この回でのポイントは、宝玉が黛玉に対して、自分の思いのたけを切々と語るところ。宝玉が本当に好きなのは黛玉であることが明らかになります。しかし黛玉の身体は徐々に病に犯され、この先あまり長くないことが語られ、史湘雲は両親を早くに亡くして、家では嫂(あによめ)達に冷遇され、肩身の狭い思いをしていることが明らかにされます。そんな中、王夫人に暇を出された侍女の金釧(きんせん)が、突然井戸に身を投げ、死んだことが告げられます。『紅楼夢』第三十二回の始まりです。
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肺腑に訴え心迷う活ける宝玉
耻辱を含み情烈しき死せる金釧
さて、宝玉はその麒麟を見て、心中甚だ喜び、手を伸ばして手に取り、笑って言った。「よくもまあ君が拾っていたとは。君はどうやってこれを拾ったの?」湘雲は笑って言った。「幸い、これが出て来たから良かったけど、明日もし官印まで失くしてしまっていたら、まさか役人を辞めないといけなかったんじゃないわよね?」宝玉が笑って言った。「別に官印を失くしたってどうということはないけど、もしこいつ(麒麟)を失くしていたら、僕死なないといけないところだった。」
襲人が茶を淹れて来て湘雲に飲ませ、一方で笑って言った。「お嬢様、わたし先日お嬢様にお喜び事があったと伺いましたが。」湘雲は顔を赤くし、首をかしげて茶を飲み、一言も応えなかった。襲人は笑って言った。「今回はまた恥ずかしがっておられますね?お嬢様、まだあの頃のことを憶えておられますか、わたしたちは西側の暖閣(大部屋と隣り合って往き来できる部屋で、暖房施設が取り付けられた部屋)で暮らしていて、夜お嬢様とお話をしたことを。あの時は恥ずかしがっておられなかったのに、今回はどうしてまた恥ずかしがられるんですか?」湘雲の顔は益々真っ赤になったが、無理やり笑って言った。「おまえ、まだあの時の話をするの。あの時はわたしたちはあんなに仲が良かったのに、その後うちの母が亡くなり、しばらく実家で暮らしている間に、どうしておまえをあの人に配したのかね。わたしが戻ってきたら、おまえはもうあの時のようにわたしの相手をしてくれなくなった。」
襲人も顔を赤くし、笑って言った。「もういいですわ。以前だったら「お姉様」が長い、「お姉様」が短いとわいわい騒ぎながら、わたしが代わって髪を梳いたり顔を洗ったりしていましたが、今はお嬢様然としてお高く止まっていらっしゃいます。あなたが偉そうにされたら、わたしお傍に行けませんわ。」湘雲が言った。「南無阿弥陀仏。とても悔しいわ。わたしがそんなだったら、すぐ死んでしまうわ。ちょっと見てみて。こんな暑い日に、わたしがここに来たのは、先ずあなたの顔を見るためよ。信じないなら、縷兒に聞いてみて。わたし家ではいつも、一度だってあなたのことを忘れたことがなくってよ。」
襲人と宝玉はそれを聞いて、笑いながらなだめて言った。「冗談を言ったのに、あなたまた真に受けられたわ。こんなに慌てて。」湘雲が言った。「あなたの話は刺激が強いって言われなかったかしら。それにしても性格もせっかちだけど。」そう言いながら、一方でハンカチで包んだ包みを開き、指輪を襲人に手渡した。襲人はどんなに感謝しても足らず、それで笑って言った。「先日あなたのお姉様方が届けて来られ、わたしもういただきました。今日はあなたが自ら持って来られて、わたしのことを忘れておられないのが分かったわ。これであなたがここに来られた誠意が確かめられた。指輪がどれだけの値打ちのものにせよ、あなたの真心が分かったわ。」
史湘雲が言った。「誰があなたに渡したの?」襲人が言った。「宝お嬢様がわたしにくれました。」湘雲はため息をついて言った。「わたし、林姉さんがあなたに渡すとばかり思っていたら、実は宝姉さんがあなたに渡したのね。わたし、毎日家で考えているの。ここにいるお姉様方で、宝姉さんよりいい方はいらっしゃらないのね。でも残念ながらわたしたちは同じ母親の娘ではない。――もし宝姉さんのような実のお姉様がいたら、たとえ両親を亡くしても、ひとりぼっちで誰からも助けてもらえないとは思わないわ。」そう言うと、眼の周りを赤くした。
宝玉が言った。「もうおやめよ。この話題はもうやめよう。」史湘雲が言った。「この話を言ったら、どうなるの?わたし、あなたの心の病を知ってるのよ。おそらくあなたの林ちゃんが聞きつけて、またわたしが宝姉さんを褒めたのに腹を立てるんだわ。でもこれって事実よね?」襲人が傍らで「クスッ」と笑い、こう言った。「雲お嬢様、あなたは大きくなられて、益々はっきりものを言うようになられたわね。」宝玉が笑って言った。「僕、君たち何人かとは話しずらいんだ。確かに間違いではないし。」史湘雲が言った。「いいお兄様、あなた、わたしが気分が悪くなるようなことは言わなくていいわ。こうして話をしていても、あなたの林ちゃんと会ったら、どうなるかも分からないし。」
襲人が言った。「もう冗談はやめましょう。ちょうどひとつあなたにお願いがあるの。」史湘雲が尋ねた。「何なの?」襲人が言った。「靴が一足、底がすり減っちゃったんだけど、わたしこの二日は身体の具合が悪くて、修理ができないの。あなた、わたしの代わりに直す時間があるかしら?」史湘雲が言った。「これはまた不思議ね。あなたの家におられる手先の器用な人はどうなの?針仕事がうまい人、裁断がうまい人がおられるのに、どうしてわたしに頼むの?あなたがそのお仕事をお願いしたら、誰が平気で断れるというの?」襲人が笑って言った。「あなた、分かってないわね。あなた、まさかご存じないの?うちの家の針仕事は、ああした針仕事専門の人にお願いしちゃだめなの。」
史湘雲はそう聞いて、それが宝玉の靴だと知り、それで笑って言った。「そう言われるんだったら、わたしがあなたに代わってやってあげる。――でもこの一足だけよ。あなたのだからやってあげるけど、他の人のだったらわたし、やれないわ。」襲人が笑って言った。「ほらまた。わたしが何だと言うの、ただあなたに靴の修理をお願いしているだけよ。本当のことを言うと、これはわたしのじゃないの。――あなた、これが誰の靴かは聞かないで。どのみちわたしが頼まれたものなの。」史湘雲が言った。「理屈から言って、あなたのものだって、わたしにどれだけ頼んでよいか分からないわ。今日わたしがどうしても針仕事をしない理由は、あなたもきっとご存じのはずよ。」襲人が言った。「わたしには何のことか分からないわ。」史湘雲は冷ややかに笑って言った。「先日わたしはこんなことを聞いたわ。わたしが作った扇子入れの袋を持って行って、他人のものと比べてみていたら、癇癪を起こしてまたハサミで切り裂いてしまったって。わたし、とっくに聞いて知っていたのよ、あなたはまだごまかすつもりなの?今回またわたしに作らせたら、わたしはあなたがたの奴隷になってしまうわね。」
宝玉は慌てて笑って言った。「先日のあの件は元々君が作ったものだとは知らなかったんだよ。」襲人も笑って言った。「旦那様は元々あなたが作ったものとは知らなかったの。わたしが旦那様をからかって、こう言ったの。「新しく外から手仕事の上手な小間使いが入って来て、すばらしい花の絵柄の刺繍をするから、あの人たちに扇子入れの袋を持って来てもらうから、良いかどうか試しに見てみてください」って。旦那様はそれを信じて、持って出て、こっちの人に見せたり、あっちの人に見てもらったりしたの。どうしてか分からないけど、さる人(黛玉のこと)の怒りを買うことになって、ハサミでふたつに断ち切られてしまったの。帰って来て、旦那様は急いで間に合わせて作らせるようにと言われたので、わたしはそれでようやく、あれはあなたが作ったものだと申し上げたの。そうしたら、旦那様は何か悔やんでおられたわ。」史湘雲が言った。「これは益々奇妙ね。林お嬢様も腹を立てる訳にいかないわね。あの子は裁断ができるんだから、あの子に作らせるべきだわ。」襲人が言った。「林お嬢様は、でもお作りにならないわ。こんなこと(湘雲がせっかく作った扇子の袋をハサミで切ってしまったこと)をしてしまったけれど、大奥様は林お嬢様が(身体が元々弱いので)それでお疲れになるのを心配されているんです。医者の先生も安静にして身体を休めるようにと言われていますしね。それなのに誰がまた林お嬢様に作っていただくことを良しとするんですか。以前は一年も時間をかけて、匂い袋を作られていたんですよ。今年は半年過ぎましたけど、まだ針と糸を手にされているのを見たことがないですわ。」
そんな話をしていると、人が来てこう伝えた。「興隆街の旦那様がお越しになりました。旦那様が若旦那様に出て来てご挨拶するようにとのことです。」宝玉はそう聞いて、賈雨村が来たと知り、心の中ではとても気まずく思った。襲人は急いで服を取りに行った。宝玉は靴で足踏みしながら、憎々し気に言った。「父上とあの方が座っていればそれでいいのに、毎回必ず僕に会いたいって。」史湘雲は扇子で扇ぎながら、笑って言った。「もちろんあなたがお客様をお迎えし、接客ができるから、旦那様はあなたに出てくるよう言われたのよ。」宝玉が言った。「どちらの旦那様のことか?いつもあの方自身がわたしに会いたいって言われるんだ。」湘雲が笑って言った。「「ご主人が上品ならお客も来やすい」わ。もちろんあなたにあの方を驚かせるところがあるから、あの方もあなたに会いに来られるのよ。」宝玉が言った。「分かった。もういいよ。僕も俗の中でもまた俗なひとりの俗人に過ぎないが、別にこういった人たちと往き来したいとも思わないよ。」湘雲が笑って言った。「またこんな気性を出して、相変わらずね。もう大人なんだから、科挙の試験を受けて挙人に合格して進士になりたくないんだったら、日常こうした官職に就いておられたりお役所勤めをされている方にお会いして、ああした官職に就く道筋のお話を相談しておけば、将来人と交際する上で都合がいいし、今後本当の友達にもおなりになれてよ。あなたのように年がら年中お屋敷の女たちの部屋をうろうろして、何もしないでいてどうするの?」
宝玉はこれを聞いて、大いに耳障りに思い、それで言った。「お嬢さん、どうか他の部屋に行って座ってくれない。僕のところを君のような世の中を治める術を知った人に細かく汚されたくないんだ。」襲人が急いで間に入って言った。「お嬢様、もうこの人にこんなことを言うのはやめて。前回も宝お嬢様が一度言われたことがあるけど、あの方は人の面子を考えもせずに言われたものだから、旦那様は「ああ」と一声ため息をつかれて、さっさと部屋を出て行ってしまわれたの。宝お嬢様の話も終わらぬうちに、旦那様が出て行ってしまわれたので、お嬢様もしばらくは恥ずかしくて顔を赤くされていたわ。だめと言うか、直接言わないまでも、態度で示すか。――幸い、宝お嬢様で良かったですが、それがもし林お嬢様だったら、またどんなに癇癪を起こされるか、どんなに泣かれるか、分からないわ。こうした状況になっても、宝お嬢様は人を丁重に扱われて、自分はちょっとばつが悪そうにされて、わたしが却って困っていると、あの方も当初は戸惑われても、あにはからんや、しばらくするといつもと変わらぬ表情に戻られて、あの方は本当に修養を積まれていて、心根がお広いの。それに比べ、林お嬢様ときたら、それと正反対ね。あの方は旦那様が腹を立てて聞き分けがなくなると、後でどれだけ償いを負わせられるか分からないわ。」宝玉が言った。「林ちゃんはこれまでこうしたろくでもない話をしたことがあるかな?もしあの子もこういったろくでもないことを言ったことがあったら、僕はとっくにあの子と縁を切っているよ。」襲人と湘雲は、ふたりとも頷いて笑って言った。「このことって、もともとろくでもない話かしら?」
もともと黛玉は史湘雲がこちらにいると知っていたが、宝玉がきっとまたこの機に乗じて麒麟の言われを言い出すに違いなく、心の中でいろいろ推察した。最近、宝玉が持ち出す外伝や野史の類は、多くが才子佳人が、精巧で綺麗な玩具や小物で結びつけられ、それは鴛鴦(おしどり)であったり、鳳凰であったり、玉環や金のアクセサリー、或いは薄い絹のハンカチ、鸞鳥の図柄の絹のベルトであったりした。それらは皆単なる小物から遂には一生の願望となった。今ふと宝玉が麒麟のことを言い出すのを見て、このことを契機に隙が生じ、宝玉が湘雲ともああした男女の間のことが起こりやしないかと恐れた。それでこっそり歩いて来て、この機会にどんなことを行っているか見て、ふたりの気持ちがどうか観察した。思いがけず中に入っていくと、ちょうど湘雲が「官職に就いて自立する」ことを話していて、宝玉も「林ちゃんはこんなろくでもないこ話はしない。もしこんな話をしたら、僕もあの子とは縁を切る」と言うのが聞こえた。
黛玉はこの話を聞いて、思わず嬉しくもありびっくりし、また悲しくもあり嘆かわしかった。嬉しかったのは、自分の眼力が間違っていなかったことで、平素から宝玉とは気心が知れていると思っていたが、果たして自分の思った通りだった。びっくりしたのは、宝玉が人前で心から自分のことを称賛してくれ、その情熱が濃密であることで、このことは疑うべくもなかった。嘆かわしいのは、宝玉が自分と気心が通じ合っているなら、当然自分も彼の知己と見做すことができ、ふたりが気心が通じているなら、またどうして「金玉之論」(宝釵が身につける金鎖と宝玉の通霊宝玉で「金玉良縁」になるという考え方)などと言うのか?天意或いは世俗として「金玉配対」の言い方がある以上、宝玉と黛玉の間にも相応するお互いを結びつけるものがないといけないはずなのに、どうして一方的に宝釵という第三者が出て来て、宝玉と黛玉の純粋な知己の関係を打ち壊すのか?悲しむべきは、父母が早逝し、心に深く刻まれ永遠に忘れることのできない言葉があっても、誰も自分のために主張してくれない。ましてや最近は精神が集中できなくなる度、病気が次第にひどくなり、医者はこうも言った。「気が弱り血が不足し、恐らく労咳(結核)で身体が虚弱になっている。」わたしはあなた(宝玉)の知己だが、恐らくこの先長くは生きられない。あなたがわたしの知己になってくれたのに、どうしてわたしは薄命なのだろう。――ここまで考えると、涙が流れるのを禁じ得ない。部屋に入ってお互い顔を合わせるのは、意味が無いように感じ、涙を拭くと、ここを離れ、帰って行った。
ここで宝玉が急いで衣裳を着て出て来ると、ふと黛玉が前をゆっくりと歩いて行くのが見え、あたかも涙を拭いているようだったので、急いで近づくと笑って言った。「お嬢ちゃん、どこへ行くの?どうしてまた泣いているの?また誰かに虐められたの?」黛玉が振り返ると、宝玉であったので、無理に笑って言った。「何でもないわ、わたしがいつ泣いていたと言うの?」宝玉が笑って言った。「ほら、見てご覧、眼の上の涙の粒がまだ乾いていないよ。また嘘をついて!」そう言いながら、一方で我慢できずに手を伸ばし、彼女に代わって涙を拭いてやった。黛玉は慌てて後ろに数歩後退すると、こう言った。「あなた、また死にたいの?またこんないらないことをして。」宝玉が笑って言った。「話をしていて我を忘れてしまっていた、思わず手が動いてしまったんだ。生死を顧みる余裕も無くなってしまっていたんだ。」黛玉が言った。「死んでしまったら何の値打ちも無くなってしまうわ。ただあの「金」(宝釵の金の鎖)だとか、「麒麟」だとかが無くなってくれたら、どんなに良いか!」
その一言で、宝玉はまた慌て出し、急いで問い質した。「君はまだこんなことを言って、いったい僕を呪っているの、それとも腹を立てているの?」黛玉は問われたもを見て、ようやく先日のことを思い出し、遂に自らまた軽はずみなことを言ってしまったと後悔し、急いで笑って言った。「あなた、焦らないで。わたし、実は言い間違っていたの、大したことじゃないわ、そんな緊張して慌てて、顔が汗びっしょりよ。」そう言いながら、一方で近寄って手を伸ばし、彼に代わって顔の上の汗を拭いてやった。
宝玉は黛玉の方をしばらくじっと見ていたが、それからようやくこう言った。「君、安心していいよ。」黛玉はそう聞いて、しばらくポカンとしていたが、こう言った。「わたしにどんな心配事があると言うの?わたし、あなたの言っている意味がよくわからないわ。ねえ言ってみて、どう安心できないと言うの?」宝玉はひとしきりため息をつくと、尋ねて言った。「君、本当にこのことが分からないの?まさか僕がふだん君の身の上にかけてきた心配は皆間違いだったの?君の気持ちも思いやることができないなんて、道理で君が日々僕に腹を立てているはずだよ。」黛玉が言った。「わたし、本当に何が安心できないのかよく分からないわ。」宝玉は頷きため息をついて言った。「良い子ちゃん、僕を騙さないで。君が本当にこのことが分からないなら、僕はふだんいらぬ心配をしていたことになるし、君がふだん僕に接する気持ちまで皆無にすることになるよ。君が何にでも安心できないものだから、体中に病気が出てきてしまうんだ。でも凡そもう少し気楽にしていれば、この病気も日に日に重くなるなんてあり得ないよ。」
黛玉はこの話を聞いて、雷に打たれたようになった。細かく考えてみるに、意外にも自分の心の奥底から取り出したものよりもっと懇ろに感じられ、意外にも万の言葉を使って、心を込めて話をしても、言葉半分も吐き出すことができず、ただただぼんやりと宝玉を見つめていた。この時宝玉の心の中でも、言いたいことが山のようにあったけれども、すぐにはそのどの言葉から言い出せばよいか分からず、彼の方もぼんやりと黛玉を見つめるばかりだった。ふたりはしばらくぼんやりと見つめ合っていたが、黛玉が「ゴホン」と咳払いすると、眼の中で涙が流れ落ちてきて、向こうを向いて出て行こうとした。宝玉は急いで前へ進み出て、黛玉を引っ張って言った。「良い子ちゃん、ちょっとお待ちよ、僕がもう一言言ってからお行きよ。」黛玉は一方で涙を拭きながら、一方で手を振りほどき、こう言った。「まだ何か言うことがあるの?あなたの言いたいことは、わたし皆分かっているわ。」口でそう言いながら、振り返りもせず、遂に行ってしまった。
宝玉はそれを眺めながら、ただ気もそぞろでポカンとしていた。実は先ほど出て来る時はバタバタして、扇子を忘れて来たのだが、襲人が宝玉が暑いといけないと思い、急いで扇子を持って、追いかけて来て彼に手渡そうとしたのだった。彼女がいきなり頭を上げて前を見ると、黛玉と宝玉が立っていて、しばらくして黛玉が歩いて行ってしまったが、宝玉は立ったまま動こうとしなかった。襲人はそれで宝玉に近づいて行って言った。「あなた、扇子を持たずに出られましたよ。幸いわたしが気がついたので、急いで持って参りました。」
宝玉はちょうどぼんやりしていて、襲人が彼に話しかけても、誰が話しているか見ようともせず、ただぼんやりとした表情でこう言った。「良い子ちゃん、僕の気持ちは、これまで話す勇気がなかったけど、今日は思い切って言うことにするよ。たとえ死んでも後悔しない。僕は君のことを思うと心身ともに疲れて、病気になりそうだけど、それを人に言うこともできず、ただこらえているしかないんだ。君の病気が良くなったら、たぶん僕の病気も良くなるに違いない。――寝ても夢の中でも君が忘れられないんだ。」
襲人はそれを聞いて、驚くやら訝(いぶか)るやら、また惧れ、慌て、また恥ずかしくなり、急いで宝玉の身体を推して言った。「それは何のことなの?あなた、どうされたの?早く旦那様のところに行かないといけないんじゃありませんか?」宝玉はしばらくして我に返り、ようやくそれが襲人であったと気づき、恥ずかしくて顔中を真っ赤にし、けれども相変わらずポカンとして、扇子を受け取ると、一言も発せず、遂に自ら歩いて行った。
ここで襲人は宝玉が行くのを見送ってから、彼が先ほど言ったことが、きっと黛玉のことが発端であるに違いないと思い、こうして見ると、ひょっとして将来不名誉なことが起こってしまうんじゃないかと恐れ、おかげでびっくりするやら恐ろしくなった。それにしても、どう対処したら、そんなみっともない過ちを防ぐことができるんだろうか?――そんなことを考えていると、襲人も思わず知らずぼんやりと立ちつくした。
そこへ思いがけず、宝釵がちょうどあちらから歩いて来て、笑って言った。「こんな暑い陽の下で、何をぼんやりされているの?」襲人は尋ねられたので、急いで笑って言った。「わたし、さっき二羽の雀が喧嘩するのを見たんだけど、とっても面白くて、見とれていたの。」宝釵が言った。「宝兄さんはさっき服を着て、急いでどちらへ行かれたの?わたし、呼びかけて尋ねようと思ったのに、兄さんはあたふたと行ってしまわれて、わたしのことなど気にも留められなかったから、尋ねられなかったの。」襲人が言った。「旦那様がお呼びだったんですよ。」宝釵はそう聞いて、急いで言った。「あらまあ!こんな暑い日に、兄さんに何をさせようというのかしら。別段何も思いつかないけど、お腹立ちで、お兄様を呼び出してひとしきりお説教をされるのかしら?」襲人が笑って言った。「違いますよ。おおかたお客様があって、お会いする必要があるんですわ。」宝釵が笑って言った。「このお客様も面白くないでしょう、こんな暑い日に、家で涼むんじゃなくて、走って来てどうされるんでしょう。」襲人が笑って言った。「あなたも言われるわね。」
宝釵はそれで尋ねた。「雲お嬢様(史湘雲)はこちらの家で何をされていたの?」襲人が笑って言った。「今しがたまであれこれ無駄話をしていました。またちょっと先日貼り付けた鞋の、足の甲を包む両側の部分( 鞋帮子)を見てもらい、明日また雲お嬢様に作っていただこうと思っていますの。」宝釵はこの話を聞いて、両側を振り返って見て、誰も来ていないと分かると、笑って言った。「あなたのようにものの道理の分かった人が、どうして少しの間でも人を思いやることができないの?わたしは最近雲お嬢様のお顔をお見受けしたのだけれど、風の噂によると、家では少しも自由にさせてもらえないそうよ。あちらのお家では、費用がかかることを嫌がり、ああしたお針子さんさえ雇わず、たいていのものは皆女たちが自分で作られるそうよ。どうして最近何度かあの方が来られて、わたしともお話しして、周りに誰もいない時に、家での暮らしが辛くてたいへんだと打ち明けられたのかしら?わたしがまたあの方にふだんの生活をお尋ねすると、あの方は眼の周りを赤くされて、口ごもられ、言いたそうにされるても結局何もおっしゃらないの。あの方のご様子を見ると、自然と小さい時に父母を亡くされ、ご苦労されている。わたしはあの方も知らず知らずのうちに心に傷を負われていると思うわ。」
襲人はこの話を聞いて、「ポン」と手を叩き、言った。「そうだわ、道理で先月、わたしがあの方に蝶々の形の組みひもを十本作ってほしいとお願いしたら、何日か経ってから、やっと人に頼んで届けて来られ、またこう言われました。「これは粗い出来なので、とりあえず別のところで使ってください。きちんとしたのが要るなら、明日こちらに泊まりに来てから、もう一度作り直します。」今、お嬢様からこの話を聞いて、そうするとわたしたちがお願いすると、あの方は断るのを申し訳なく思われ、ひょっとするとお家では夜中までかかって作られていたのかもしれませんわ!――それにしてもわたしもぼんくらでした、こういうことだと早く知っていたら、わたしもあの方に頼んではいけなかったのに。」宝釵が言った。「この前、あの方はわたしにこうおっしゃったわ。家では針仕事を三更(午後23時から午前1時)までして、もしその中の少しでも他の人に代わってもらおうとすると、あちらのお家の女性たちは、嫌な顔をされるそうなの。」
襲人が言った。「うちのあの頑固な旦那様ときたら、家の中の大小の仕事を、一切お屋敷の中のこうした仕事をする人にやらせてはならないと言われるんですが、わたしもこうした仕事のことはよく分かりませんわ。」宝釵が笑って言った。「あなたがあの方を動かさないと。気兼ねせず人にやらせれば、いいのよ。」襲人が言った。「どうやってあの方をなだめるんですか。やっとおわかりになったばかりなのに。わたしがぼちぼちと辛い目をするしかないんですわ。」宝釵が笑って言った。「あなた慌てなくていいのよ。わたしがあなたの代わりに手伝ってあげるから。」襲人が笑って言った。「本当ですか?それならわたし幸いだわ。夜にわたしが自ら伺いますわ――」
話が終わらぬうちに、ふとひとりのおばあさんが急いでやって来て、こう言った。「これはどこから伝わった話かしら。金釧jīn chuàn(きんせん)お嬢さんが何の前触れもなく井戸に身を投げて亡くなったわ!」襲人はそれを聞いて、びっくり仰天し、急いで尋ねた。「どちらの金釧のことなの?」そのおばあさんが言った。「どこにまだ別の金釧兒がいるものかね?他でもなく奥様のお部屋付きの方ですよ。先日どうしてだか知らないがお暇を出され、家で泣きの涙に暮れておられたけど、誰にも相手にしてもらえず、思いがけず姿が見えなくなったと思ったら、ようやく水汲みの男が、「あちらの東南角の井戸で水を汲んでいたら、死人の首を見つけた」と言ったんです。慌てて人を呼んで引き揚げたら、思いがけずあの子だったんですよ。その人たちはまたひたすらなんとか救おうとしたけど、それがどれだけ効果があるかね?」宝釵が言った。「これも奇遇なことね。」襲人はそう聞いて、頷いてため息をつき、平素同じ境遇にいた者としての気持ちを思い、思わず涙を流した。宝釵はこの話を聞いて、急いで王夫人のところに来た。ここで襲人は自ら戻って行った。
宝釵が王夫人の部屋まで来ると、ひっそり静まり返り、ひとり王夫人が奥の部屋の中に座り、涙を流していた。宝釵はそれでこのことを持ち出す訳にもいかず、ただ傍らに座っていた。王夫人がそれで尋ねた。「あなた、どちらに行って来られたの?」宝釵が言った。「大観園に行って来ました。」王夫人が言った。「あなた、大観園に行って来たなら、おそらく宝兄さんに会われたわね?」宝釵が言った。「先ほどあの方にお会いしました。服を着て出て行かれましたが、どちらに行かれたか存じません。」王夫人は頷いてため息をついて言った。「あなた、おそらく例の事件をご存じね?――金釧兒が突然井戸に身を投げて死んだことを。」宝釵はそれを聞いて、言った。「どうして何の前触れもなく井戸に飛び込んだのかしら?奇妙なことですね。」王夫人が言った。「実を言うと、先日あの子がわたしのものを壊してしまったので、わたしが怒って、あの子を数回叩いて、暇を出したの。わたしは腹が立っただけで、何日かしたら、またあの子を呼び戻すつもりだったの。思いがけずあの子がこんなに癇癪持ちで、井戸に身を投げて死んでしまうなんて、これはわたしの過ちじゃないかしら。」宝釵が笑って言った。「叔母様は情け深い方です。固よりそんな風に思われているんでしょうが、わたしが見るところ、あの方は別に腹を立てて井戸に飛び込んだのではなく、おおかた田舎に行って暮らしていて、或いは井戸の傍で遊んでいて、足をすべらせて落ちたのかもしれません。あの方はお屋敷の中で上の方の厳しい躾けに慣れておられたから、ひとたびお屋敷の外に出ると、当然あちこちへ行って遊び歩いたでしょうに、どこにそんなに怒り狂う道理があるでしょう?よしんば怒り狂ったとしても、ぼんくらに過ぎませんから、別に惜しむまでもありませんわ。」王夫人は頷いてため息をつき、言った。「そうだとしても、結局わたし、どうなるか不安なの。」
宝釵が笑って言った。「叔母様、心配しなくて大丈夫です。気が済まないなら、あの方に褒美として何両か銀子を送ってあげるだけでも、主人と召使の間の情を尽くすことになりますわ。」王夫人が言った。「先ほどわたしは五十両の銀子の褒美をあの子の母親に与えたわ。それと元々あなた方女兄弟たちの新しい衣裳であの子の死に装束を二着作ってやろうと思っていたのだけれど、ちょうど何も新しく作る衣裳が無かくて、林ちゃんの誕生日用のが二着しかなかったの。わたしは林ちゃんという子は平素から細かいところまで考える性質(たち)で、ましてやあの子もさまざまな災難に遭ってきたから、もうあの子に誕生日の晴れ着を作ると約束したけど、今またその服で他の人の死に装束を作ると言ったら、それは不吉なことにならないかしら。そう思ったから、わたしは今しがたお針子を呼んで、急いで一式を作らせて金釧兒に着させることにするわ。もし他の小間使いだったら、褒美に数両の銀子を与えれば、それで済むわ。金釧兒は小間使いだったけど、平素わたしの前では、わたしの娘みたいなものだったの。」口でそう言いながら、思わず涙を流した。宝釵が急いで言った。「叔母様は今回どうしてお針子を呼んで、急いで間に合わせる必要があるの?わたしが先日二着服を作らせたばかりだから、持って来てあの子にあげるようにすれば、手間が省けるんじゃないかしら。ましてあの子は生きていた時にわたしの古着を着たこともあるから、背丈も同じだから。」王夫人が言った。「そうだとしても、まさかあなたが嫌じゃないの?」宝釵が笑って言った。「叔母様、安心して。わたしはこれまでこんなことを気にしたことはないから。」そう言いながら、立ち上がり、歩いて行った。王夫人は急いでふたりの小間使いを呼んで、宝釵に付いて行かせた。
しばらくして宝釵が衣服を取って戻って来ると、宝玉が王夫人の傍らに座って涙を垂れているのが見えた。王夫人はちょうど今しがた宝玉に話をしたところだったが、宝釵が来たので、口をつぐみ、もう話をしなかった。宝釵はこの情景を見て、ふたりの顔色をうかがうと、早くも七八割は事態に感づいていた。それで衣服を王夫人にちゃんと手渡すと、王夫人は金釧兒の母親を呼んで、服を持って行かせた。この後どうなったか、次回に解説いたします。








































