなに騒がせたって、わたしには「目にも見えないし、心も煩わされない」だけのことさ。――この子たちったら、こんなことを言うのを止めないんだから。」自ら不満に思い、お婆様もしくしく泣き出した。

 

 ところがなんと、この話が宝玉と黛玉ふたりの耳に伝わってしまい、彼らふたりは遂にこれまで聞いたこともなかった「会いたくない人に限って顔を合わせる」というような俗語も聞いて、今は突然この言葉をもらって、あたかも座禅を組んだかのように、ふたりとも下を向いてこの言葉の味わいを細かく噛みしめていたが、思わず涙がこぼれ落ちた。ふたりは互いに顔を合わせてはいなかったが、ひとりは瀟湘館で風に吹かれて涙を流し、ひとりは怡紅館で月に対して長嘆した。正に「場所はふたつに分かれていても、ふたりの気持ちは同じところから発し」ていた。

 

 襲人はそれで宝玉を諫めて言った。「断じて間違っています、皆あなたが悪いです。これまで家の中で男の子供の召使たちがお姉様や妹たちと口論になったり、誰かふたりが喧嘩になって、あなたがそれを知ったら、あの子たち子供の召使たちをばかと罵ったところで、女の子たちの気持ちを慰めることはできないでしょう?今日はどうしてあなたまでそれと同じことをされたの?明日は五月五日で、端午節のお祭りも終わります。あなたがたふたりがまたこんな仇同士のようにしていたら、お婆様は益々お怒りになり、きっとみなさんが安心して生活できなくなります。わたしがあなたにお勧めしたいのは、ちゃんと怒るのを止めて、自分が間違っていたと謝(あやま)り、みなさんがまたこれまで通りになる、そうするのが良くないですか?」宝玉はそう聞いたものの、それに従うべきかどうか、分からなかった。その後の顛末を知りたければ、次回に解説いたします。

 馮紫英の宴会に招かれた宝玉。酒宴の余興で参加者がそれぞれ自分が関係する女性のことを詩にして披露します。そこで役者の琪官と仲良くなった宝玉、友情の証にふたりは互いの腰帯を交換します。時は端午節。宮中の元春妃より家族各員に贈り物が届きますが、女兄弟たちの中でなぜか宝釵だけ厚遇され、宝玉と同じものが贈られます。宝玉と黛玉、宝釵の三角関係は、家族も巻き込み、新たな段階に進みます。『紅楼夢』第二十八回をご覧ください。

 

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玉函により(宝玉に)茜香の羅を贈る

薛宝釵は紅(数珠)を籠(は)めるを(は)じる

 

 さて林黛玉は昨夜晴雯が門を開けなかったことで、却って誤解して宝玉の身を疑った。翌日はまたちょうど芒種の花にお別れをする節季に当たり、ちょうど身体の中の怒りがまだ発散されておらず、また行く春に心愁い思い悩み、このため残った花びらを埋めたのであるが、思わず花を思って自ら悲しみ、何度か泣き声を上げ、口をついて詩を何句か詠んだ。ところが思いがけず宝玉が山の斜面の上でこれを聞きつけ、最初は頷き感嘆しただけだったが、次にこの詩の、「わたしが今日花を埋葬すると言うと人に嘲笑されるが、将来わたしが死ぬと誰がわたしを埋葬してくれるのだろう?……やがて春が尽き紅顔であった少年(少女)も老いる。花は枯れ落ち人は死ぬが、何れも知る由も無い。」等の詩句を聞くと、思わず山の斜面の上で慟哭し、胸にかかえた花びらをあたり一面にまき散らした。試みに林黛玉のあでやかな顔、清らかな容貌を思い、それがまた将来(亡くなって)捜し出すことができない時、まさか心が張り裂けんばかりに悲しくないというようなことは無いだろう。既に黛玉が遂に探し出すことができなくなった時、他の人はどうか推察すると、例えば宝釵、香菱、襲人なども、探し出すことができない時が来るだろう。宝釵らが遂に探し出せなくなった時、自分はまた無事に生存しているだろうか。且つ自身がなおどこに居てどこに行くか分からないが、将来その場所、その庭園、その花、その柳は、またどちらの姓に属しているだろうか。――こうして一が二、二が三と、繰り返して追求していくと、本当にこの時この際、この度の悲しみをどう解釈すればいいんだろうか。正に、花の影は左右に身体を離れることはなく、鳥の声はただ耳の東西にあり。

 

 かの黛玉は正に自ら悲しみに暮れていると、ふと山の斜面の上からも悲痛な声が聞こえてきたので、心の中でこう思った。「人々が皆わたしが気が振れたと笑うが、まさかもうひとり気違いがいないとだめなの?」頭を上げて見ると、見えたのは宝玉であったので、黛玉は吐き捨てるように言った。「フン、誰かと思ったら、実はこの冷酷な死に損ない(狠心短命)じゃない――」たった今口をついて「短命」の二文字が出てしまうや、また口を塞ぐと、長くため息をつき、自らそこを抜け出し、行ってしまった。

 

 ここで宝玉は一度悲しみに暮れたのであるが、黛玉が行くを見て、黛玉が宝玉に気づき、避けてそこから離れようとしたと知った。自分でも面白くなくなり、土を振り払うと、山を下りるのにもと来た道をたどり、怡紅院の方に戻った。ちょうど黛玉が前の方を行くのが見えたので、急いでそれに追いつくと、こう言った。「ちょっと待って。僕、君が僕の相手をしてくれないのは分かってる。でも一言だけ言わせて。今から以降、関係を断とう。」黛玉は振り返って見ると宝玉であったので、彼のことを相手にしないでいようと思っていると、彼が「一言だけ言わせて」というのが聞こえたので、それで「言って。」と言った。宝玉は笑って言った。「二言だったら、言ったら君聞いてくれるかな?」黛玉はそう聞くと、向こうを向いて行こうとした。宝玉は彼女の後ろから、ため息をついて言った。「今日こんなことになるんだったら、どうして最初あんなことをしたんだろう?」

 

 黛玉はこう話すのを聞いて、思わず立ち止まると、振り返って言った。「当初はどうだったの?今日はどうなの?」宝玉が言った。「ああ。最初君が来た時、僕が付き添って笑わせてあげなかった?僕が好きなもので、君が欲しいものがあったら、持って行ってもらったし、僕が好きな食べ物で、君も好きだと聞くと、急いで整理してきれいに仕舞うと、君が帰って来るのを待ったよね。同じテーブルで食事をし、同じベッドで休んだ。小間使いたちが思いつかないことでも、僕は君が怒るといけないんで、小間使いたちに代わっていろいろ考えたんだ。僕思うんだけど、君たちとは小さい時から一緒に大きくなって、お互いの親しみであれ情熱であれ、仲睦まじくなることによって、他の人よりすばらしいと気づいたんだ。今は君も年齢を重ねるにつれ、気持ちが疎遠になろうとは、誰が望んだことだろう。僕なんて眼中になく、三日相手にせず四日会わずにいて、却って外様の「宝姉さん」(宝釵)や「鳳姉さん」(鳳姐)を心の中で大切だと思っている。僕には直接の男兄弟や妹がいない――ふたりいるけど、まさか腹違いの兄弟だと、知らないなんてことはないだろう?僕も君と同じでひとつぶだねだから、君と僕の気持ちが同じじゃないかと心配なんだ。――思いがけず僕がいらぬ心配をするなんて、恨みがあっても訴えるところが無いんだ。」そう言いながら、思わず泣き出した。

 

 この時、黛玉は耳の中でこの話を聞いて、眼の中でこの光景を思い浮かべ、心の中ではおおかた思わず気落ちしたのであろう、また思わず涙が滴り落ち、俯(うつむ)いて言葉が出なかった。宝玉はこのような有り様を見て、遂にまた口を開いた。「僕も、自分の今の対応が良くないことは分かっている。でもただ僕がどう良くないことをしたとしても、決して君の目の前で敢えて間違ったことをしたいとは思わない。――少しの間違いであれば、君が僕を教え導き、僕を次回戒めてくれるか、僕を二言三言罵(ののし)り、何回か叩いてくれればいい。僕は何とも思わないよ。思いがけず君がずっと僕を無視して、僕にその訳が分かるようにしてくれなかったら、僕心の中が不安になって、どうしたら良いか分からなくなるよ。それで死んだら、「不当な仕打ちを受けた亡霊」だね。たとえ偉い坊さんや道士に懺悔してもらっても、生まれ変わることができない。やっぱり君に理由を説明してもらってはじめて、輪廻を託することができるよ。」

 

 黛玉はこの話を聞いて、思わず昨夜のことは遥か彼方に忘れてしまい、こう言った。「あなたがそうおっしゃるなら、どうしてわたしがあなたの家に行ったのに、あなたは小間使いに門を開けるなとおっしゃったの。」宝玉は不思議に思って言った。「そんな話、どこから出てきたんだ?僕がそんなことをしたんなら、今すぐ死んでやるよ。」黛玉は吐き捨てるように言った。「朝っぱらから「死ぬ」の「生きる」のって、そんな不吉なこと言わないで。あなたがそうしたなら事実だし、そうしなかったなら無かったことだから、ちゃんと誓ってよ。」宝玉が言った。「本当に君を見なかったんだ。宝姉さんがしばらく座って、出て来たんだから。」

 

 黛玉はちょっと考えて、笑って言った。「分かったわ。きっと小間使いの女たちが疲れて動きたくなかったのね。むかっ腹を立てて口汚いのも、いるかもしれないわ。」宝玉が言った。「きっとそれが原因なんだろう。僕帰ったら誰がやったのか聞いて、あの子たちにちょっと説教してやるよ。」黛玉が言った。「あなたのとこのあの娘たちにも、説教してやるべきだわ。ただ理屈から言うとわたしが話すべきじゃないわね。――今回はわたしの些細な事で恨みを買うことになったけど、もし今度「宝お嬢さん」(宝釵)や「貝お嬢さん」(宝玉の玉は「宝貝」(宝物)なので貝とし、宝釵と宝玉の関係をあげつらっている)の件でも機嫌を損ねることがあったら、大事になるわよ。」そう言うと、口をすぼめて笑った。宝玉はそれを聞いて、歯ぎしりし、そしてまた笑った。

 

 ふたりがちょうど話していると、小間使いが来て食事に来るように言ったので、一緒に母屋の方にやって来た。王夫人は黛玉の顔を見ると、尋ねて言った。「お嬢ちゃん、あなた、鮑太医(太医は宮廷医のこと)のお薬飲まれて、良くなられた?」黛玉は言った。「飲んでもこんな風ですわ。お婆様が他にわたしに王先生の薬も飲むよう言われました。」宝玉が言った。「お母さまはご存じないのでしょう。林ちゃんは内臓の疾患なんです。生まれつき身体が弱いので、ちょっとした寒気にも耐えられないのです。でも煎じ薬を二服飲めば、寒気を発散させることができるんです。また丸薬を飲んでもいいです。」王夫人が言った。「前に先生が丸薬の名前を言われたけど、忘れてしまったわ。」

 

 

 宝玉が言った。「僕その丸薬知っていますが、黛玉に飲ませたのは、何とか人参養栄丸と言ったはずですが。」王夫人が言った。「違うわ。」宝玉がまた言った。「八珍益母丸だったかな?左帰、それとも右帰?――さもなければ八味地黄丸だったかな?」王夫人が言った。「皆違うわ。わたし、「金剛」の二文字があったのを憶えているんだけど。」宝玉は手をたたいて笑って言った。「これまで何とか「金剛丸」なんて聞いたことないよ。もし「金剛丸」があるなら、当然「菩薩散」があるはずだよ。」そう言うと、部屋中の人が皆笑った。 宝釵が口をすぼめて笑って言った。「ひょっとして、天王補心丹じゃないですか。」王夫人が笑って言った。「ええ、その名前よ。もうわたしもぼけちゃったわね。」宝玉が言った。「お母さまは決してぼけていませんよ。皆「金剛」と「菩薩」がそうさせたんですよ。」王夫人が言った。「恥ずかしげもなく、でたらめを言って。またお父様に殴られますよ。」宝玉は笑って言った。「お父様はもうこのことでは僕を殴らないよ。」

 

 王夫人はまた言った。「名前が分かったからには、明日誰かに買って来させて飲むわ。」宝玉が言った。「こうした薬は役に立たないですよ。お母さまが僕に三百六十両の銀子をくださったら、僕林ちゃんに代わって丸薬の材料を用意すれば、一服飲めば良くなること請け合いですよ。」王夫人が言った。「ばか言いなさんな。どんな薬がこんなに高いものですか。」宝玉は笑って言った。「実を言うとね。僕のこの処方は他のものとは違うんだ。その薬の名前も変わっていて、一言では説明しきれないんだ。ただ健康な人の胎盤、人型の葉っぱの付いた人参だけでも、三百六十両では足りない。亀、ツルドクダミ、樹齢千年の松の根に寄生する茯苓(ぶくりょう。サルノコシカケ科の菌類)と豚の胆汁、――こうした薬は、決して珍しいものではなく、様々な薬のひとつとして認められているのです。かの皇帝陛下用のお薬ときたら、聞いてみるとびっくりしますよ。以前兄さんが僕に求めてきて一二年して、僕はやっとこの処方を兄さんにお渡ししました。兄さんは処方を持って行って、また二三年いろいろ尋ね、千両以上の銀子を使って、ようやく処方ができました。お母さま、信じられないなら、宝姉さんに聞いてみてください。」

 

 宝釵はそれを聞いて、笑いながら手を横に振って言った。「わたし知らないし、聞いたこともないです。あなた、叔母様にわたしに聞けなんて言わないで。」王夫人は笑って言った。「やっぱり宝ちゃんは良い子だ。嘘を付かないから。」宝玉はその場に立っていたが、このように言われるのを聞いて、振り向いて手のひらを一回叩くと、こう言った。「僕が言ったのは、でも本当の話なのに、嘘を付いただなんて言うんだから。」口でそう言いながら、ふと振り返って見ると、林黛玉が宝釵の後ろに座り、口をすぼめて笑いながら、指で顔の上に丸を描いて恥ずかしさを表しているのが見えた。

 

 鳳姐は奥の部屋で、人がテーブルを並べるのを見ていたが、このように話しているのを聞いたので、出て来て笑って言った。「宝ちゃんは嘘を付いていませんよ。この薬は本当にあるんです。以前、旦那様が自らうちに来て、真珠があるか尋ねられたので、わたしはあの方に「何に使う」のか尋ねました。彼は「薬を処方」するんだと言われました。彼はまた恨みがましくこう言いました。「処方しなくてもいいんだ。こんな面倒なこと、どこで教えてもらったんだろう。」それで「何の薬なの?」と尋ねると、宝ちゃんが教えた処方で、どれだけの薬ができるか言われたけど、わたしも憶えていないです。彼はまた言いました。「違うんだ、俺、何粒か真珠を買おうと思うんだが、ただ頭に付けていたものが要るんで、それで何粒かもらえないか尋ねに来たんだ。もしバラの珠花(真珠の象嵌をした首飾り)が無いなら、頭に付けているのを外してくれても構わない。」わたしは仕方がないんで、珠花を二本その場で外して、あの人に渡しました。――それと三尺(1尺は0.33メートル)の長さの、ちょうど使っていた真っ赤な紗(薄手の絹織物)の布が要ると言われ、これで乳鉢を持って粉を磨るのに使うとのことでした。」

 

 鳳姐が一言言うと、宝玉がお経を一節唱えた。鳳姐が言い終わると、宝玉がまた言った。「お母さま、どう思われますか。これもでもやむを得ないんです。正式な処方に依るなら、この真珠や宝石は昔のお墓の中から捜して来ないといけないんです。こうした古代の富貴な家の納棺された服装の上から取ってきたもこそ良いのです。でも今どこで墓を掘ろうと言うんですか?だから生きた人が身に着けているものを使うしかないんです。」王夫人はそれを聞いて言った。「南無阿弥陀仏。罪作りな、してはいけないことよ。お墓の中で、人様が死んで数百年して、今になって死体がひっくり返されて、こうして薬を作っても、効き目なんて無いわ。」

 

 宝玉はそれで黛玉に向かって言った。「君、聞こえたかい? まさか鳳姉さんまで僕と一緒に嘘をついたと言うんじゃないだろう?」顔は黛玉の方を向きつつ、眼では宝釵に流し目を送っていた。黛玉はそれで王夫人の身体を引っ張って言った。「叔母様、聞いて。宝お姉様は宝玉の代わりに嘘を繕ったりしないわ。宝玉はただわたしに尋ねたのよ。」王夫人も言った。「宝玉、おまえは妹をいじめるんだろうね。」宝玉は笑って言った。「お母さまはこのわけをご存じないのですよ。宝お姉様は最初、うちに住んでいて、兄さんのことは、彼女も知らなかったんです。ましてや今は中に住んでいますよね。当然ますます分からなくなりますよ。林ちゃんはちょうど後ろにいますから、僕が嘘をついたら、僕が恥をかくことになりますよ。」

 

 ちょうど話をしていると、賈のお婆様の部屋付きの小間使いが、宝玉と黛玉に食事をするよう捜しに来た。黛玉も宝玉を呼ばずに、立ち上がると自分の小間使いを連れ、出て行こうとした。その小間使いが言った。「宝若旦那様をお待ちして、一緒に行きましょう。」黛玉が言った。「あの方は食事をされないので、わたしたちとは一緒に行かれないの。わたし、先に行きますわ。」そう言うと、出て行ってしまった。宝玉が言った。「僕今日はやはりお母さまと一緒に食事をします。」王夫人が言った。「まあ、まあ。わたしは今日は精進料理を食べますので、おまえはちゃんとおまえの食事をお食べ。」宝玉が言った。「僕も一緒に精進料理を食べます。」そう言うと、その小間使いを呼んで、「お行き。」と言った。自分はテーブルへ走って行って座った。王夫人は宝釵らに向かって笑って言った。「あなたがたは気にしないで自分たちのものをお食べなさい。あの子は好きにさせるわ。」宝釵はそれで笑って言った。「あなた、ちゃんと行きなさい。食事をしようがしまいが、林ちゃんに付き添って行ってあげて。あの子は気持ちがちょうど落ち着いていないから。何を悩んでいるのかしら。」宝玉が言った。「あの子の相手は、しばらくしたら機嫌が直るよ。」

 

 しばらくして食事を済ますと、宝玉はひとつには賈のお婆様が心配するのを恐れ、ふたつには黛玉のことも心配なので、急いで茶を持って来させて口を漱(すす)いだ。探春、惜春は皆笑って言った。「宝兄さん、あなたは一日中家で何を忙しくしているの?食事やお茶もこんなにばたばたせわしなくして。」宝釵は笑って言った。「あなた、宝兄さんに早く食事を済ませて、黛玉ちゃんを見に行かせて。宝兄さんったらここで何をぶつぶつ言っているのかしら。」

 

 宝玉は茶を飲むと、出て行き、まっすぐ西院の方にやって来ると、ちょうど鳳姐の住まいの前まで来ると、鳳姐が門の前に立ち、門の敷居を踏みながら、耳かきの尖った方で歯をほじくり、十人ほどの小者たちが植木鉢を動かすのを見ていた。宝玉が来たのを見て、笑って言った。「あなた、ちょうどいいところに来たわ。入って、入って。わたしの代わりに字を書いてちょうだい。」宝玉は後ろに付いて入るしかなく、部屋に着くと、鳳姐は人に命じて筆、硯、紙を取って来させ、宝玉に言った。「真っ赤な装いの緞子四十匹、ウワバミの刺繍の緞子四十匹、様々な色の皇室御用の紗(薄絹)一百匹、金の首輪四個。」宝玉が言った。「これは何を数えているんですか?帳簿でもないし、贈り物でもないし、どのように書いたらいいんでしょう?」鳳姐が言った。「あなたは構わず書けばいいの。どのみちわたしが自分で分かればいいんだから。」宝玉はそう聞いたので、そのまま書くしかなかった。

 

 鳳姐はそれを受け取ると、一方でにっこり笑って言った。「もう一言あなたに言っておくわ、あなたが同意してくれるかどうか分からないけど。――あなたの部屋に小紅という小間使いがいるでしょう。わたし、あの子を用事を言いつけるのに使いたいの。明日わたしはまたあなたに代わってひとり選んであげるから、あの子を使っていいかしら?」宝玉が言った。「僕の部屋の小間使いは人数が多過ぎるから、姉さんが誰か好みの女の子がいるなら、構わず呼びつけてください。僕に尋ねる必要はないですよ。」鳳姐は笑って言った。「それなら、わたし、あの子を呼んで連れて行くわよ。」宝玉が言った。「構わず連れて行ってください。」そう言うと、出て行こうとした。

 

 鳳姐が言った。「おまえ、戻っておいで。わたしもう一言話があるの。」宝玉が言った。「お婆様がわたしを呼んでおられるので、話があるなら帰って来るまで待ってください。」そう言いながら、賈のお婆様の方に行った。すると皆既に食事を食べ終わっていた。賈のお婆様がそれで尋ねて言った。「お母さまと一緒に何か美味しいものを食べたのかい?」宝玉は笑って言った。「別に何も美味しいものを食べていませんが、でもいつもより一膳多くご飯を食べました。」それで尋ねた。「林ちゃんはどこにいるんですか?」賈のお婆様が言った。「中の部屋にいるよ。」

 

 宝玉が入って行くと、地面の上でひとりの小間使いがアイロンの炭火を吹いているのが見え、オンドルの上ではふたりの小間使いが白い線を入れ、黛玉が腰を曲げてハサミで何かを裁断していた。宝玉は入って行くと、笑って言った。「おや、これは何を作っているの?ご飯を食べたばかりなのに、こんなに首を垂らして、しばらくするとまた頭が痛くなるよ。」黛玉は別に相手にせず、構わずその布を裁断していた。ひとりの小間使いが言った。「この繻子(しゅす)の角のところがまだ良くないです。もっとアイロンを当ててください。」黛玉はハサミを置くと、こう言った。「そうだね、もう少ししたら良くなるわ。」

 

 宝玉はそう聞いて、自らは納得できなかった。宝釵、探春らもやって来て、賈のお婆様とひとしきり話をすると、 宝釵も入って来て尋ねた。「あなた、何をしているの?」林黛玉が裁断をしているのを見て、笑って言った。「益々おできになるようになられたのね。裁断までおできになるの。」黛玉が笑って言った。「これも嘘をついて人の機嫌をとっているだけよ。」 宝釵は笑って言った。「あなたにひとつ笑い話を言ってあげると、さっきのあの薬のことで、わたしが知らないと言ったので、宝兄さんは心の中では受け入れられないでしょうね。」黛玉が言った。「あの人のこと気にしてるの、しばらくすれば機嫌が直るわ。」

 

 宝玉が宝釵に言った。「お婆様が麻雀のパイを拭きたいのに、ちょうど人がいないので、君、パイを拭きに行きなよ。」宝釵はそう聞いたので、笑って言った。「わたしは麻雀のパイを拭きにここに来たの?」そう言うと、行ってしまった。黛玉が言った。「あなたもお行きなさいよ。ここには虎がいて、あなたを食べようとしているわよ。」そう言うと、また裁断を始めた。宝玉は黛玉が相手にしてくれないのを見て、またお追従笑いをしてこう言うしかなかった。「君も散歩に行こうよ。それからまた裁断しても遅くないよ。」黛玉は全く相手にしなかった。宝玉はそれで小間使いの女たちに尋ねた。「これは誰が黛玉に裁断するよう言ったの?」黛玉は女たちに尋ねるのを見て、こう言った。「この人が誰がわたしに裁断するよう言ったのか尋ねても、相手にしないでね。」宝玉が何か言おうとしていると、人が入って来てこう告げた。「外で人があなたを迎えに来られています。」宝玉はそう聞くと、急いで退いて出て行った。黛玉は外に向けこう言った。「南無阿弥陀仏。あなたが戻って来た時には、わたし死んでいるかもしれないわ。」

 

 宝玉が外に出て来ると、焙茗がこう言うのが見えた。「馮旦那様のお宅からお招きでございます。」宝玉はそう聞いて、昨日の話を思い出し(第二十六回で、薛蟠の誕生日に呼ばれた馮紫英が、その日は急な用事があって酒を飲めなかったので、別途宴席を設けて皆を招待する約束をしたこと)、それで言った。「服を取りに行って。」そう言って、自らは書斎の方に行った。

 

 焙茗はまっすぐ二の門の前に行って人を待っていたが、ひとりの老婆が出て来ただけだったので、焙茗は近づいて言った。「宝若旦那様が書斎で外出用の衣服をお待ちなんだ。お婆さん、中に言伝の手紙を持って行ってくれない?」その老婆は吐き捨てるように言った。「フン、何様のつもりだい。宝玉は今は大観園の中に住んでいて、あの人の召使は皆その中に住んでいるんだ。おまえさんはまたわざわざここまで手紙を持って走ってきたのかい。」焙茗はそう聞いて、笑って言った。「怒鳴られるのももっともだ、俺もぼんやりしていた。」そう言うと、まっすぐ東側の二の門の前まで来ると、ちょうど門のところで子供の召使が通路の下でボールを蹴っていたので、焙茗は経緯(いきさつ)を説明すると、ひとりの子供の召使が走って中に入って行き、しばらくして、ようやく風呂敷包みを抱えて出て来て、焙茗に手渡したので、書斎に戻った。

 

 宝玉は服を着替えると、人に言って馬を準備させ、焙茗、鋤藥、双瑞、寿兒の四人の子供の召使だけを連れて出発した。まっすぐ馮紫英の屋敷の門に着くと、人が馮紫英に報告に行き、出て来て出迎え、中に入った。すると薛蟠がとっくにそこでしばらく待っていて、またたくさんの歌歌いの子供の召使たち、また娘役の歌を歌う役者の蒋玉函、錦香院の妓女の雲兒がいた。皆は挨拶を交わすと、お茶を飲んだ。

 

 宝玉は茶碗を上に持ち上げると、笑って言った。「前回話していた「幸福と不幸」のことが、僕昼も夜も気になって、今日はお呼びと聞くや否や、駆けつけました。」馮紫英は笑って言った。「あなたがた叔父甥のおふたりはどちらも誠実な方だ。前はわたしの挨拶に過ぎなかったのに、誠意を籠めてあなたがたは乾杯をしてくださった。おそらく口実として、そう言われたのでしょう。信じようが本当であろうが、どちらでもいいんです。」そう言うと、皆で大笑いした。その後酒杯が並べられ、順番に席に着いた。馮紫英は先に歌歌いの子供の召使に言って酒を持って来させ、その後雲兒を呼び、客に三杯酒を勧めさせた。

 

 かの薛蟠は三杯の酒が腹に収まると、思わず我を忘れ、雲兒の手を引くと、笑って言った。「おまえ、あの心に染みる目新しい曲を歌って俺に聞かせておくれ。俺は酒を甕一杯飲むから。いいだろう?」雲兒はそう聞いて、やむなく琵琶を取って、こう歌った。

 

 

  恋するふたりは、お互い相手を捨てることなどできない。おまえのことを思っていると、また彼のことが気にかかる。ふたりの容貌はたいへん優れていたが、ことばや絵筆でそれを描写するのは難しい。昨晩、密会はこっそり野ばらの棚で行われた。ひとりは密通し、ひとりはそれを暴き立て、原告、被告、証人の三者の対峙になると、わたしも返答のしようがない。

 

 歌い終わると、笑って言った。「あんた、甕に一杯酒を飲んでしまいなさい。」薛蟠はそう聞いて、笑って言った。「甕一杯飲む値打ちがないね。もっと他のいい歌を歌えよ。」

 

 宝玉は笑って言った。「僕の言うことを聞いてください。こんなにみだりに酒を飲んだら、すぐ酔っぱらってしまって意味がありません。わたしが先ず大きな酒杯で一杯飲んだら、この酒席の新たなルール(酒令)を出します。守れなかったら、罰として続けて十杯飲み、そのまま席を下りて、人に酒を注ぐことにします。」馮紫英、蒋玉函らは皆言った。「理にかなっていますね。」宝玉は酒杯を持って来ると、一気に飲み干し、言った。「これから、「悲」「愁」「喜」「楽」の四文字を使って「女性」のことを言い(「酒令」)、またその訳を説明しないといけません。言い終わったら、各自の席の前に置かれた杯(さかずき)を挙げて、飲む前に新たな曲を一曲歌い(「酒曲」)、杯の酒を飲み干したら、席の上で皆が畏敬したり感心するもの、――或いは古詩、好敵手、『四書』『五経』成語を披露しなければなりません(「酒底」)。」

 

 薛蟠は言い終わらないうちに、先に立ち上がると、言葉を遮って言った。「俺は乗らない。俺のことは無視してくれ。これはつまり俺のことを弄んでいるんだろう。」雲兒も立ち上がり、薛蟠を促して座らせ、笑って言った。「何を心配されているの?これもあなたが毎日酒ばかり飲んでる罰よ。まさかわたしにも敵わないの?わたし、後でまた言ったでしょ。正しいなら、それでいい。違っていたら、罰に何杯か酒を飲むだけのことで、酔っぱらっても死にはしないわ。あなたは今日は無茶な酒令(酒の席の遊びで、負けると酒を飲ませる)で、結局大きな杯で十杯も酒を飲まされたけど、席を下りてお酌をするんじゃだめなの?」周りの人々は皆手を打って言った。「その通り。」薛蟠はそう聞いてどうしようもなく、座っているしかなかった。すると宝玉がこう言うのが聞こえてきた。「女の悲しみは、若い美空で既に大いに空の閨房を守ること。女の愁いは、夫に辺境の守備に従軍させ、軍功を上げ諸侯に封じられるよう目指したことへの後悔。女の喜びは、鏡に映った朝お化粧をした自分の顔の美しさ。女の楽しみは、ブランコに揺れる春のブラウスの薄さ。(薛宝釵のことを言っている。)」

 

 人々はそれを聞いて、皆「すばらしい」と言った。薛蟠はひとり顔を上げ、首を振って言った。「良くない、罰しないといけない。」人々は尋ねた。「どうして罰しないといけないんですか?」薛蟠が言った。「あいつが言っていることがわたしは全く理解できない。どうして罰しちゃいけないんだ?」雲兒はそれで薛蟠をギュッとつねって、笑って言った。「あなた、こっそり自分のことを考えてみて。あなたの番になって言えなかったら、また罰せられますよ。」そして琵琶を手に取り、宝玉が歌うのを聞いた。

 

  相思う男女の思いは、血や涙が小豆(紅豆)を撒いたようにぽたぽた垂れて尽きず、春の柳や春の花が画楼の前で咲いてもなかなか満開にはならないかのようだ。風雨の中の黄昏時、紗を貼った窓の中で、わたしは熟睡できずにいる。それは古い愁いが忘れられないのに、新たな愁いが加わるから。珍しい料理も喉を通らない。菱花の鏡(古代の銅鏡)に映しても、自分の(憔悴し)やせ衰えた姿を見ることができない。気が晴れず眉間を広げることができない。眠れぬ夜は長く、夜はなかなか明けぬ。ああ、あの遮ることのできぬ青山のように連綿と続き、永遠に止まることのない渓流の緑の水のように絶えることがない。(林黛玉への愛情と、薛宝釵と結婚したことへの心の揺れを歌っている)

 

 歌い終わると、皆一斉に喝采を叫んだが、ひとり薛蟠は「拍子(テンポ)が無い」と言った。宝玉は自分の席の前の杯の酒を飲むと、切った梨を一切れつまむと、「雨は梨の花を打ち、深く門を閉ざす」(明代の唐寅の詩『一剪梅・雨打梨花深閉門』の最初の一節。薛宝釵のこと)と言い、酒令を完了させた。

 

 次は馮紫英の番で、こう言った。「女の喜びは、初めて妊娠して双子が生まれること。女子の楽しみは、ひとり庭でコオロギを捜すこと。女の悲しみは、夫が伝染病に罹って危篤であること。女の愁いは、大風で女が暮らす建物が倒壊したこと。」言い終わると、酒杯をまっすぐ掲げると、こう歌った。

 

  あなたはわたしの愛すべき人。あなたは情多き人。あなたは悪賢く機転の利く人だ。――あなたは仙人のようだけど役に立たない。わたしが言うことをあなたは全く信用してくれないが、ただあなたが陰でこっそり詳しく聞いてくれれば、わたしがあなたを愛しているかどうか分かるだろう。

 

歌い終わると、席の前の杯の酒を飲み、こう言った。「鶏の声が鳴り響き、茅葺屋根の旅籠に月が見える。」(唐・温庭筠の詩『商山早行』の一節)酒令が終わり、次は雲兒の番であった。

 

 雲兒はそれでこう言った。「女の悲しみは、将来終身誰に頼るか?――」薛蟠が笑って言った。「おまえにはこの薛旦那様がいるのに、おまえ何を心配するんだ?」周りの人々が言った。「こんな奴を相手にするな。」雲兒がまた言った。「女の愁いは、母さんが叱るのがいつになったら終わるのか?――」薛蟠が言った。「前に俺があんたの母さんに会った時に、彼女に言いつけて、あんたを叱るなと言ったよ。」周りの人々が言った。「これ以上口を挟んだら、罰として酒十杯。」薛蟠は急いで自分で自分の頬にビンタを食らわして、言った。「忘れっぽくてね。さっき注意されたことも忘れてしまったんだ。」雲兒がまた言った。「女の喜びは、愛しい人がわたしを捨てずにまだ家に居てくれること。女の楽しみは、簫の演奏を止めて、琴をつま弾くこと。」言い終わると、次のように歌った。

 

  ビャクズク(豆蔻花)の花(「豆蔻年華」で十三四歳の少女を表す。豆蔻花の花弁の構造は特殊で、花弁が閉じると、外から力を加えないと開かない。)は三月三日の上巳の節句に咲き、一匹の虫が花の中に入って受粉しようとした。(虫と花が「鑽」(穴を開ける)、「開」することで、男女の営みを連想させる)しばらく雌蕊まで潜り込もうとしたが、潜り込めず、花の上まで這い上がって、ブランコを漕いだ。わたしは(男女の営みを)求めていないのに、あなたはどうして入れようとするの?

 

 歌い終わると、席の前の酒杯を飲み、言った。「桃の夭夭(ようよう)たる。」(『詩経』の一節)酒令が終わり、次は薛蟠の番となった。

 

 薛蟠は言った。「俺、でも言わないといけないな。女の悲しみは――」言ってしばらく経ったが、続きが出て来なかった。馮紫英が笑って言った。「何が悲しいの?早く言えよ。」薛蟠はすぐさま焦った眼が鈴のようになり、そして言った。「女の悲しみは――」また二度咳ばらいをし、それからようやく言った。「女の悲しみは、嫁いだ男が「烏亀」(インポ)だった。」周りの人々はそれを聞いて大笑いになった。薛蟠が言った。「何を笑うんだ?まさか俺が言ったのが間違っているか?ひとりの女が男に嫁いだが、「要做忘八」(忘八は烏亀 とほぼ同じ意味。インポだったので他の男に寝取られてしまった)のが、どうして悲しくないんだ?」周りの人々は可笑しさの余り、身体をのけぞらしながら言った。「あなたが言うのはもっともだ。早く続きを言ってくれ。」薛蟠は眼をカッと見開きながら、また口を開いた。「女の愁いは――」ここまで言って、また言葉が止まってしまった。周りの人々が言った。「どのように憂えるんだ?」薛蟠が言った。「女の閨房から大きな猿が慌てて逃げ出して来た。」周りの人々はハハッと大笑いして言った。「罰しないとだめだ。さっきのはまだ許せるが、この文句は尚更筋が通らないぞ。」そう言うと、酒を注がせようとした。宝玉は言った。「押韻はちゃんと踏んでいますよ。」薛蟠が言った。「酒令のきまりは皆守っているよ。おまえら何をごたごた騒いでいるんだ。」周りの人々はそう聞いて、ようやく収まった。

 

 雲兒が笑って言った。「下の二句は益々言うのが難しくなったでしょう。わたしが代わりに言ってあげるわ。」薛蟠は言った。「でたらめ言うな。本当に俺は良いところが無いか?俺の言うのを聞いてくれ。女の喜びは、新婚初夜の閨房で、快楽の余り翌朝の起床が気だるい。」周りの人々はそう聞いて、皆怪訝そうに言った。「この句はどうしてこんなに雅(みやび)なんだ?」薛蟠が言った。「女の楽しみは、一本の男根を中に突き刺すこと。」周りの人々はそれを聞いて、皆振り向いて言った。「くそったれ。早く歌わんかい。」薛蟠はそれでこう歌った。「一匹の蚊がフンフンフン……」周りの人々は皆呆気にとられ、ポカンとし、言った。「これは何という曲だ?」薛蟠が更に歌った。「二匹のハエがウォンウォンウォン……」周りの人々は皆言った。「もういいよ。」薛蟠が言った。「この曲はどうだい?――これは目新しい曲で、哼哼韻と言って、君たちはいい加減に聞いてくれればいい。酒底も免除してくれ、俺は歌わないよ。」人々は皆言った。「もういいよ、それより他の人の番が遅くならないようにしてくれ。」

 

 そして、蒋玉函が言った。「女の悲しみは、夫が出て行ったきり、戻って来ないこと。女の愁いは、金が無くてキンモクセイの油(女性が髪に付ける油)が買えないこと。女の喜びは、ランプの芯の燃えさしがきれいに二本残るように、夫との夫婦生活がうまくいき、子供に恵まれること。女の楽しみは、夫唱婦随で夫婦仲が良いこと。」言い終わると、こう歌った。

 

  喜ばしいことに、おまえは生まれつき淑やかで美しく、ちょうど生きた神様が天空を離れ俗界に下りて来たかのようだ。正に青春真っ盛り、鸞鳥と鳳凰がつがいになり、真にお似合いだ。ああ。銀河が天空高く懸かるのを仰ぎ見れば、城楼からは時を告げる太鼓の音が聞こえてくる。銀の燭台を掲げ、一緒に夫婦の寝台に静かに入る。

 

歌い終わると、席の前の酒杯を飲み、笑って言った。「この詩の文句について、わたしの理解は限られていますが、幸い昨日とある対聯を見て、この句だけ覚えました。ちょうどこの酒席でこれを披露できました。」そう言うと、酒を飲み干し、モクレンの花を一輪持ち、こう詠んだ。「花の気が人を襲い、昼暖かきを知る」(「花気襲人知昼暖」南宋・陸游『村居書喜』。蒋玉函が襲人と夫婦になることを暗示している)。

 

 周りの人々は皆納得し、酒令が完了した。薛蟠がまた跳び上がってガヤガヤ騒ぎ立てた。「ひどいもんだ。罰しないといけない。この酒席にはお宝が無いのに、おまえどうしてお宝のことを言うんだ?」蒋玉函は急いで言った。「いつお宝なんて言いました?」薛蟠が言った。「おまえはろくでもない奴だな。もう一度詠んでみろ。」蒋玉函は仕方なくもう一度酒底を詠んだ。「この「襲人」はお宝でないなら何だ?――おまえたち、信じないならこいつに聞いてみろ。」そう言うと、宝玉を指さした。宝玉は申し訳なさそうに立ち上がると、言った。「薛兄さん、罰で何杯飲まないといけないですか?」薛蟠が言った。「罰だ、罰だ。」そう言うと、酒を持って来て、ひと息に飲み干した。馮紫英、蒋玉函らは理由が分からなかったが、雲兒が横から説明してくれたので、蒋玉函は急いで立ち上がって罪を謝した。周りの人々は言った。「知らなかったなら、罪にならない。」

 

 しばらくして、宝玉は席を出て手洗いに行き、蒋玉函がそれに付いて出て来たので、ふたりは廊下の軒下に立ち、蒋玉函はまた過ちを謝した。宝玉は彼が姿が艶めかしく物腰が柔らかいのを見て、心の中でとても恋々しく思い、それで強く彼の手を握りしめると、彼にこう言った。「時間があったら、僕のところにおいでよ。それとひとつ君に尋ねたいんだけど、君んとこの劇団に、琪官という役者さんがいて、彼は今名前が天下に鳴り響いているけど、残念ながら僕ひとり縁が無くてまだ見たことがないんだ。」蒋玉函は笑って言った。「それはわたしの幼名なんですよ。」宝玉はそう聞いて、思わず嬉しくなり、足を踏み鳴らして笑って言った。「なんてラッキーなんだ。果たして評判に違(たが)わない。今日初めてお会いするけど、さてどうしたらいいんだろう?」ちょっと考えて、袖の中から扇子を取り出し、玉の玦(けつ。環状で一部が欠けたもの)の扇墜(扇子の房飾り)を外して、琪官に手渡し、言った。「つまらないもので申し訳ないですが、とりあえずこれで、今日のところはわたしたちの誼(よしみ)の証(あかし)としたいのですが。」琪官はそれを受け取り、笑って言った。「まだ何の功も挙げていませんのに、このようなご褒美をいただき、どうしてこれに報いればいいんでしょう?――まあ仕方がないでしょう。わたしの方にもひとつ珍しいものがあります。今朝起きてから締めたばかりで、まだ新(さら)のものです。ひとまずこれでわたしの親しみの気持ちを少しでも表したいと思います。」そう言うと、衣服をまくり上げ、下着を締めていた一本の真っ赤な腰帯(汗巾子)を解(ほど)いて、宝玉に手渡し、言った。「この腰帯は茜香国(架空の国名)の女性の国王が貢献して来たもので、夏にこれを締めると皮膚から良い香りがし、汗で濡れることがありません。昨日北静王がわたしにくださり、今日初めて身に付けました。もし他の人だったら、わたしは断じてお贈りしたりいたしません。旦那様、どうかご自分のされているものを解いて、私に結んでくださいませんか。」

 

 宝玉はそう聞いて、嬉しくてたまらず、急いで受け取ると、自分の松花色(松の葉のような深みのある濃い青緑色)の腰帯を解いて琪官に手渡した。ふたりは各々それをしっかり締めると、一緒に大声で叫んだ。「これでしっかり結ばれた。」すると薛蟠が飛び出して来て、ふたりを引っ張って言った。「酒をほったらかしにして飲まないで、ふたりで宴席を逃げ出して来て、何をしてるんだ?早く取り出して、俺に見せるんだ。」ふたりは言った。「何も無いよ。」薛蟠がどうして納得するだろうか。すると今度は馮紫英が出て来て、それでようやく解放された。彼らはまた席に戻り酒を飲み、夜遅くなってようやくお開きとなった。

 

 宝玉は大観園の中に戻り、上着を脱いでくつろいで茶を飲んだが、襲人が宝玉の扇子の扇墜が無くなっているのに気づき、それで宝玉に尋ねた。「扇墜をどこにやったの?」宝玉が言った。「馬の上で落としたんだ。」襲人もそれ以上何も言わなかった。眠る時になって、宝玉の腰に一本の血が付いたような真っ赤な汗巾子(腰帯)が締められていたので、八九分方それと察し、それで言った。「あなた、良いものでズボンを縛っているわね。わたしのあの腰帯を返してくださらない?」宝玉はそれを聞いて、ようやくあの腰帯のことを思い出した。元々襲人のもので、他人に与えるべきではなかったのだ。心の中で後悔したが、口に出して言うことができず、ただ笑ってこう言うしかなかった。「僕、おまえに一本弁償するよ。」襲人はそう聞いて、頷き、ため息をついて言った。「わたし、あなたがまたこんなことをしてしまったのが分かったわ。でも、わたしのものをああしたろくでなしにあげてほしくないわ。あなたの心の中で、予め計算ができないのも困ったものだわ。――」まだ言い足りなかったが、また宝玉が酒を飲まされ酔っぱらっていたので、そのまま寝かさないといけなかった。その晩は特に何も無かった。

 

 翌日は空が明るくなってからようやく目覚め、宝玉はと見ると、笑って言った。「夜中に失くしたのか盗まれたのかも分からない。おまえ、ズボンの上を見てくれるか。」襲人は頭を下げて見てみたが、昨日宝玉が締めていたあの腰帯が、自分の腰に締められていたので、宝玉が夜中に交換したのが分かり、急いで一度解いて外すと、言った。「わたし、こんなもの欲しくないわ。早く持って行ってちょうだい。」宝玉は襲人のこのような剣幕を見て、一度穏やかになだめるしかなかった。襲人は仕方なく、しばらくそのまま締めていたが、その後宝玉が出て行くと、遂にそれを解いて、空の箱の中に放り込んでしまった。自分はまた他の腰帯を締めた。

 

 宝玉は別段そのことで言い争いもしなかった。それから尋ねた。「昨日は何か無かったの?」襲人はそれで答えて言った。「若奥様が人を遣わして小紅を呼びに来られました。あの子は元々あなたが帰って来られるのを待っていたのですが、わたしが何も急ぎの用事が無いと思ったので、わたしが差配して、彼女をあちらに行かせました。」宝玉が言った。「それでいいよ。僕もそのことはもう知っていたから、僕を待つ必要は無かったんだ。」襲人がまた言った。「昨日は貴妃殿下(賈元春)が宦官の夏様を遣わして来られ、百二十両の銀子を贈られ、清虚観で一日から三日まで三日間の平安醮の祈祷をさせ、歌や芝居を奉納させ、珍旦那様にお屋敷の旦那様方を率いさせ、跪いてお線香を上げ仏さまをお参りさせるよう言いつけられました。また端午節の贈り物も下さりました。」そう言うと、子供の小間使いに命じて、昨日賜ったものを取って来させた。それは以外にも上等な宮扇二本、紅麝香の数珠が二串、鳳の尾の模様の絹織物二匹、芙蓉の模様の入った簟(竹製の敷物)一枚であった。

 

 宝玉はこれを見て、嬉しくてたまらず、尋ねた。「他の人たちにも同じものが贈られたの?」襲人が言った。「お婆様には香玉の如意がひとつ、瑪瑙の枕がひとつ多く贈られました。旦那様、奥様、お妾様には、香玉の如意がひとつだけ多く贈られました。あなたと宝お嬢様には同じものです。林お嬢様と二女、三女、四女の皆さんには、扇子と数珠がひとつずつだけで、他にはありませんでした。賈珍様の奥様、若奥様(鳳姐)のおふたりには、それぞれ紗二匹、羅二匹、香袋ふたつ、錠剤のお薬(紫金錠という夏バテ防止の薬)二錠が贈られました。」宝玉はそれを聞いて、笑って言った。「これはどうしたことだろうね。どうして林ちゃんのものが僕と違うんだろう?それなのに宝姉さんのものが僕と同じなの?聞き間違えたんじゃないの?」

 

 襲人が言った。「昨日受け取った時に、ひとつひとつ札に書き出していますから、どうして間違うことがありましょう。あなたのものは、お婆様の部屋で、わたしが行って受け取って来ました。お婆様はこう言われました。「明日あなたに五更(早朝の三時から五時)に皇宮に行ってもらい、元春妃にお目にかかりお礼を申し上げるように」と。」宝玉が言った。「もちろん行かないといけないよ。」そう言うと、紫鵑を呼んで来た。「これをお宅のお嬢様のところに持って行って、昨日わたしがもらったものですが、好きなものがあったらどれでも留め置いてくださいとお伝えしてください。」紫鵑は「はい」と答え、持って行った。しばらくして戻って来て言った。「お嬢様がおっしゃいました。昨日わたしもいただきました。旦那様が留め置かれますように、とのことでした。」

 

 宝玉はそう聞いて、人に命じて片付けさせた。顔を洗ってすぐ、賈のお婆様のところにご挨拶に行くと、黛玉が前方からやって来るのが見えたので、宝玉はそれに出くわすと笑って言った。「僕のもらったものから君に好きなものを選び取ってもらおうと思ったのに、どうして取らないの?」黛玉は昨日宝玉のことで思い悩んだが、とっくにそれを捨て置き、今日のことだけ考えていたので、こう言った。「わたしはこんな大きな幸運を得ようなんて、思いもしていません。宝お嬢様とは比べ物にもなりませんわ。何が「金」でどこの「玉」ですか。わたしたちは草木のような人間に過ぎませんわ。」

 

 宝玉は黛玉が「金玉」の二文字を挙げたので、思わず心の中で不思議の思い、それで言った。「他の誰かが「金」だとか「玉」だとか言ったのか知らないけど、僕は心の中でこう思っているんだ。悪事を働いたら、天地共に許されず、永世輪廻することができない、とね。」黛玉はこの話を聞いて、心の中で猜疑心が湧き、慌てて笑って言った。「本当にくだらない。意味もなく何の誓いなの?あなたが「金」だろうが「玉」だろうが、誰が関係するの?」宝玉が言った。「僕が心の中で思っていることを君に説明するのは難しいけど、時間が経てば自然とはっきりするよ。お婆様、お父様、お母さまの三人を除いて、四番目が君だ。五番目なんていない、ここに誓うよ。」黛玉が言った。「誓う必要なんて無いわ。わたし、よく分かっているの。あなたの心には「妹」(黛玉)がいても、「姉さん」(宝釵)を見ると、「妹」のことを忘れてしまうのよ。」宝玉が言った。「それは君の気の回しすぎだよ。僕は断じてそんなことは無いよ。」黛玉が言った。「昨日は姉さんがあなたの嘘の辻褄を合わせなかったのに、あなたはどうしてそれをわたしに尋ねたの?それがもしわたしだったら、あなたはどうするつもりだったの?」

 

 そう話をしていると、ちょうど 宝釵があちらからやって来るのが見えたので、ふたりはそこを離れた。宝釵はそれがはっきり見えたので、気づかぬふりをして、頭を下げて行ってしまった。王夫人のところに着くと、一度腰かけて、それから賈のお婆様のところへ行くと、宝玉もそこに座っていた。

 

 

宝釵は、以前に母親が王夫人に「金の鎖はある和尚さんがくださったもので、将来玉を持った方がおられると、その方と婚姻が結ばれるかもしれない」(『紅楼夢』第八回)などと言っていたので、それでいつも宝玉とは距離を置くようにしていた。昨日元春妃から賜ったものを見て、ひとり彼女だけが宝玉と同じであったので、心の中では益々面白くない気持ちになった。幸い宝玉がひとり黛玉に纏わりついていたので、心の中で気にかけつつ、ただ黛玉のことを心配したのであるが、決してこのことで言い争うつもりはなかった。この時ふと宝玉が笑って言った。「宝姉さん、僕にあなたのその良い香りのする数珠をちょっと見せてくれない?」ちょうど宝釵が左腕にその数珠をはめていたので、宝玉が彼女に尋ねたので、それを外して見せざるを得なかった。

 

 宝釵は元々生まれつき皮膚がむっちりと潤いがあり、すぐには外せなかったので、宝玉は傍らで彼女の真っ白な腕を見ながら、思わず羨ましく思い、ひそかにこう思った。「この腕が、もし林ちゃんの身体に付いていたら、ひょっとすると思わずさすっちゃうかもしれないな。残念ながら宝姉さんの身体に付いているから、本当に僕ついてないなあ。」そしてふと「金と玉」の一件を思い出し、それでまた宝釵の容貌を見てみると、顔は銀の盆のよう、眼は瑞々しい杏子のよう。唇は紅を付けなくても丹色を含み、眉は描かなくとも鮮やかな翠を呈していて、黛玉とは違った艶めかしさを備えていた。思わず見惚れてぼんやりとしてしまい、宝釵が数珠を外して宝玉に渡したのに、彼は受け取るのを忘れてしまった。

 

 宝釵は宝玉がぼんやりしているのを見て、自分でも面白くなくなり、立ち上がると数珠を放り投げ、身を翻して出て行こうとしたが、黛玉が門の敷居を踏みながら、口にハンカチをくわえて笑っているのが見えた。宝釵が言った。「あなたは風が吹くのも持ち応えられないくせに、どうしてまたその風の通り道に立っているの?」黛玉は笑って言った。「別に部屋の中にいたわけじゃないわ。ただ天上の声が聞こえたので、出て来て見てみたら、間抜けな雁がいたのよ。」宝釵が言った。「間抜けな雁はどこにいるの?わたしもちょっと見てみましょう。」黛玉が言った。「わたしが今しがた出て来ると、雁は「バタバタ」と音をたてて飛んで行ったわ。」口でそう言いながら、手の中のハンカチを、宝玉の顔目掛けて放り投げ、それがちょうど知らぬ間に宝玉の眼に命中し、「ひゃあっ」と大声を上げた。そのいきさつを知りたい向きには、次回解説いたします。

 小間使いの小紅は、ひょんなことから王熙鳳(鳳姐)に見出され、試しに侍女の平兒への言伝を頼むと、それをテキパキうまくこなしたことから、 鳳姐の下で働くよう言われます。黛玉はちょっとした行き違いから宝玉と仲違いしてしまいます。時は春の終わり、二十四節季の芒種。花が散り行く時期で、黛玉は以前桃の花を埋めた花塚に行き、泣きながら『葬花吟』の詩を詠唱するのを、偶然宝玉に聞かれます。『紅楼夢』第二十七回のはじまりです。

 

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滴翠亭にて楊妃(楊貴妃。ここでは薛宝釵を指す)は彩蝶と戯(たわむ)れる

香を埋める塚にて飛燕(趙飛燕。林黛玉を指す)は泣いて紅を残す

 

 

 さて、黛玉が正に自ら悲しみに泣き濡れていると、ふと屋敷の門が開く音が聞こえ、宝釵が出て来るのが見え、宝玉や襲人など一群の人々が見送りに出て来た。出て行って宝玉に尋ねようとも思ったが、また人々の前で宝玉に直接尋ねるのも、彼にバツが悪く感じさせて具合が悪いので、さっと傍らに身を隠し、宝玉らがまた屋敷に入り、門が閉じられてから、また戻って来たのであるが、なお門を望んで、涙が幾粒かこぼれ落ちた。自分でも虚しく感じ、身を翻して家に戻って来て、しょんぼりと残った化粧を落としたのであった。

 

 紫鵑と雪雁は平素から黛玉の性格を分かっていた。何事も無いのに気がふさぎ、憂鬱そうな表情をするのでなければ、ため息をつき、しかも何事も無いのに、どうしてか分からぬが、勝手に涙が出てきて止まらぬことがあった。以前にはなだめてくれる人もいたし、父母のことや故郷を思い出し、つらい思いをせぬか心配し、言葉でなだめて落ち着かせた。ところが、それ以降毎年毎月いつもこのようであったので、皆それを見慣れてしまい、あれこれ議論することも無くなってしまった。それゆえ誰も彼女を諭すことが無くなり、彼女が気持ちがふさいでいれば、周りの女たちは外で他の用事を済ましに行くようになってしまった。

 

 かの黛玉はベッドの縁に寄りかかり、両手で膝を抱え、眼に涙をため、まるで木彫りや石膏造りの像のように、ずっと二更(夜の21時から23時)頃までじっと座っていて、それからようやく眠りについた。その晩は特に何も無かった。

 

 翌日、すなわち四月二十六日、元々この日の未(ひつじ)の刻(13時から15時)から、芒種(ぼうしゅ)、穀物の芒(のぎ)の種を蒔く節季が始まった。昔からの風習で、凡そ芒種の節季の日には、様々なお供え物を並べ、花神へお別れをするお祭りをした。――芒種をひとたび過ぎると、夏になると言われ、花々は皆散りゆき、花神は退位するので、お別れをしなければならなかった。閨房の中ではなおさらこうした風習が盛んであったので、大観園の中の人々は、皆早い時間に起き出して来た。若い女性たちは、或いは花びらや柳の枝で駕籠や馬を作ったり、綾衣や錦、絹の布を重ね、雌牛の尾や鳥の羽で飾った旗を作り、これらを色とりどりの糸で繋いだ。木々の一本一本、一本一本の花々には皆、これらの物が繋がれた。庭園中で、刺繍が施された帯がゆらゆら揺れ動き、花や木々の枝に翻った。更にここにいる女性たちの艶やかさと言ったら、桃も恥じらい杏子も退くかのようで、燕は嫉妬し鶯は恥じらうかのようで、すぐには言い尽くせぬかのようであった。

 

 さて宝釵、迎春、探春、惜春、李紈、鳳姐ら並びに女性たち、香菱と小間使いの女たちは、皆庭園の中で遊んでいたが、ひとり黛玉は姿を見せなかった。 迎春はそれでこう言った。「林ちゃんはどうしていないんだろう?なんてものぐさな娘なんだろう。こんな日にまだ寝ていないと気が済まないのかしら?」宝釵が言った。「あんたたち、お待ちなさい。わたしが行ってあの子を驚かせてやるから。」そう言いながら、女たちを引き連れ、まっすぐ瀟湘館へやって来た。ふと前を見ると宝玉が屋敷に入って行くのが見えたので、宝釵は立ち止まり、俯いてちょっと考えた。「宝玉と黛玉は小さい時からひとつ処で成長し、彼ら兄弟(兄妹)の間にはいろいろ疑わしいところがあるのは避けられないけど、嘲笑するのも憚られるし、喜怒の感情も刻一刻変化する。まして黛玉は平素からちょっとしたことで他人を疑い、些細なことでもすぐ怒る。今、わたしまで一緒に屋敷に入って行ったら、ひとつには宝玉が具合が悪いだろうし、ふたつには黛玉が疑いをかけるだろうから、やはり戻るのがいいだろう。」考え終わると、そこを抜け出し、戻って来た。

 

 ちょうど他の女兄弟の元を尋ねようと思っていると、ふと目の前にひとつがいの白玉の色をした蝶々が見え、大きさはうちわくらい、上下に羽ばたきながら、風を受けて軽やかに舞い、たいへん面白かった。宝釵はちょっと捕まえてやろうと思い、袖の中から扇子を取り出すと、草地に向けて下ろして捕まえようとした。するとかのつがいの蝶々は、上がったり下がったり、近寄ったり遠ざかったりし、やがて川を越えようとした。蝶をここまで追ってきた宝釵は抜き足差し足で、ずっと池のほとりの滴翠亭まで付いて来たが、汗が滴り落ち、激しく動いて息が切れ、もう身体が動かなくなった。宝釵もこれ以上蝶を捕まえる気が無くなり、もう帰ろうと思ったその時、ふとあちらのあずまやの中から、ひそひそと誰かが話す声が聞こえてきた。実はこのあずまやの四面は皆回廊と欄干が取り囲み、池の中の水中に建てられていて、四面が彫刻を施した仕切り窓で、紙が貼られていた。

 

 

 宝釵があずまやの外から何を話しているか聞こうと、足を止め、そっと聞き耳を立てると、こう話しているのが聞こえた。「見てごらんなさい。この絹のハンカチが間違いなくあなたが失くしたものだったら、あなた持って行きなさい。もし違ったら、芸旦那様にお返しなさい。」もうひとりが言った。「他でもなくわたしのものだわ。わたしに返してちょうだい。」またこう言うのが聞こえた。「あなたはどんなものでわたしにお礼してくれるの? まさかわたしに無駄働きさせるんじゃないわよね?」それに対し、また答えて言った。「わたしはもうあなたには随分感謝したから、もうあなたの機嫌は取らないわ。」またこう言うのが聞こえた。「わたしが捜してきてあなたに渡したんだったら、もちろんわたしに感謝するんでしょうけど、あの拾った人に、あなたは感謝しないの?」もうひとりがまた言った。「あなた、でたらめ言わないで。あの方はご主人様のお家の方よ。わたしたちの物を拾われたら、当然返してもらわないといけないわ。わたしに何を以てあの方に感謝すればいいの?」またこう言うのが聞こえた。「あなたがあの方に感謝しないと言うなら、わたしはどうあの方にお返事すればいいの?まして、あの方は何度もわたしに言われたわ。もし感謝しないなら、わたしがあなたにハンカチを返すのを許さないって。」しばらくして、またこう言うのが聞こえた。「仕方ないわ。わたしのハンカチを持って行って、あの方にお渡しして。あの方への感謝の気持ちだと言って。――あなた、このことを他の人にも言うんじゃないでしょうね?言わないと誓って。」またこう言うのが聞こえた。「もし誰かにこの話をしたら、舌にできものができて、今後成仏できないわ。」またこう言うのが聞こえた。「あらまあ。わたしたち話に夢中になって、誰かがこっそり外で聞いていないかよく調べないといけないわ。いっそ、この窓を全部開け放って、人がわたしたちがここにいると分かるようにすれば、皆わたしたちが冗談を言っているとばかり思うに違いない。目の前まで歩いていけば、わたしたちからも見えるのは、言うまでもないわ。」

 

 宝釵は外でこの話を聞いていて、心の中でびっくりして、こう思った。「道理で昔から今まで、ああした陰でこそこそ破廉恥なことをする輩は、知恵がよく回るものだわ。こうして窓を開けて、わたしがここにいるのが分かれば、あの娘たちは恥ずかしがるんじゃないか?ましてや話している声から、おおかた宝玉の部屋付きの小紅のようだわ。あの子は昔からうぬぼれが強いところがあって、一番悪賢くて変わった小間使いで、今日わたし、あの子の欠点が分かったわ。「人は焦ると謀反を働き、犬は焦ると壁を飛び越える」、もめごとになるし、わたしも面子が無くなるわ。今慌てて隠れようとしても、おそらく隠れる暇は無い。ここは一計を案じて、ここを「もぬけの殻」にして逃げるしかないわ――」なお考えが終わらぬうちに、「ギシギシ」と音がしたので、宝釵はわざと強く足音を立て、笑いながら大声で言った。「顰兒(眉をひそめること。林黛玉のあだ名)、あなたどこに隠れているの。」そう言いながら、わざと前に移動した。

 

 そのあずまやの中にいた小紅、墜兒はたった今窓を押し開けたところで、宝釵がこのように言いながら前に近づいて来るのが見え、ふたりは驚き恐れた。宝釵は却ってふたりに笑って言った。「おまえたち、林お嬢様をその中に隠していないかい?」墜兒が言った。「どこで林お嬢様を見られたんですか?」宝釵が言った。「わたしは今しがた川辺で林お嬢様がこちらでたたずんで水遊びをされているのを見たのよ。わたしはこっそりあの子を驚かしてやろうと思ったんだけど、目の前まで行かないうちに、あの子がわたしを見つけて、東の方に回り、姿が見えなくなった。――もしかして中に隠れていない?」そう言いながら、一方でわざとあずまやに入って行くと、ちょっと中を調べて、外に出て来て、独り言を言った。「きっとまた山の洞窟の中に潜り込んだのよ。蛇に出逢って、噛まれても仕方がないわね。」そう言いながら、一方で歩みを進めながら、心の中でさも可笑しそうにした。「この件は隠しておきましょうね。おふたりはそれでいいかしら?」

 

 思いがけず小紅は宝釵の話を聞いて、本当だと信じ、宝釵が遠くまで行くと、墜兒の身体を引っ張り言った。「えらいことだわ。林お嬢様がここにおられたのなら、きっと話を聞かれてしまったわ。」墜兒はそう聞いて、しばらくの間何も言わなかった。小紅がまた言った。「これはどうしたらいいの?」墜兒が言った。「聞こえたわ、ほっておけばいいのよ。皆がそれぞれ自分のことをすればいいんだわ。」小紅が言った。「もし宝お嬢様に聞かれても、仕方がないわ。あの林お嬢様は言葉に棘のある人で、感情も細かいから、あの方に聞かれていて、もし他の人に話が漏れたら、どうなるのかしら?」

 

 ふたりがちょうど話をしていると、香菱、臻兒、司棋、侍書らがあずまやに上がって来るのが見えた。ふたりはこの話を隠しておかざるを得ず、且つ彼女たちと談笑した。ふと鳳姐が山の斜面の上に立ち、手招きするのが見えたので、小紅は急いで人々を捨て置き、鳳姐の前まで走って行き、作り笑いを浮かべて尋ねた。「若奥様、何かご用ですか?」鳳姐は彼女を一度しげしげと眺め、この娘が生まれつきさっぱりしてきれいで、話をしても物事をよく心得ているのが分かり、それで笑って言った。「うちの小間使いたちは今日はわたしに付いて来なかったの。わたしは今回あることを思い出して来たんだけど、もしわたしの代わりにお使いを頼むんだったら、あなたやってくれるかしら。用件を漏らさず言うことができて?」小紅は笑って言った。「若奥様が何か事付けられたいなら、わたしに言いつけられればいいですよ。言伝(ことづて)が不十分で、若奥様の用事で誤解が生じたら、若奥様の責めに従いますわ。」鳳姐は笑って言った。「おまえはどのお嬢さんの家の者だね?わたしがおまえを遣わして、ご主人が戻って来ておまえを捜したら、わたしがちゃんとおまえの代わりに言っておくよ。」小紅が言った。「わたしは宝旦那様の家の者です。」

 

 鳳姐はそう聞いて笑って言った。「おやまあ。おまえはなんと宝玉の家の者だったのかい。道理で、まあ仕方がない。あの子が尋ねたら、わたしが代わりに言っておくよ。――おまえ、うちに行って平姉さんに伝えておくれ。外の部屋のテーブルの上の汝窯の大皿の台の底に一巻の銀子が置いてある。全部で百二十両あって、刺繍職人に渡す工賃だから、張材家の者が来たら、その場で重さを量って確かめさせて、その銀子を持って帰らせておくれ。それともうひとつ。家の中のベッドの上に小さなポーチがあるから、持って来ておくれ。」

 

 小紅はそう聞いて、「はい」と答え、向こうを向いて出て行った。しばらくして帰って来たが、鳳姐が山の斜面の上におらず、 司棋が山の洞窟の中から出て来て、立ちながらベルトを締めていたので、近寄って尋ねた。「お姉様、若奥様はどちらへ行かれましたか?」司棋が言った。「知らないわ。」小紅はそう聞くと、向こうを向いて四方を一瞥し、あちらで探春と宝釵が池の畔で魚を見ているのが見えたので、小紅がやって来て追従笑いをして言った。「お嬢様方、若奥様が今しがたどちらに行かれたかご存じありませんか?」探春が言った。「おまえを大奥様のお屋敷に捜しに行かれたわよ。」

 

 小紅はそう聞いて、今度は稲香村の方にやって来ると、向こうから晴雯、綺霞、碧痕、秋紋、麝月、侍書、入画、鶯兒らの一群の女たちがやって来た。晴雯は小紅を一目見ると、言った。「あなた、若い女の身であちこちほっつき歩いて、気でも狂ったの?お屋敷の中のお花に水をかけてやるでもなく、雀に餌をやるでもなく、お茶を沸かすでもなく、ただ外をぶらつくなんて。」小紅が言った。「昨日宝旦那様がおっしゃるには、今日は花に水をやる必要はない、一日経ってからやるように、とのことでした。わたしが雀に餌をやった時、あなたはまだ寝ておられましたわ。」 碧痕が言った。「お茶はどうしたんだい?」小紅が言った。「今日はわたしの当番ではございません。茶があるかどうか、わたしに聞かないでください。」 綺霞が言った。「みんな、あの子の言いぐさを聞いたかい。みんな、もう何も言わないで。あの子を勝手にほっつき歩かせればいいわ。」小紅が言った。「皆さん方、まだ何でも聞いてください。わたしがほっつき歩こうが、ほっつき歩きまいが。若奥様がさっきわたしにお遣いを頼まれ、言伝をして、ものを取りに行きました。」そう言うと、ポーチを掲げて女たちに見せ、その後は何も言わなかった。

 

 女たちは立ち去った。晴雯は冷ややかに笑って言った。「道理でね。何かと思えば、偉い方のお近づきになって、わたしたちの言うことなど聞いてくれないのね。どれだけの言伝(ことづて)を言われたのか、相手の名前を知っているのかどうかも知らないけど、あの子の気持ちをこんな風にしてしまったのね。こんなようなことをやっても、どうということはないわ。しばらくしたら、またわたしたちの言うことを聞かないといけなくなるわ。――才能があるなら今日からこのお屋敷を出て、遥か遠くのお偉いさんのところで、ちゃんと認められればいいんだわ。」そう言いながら、行ってしまった。

 

 ここで小紅はそう聞いたのだが、弁明することもできず、ただじっと我慢して鳳姐を捜すしかなかった。李氏の部屋に着くと、果たして鳳姐はここで李氏と話をしていた。小紅は部屋に入ると回答して言った。「平お姉様はこう言われました。若奥様が出て来られるとすぐ、お姉様が銀子を受け取られました。ちょうど張材家の方が受け取りに来られたので、その場で重さを量って、その方に持って帰ってもらいました。」そう言いながら、ポーチを手渡した。またこうも言った。「平お姉様はわたしに、若奥様への報告を託されました。今しがた旺兒が入って来て相談しました。若奥様のご指示に基づき、なんとかあちらの家に行くことを考えたいと。平お姉様はそれで、若奥様のお考えに基づいて、旺兒を遣わしたいと言われました。」鳳姐が笑って言った。「平兒はどうしてわたしの考えで旺兒を遣わすと言ったのかしら?」小紅が言った。「平お姉様はこう言われました。「うちの奥様がこちらの奥様にご挨拶されたんです。うちの旦那様はご不在でした。返済が二日遅れてしまいますが、どうか奥様ご心配なさらないでください。五奶奶(弟さんの奥様)の具合がよくなられるのを待って、またうちの奥様から五奶奶 に来てもらって奥様にお会いいただくこともできるでしょう。五奶奶 は以前、人を遣わして来られて、こう言っておられました。叔父様の奥様がお手紙を持って来られ、奥様にご機嫌窺いされ、またこちらの叔母様に、延年神験万金丹の丸薬をいくつか所望されています。もしございますなら、奥様から人を遣わされ、うちの奥様のところに送りさえすればよい。――明日誰かが行く用事があるなら、ついでにあちらの叔父様の奥様がお持ち帰りになる」とのことでございました。」

 

 小紅がまだ言い終わらぬうちに、李氏は笑って言った。「あらまあ。こんな話、わたしには訳が分からないわ。何人も「奥様」「旦那様」が出て来て。」鳳姐は笑って言った。「あなたが分からないのも仕方がないわ。これは四五件の仕事が絡んだ話だからね。」そう言いながら、また小紅に笑って言った。「紅ちゃん、おまえが全部漏らさず言うのは大変だろうけど、あの子たちのように、もじもじと蚊の鳴くように言うのとは全然違うわ。――叔母さんは知らないけど、今はわたしが手近で使っている数人の小間使いの女たちを除いて、わたしは他の人と話をするのが恐ろしいの。あの子たちは必ず、一言で済む話を二言三言に引き延ばすし、字面(ずら)にばかりこだわり、ウンウンフンフンと不自然な調子をつけようとするし、わたしイライラして雷を落としてしまうの。うちの平兒も最初はそうだった。わたし、あの子に尋ねたの。まさか蚊がフンフンと鳴くように装うのが美人と思ってるんじゃあるまいね?、と。何遍か言って、ようやく直ったわ。」李紈が笑って言った。「皆があなたのように、おっかない女になればいいのにね。」鳳姐が言った。「この子はいいわ。さっき言ってくれた話はことばはあまり多くないけど、口ぶりはハサミで切ったように明快だったわ。」そう言うと、また小紅の方を向いて笑って言った。「明日はあなた、わたしの下で仕えなさい。わたしはあなたを義理の娘と見做すわ。わたしが躾ければ、あなた見込みがあるわよ。」

 

 小紅はそう聞いて、「クスッ」と笑った。鳳姐が言った。「どうして笑うの?あなたはわたしが若くて、あなたより数歳年上なだけで、母親になるのかと言うんでしょう。あなたは春の夢でも見てるのよ。あなた、聞いてみてごらん。ここにいる人たちはあなたより年上だけど、これに乗じてわたしを母さんと呼んでも、わたしは相手にしないわ。今日はあなたを抜擢してあげたのよ。」小紅は笑って言った。「わたしはそのことを笑ったんじゃないんです。わたしが笑ったのは、若奥様がわたしの世代を勘違いされていることなんです。――わたしの母は若奥様の義理の娘なのに、今日はわたしを義理の娘と見做されたから。」鳳姐が言った。「誰があなたの母親なの?」李紈が笑って言った。「あなた、本当はこの子のことご存じじゃなかったの?この子は林之孝の娘なんですよ。」鳳姐は

そう聞いて、たいへんいぶかしがり、それでこう言った。「まあ、あの方の娘さんなの。」また笑って言った。「林之孝は夫婦ふたりとも、極めて内気で物静かで、わたしは朝から晩まで家でこう言ってました、この夫婦は本当に天が娶せたカップルだ、ひとりが天聾、ひとりが地啞(文昌帝君に仕えるふたりの侍童)だと。あの家からこんな利発な娘が生まれたなんて。――おまえ、歳は十幾つなの?小紅が言った。「十七歳です。」また名前を尋ねた。小紅は言った。「元々「紅玉」だったのですが、宝旦那様と字が重なるので、今は小紅と呼ばれています。」

 

 鳳姐はそう聞いて、眉に皺を寄せ、頭をくるっと回し、こう言った。「人に嫌がられることをしたものね。「玉」を安く手に入れたかのようだわ。あなたも「玉」、わたしも「玉」とね。」それでこう言った。「叔母さんは知らなかったの。わたしはあなたのお母さんにこう言ったのよ。「頼お母さんは今やらないといけない仕事がたくさんあって、このお屋敷の中で誰がどんな役割かも知らないの。あんた、わたしの代わりにちゃんと小間使いをふたり選んで、わたしのところに来させてちょうだい。」あの人は「はい」と言ったんだけど、ちゃんと選んでくれなかったので、却ってあの人の娘を別のところに遣ってしまったの。まさかわたしにわざと良くない子を選んだんじゃないわよね。」李紈が笑って言った。「あなたはそれにしても気が多過ぎるわ。入って来るのが先、あなたが言うのが後だったのに、どうしてあの人を恨むの?」鳳姐も笑って言った。「もうこうなってしまった以上は、明日わたしが宝玉と話をして、宝玉にまた人が要ると言わせて、あなたはわたしのところに来てもらうわ。――でもご本人がそうしたいかどうか知らないけど。」小紅が笑って言った。「望むかどうか?――わたしたちもはっきりとは申せません。ただ若奥様といっしょにいれば、わたしたちは人の顔色を窺って判断を下すことを学び、それぞれ違った場面への対応、大事なことや些細なことでの対応について、見識を持つことができるでしょう。」ちょうどそう言っているところに、王夫人の小間使いがやって来るのが見え、戻って来るよう乞われたので、鳳姐は李紈に暇乞いをして帰って行った。小紅は自分で怡紅院に戻って行ったが、このことは言うまでもない。

 

 さて今、黛玉は夜の間よく眠れなかったので、翌日は起きるのが遅くなり、他の女兄弟たちが皆大観園の中で餞花会(江南地方の民間の風習で、旧暦の芒種の日(太陽暦で66日頃)に花の神を祀ること。芒種が過ぎると、花神は退位すると言われていた)をしていると聞き、人々が彼女を怠惰だと言って笑われるのを恐れ、急いで髪を梳き顔を洗って出て来た。ちょうど庭園に着くと、宝玉が門をくぐってやって来るのが見えた。宝玉は笑って言った。「林ちゃん、昨日僕に何か言わなかった?僕、一晩中それが気になっていたんだ。」黛玉は振り返ると、紫鵑を呼んだ。「部屋の中を片付けてちょうだい。紗のブラインドをひとつ下ろして、軒下の燕が戻って来るのが見えたら、帷を下ろして、(石で彫った)獅子をもたせ掛け、お香を焚いて、香炉にカバーを掛けておいて。」そう言いながら、外へ歩いて行った。

 

 宝玉は黛玉がこのように振る舞ったので、まだ昨日のお昼のことのせいだと思ったのだが、夜の事件のこと(黛玉がせっかく宝玉の元を訪ねたのに、晴雯が門を開けてくれず、屋敷に入れてもらえなかったこと)は知る由もなかった。更に手をこまねき腰を曲げてお辞儀をした。黛玉はまっすぐ前方を向くも宝玉は無視して、各々屋敷の門をくぐり、まっすぐ他の女兄弟たちの方へ行った。宝玉は心の中で腑に落ちず、自ら疑ってかかった。「このような有り様だと、昨日のことのせいではないようだ。――だけど昨日は帰って来るのが遅くなり、また黛玉にも会っていないし、あれ以上彼女を怒らすことはしていないが。」そう考えながら、一方では仕方なく黛玉の後ろを付いて行った。

 

 すると宝釵と探春が、ちょうどそちらで鶴の舞いを見ていたが、黛玉が来たのを見ると、三人は一緒に立ったまま話を始めた。また宝玉が来たのを見ると、探春は笑って言った。「宝兄さん、お身体の具合はどう?わたし丸々三日間あなたに会っていないわ。」宝玉は笑って言った。「君はお加減どうなの?僕、ちょっと前に叔母様の前で君に聞いたよね。」探春が言った。「宝兄さん、こちらにいらして。わたし兄さんに話があるの。」宝玉はそう聞いて、彼女に付いて、宝釵と黛玉から離れ、一本の石榴の木の下に行った。

 

 

 探春がそれで口を開いた。「ここ何日かで、お父様があなたを呼ばれなかった?」宝玉は笑って言った。「呼ばれていないよ。」探春が言った。「昨日、わたしかすかに聞いたの、お父様が兄さんに出て来るように言われたのを。」宝玉は笑って言った。「それは他の人と聞き違えたんだと思うよ。別に僕を呼んでないよ。」探春はまた笑って言った。「ここ数ヶ月で、わたしまた十何挿し(吊。1吊に穴あきの銅銭が千枚通してある)の銅銭が貯まったの。兄さん、またそれを持って行って、明日街に散歩に行かれた時に、もし良い書画や、よくできた玩具があったら、わたしの代わりに持って帰って来てください。」

 

 宝玉が言った。「僕が近頃ぶらつくのは、城内や城外の大きな寺院の廟会(縁日)だけど、別に新奇で精巧に作られたものは見たことが無いよ。総じて金、玉、銅、磁器の類があるだけで、どこにも骨董なんて置いてない。それ以外は絹織物、食べ物、衣服だね。」探春が言った。「そんなもの誰が要るの。兄さんが前回買って来た柳の枝で編んだ小さな籠や、竹の根を掘って作ったお香入れ、粘土で作った茶釡のようなものでいいの。わたし、好きでたまらないのに、なんと他の女の子たちも皆好きで、みんな宝物のように奪って行ってしまうの。」宝玉は笑って言った。「何かと思えばこうしたものが欲しいのか。こんなもの、何でもない、何挿しかの銅銭を小者たちに渡せば、車にごっそり載せて来ること請け合うよ。」探春が言った。「小者たちに何が分かるの?あなたが選んでくれる面白くてありふれていないものを、兄さん、わたしの代わりにもっと持って来て。わたし、前回のような靴をもう一足作るわ。前のよりもっと腕によりをかけるわ、それでどう?」

 

 宝玉は笑って言った。「君が靴のことを言ったから、僕、ある出来事を思い出した。初めて履いた時に、ちょうど父さん(賈政)に逢ったんだ。父さんは不機嫌そうに、「これは誰が作ったんだ?」と尋ねられた。僕、その時、どうして君が作ったなんて言えるかい?僕はそれでこう答えたんだ、前に僕の誕生日に母方の叔母がくれたものですって。父さんは叔母さんがくれたと聞いて、それ以上は何も言われなかった。しばらくしてまたこう言われた。「なんと無駄なことをして。人の力を無駄にかけ、高価な絹の布を使って、こんなものを拵えるなんて。」僕、帰って来てそのことを襲人に話すと、襲人はこう言った。「このことはまだいいですよ。趙叔母さん(探春、賈環の母親で、賈政の妾)の抱かれている恨みはそんなものじゃないですよ。同じお父様から生まれられた実の兄弟なのに、着ているものや履いているものがちゃんとしていないって、(探春の兄弟の賈環は)人としてまともに見てもらえないんです。それなのにこんなものを作って。」」

 

 探春は話を聞いて、すぐさま俯(うつむ)いてこう言った。「本当に、どうしようもない分からず屋ね。どうしてわたしは靴作りをしないといけないの?環ちゃんにはまさか何の分け前も無いんじゃないでしょうね。衣裳は衣裳、靴下は靴下、娘も嫁もひとつ屋根で暮らしているのに、どうしてこんな恨み言を言わないといけないの?こんなこと誰に聞いてもらえばいいのか。わたしは暇に任せて一足半足作っては、お兄様や兄弟たちに差し上げるのが好きで、わたしの心のままにしていることよ。わたしは誰かから管理されないといけないとでも言うの?これもあの人が訳も分からずやっているんだわ。」宝玉はそれを聞いて、頷いて笑って言った。「君は知らないだろうが、あの人の心の中には、それなりの考えがあるんだ。」

 

 探春はそう聞いて、また一度怒りを爆発させ、首を一回転させて、こう言った。「あなたまで分からず屋になったの。あの人の考え、そりゃあるでしょう。でもそれは浅はかで愚劣な見識だわ。あの人にはこんな考えしかないし、わたしはあの人と奥様のふたりしか知らない。それ以外の人のことは、わたしは一切関わらないわ。つまり兄弟姉妹の前で、わたしと仲の良い人は皆、わたしも仲良くするわ。偏見とか妾腹とか、そんなことわたしの知ったこっちゃないわ。理屈から言うと、わたしはあの人のことをあれこれ言っちゃいけないのだけれど、うちの母さんは本当にばかで物事の道理を知らないんだから。――まだ笑い話があるわ。前回わたしがあなたに渡したあの銭で、わたしの代わりにおもちゃを買ってきてもらったんだけど、二日して、母さんはわたしの顔を見るなり、どうして銭がないんだ、どうやって暮らすんだと言うの。わたしも相手にしなかったわ。ところがなんと後から小間使いたちが出て行ってから、母さんがわたしに恨み言を言って、わたしが貯めた銭を、どうしておまえに使わせて、環ちゃんに使わせなかったんだろう、って言うのよ。わたしはこの話を聞いて、可笑しいやら、腹が立つやら。わたしはそれで家を飛び出して奥様のそばへ行ったの。」

 

 ちょうどそう話していると、宝釵があちらで笑ってこう言うのが見えた。「話が終わったら、こちらに来なさい。あなたたちは明らかに兄と妹だって分かるわ。他人の言うことは放っておいて、さしあたり自分で貯めた銭だとおっしゃい。一言しか聞こえてないから、正しくないかもしれないけど。」そう言うと、探春と宝玉のふたりはようやく笑い出した。

 

 宝玉は黛玉の姿が見えないので、それで彼女が別の場所に隠れていると知り、いろいろ考えを巡らせた。「いっそのこと、二日遅らせて、林ちゃんの怒りが少し収まってから行けばいい。」それで頭を屈(かが)めて、たくさんのホウセンカや石榴(ざくろ)など様々な色の散った花々が、錦を重ねたように地面一面に落ちているのを見て、ため息をついて言った。「これは黛玉の心の中で怒りが生じて、これらの花々も片付かないんだ。僕が花びらを届けてから、明日また林ちゃんを訪ねてみよう。」そう言っていると、宝釵が女兄弟たちと約束して裏の方に行くのが見えた。宝玉が言った。「僕も今行くから。」宝釵と探春のふたりが遠くまで行くのを待って、宝玉は落ちた花びらを包むと、山に登り川を渡り、木々や花々の間を抜け、まっすぐあの日黛玉と一緒に桃の花を葬ったところに行った。

 

 既に花塚に着き、なおまだ山の斜面を越えぬうちに、あちらで嗚咽(おえつ)の声が聞こえてきた。過ちをひとつひとつ数えあげながら、悲しみに泣きぬれていた。宝玉は心の中で思った。「これははて、どちらの家の小間使いの女なのだろう?悔しい思いをして、ここまで走ってきて泣いているのだろうか?」そう考えながら、足を止めると、女が泣きながらこう言うのが聞こえた。

 

  花は散り、花びらが満天に飛ぶ。花の鮮やかさが消え香が断たれるのを、誰が怜(あわ)れむだろう?

  ゆらゆら揺れる蜘蛛の巣が絡みつく春の高殿、落ちた柳絮が刺繍を施したカーテンに付く。

  閨房の中の娘は春の暮れるを惜しみ、愁いが胸一杯に広がるもそれを吐く場所が無い。

  手に鋤を持ち閨房を出るも、落ちた花を踏んで往き来するのを我慢できるだろうか?

  柳の枝や楡の莢はただ自ら茂るに任せ、桃やスモモの花が飛び散るのに関心が無い。

  桃やスモモは来年もまた花を咲かせるだろうが、来年閨房の中がどうなるか誰が知ろう。

  陽春三月に燕が巣作りをし、落ちた花びらも巣の材料に混じるが、軒下の燕はそのことを気にも掛けない。

  来年花が咲けば燕はまた花びらを啄(ついば)めるが、けれど思いがけず人は去り家の中は空っぽで、燕の巣も壊れてしまった。

  一年三百六十日、寒風は刀の如く、厳しい霜は剣の如く無情に花を痛めつける。

  花が美しく鮮やかなのをどれだけ保てるだろうか。一旦萎れて散ってしまうともう美しさを求めることができない。

  花が咲く時は見るのが容易いが、散り落ちた後に美を追い求めるのは難しい。階(きざはし)の前の花を葬る人(林黛玉)は悲しみで胸が張り裂けんばかりだ。

  ひとり花を鋤で取りつつこっそり涙を流し、花の散り去った枝にかかった涙が血の雫となる。

  ホトトギスはちょうど黄昏時には鳴き止み、花を葬る人は鋤を担いで家の重い門を閉める。

  青く冷たい灯りが壁を照らし、人々は眠りに就く。冷たい雨が窓をたたくも、掛け布団は未だ暖まらない。

  どうしてわたしの気持ちはこんなに傷つくのだろうか?その半分は春の美しさを惜しむからで、もう半分は春の短さを恨むからだ。

  春を惜しむ時は突然やって来て、春の突然の別れに思い悩む。春は無言でやって来るが、去る時も跡形もなく去って行く。

  昨晩庭の外から悲痛な歌声が聞こえて来た。おそらくそれは散った花や鳥の魂が悲しみに泣いているのではないか?

  花の魂も鳥の魂も結局引き留めるのが難しく、鳥は黙して語らず花も自ら恥じらう。

  わたしにもし今羽が生えたら、飛びかう花びらに従い天の果てまで飛んで行きたい。

  天の果てのどこに、花の魂の墓があるのだろうか?

  錦の袋に美しい花びらを集めて、両手できれいな土をすくって花びらを埋めてやろう。

  花は元々純潔な姿でこの世に来たのだから、きれいなままで離れるべきで、汚い泥沼やどぶ川に落ちて汚れてしまわないようにすべきだ。

  今日わたしはあなた(散った花)を埋葬するが、わたしはいったいいつ死ぬのだろう?

  わたしが今日花を埋葬すると言うと人に嘲笑されるが、将来わたしが死ぬと誰がわたしを埋葬してくれるのだろう?

  春の暮れに残花が次第に落ちるのは、正に紅顔の少年(少女)が老いて死ぬのと同じことだ。

  ――やがて春が尽き紅顔であった少年(少女)も老いる。花は枯れ落ち人は死ぬが、何れも知る由も無い。

 

正に一方で低い声で吟唱しながら、一方では涙にむせび、あちらでは自ら悲しみの余り泣き濡れるも、思いがけずこちらではとっくに気が振れてしまったかのように聞こえた。この詳細につきましては、次回に解説いたします。

 今日は奥さんのリクエストで、奈良はならまちにあるケーキ屋さん、パティスリーカラクの、パティシエの作るかき氷を食べに行きました。この間、関西テレビの朝の「よーいどん」で紹介されたお店です。パティシエのご主人が、ケーキのようなかき氷を、ということで始められたようです。

 

パティスリーカラク 奈良の地図

 

 

 

お店の中は、こんな感じ。

 

10時開店で10時半ごろお店に着きましたが、店内は満席、外に2人と4人の2組の方が待たれていました。

店内での飲食は、小さな丸テーブルが3つのみ。また、ご主人がひとつひとつ作られるので、注文してから出てくるまで、結構待たないといけません。

 

結局、30分後くらいに入店、席に着いてから20分後くらいにかき氷が出てきました。

 

今日、頼んだのは、ひとつが「いちごと薔薇」。

 

 

外観は、いちごシロップのかかったかき氷ですが、中にこのお店のシュークリームにも使われるカスタードクリーム、薔薇のジュレ、いちごのコンポートが入っています。

 

食べ進めるうち、カスタードクリーム、そして薔薇の香りのするジュレや、いちごのコンポートが出て来て、味の変化が楽しい一品でした。

 

奥さんのは、プリンアラモード。

 

 

上に載っているのは、地元奈良市内にある、植村牧場の牛乳で作ったプリンにメロンにバナナ。

 

この中には、バナナのかき氷、カスタードクリームが入っていました。

 

外観を眺めて楽しく、食べ進めて、また何が出てくるか楽しめる、かき氷でした。

 

かき氷の後、このお店で売られているケーキにも心惹かれ、モンブランを1個購入、奥さんとシェアしました。

 

 

このモンブランは、底がパイのようにカリカリに焼かれたメレンゲで、その上に甘く煮た栗とホイップクリームが載せられていて、なかなか魅力的な一品に仕上がっていました。

 

かき氷の提供は、10時から夕方5時までで、予約はできないとのこと。時間に余裕を持っていかないといけませんが、食べる価値のあるかき氷だと思いました。ケーキ類もお手頃価格で、地元のお客さんが結構買いに来られていました。

 

 

 賈芸(かうん)は、賈家の傍流で、父親が既に亡くなって、母一人子一人で貧しい生活を送っていましたが、なんとか大観園内の植林の監督の仕事を得ました。この賈芸と、宝玉の小間使いの小紅との間のほのかな恋の行方が今回の最初のお話。一方、健康を取り戻した宝玉は、父親の賈政から呼び出しを受けますが、さてそれはどんな用件だったか、また宝玉を気遣う黛玉は、折悪しく悲しみに暮れる出来事が続きますが、さてそれはどんな出来事か。『紅楼夢』第二十六回のはじまりです。

 

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蜂腰橋にて言を設け心事を傳(つた)う

瀟湘館では春に困(ねむ)く幽情(深い思い)を發す

 

 さて宝玉は三十三日養生して後、身体の強壮が戻っただけでなく、顔の火傷の痕も平癒し、また大観園に戻って来た。このことも言うまでもない。

 

 さて最近宝玉が病気であった時、賈芸が家の中で少年の召使を連れて夜間の見回りをし、昼夜を問わずこちらにいた。かの小紅は多くの小間使いの女たちと一緒にここで宝玉のお世話をしていた。互いに出逢う日が多く、次第に親しくなった。小紅は賈芸が手に一枚の絹のハンカチを持っているのを見て、どうも自分が以前落としたものであるようなので、彼に尋ねてみようと思ったのだが、またうまく尋ねることができなかった。思いがけずあの和尚と道士がやって来て、一切の男性は用無しだったので、賈芸は相変わらず木を植えに行った。ハンカチの件は、もうしばらく放っておいた方がいいのかそうでないのか分からず、聞きに行こうと思うのだが、また誰かに疑われるのが心配で、正に躊躇して決められず、気持ちが定まらない中、ふと窓の外で尋ねる声を聞いた。「姉さんはお部屋におられますか?」小紅がそう聞いて、窓から外を一目見ると、実はこのお屋敷の幼い小間使いの佳蕙であったので、こう答えた。「家の中におられます。入ってきて。」

 

 佳蕙はそう聞いて駆け込んで来て、ベッドの上に座って、笑って言った。「わたし、運が良かったわ。さっき庭で洗い物をしていたら、宝玉様が林お嬢様のところへ茶葉を送るよう言われ、花お姉様(襲人)がわたしに持って行かせたんだけど、ちょうど大奥様が林お嬢様にお金を持って来られ、ちょうどあちらの小間使いたちに分け与えられたんだけど、わたしが来たのを見て、林お嬢様がふたつかみ掴んでわたしにくださったの。どれだけあるか分からないわ。あなた、わたしの代わりに受け取ってくださる」それでハンカチを開くと、銅銭を取り出し、小紅に渡した。小紅は佳蕙に代わって、五銭十銭と数えて受け取った。

 

 

 佳蕙が言った。「あなた、この二日間、心の中ではいったいどう感じていたの?わたしに言わせてもらえば、あなたは結局二日家に帰って、先生に見てもらって、薬を二服飲んだら良くなったでしょう。」小紅が言った。「いったい何のこと?身体は問題ないわ。家に帰って何をしたと言うの?」佳蕙が言った。「わたし思い出したの。林お嬢様は生まれつきお身体が弱く、いつも薬を飲まれていて、あなたもお嬢様と同じように薬を飲まないといけないなら、同じだなあって。」小紅が言った。「でたらめ言わないで。薬もでたらめに飲めってこと?」佳蕙が言った。「それは長く続けられる方法じゃないわ。飲み食いにだらしなくて、終いにはどうなるのかしら。」小紅が言った。「何を恐れているの?それよりもさっさと死んでしまった方が、却ってすっきりしているわ。」佳蕙が言った。「何事もないのに、どうしてそんなことを言うの?」小紅が言った。「あなたにわたしの心の中のことがどうして分かるのよ。」

 

 佳蕙は頷くと、少し考えてから言った。「でも、それも無理もないわ。このお屋敷では、もともとやっていくのが難しいのよ。例えば昨日は大奥様が、宝玉様がここのところご病気だったので、お世話した者たちがご苦労だった、今は身体が良くなったので、各処で線香を上げさせてもらい、付いてくれた小間使いたちに褒美を与えるとおっしゃいました。わたしたちはまだ年齢が幼いので、名前が上がらなくても、仕方ないと思うわ。でも、あなたがどうしてその中に入らないのかしら。わたしは心の中では納得できないの。襲人はどのみち十分ご褒美が出るから、不満はないし、当然だわ。真面目に言って、他に誰があの人に匹敵するのかしら。あの人が平素懇ろで注意深いのは当然なんだけど、懇ろで注意深くなくても、あの人には敵わないわ。ただ腹立たしいのは、晴雯や綺霞といった人たちは上等な小間使いと見做され、宝玉様が彼女たちを可愛がるので、人々も彼女たちのことを持ち上げるんだわ。あなた、腹立たしいと思わない?」

 

 小紅が言った。「それでもあの人たちを怒らすのはまずいわ。俗にも言うでしょう、「千里に及ぶ長い棚を掛ける――終わらない宴席は無い」とね。誰が一生涯この状態を守ると言うの?三年五年のことに過ぎないわ。皆それぞれすることをするだけよ。将来、誰がまた誰を管理すると言うの?」こうした言葉は思わず知らず佳蕙の気持ちを感動させ、ひとりでに目じりが赤くなり、また申し訳なくて訳もなく泣くことができず、彼女は無理やり笑顔を作ってこう言った。「あなたが言うのは正しいわ。昨日、宝玉様はこうも言われたわ。「明日どのように部屋を片付けるか、どのように衣裳を作るかは、結局何百年も悩み続けてきた問題だ」と。」

 

 小紅はそれを聞いて、冷ややかに笑って二言三言返してから、ようやく話をしようとしていると、ふとひとりの、まだお下げ髪を残した子供の小間使いが入って来て、手には刺繍のサンプルをいくつかと二枚の紙を持ち、こう言った。「このふたつの刺繍のサンプルを、あなたに描いてほしいとのことです。」そう言いながら、小紅にぽんと手渡すと、向こうを向いて走って行ってしまった。小紅は外に向かって尋ねた。「いったい誰からなの?言い終わるのを待たずに走って行ってしまうんだから。「誰が蒸したマントウをあんたは待ってるの?――冷めたらいけないと心配して」るんでしょう?」かの子供の小間使いは、窓の外から、ただ声だけが聞こえた。「綺霞姉さんの言伝(ことづて)だよ。」足を上げて「ごとごと」と音を立て、また走って行った。

 

 小紅はむかっ腹を立ててそのサンプルをあちらに置き、引き出しを開けて筆を捜したが、かなり捜しても、皆毛が抜けてしまっていたので、言った。「この前一本新しい筆があったけど、どこに仕舞ったのかしら。どうしても思い出せないんだけど……」そう言いながら、一方でぼんやりと、もう一度考えて、それからようやく笑って言った。「そうだ、このあいだの晩に鶯兒が持って行ったんだわ。」それで佳蕙に向けて言った。「あなた、わたしの代わりに取って来てちょうだい。」佳蕙が言った。「花お姉様(襲人)はわたしがあの人の代わりに箱を取って来るのを待っておられるの。あなた、自分で取って来なさいよ。」小紅が言った。「あの方があなたを待っておられるのに、あなたはまだここに座って無駄話をしているの?わたしがあなたに取りに行ってもらわないなら、あの方もあなたを「待って」なんかおられないわ。このろくでなしのメンタめ!」

 

 そう言いながら、自分は部屋を出て来た。怡紅院を出ると、真っ直ぐ宝釵院の中にやって来た。ちょうど沁芳亭のほとりまで来ると、宝玉の乳母の李ばあやがあちらから来るのに出逢った。小紅は立ち止まり、笑って尋ねた。「李ばあや、あなたのようなお年寄りがどちらへ行かれるの?どうしてこちらに来られたの?」 李ばあやは立ち止まると、手をパンと叩き、言った。「言っとくけどね、宝玉様がまたあの「雲兄さん」、「雨兄さん」(賈芸のこと)とか何とか言う人に会うのに、今回は無理やりわたしにあの人を呼び出させたのさ。明日上の方に知られたら、まずいことになるかもしれないわ。」小紅は笑って言った。「あんたという年寄りは、本当にあの人が来ると信じているの?」李ばあやが言った。「さてそれはどうなんだろうね?」小紅が笑って言った。「あの人が事の良し悪しを分かっているなら、入って来ない方がいいわ。」李ばあやが言った。「あの人もばかじゃないんだから、どうして入って来ないのさ?」小紅が言った。「たとえ入って来ても、あんたら年寄りは、あの人と一緒に来ちゃだめよ。帰って来たら、あの人ひとり中に入らせて、どうなるか見てやろうよ。」李ばあやが言った。「わたしはとても長い期間、あの人と一緒にやって来た。でもあの人に言ってやったんだ。帰って来たら、子供の小間使いか奥さんを使いに出して、あんたを連れ帰って来たら、お終いだとね。」そう言うと、杖で身体を支えながら行ってしまった。小紅は話を聞いて、ぼんやり突っ立ち、筆を取りには行かなかった。

 

 しばらくして、ふとひとりの子供の小間使いが走って来て、小紅がそこに立っているのを見ると、尋ねて言った。「紅姉さん、ここで何をしているの?」小紅が頭を上げて見ると、子供の小間使いの墜兒であった。小紅が言った。「どこに行くの?」墜兒が言った。「わたしに芸旦那様をお連れして来るよう言われたの。」そう言うと、まっすぐ走って行った。

 

 ここで小紅はちょうど歩いて蜂腰橋門の前まで来た時、あちらから墜兒が賈芸を連れて来るのが見えた。かの賈芸は歩きながら、一方では眼では小紅をチラッと見ていた。かの小紅も、墜兒と話をするのを装い、眼は賈芸の方をチラ見していた。四つの目はちょうど互いに見つめ合った。小紅は思わず顔を赤らめ、あっちを向いて蘅蕪苑に向かって行った。この話はここで置く。

 

 ここで賈芸は墜兒に従い、くねくねした道を歩いて怡紅院に至り、墜兒が先に中に入って報告を済ませると、その後ようやく賈芸を引率して中に入った。賈芸が見てみると、敷地の中には概ねいくつかの築山や石が置かれ、芭蕉が植えられ、あちらには二羽の丹頂鶴がいて、松の木の下で羽を繕っていた。回廊を進むと、頭上には様々な色の籠が吊り下げられ、籠の中では様々な珍しい鳥たちが飼われていた。前方にはごく小さな五間の抱厦(裳階)があり、抱厦全体は全部同じ色の、斬新な模様の彫刻を施した仕切り板の嵌った門で、上の方に扁額が架かり、四文字で、「怡紅快緑」と題されていた。賈芸は思った。「道理で「怡紅院」と言うんだ。元々扁額にこの四文字が書かれていたんだ。」ちょうどそんなことを思っていると、中で紗を貼った窓を隔てて、笑い声が聞こえてきた。「早く入っておいでよ。僕なぜだか君のことを二三ヶ月も忘れていたよ。」賈芸は宝玉のこう言う声が聞こえたので、急いで部屋の中に入り、頭を上げて一目見ると、中の調度品は眼も奪われるほど華麗で、燦然と輝いていたが、けれども宝玉の姿が見えなかった。振り返って見ると、左手に大きな姿見の鏡が立て掛けてあり、鏡の後ろを回って、ふたりの共に十五六才の小間使いが出て来て、言った。「旦那様、中の部屋でお座りください。」

 

 賈芸は敢えて正視することもできず、急いで「はい」と答え、また仕切り板を通ると、小さなペンキを塗ったベッドに、真っ赤な緞子に金糸で模様の刺繍を施した帷が掛けてあった。宝玉は普段着を着て、靴をつっかけ履きし、ベッドに寄りかかり、手に一冊の本を持っていた。賈芸が入って来るのを見ると、本を放り投げ、早くも笑みを浮かべて立ち上がった。賈芸は急いで前に進み出て挨拶をすると、宝玉が椅子を勧めたので、ベッドの下に置かれた椅子に腰かけた。

 

 宝玉が笑って言った。「この前の月に君に逢って、僕が君を書斎に誘ってから、思いがけず立て続けにいろんなことが起こってしまって、君のことを忘れていたよ。」賈芸が笑って言った。「いつも僕に運が無かったから、叔父さんがいない時にばかりかち合ったんですよ。――叔父さん、今は全て順調ですか?」宝玉が言った。「何も問題無いよ。でも、君が何日間も大変だったと聞いたけど。」賈芸が言った。「大変なのも当然なんです。叔父さんが全て順調だというのは、わたしたち一族にとっても幸運なんです。」そう言っていると、ひとりの小間使いが茶を捧げ持って来て、賈芸に出してくれるのが見えた。かの賈芸は口は宝玉と話をしていたが、眼はその小間使いを見つめていた。ほっそりした身体つき、うりざね顔、明るい朱色の上着に、青い緞子のチョッキ、白い綾衣の細いプリーツの入ったスカートを着ていた。

 

 かの賈芸は宝玉が病気になってから、お屋敷の中で二日過ごし、そこにいる人の名前の半分くらいを覚えた。彼が見かけた小間使いは、襲人だと知った。彼女は宝玉の部屋の中で、他の人々とは異なっていた。今は茶を運び、宝玉もその傍らに座ったので、賈芸は急いで立ち上がると、笑って言った。「姉さんはどうして僕にお茶を淹れてくださったの?僕は叔父さんのところに来たけど、お客ではないし、僕自分で淹れるから、もういいですよ。」宝玉が言った。「君は座っていればいいんだよ。小間使いたちは、以前からこうしてくれるんだよ。」賈芸は笑って言った。「そうは言っても、叔父様の家のお姉さま方を、僕が勝手気ままに使うなんてできませんよ。」一方でそう言いながら、一方では座って茶を飲んだ。

 

 かの宝玉は賈芸と、どうでもいい無駄話をした。どこの劇団の芝居がいいとか、どこの家の庭園が綺麗だとか、またどこのお屋敷の小間使いが綺麗だ、どこの家の宴席の料理が素晴らしい、またどこの家には珍しい商品がある、誰の家には貴重な物がある、といった話である。かの賈芸は、口では宝玉の言うことに追従した。ひと通り話をすると、宝玉が少し気だるそうな様子であったので、賈芸は立ち上がると暇乞いした。宝玉も特に引き留めず、ただこう言った。「君、明日閑だったら、また来ていいから。」相変わらず子供の小間使いの墜兒に命じて見送りさせた。

 

 賈芸は怡紅院を出ると、四方を見て誰もいないので、ゆっくりと歩みを停め、口では墜兒にくどくど話をした。最初に墜兒にこう尋ねた。「幾つなの?名前は何というの?おまえの両親は何をされているの?宝叔父さんのところに来て何年になるの?ひと月いくらもらっているの?全部で宝叔父さんの部屋には何人の女の子がいるの?」かの墜兒は質問を聞いて、一件一件皆賈芸に答えた。賈芸はまた言った。「さっきあの、お前と話をしていたのは、小紅じゃないかい?」墜兒は笑って言った。「あの子が小紅ですよ。あなたはあの子に何を尋ねるつもりなの?」賈芸が言った。「先ほどあの子がおまえにハンカチがどうしたと聞いていたけど、僕はなんと一枚拾っていたんだよ。」墜兒はそう聞いて、笑って言った。「あの子ったらわたしに何べんも尋ねたのよ。ひょっとして彼女のハンカチを見かけていないかって。わたしだってどうしてそんなにたくさん時間を割いて、こうしたことに関わっていられて?今日もあの子、またわたしに尋ねたわ。あの子が言うには、わたしが彼女に代わって探し出してくれたら、どんなに感謝してもたりないって。さっき蘅蕪苑の入口でも言ったのよ。旦那様も聞かれているなら、わたしが嘘をついたんじゃないでしょ。旦那様、お願い。あなたが拾われたなら、わたしに渡していただけないかしら。わたし、あの子が何を持ってわたしに謝意を示してくれるか見てみたいの。」

 

 実は先月賈芸が大観園に入って木を植えた時、絹のハンカチを一枚拾い、大観園に住む人が落としたことが分かったが、誰が落としたのか分からず、それで敢えて軽はずみな行動が取れなかった。今小紅が墜兒に尋ねたと聞いたので、小紅が落としたものと分かり、心の中ではこの上なく嬉しかった。また墜兒が捜しているのを見て、心の中ではとっくに考えがまとまり、袖の中から自分のハンカチを取り出し、墜兒に笑って言った。「僕はおまえにやるんだからね。おまえが小紅からお礼をもらったら、僕に隠すんじゃないぞ。」墜兒は口を窮めて「はい」と答えると、ハンカチを受け取り、賈芸を送り、帰って来て小紅を捜したのであるが、その話はしばらく置く。

 

 今さて宝玉は賈芸を送り出して後、気持ちがけだるかったので、ベッドの上に身体をかがめ、意識が朦朧としたかのような状態であった。襲人が近づいて来て、ベッドに沿って座り、宝玉の身体を押して言った。「どうされたの、またお休みになるの?あなた、随分気がふさがれているから、お出かけになって、ちょっとお散歩でもされたらどうですか。」宝玉は襲人がそう言うのを聞いて、彼女の手を取ると、笑って言った。「僕、出かけようと思うけど、ただおまえと別れるのがしのびないんだ。」襲人が笑って言った。「あなた、つまらないこと言うんじゃないの。」そう言いながら、一方で彼を引っ張り出した。宝玉は言った。「でも、どこへ行こうか。あまりに飽き飽きしてうんざりするんだ。」襲人が言った。「あなた、お出かけになりさえすれば良くなりますよ。こんなに煩雑にされている限り、益々心の中が飽き飽きしてうんざりしますよ。」

 

 宝玉はうちしおれて元気なく、ただ襲人に言われるままであった。ふらふらと部屋の入口を出て、回廊で雀と戯れ、敷地の外に出ると、沁芳渓に沿って歩き、金魚を見た。そちらの山の斜面では二頭の小鹿が矢のように走って来た。宝玉がどうしてなのか理解できず、腑に落ちずにいると、賈蘭が後ろから、小さな弓を持って追って来るのが見えた。宝玉の前に来ると、立ち止まり、笑って言った。「叔父様、お家におられたんですね。――僕、外出させてもらったんですよ。」宝玉が言った。「おまえ、またやんちゃをしてるんだな。訳もなくこの子たちを撃って、どうするの?」賈蘭が笑って言った。「今回は勉強しなくてよくて、閑なのでどうしようかと思ったんです。それで、馬に乗って矢を射る訓練をしてみたんです。」宝玉が言った。「馬から落ちて歯をぶつけたら、訓練は中止だよ。」

 

 そう言うと、足の向くまま真っ直ぐあるお屋敷の門の前まで来ると、竹が鬱蒼と茂り、風が吹くと(楽器の簫のように)ヒューヒューと音を立て、正に瀟湘館(簫と瀟は発音が何れもxiāoで同じ)であった。宝玉が足に任せて歩み入ると、竹で編んだ簾(すだれ)が地面まで垂れ下がり、人の声が全くしなかった。窓の前まで来ると、ほのかな香りが感じられ、緑色の紗を貼った窓からひそかに染み出ていた。宝玉が顔を紗を貼った窓にくっつけて中を見ると、耳にふと微かに長嘆する声が聞こえた。それは、「毎日家にいて、物思いに耽り、眠気でぼんやりしている。」宝玉はそれを聞いて、思わず心の中で気持ちが動転して落ち着かなくなった。もう一度見ると、黛玉がベッドの上で伸びをしていた。宝玉は窓の外から笑って言った。「どうして「毎日家にいて、物思いに耽り、眠気でぼんやりしている」の?」そう言いながら、一方で帷を跳ね上げて中に入った。

 

 

 黛玉は我を忘れていたと思い、思わず顔を赤らめ、袖で顔を隠し、寝返りを打って向こうを向いて寝たふりをした。宝玉は黛玉の傍に歩み寄るや、彼女の身体の向きをこちらに回そうとしたが、黛玉の乳母とふたりの婆やが一緒に入って来て、言った。「お嬢ちゃんはお休み中です。目覚められるのを待って、またお越しください。」そう言うや否や、黛玉が身体をこちらに向けて座り、笑って言った。「誰が寝ているって?」かの二三人の婆やは黛玉の顔を見るや、笑って言った。「わたしたちはただ、お嬢様が寝ておられると思っただけですわ。」そう言うと、紫鵑を呼んで、言った。「お嬢様がお目覚めだよ。入って来て伺候しなさい。」そう言うや、皆出て行ってしまった。

 

 黛玉はベッドの上に座り、一方で手を上げて鬢の毛を整え、一方で宝玉に微笑んで言った。「他人が寝ているのに、あなた、部屋に入って来て何をするの?」宝玉は彼女の眼が微かにとろんとし、頬が(恥ずかしさで)赤みを帯びるのを見て、思わず心が動揺し、身体を歪めて椅子に腰かけると、笑って言った。「君は今しがた何て言ったの?」黛玉が言った。「わたしは何も言っていないわ。」宝玉が笑って言った。「君に虫下しを飲ませないと。僕、(君が腹の中で思っていることまで)みんな聞こえたんだ。(肚子里的蛔虫、知道心思 )」

 

 ふたりが話をしていると、紫鵑が部屋に入って来るのが見えたので、宝玉が笑って言った。「紫鵑、お宅の良いお茶を一杯淹れて僕に飲ませておくれ。」 紫鵑が言った。「うちのどこに良いお茶があるんですか。良いお茶は、襲人様が持って来られるのを待たないといけませんわ。」黛玉が言った。「そんなの放っておきなさい。おまえ、先にわたしに水を汲んで来ておくれ。」紫鵑が言った。「宝玉様はお客様ですから、もちろん先にお茶を淹れて来て、それから水を汲みに行きますわ。」そう言うと、お茶を淹れに行った。宝玉が笑って言った。「いい娘だ。「もしおまえのような多情な娘と枕を共にすれば、どうしておまえに続けて寝床を用意するような下賤な仕事をさせられよう。」(『西廂記』の台詞)」黛玉は、すぐさま慌てて、怒りを籠めた表情で言った。「あなた、何てこと言うの。」宝玉が笑って言った。「僕が何て言ったというの?」黛玉はそれで泣きながら言った。「今また新たに下品な話をわたしに聞かせて。あのくだらない本(『西廂記』を指す)から、わたしを物笑いの種にするのね。わたしは旦那様方の憂さ晴らしの種にされているんだわ。」黛玉は泣きながら、ベッドを下りると、外に歩いて行った。宝玉がは慌てて、黛玉に走り寄ると言った。「ごめんね。僕、さっきはどうかしてたんだ。君、どっちにしても行かないで。僕がまたこんな話をしたら、口におできができて、舌が爛れるよ。」

 

 そう言っていると、襲人が歩いて来るのが見え、こう言った。「早く帰って来て、服をお召になって。旦那様があなたをお呼びよ。」宝玉はそう聞いて、思わず雷鳴に打たれたかのようになり、他のことは考えられなくなり、急いで戻って服を着た。大観園を出ると、焙茗が二の門の前で待っているのが見えた。宝玉が尋ねた。「おまえ、お父様が僕を呼んだ訳を知っているだろう?」焙茗が言った。「旦那様は間もなくお出ましになります。とにかく会いに行かれませ。行かれれば、分かりますよ。」そう言いながら、一方では宝玉を促した。

 

 広間を通って向かいながら、宝玉は心の中でまだ訝しく思っていると、壁の角のあたりで、ひとしきりハッハッと大笑いするのが聞こえた。振り返って見ると、薛蟠が手を叩いて跳び上がっているのが見え、笑って言った。「もしお兄様がおまえを呼んだと言わなかったら、おまえがどうしてこんなに早く出て来るものか。」焙茗も笑いながら跪いた。宝玉はしばらくの間呆気に取られていたが、ようやく状況が飲み込めた。――薛蟠が騙して自分を呼び出したのだ。薛蟠は急いで手をこまねき腰を屈めてお辞儀をして謝罪し、頼み事を言った。「若様にご面倒をおかけしようと思ったのではありません。どうかわたしの願いをお聞きください。」宝玉も仕方がないので、笑って尋ねるしかなかった。「あなたがわたしを騙したのはいいとしましょう。どうしてお父様の名を騙ったんですか?僕、叔母様に言いに行って、今回のことの是非を判断してもらいますよ。いいですね?」薛蟠は急いで言った。「いい子だから勘弁しておくれ。わたしは元々おまえに早く出て来てほしかったんで、これが禁句だというのを忘れていたんだ。また今度おまえがわたしを騙して、わたしの父親を持ち出してくれたら、それでいいよ。」宝玉が言った。「おやまあ、益々救いようがない。」また焙茗に向けてもこう言った。「この裏切者のろくでなし、まだ跪いてどうするんだ?」焙茗は慌てて頭を地面に打ちつけた。

 

 薛蟠が言った。「こういう時でないと、わたしも驚かしたりしないよ。実は明日五月三日はわたしの誕生日なんだが、思いがけず胡や程といった輩たちが、どこで捜して来たのか知らないが、こんなに太くほんなに長い、薄桃色でサクサクした新鮮なレンコン、こんなに大きなスイカ、こんなに長く、こんなに大きなシャム(タイ)国から進貢されたヒノキの香りで燻されたシャム豚、魚。これら四種の贈り物だが、なかなか得難いものだと思うかい?――その魚や豚は確かに貴重で得難いものだが、このレンコンとスイカは、さてどうやったらできるものやら。わたしは先ず母親に贈り、次いであなたのところのお婆様、叔母様にいくつかお贈りしたんだ。まだいくらか残っているので、自分で食べようと思うんだが、独り占めすると罰が当たりはしないか心配だったので、いろいろ思案し、わたし以外に、おまえにお相伴してもらうのがいいと思い、特にお越しいただいたんだ。ちょうどうまい具合に、歌を歌う若者も来たから、わたしとおまえで一日楽しむのはどうだね?」

 

 そう言いながら、彼の書斎にやって来ると、詹光、程日興、胡斯来、単聘仁らと、歌歌いの若者がそこにいた。薛蟠が入って来るのを見ると、挨拶をする者、ご機嫌を伺う者、皆互いに挨拶をした。茶を飲むと、薛蟠が召使に命じた。「酒を並べよ。」まだ言い終わらぬうちに、多くの子供の召使たちが一斉にあれこれ動き回り――しばらく並べていたが、それからようやくきちんと並べ終わり、席に戻った。

 

 宝玉は果たしてスイカやレンコンの新鮮で変わったものを見て、それで笑って言った。「わたしの誕生日の贈り物はまだお送りしていませんが、先にご馳走になります。」薛蟠が言った。「でも、あなたが明日誕生日のお祝いに来られるなら、どんな新鮮な物を届けられるおつもりですか?」宝玉が言った。「わたしは何もお送りしませんよ。もし銀や銭、食べ物、衣類といった類の物をお考えなら、そういうものはわたしからの贈り物ではありません。ただ一枚字を書いたり、絵を描いたりして、それこそわたしからの贈り物です。」薛蟠が笑って言った。「あなたが絵のことを言われたので、わたし、それでようやく思い出しました。昨日わたしは人様の描かれた一冊の春画を見たのですが、絵はたいへんすばらしかったのですが、その上にたくさんの字が書かれていたのです。わたしは詳しくは見ていませんが、ただ落款があって、それが「庚黄」とかなんとかとなっていたのです。本当にすばらしいことこの上なかったです。」

 

 宝玉はそう聞いて、心の中で猜疑心を持って言った。「古今の字や絵は皆拝見したことがありますが、「庚黄」というのは聞いたことがないですね……」しばらく考えていたが、思わず笑いがこみ上げて来て、人に命じて筆を取って来させ、手のひらにふたつの文字を書き、また薛蟠に尋ねて言った。「あなたが見られたのは本当に「庚黄」でしたか?」薛蟠が言った。「どうして見たのが正しくないと言われるのですか?」宝玉は手を少し振りながら、彼に見せて言った。「しかしこの二文字ではなかったですか?――実は「庚黄」とあまり違いが無いのです。」人々が皆見ていると、実は「唐寅」(唐寅は明代の蘇州の文人)の二文字であったので、皆笑って言った。「きっとこの二文字だ。旦那様は一時的に目がくらんだのかもしれない。」薛蟠は自分でも興ざめしてしまい、笑って言った。「これは「糖銀」(「糖銀」と「唐寅」はどちらも発音がtáng yín)で、なんと「果(「寅」と「果」の形が似ていて間違っている)の「銀」 yínだったとはね。」(清朝初期1644年、摂政王ドルゴンが明の将軍呉三桂の手引きで北京に入城するのが53日「庚寅」の日であったこともこの話の背後にある。53日は薛蟠の誕生日。)

 

 ちょうどそう話していると、子供の召使がやって来て報告した。「馮旦那様がお越しになりました。」宝玉はそれで神武将軍馮唐の子、馮紫英が来たと知った。薛蟠らは一斉に「早くお入りください。」と叫んだ。皆が言い終わらぬうち、馮紫英がまっすぐ談笑しながら入って来たので、人々は急いで立ち上がって、席を譲った。馮紫英が笑って言った。「いいね。外出しないというのも。家の中で楽しく過ごそう。」宝玉も薛蟠も笑って言った。「ずっとお目にかかったことがなかったですね。お父上は元気にされているのですか。」紫英は答えて言った。「父はお陰様で健勝にしております。けれども最近母がたまたま風邪をひきまして、この二日体調がすぐれません。」

 

 薛蟠は紫英の顔に少し青い傷跡があるのを見て、笑って言った。「このお顔の傷は、誰かが拳を振り上げて、こんな看板(痣)を掛けて(残して)しまったんですね。」馮紫英が笑って言った。「その事件以来、仇の都尉(古代の武官名)の息子を殴って怪我をさせたんです。また腹を立てなかったら、どうしてまた拳を振り回すようなことをしましょうか。この顔の傷は先日猟に行った時、鉄網山で兎鶻(羽の一部の毛が茶色味を帯びた白鷹)の羽の先で引っ掻かれたんです。」宝玉が言った。「それはいつの話ですか?」紫英が言った。「三月二十八日に行きました。先日戻って来ました。」宝玉が言った。「道理でこの間、月初めの三四日にわたしが沈世兄の家の宴席であなたをお見受けしなかったのですね。お尋ねしようと思って、うっかり忘れていました。――あなたおひとりで行かれたんですか、それともお父上も行かれたんですか?」紫英が言った。「そう、父も行きました。わたしにはどうしようもなく、行ったんですよ。まさか閑で気が狂いそうなんてことはないでしょう。わたしたち数人で酒を飲み歌を聞いても面白くないし、何のために行ったんでしょう?――今回は大きな不幸の中での幸運なんです。」

 

 薛蟠や人々は紫英が茶を飲み終わるのを見て、皆が言った。「ひとまずお席に着かれて、お話があればゆっくりお話しください。」馮紫英はそう聞いて、立ち上がって言った。「本来なら、わたしは皆さんとご一緒に何杯かお酒を飲むべきなのですが、今日はひとつ緊急を要することがありまして、家に帰って父に会う必要があり、実に杯をお受けすることができないのです。」薛蟠、宝玉、人々がどうしてそれに同意しよう、じっと引っ張って離さなかった。馮紫英は笑って言った。「これもまた奇なことです。わたしたちはここのところ、いつこの道理を守りましたでしょうか。本当に仰せの通りにはできないのです。もしどうしてもわたしに酒を飲めとおっしゃるなら、大きな杯をお持ちいただき、わたしはそれで二杯飲むことにいたしましょう。」

 

 人々はそれを聞き、そうするしかないと思い、薛蟠は壺を執り、 宝玉は小さな杯を持ち、特大の杯に二杯酒を注いだ。かの馮紫英は立ち上がり、それをひと息に飲み干した。宝玉が言った。「あなたはこの「不幸中の幸せ」を言い終わってから出発してください。」馮紫英は笑って言った。「今日お話ししたことではまだ興が尽くせていませんから、また別途宴席にご招待し、皆さんそこでもっと詳しくお話しください。二にまだお願いの義もございますから。」そう言うと、手を振って、行こうとした。薛蟠が言った。「お話しをすればするほど、皆も激してきてやめられません。いつ頃わたしたちをご招待いただけますか?教えていただけると、皆がいらいらせずに済みます。」馮紫英が言った。「遅くて十日、早くて八日お待ちください。」そう言うと、門を出て馬に乗り、行ってしまった。

 

 人々は戻って来て、席に着くとまた一度酒を飲んでから解散した。宝玉が大観園の中に戻ると、襲人がちょうど宝玉が賈政に会いに行き、それが禍であったか福であったか心配していたのだが、宝玉が酒に酔って帰って来たのを見て、それでどうであったか尋ねると、宝玉が一々襲人に説明した。襲人が言った。「皆がハラハラドキドキしながらお待ちしていたんですよ。それなのに、あなたときたらこんなに楽しそうにされて。人を遣わせてわたしたちにお手紙をくださらなくっちゃ。」宝玉が言った。「僕は手紙を送る必要がないなんて思ったことがないけど、馮兄さんが来られたんで、うっかり忘れちゃったんだ。」

 

 そう話していると、宝釵が歩いて入って来て、笑って言った。「ここには新鮮な食材が集まっているんでしょう。」宝玉は笑って言った。「姉さんの家の物の方が、うちより新鮮だよ。」宝釵は首を振って笑って言った。「昨日、兄さんが特別に食事を準備してくれたんだけど、わたしは食べなかったの。わたしが兄さんに、他の人に食べさせてあげてと頼んだの。わたしは自分の運命は幸が薄いと分かっているので、わたしは要らないと言ったの。」そう話していると、小間使いの女がお茶を淹れてくれたので、お茶を飲みながら世間話をしたが、そのことはこれで置く。

 

 さてかの黛玉は賈政が宝玉を呼んで、彼が一日帰って来なかったと聞き、心の中で彼のことを心配していた。夕食後、宝玉が戻って来たと聞き、心の中で彼に会ってどうだったか聞こうと思い、てくてく歩いてやって来ると、宝釵が宝玉の家の敷地に入って行くのが見えたので、自分もその後に付いて歩いて行った。ちょうど沁芳橋まで来た時、様々な種類の水鳥たちが池の中で水浴びしているのが見えたが、鳥の名前までは知らなかったが、それぞれ鮮やかな色彩が光り輝き、とても美しかったので、立ち止まってじっくり眺めた。再び怡紅院に向けやって来ると、門は既に閉ざされ、黛玉はそれで門を叩いた。

 

 たまたま晴雯と碧痕のふたりがちょうど口論となり、機嫌が悪いところに、ふと宝釵が来るのが見えたので、かの晴雯はちょうど怒りの矛先を宝釵に向け、こっそり敷地の中で恨みがましく言った。「用事があろうと無かろうと、やって来てお座りになると、わたしたち真夜中まで寝ることができないのよ。」ふとまた来客が門を叩いたので、晴雯は益々腹を立てて、誰とも聞かず、こう言った。「皆もう寝ました。明日またお越しください。」

 

 黛玉は素より小間使いの女たちの性格を知っていて、彼女たちとはお互いに一緒に遊び慣れていたので、おそらくお屋敷内の小間使いたちに彼女の声が聞こえず、他の小間使いたちが当たったので、門を開けてくれないのだと思った。それでまた声を高くして言った。「わたしよ、どうして開けてくれないの?」晴雯はあくまで聞こえないふりをし、乱暴に言った。「あんた、誰よ。旦那様の言いつけなの。一切人が入って来るのを許すなって。」

 

 黛玉はこの言葉を聞いて、思わず門の外で呆気にとられ、また声高に相手に尋ねなければならず、怒りがこみ上げて来たが、自分でまた思い返してみると、「母方の叔母さんの家は自分の家と同じだと言うけど、結局他人の家だ。今、父母が共に亡くなり、寄る辺の無い身。現在は他家に住まわせてもらっていて、もし真剣に腹を立てても、ばつが悪いだけだわ。」そう思いながら、一方では涙が転がり出た。本当に帰ることもできず、立っていることもできなかった。どうしたらよいか分からないでいると、ふと中でひとしきり笑い声が聞こえ、細かく聞くと、なんと宝玉、宝釵ふたりであった。黛玉は心の中で益々腹が立ち、あれこれ考えていると、ふと朝起きた時のことが思い出された。「これはきっと、宝玉がわたしに腹を立てて、宝釵に告げたに違いないわ。――だけどわたしはこれまであなたに腹を立てたことがないのに。あなたも聞いてくださらないものだから、わたしをここまで悩ませて。あなたが今わたしを家に入れてくれなくて、ひょっとして明日も会ってくださらないの?」考えれば考えるほど悲しくなり、苔むした地面が、露が凝結して霜となっているのも顧みず、庭の両側に花卉の植わった道は吹き通る風で寒く、ひとり壁の角の草花の陰に立っていると、悲しみが切々とこみ上げ、嗚咽を漏らした。

 

 元々この黛玉は絶世の容姿を持ち、世に稀な美貌の持ち主であったが、予期せずこのように泣き出したので、附近の柳の枝や花の上に宿る鳥たちも、この泣き声を聞くや、皆バタバタと遠くへ飛んで行き、再び泣き声を聞くに忍びなかった。正に:

 

花の魂(黛玉のこと)は(涙)点点として情緒無く、鳥の夢は痴痴として何れの処に驚く。

 

これに因りてまた一首の詩に言う:

 

顰兒( 黛玉のこと )は文才も容貌も世に応(まさ)に稀にして、独り幽芳を抱き綉閨より出ず。

嗚咽一声猶お未だ了(おわら)ず、落花は地に満ち鳥は驚き飛ぶ。

 

かの黛玉が正に自ら泣いて悲しみに暮れていると、ふと「ギギィッ」と音がして、屋敷の門が開かれた。さて誰が出て来たのでしょうか。この後のことについては、次回に解説いたします。