荀玖の祖母の葬儀で一緒に山東に行った王惠は、都に戻るや 南昌知府へ任命するとの通達を受け取りました。それで江西省へ赴任したのですが、前任の蘧太守との引継ぎをあれこれ言って引き延ばし、人の好い蘧太守からまとまった銀子をもらい、ようやく引継ぎに同意します。王太守は着任するや、税の取り立てを厳しくし、人々に恐れられていましたが、そんな中、江西方面で寧王の反乱が勃発、朝廷は彼を南贛道の道台に抜擢します。ところが南贛は寧王軍に攻められ陥落、王惠は寧王に降順しますが、こうした経緯が、第七回で陳礼の仙乩(こっくりさん)の占いの結果と妙に一致してびっくり仰天。ところが寧王の反乱も、わずか二年で新建伯王守仁(王陽明)が平定、王惠は結局身一つで浙江に落ち延びます。そこで偶然、蘧太守の孫に出逢い、二百両の銀子を当座の費用にもらって去って行きます。南昌より故郷の嘉興に戻った蘧太守の元には、妻の実家の娄一族の三男、四男が訪ねて来ます。そこで蘧太守と娄家の三男、四男の間でいろいろやり取りがなされ……。『儒林外史』第八回をご覧ください。
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王観察は窮途(行き詰った状況)に好き世(世交。代々付き合いのある人士)に逢い
娄公子は故里(故郷)にて貧(清貧だが才能や徳のある人士)に遇う
さて王員外は都に戻ってようやく休暇を終了させたのだが、早くも侍従の召使(長班)が採用の報告人(報録人)を連れて入って来て、跪き両手をついて地面に頭を近づける礼をしてお祝いを言ったので、王員外がどんな慶び事か尋ねたところ、その報告人は地面に頭を付け、通知書を差し出した。そこにはこう書かれていた。
江西巡撫王大人から(皇帝陛下への)奏上文。重要な地方に才能のある人員が必要なこと。南昌知府(府知事)の人員に欠員が出た。ここは乃ち長江沿岸の要衝の地であり、学識があり有能な人員を選抜する必要がある。特にこの奏上文について皇帝陛下のご裁決を仰ぎ、朝廷中央の各部在職の職員の中から一名を選抜する。奉旨:南昌府知府の人員の欠員で、元工部員外郎の王惠を、欠員の南昌府知府の職位を引き継ぐよう任命する。欽此。
王員外はこの慶び事を報告してくれた人に酒飯を賞し、その恩を謝し、旅装を整えると、江西に赴任した。数日をかけ、江西の省城に到着した。南昌府の前任の蘧qú(きょ)太守は、浙江嘉江府の人で、進士出身だったが、年老い病気を理由に、既に役所を離れており、公印管理の職務は副官の通判が代理で行っていた。王太守が着任し、正式に職務に就くと、部下たちが皆面会し指示を仰ぎに来た。そして蘧太守が来て挨拶をした。王惠も挨拶を返した。この度の帳簿その他の引継ぎで、互いに見解の不一致があり、王太守は引継ぎに同意しなかった。
ある日、蘧太守が人を遣わして来て申し上げて言った。「旦那様(太爺)は年老いて病気がちで、耳も悪くなってはっきり聞き取りができません。引継ぎについては本来なら自ら来て王旦那様のご指導を賜らないといけないところです。しかしこのような有り様ですので、明日若旦那様(少爺)に言いつけてここに来させて直接お会いしてお願いしますので、一切のことは皆、王旦那様が代わってご担当願います。」王惠は承諾し、役所の中で酒飯の準備をし、蘧公子をお待ちした。そのまま朝食が済んで後、一基の駕籠に乗り、赤い紙に書いた名刺を携えて来られ、それには「後嗣の若輩、蘧景玉拝」と書かれていた。王太守は家の門を開き、若君に入ってもらった。王太守が見ると、かの蘧公子は動作が軽やかで容貌が美しく、所作振舞いは一般の人々と異なり、互いに礼をすると、譲り合って席に着いた。王太守が言った。「先日幸いにも貴殿のお父君にお目にかかり、お父君のお振舞や風格を拝見いたしました。して、お父君のお身体の具合は、如何なものでございましょう?」蘧公子が言った。「父は年老い、ずっと肺病を患っておりまして、煩雑な実務には耐えられず、しかも両耳が遠くなりまして。あなた様のご心配に感謝いたします。」王太守が言った。「恐れ入ります。あなた様(老世台)は今年いくつにおなりになられましたか?」蘧公子が言った。「わたしは三十七歳です。」王太守が言った。「ずっとお父君の任地について行かれておられたのですか?」蘧公子が言った。「父が県令をしておりました時は、わたしはまだ幼かったので、叔父の範老先生に従い、先生が山東で学政をされた時の行政府の中で勉強をし、また先生を助けて試験の答案を見たりしておりましたが、そのうち昇格して南昌に赴任するにおよび、署内で事務をする者がいなかったので、ここ数年はずっとここにおります。」王太守が言った。「お父君は気持ちがたいへん旺盛であられたのに、どうしてこんなに急に勇退されることになったのですか?」蘧公子が言った。「父はいつもこう言っておりました。「官界の荒波には、あまり長く未練を持つものではない」と。ましてや秀才になった頃は、元々家に何畝か薄田を所有し、米の粥を供することができておりました。祖先が残したあばら家で、雨露をしのぐことができました。他に琴や酒樽、本や筆硯を並べる机、花壇や薬草園、花を眺める高殿が何ヶ所かあり、気を晴らすことができました。それで騒々しい浮世に身を置いていると、いつも山林や原野の中に隠棲したいとの思いが湧き、今は晋の孫綽chuò(そんしゃく)の『遂初賦』suì chū fù (遂初:初志(官職を辞し隠棲したいとの願望)を遂行する、という意味。賦:散文まじりの韻文のこと)のように、官界を退くことにしたのです。」王太守が言った。「昔から「官を休(や)めるは子に問う莫れ」(休官莫問子)と言います。あなた様(老世台)がこんなに胸襟を開いて高い志を持たれているのを見て、お父君(尊大人)は気持ちよく官を辞すことにされたんですね。」笑いながらこう言った。「近い将来、(蘧公子が)科挙の試験に優秀な成績で合格され、お父君(老先生)は正に朝廷から(息子のことで)栄誉の称号を贈られ、晩年を幸福に送ることができるでしょう。」蘧公子が言った。「老先生、ひとりの人間が賢者か愚人かは、科挙に合格したかどうかで決まるものではありません。わたし(晩生)は父君が一日も早く田園に帰られ、粗末な食事で以って父母にお仕えできることを願うばかりで、これこそ人生で最も楽しいことなのです。」王太守が言った。「そういうことなら、尚更敬うべきことです。」
そう言うと、三度茶を淹れ直し、寛いでゆったりした衣服に着替え、座った。引継ぎのことに話が及ぶと、王太守は本当に難しそうな顔をした。蘧公子が言った。「老先生、あまり心配なさらなくてもいいですよ。父はここ数年質素な生活をしておりますが、相変わらず読書人として振る舞っております。これまで貯めた俸禄の残りが、およそ二千金余りもあり、こうして倉庫に蓄えた穀物、馬、その他の公用の物資で足らないものがありましたら、どれでもこの二千金の中からあなた(老先生)が自由に補填ください。父はあなた様が何度か都で官職に就かれていたのを存じ上げております。官吏の俸禄は微々たるもので、生活は苦しいですが、決して後任の方にご不便をおかけするようなことはいたしません。」王太守は彼の言葉が大らかで、気持ちが良かったので、心から喜んだ。
しばらくして、酒が並べられ、席を奉じて着席した。王太守はゆっくり尋ねて言った。「この地方の人々の世情につきましては、まだ何か特徴がありますでしょうか?訴訟や揉め事が起こった時に、何か融通を利かせられるところはあるでしょうか?」蘧公子が言った。「南昌の人の気風は、純朴でやや粗野なところがありますが、正直で悪賢さが少ないです。この地方の物産について、それから訴訟のことを言えば、父の在任中は、訴訟の案件を受けることがたいへん少なかったです。三綱五常(人として守るべき道徳と、常に行うべき道義)の社会や道徳秩序に関わる大事件を除いて、それ以外の家庭や婚姻、土地、家屋に関わる問題は、皆下の県の役所で処理させ、できるだけ人々を慰撫し、民衆を休ませて生産を回復するようにしてきました。たとえ中にいくつか利益を生む場所があっても、決して無理にそれを搾り取らないようにしました。ひょっとするとそういうこともあったかもしれませんが、実際のところは分からないです。わたしのような若輩に聞かれても、「盲人(めくら)にものを尋ねる」ようなものです。」王太守が笑って言った。「そうしますと、「清廉な知府でも三年勤めれば、十万の真っ白な銀」という話は、実際はそう正しくもないですな。」この時、酒が数巡してほろ酔い加減であったが、蘧公子は王太守が尋ねることが皆幾分浅はかに過ぎることであったので、またこう話し出した。「わたしの父がこの地で任に就いて以来、とりたてて業績も上げていませんが、ただ訴訟が少なく刑罰も軽かったので、人々は安心して暮らせています。それゆえ幕僚たちも、役所の中で自由に振る舞い、詩を吟じたり楽器を演奏したりできています。そういえば、前任の司法担当の按察使が父にこう言っておりました。「あなたのところの役所では三種類の音が聞こえてくるね」と。」王太守が言った。「どんな音ですか?」蘧公子が言った。「詩を吟じる声、碁を打つ音、歌を唄う声です。」王太守が大笑いして言った。「そんな音が聞こえてくるのもたいへん面白いですな。」蘧公子が言った。「今後あなた(老先生)が政務を行われると、ひょっとするとこの三種類の音が変わるかもしれないですね。」王太守が言った。「どのように変わるんですか?」蘧公子が言った。「秤(はかり)でものを量る音、そろばんをはじく音、板子bǎn zi(刑罰用の棒)で罪人を打つ音です。」王太守はこの話が自分を皮肉っているのが分からなかったので、居住まいを正して答えて言った。「今あなたとわたしは朝廷のため公務を行っているのですから、ただ真面目に職責を果たさないといけないのです。」蘧公子はたいへんな大酒飲みで、王太守も酒が好きであったので、互いに差しつ差されつ酒を酌み交わし、そのまま日が西に沈む時分まで飲んでいたが、引継ぎのことは面と向かって話し合い、意見が一致したので、王太守が承諾の証明書を書き、別れて帰った。数日して、蘧太守が果たしてまとまった銀子を送って来たので、王太守が前任の蘧太守に代わり政府の文書を発行した(引継ぎが完了した)。蘧太守は息子一族を伴い、船一杯に書画を積んで、嘉興へ戻って行った。
王太守は城外まで見送って帰って来た。果たして蘧公子の話を聞き、特大の倉庫用の秤を特注し、様々な政務を担当する小役人を皆召集し、各々が担当する業務での利益を明確にさせ、ごまかしを許さず、上前が出た分は全て役所に納めさせた。三日、或いは五日毎に納税を督促した(三日五日一比)。用いたのは特大の板子で、二本の板子を役所内に持ち込んで重さを測り、軽いものと重いものを比べ、棒(板子)の上に暗号を記した。出て来て広間に座り、棒打ちの刑に処すると言いつけ、もし下っ端の役人が軽い方の棒を取れば、そいつが金を受け取ったことが分かるので、その重い方の棒を取って、それで下っ端の役人を叩いた。こうした下っ端の連中は、皆彼に畏れおののき、為すところを知らなかった。街中の人々で、この旦那のおっかなさを知らぬ者はひとりもおらず、夢にまで出てくるほどだった。このため、上級の官吏が聞き込みで調べると、皆彼のことを江西第一のやり手だと言い、二年余りするうちに、方々で評判になった。ちょうどこの時に江西で寧王の反乱が起こり、各地で厳戒態勢となったが、朝廷は彼を南贛道(贛gànは江西省の別称)に遣わし、軍需物資の護送を担当させた。王太守は緊急の軍令(羽檄yǔ xí。雉の羽を挿して緊急に伝達の必要な軍令であることを示した)を受け取り、流星の如き速さで南贛に赴き着任した。着任して間もなく、門を出て驛站(街道の宿場)を調べるのに、四頭立てのりっぱな馬車が、夜もまだ明けぬうちに出立し、夜になってようやく投宿して休んだ。その日さる場所に到着すると、公館(官僚や金持ちの屋敷)に投宿した。――そのお屋敷は昔の金持ちの邸宅で――入って頭を上げて見ると、中央の広間(正庁)の上に扁額が懸かり、扁額には赤い紙が貼られ、上に「驊騮開道」huá liú kāi dào(駿馬が道を開いてくれる。驊騮は周の穆王が乗ったという伝説の名馬)の四文字が書かれていた。王道台はそれを見て、たいそう驚いた。広間に着いて席に上ると、お付きの役人や下っ端の者たちが挨拶に来たので、門を閉ざして飯を食っていると、突然一陣の強い風が吹いて、かの赤い紙を吹き飛ばして地面に落とし、中から緑の地に金字で「天府夔龍」tiān fǔ kuí lóng(朝廷の天子を輔弼する賢臣)の四文字が現れたので、王道台はびっくり仰天し、そこでようやく(こっくりさんの占いで)関聖帝君(関羽のこと)が判定した言葉の意味が分かり、今日になってようやくその予言が当った。あの時「両日黄堂」と判定したのは、つまり南昌府の「昌」の字(「両日」で日がふたつ並ぶ)のことだったのだ。そこから万事が予め決められていたことが分かった。その晩は特に何も無く、公務の巡察が終わると役所に戻った。
翌年、寧王は兵を率いて南贛の官軍を破り、人々は城門を開き、慌てふためいて逃げ出し、四方にばらばらに走り去った。王道台は防ぎ止めることができず、一隻の小船を呼ぶと、夜陰に乗じて逃げ去った。大江の中にまで逃げると、寧王の百十隻の軍艦に出逢った。兜や鎧がぴかぴか輝き、船上には何千何万の松明が燃やされ、王道台の乗る小船を発見すると、「拿捕しろ!」との声が響き、数十人の兵卒が船に飛び乗り、船室に入って来ると、王道台を背中から羽交い絞めにして手を縛り、大船に連行した。
従者や船頭は、殺される者は殺され、殺されたくない者は、水の中に跳び込んで死んだ。王道台は恐れおののいてブルブル震え、ランプの灯りの中で寧王が上座に座っているのが見えると、頭を上げる勇気が無かった。寧王はこれを見ると、慌てて近づいて来て、手ずから彼のために縄を解いてやり、衣裳を持って来て着させると、こう言った。「わたし(孤家。古代、群雄から割拠した勢力の首領の自称)は太后の密詔を奉じ、兵を挙げて君王側の奸臣を誅殺せんとしています。あなたは江西の有能な官吏ですから、わたしに付き従ってくれれば、あなたにもっと高い官位を授けますよ。」王道台はブルブル震えて頭を地面に付ける礼をして言った。「どうかあなたに降順させてください。」寧王が言った。「既に降伏を願われたのだから、わたし自ら一献酒を差し上げよう。」この時、王道台は縄で縛られ気持ちがたいへん痛んでいたので、跪いて手に酒を一杯受け取ると、ひと息に飲み干したところ、心はもう痛まなかった。また頭を地面に付けて感謝した。王旦那はそれで江西按察司の職を賞せられ、これ以降は寧王の軍中に付き従った。寧王の軍中では、左右の者がこう言うのが聞こえた。寧王はその家譜の中では八番目の王子で、先ほどの関聖帝君(関羽)が判定した「琴瑟qín sè琵琶」(琴、瑟、(しつ)、琵琶。何れも弦の本数の異なる弦楽器)は、頭に八つの「王」の字があり(八番目の「王」なので)、ここまで一句たりとも予言が当らぬものは無かった。
寧王は二年間騒ぎを起こしたが、思いがけず新建伯王守仁(明代大儒王陽明(王守仁)が封じられた爵位。新建は地名で、今の江西省南昌市新建区)にあっという間に撃破され、両手を縛られ捕虜にされた。その配下のにせ役人は、殺される者は殺され、逃げる者は逃げた。
王道台は役所では一点たりとも財物に手を付けず、ただ枕箱を手に取った。中には何冊か読みかけの本と何両かの銀子が入っていて、それで平民の衣服と交換すると、夕闇の中を逃走した。本当に慌てて道を選ばず、何日か陸路を通ったと思えば、また船に乗って進み、意識が朦朧となり、そのままずっと浙江烏鎮地方までやって来た。
その日は船で泊まり、お客は皆陸に上がって軽食(点心)を食べたので、王惠も何枚か銭を持って岸に上がった。かの点心店は席が皆埋まり、ただひとりの少年がひとりでひとつのテーブルを占めていた。王惠はその少年を見て、どこかで会ったような気がしたが、思い出せなかった。店の主人が言った。「お客さん、あなた、このお客さんと一緒に座ってください。」王惠はそれで彼の対面に座ろうとし、その少年は立ち上がって彼と一緒に席に着いた。王惠は我慢できずに尋ねた。「お客さん、あんたはどちらにお住まいかね?」その少年が言った。「嘉興です。」王惠が言った。「苗字は何と言われる?」その少年が言った。「姓を蘧と言います。」王惠が言った。「以前、蘧という年配の方がおられ、南昌太守をされていましたが、ひょっとしてあなたのご一族の方ですか?」その少年は驚いて言った。「それはわたしの祖父です。あなたはどのようなご縁でわたしにお尋ねにになるのですか?」王惠が言った。「どなたかと思えば、蘧老先生のお孫様であられましたか、失礼いたしました。」その少年が言った。「さてもまだあなたの苗字もご出身地も伺っていませんが。」王惠が言った。「ここではお話もできません。あなたの船はどちらに?」蘧公孫は言った。「岸辺に停めております。」すぐに勘定を済ませると、ふたりは手を携え船に下りて座った。王惠が言った。「当時、南昌でお会いした若様(少爺)は、お名前を景玉と言われましたが、あなたの叔父様ですか?」蘧公孫が言った。「いえ、わたしの「先君」です。」王惠は驚いて言った。「どなたかと思えばご尊父であられましたか。道理でお顔が似ておられる。けれども、どうしてそんな呼び方をされるのですか、まさかもうお亡くなりになられたのではないでしょうね?」蘧公孫が言った。「祖父はあの年南昌で官職を辞し、翌年不幸にもわたしの父(先君)が身罷ったのです。」
王惠はそう聞いて、涙を流し、言った。「昔南昌で、ご尊父と親密な誼(よしみ)を交わしましたのに、今は思いがけず故人となられたとは。あなたは今年おいくつになられました?」蘧公孫が言った。「虚しく十七歳を過ごしました。ところでまだあなたの苗字とご出身地を伺っておりませんが。」王惠が言った。「あなたとご一緒の方はこちらにおられないのですか?」蘧公孫が言った。「皆岸に上がっております。」王惠は相手の耳の傍で低い声で言った。「わたしは後任の南昌知府の王惠です。」蘧公孫は大いに驚き言った。「聞くところによると、先生は既に南贛道の道員にご栄達されたそうですが、どうして平民の為りをしてひとりでこちらに来られたのですか?」王惠が言った。「他でもなく寧王の謀反のため、わたしは官を辞して逃げ落ちました。けれど城が包囲され、旅費を持ち出すこともできませんでした。」蘧公孫が言った。「これからどちらに行かれるのですか?」王惠が言った。「どうにもならない窮地に陥り漂泊し、往く当てなどありません。」そう言って、寧王に降順したことは言わなかった。蘧公孫が言った。「老先生は辺境を守ることができず、今は公(おおやけ)に出て自首するのも具合が悪いでしょう。ただこの広い大地の中で、旅費にも事欠き、どうされるおつもりですか?わたし(晩学生)はこの度は祖父の命を奉じ、杭州の親戚の家で一件銀子の取り立てをして来ました。銀子は今この船の中にありますが、今は暫時老先生の旅費としてお渡しし、どこか静かなところを捜して身を安んじていただくのが良いと思います。」
そう言うと、四包みの銀子を取り出し王惠に手渡すと、全部で二百両あった。王惠は何度お礼を言っても足りないほどで、それでこう言った。「両方の船はそれぞれ先を急がれており、これ以上遅れることはできず、お別れしなければなりません。お助けいただいたご恩は、わたしが生きておりましたら、必ず厚くお返しさせていただきます。」両ひざを揃えて跪いた。蘧公孫も慌てて跪き、同様に何度か頭を下げた。王惠がまた言った。「わたしは荷物と布団のい他は、何も持っておりません。ただひとつ枕箱があり、中に読みさしの本が何冊かあります。今は外地に身を隠しておりますが、このちょっとした持ち物で、人に探し出され、ひと悶着が起きるかもしれません。今は持って来てあなたにお渡しすれば、わたしは身軽になって逃げやすくなります。」蘧公孫が同意したので、彼はすぐに船から取って来て引継ぎ、互いに涙を流して別れた。王惠が言った。「謹んでお爺様によろしくお伝えください。この世では恐らくもうお会いすることはかなわないでしょう。来世に犬や馬に生まれ変わることができましたら、必ずあなた様の恩情にお報いいたします。」別れて後、王惠は別に船を見つけて太湖に入り、これより姓名を変え、髪を剃って僧衣を身に纏った。
蘧公孫は嘉興に帰ると、祖父に会い、道中で王太守に出会ったことを話した。蘧太守は大いに驚いて言った。「彼は寧王に降順したのだ。」公孫が言った。「そのことは言われませんでした。ただ官を辞して逃げ落ちたと。それに旅費も何もお持ちではありませんでした。」蘧太守が言った。「あの人は朝廷に対し罪を犯したが、わたしとは古い友情がある。どうしておまえは取り立てて来た銀子をあの人の旅費に渡さなかったのか?」公孫が言った。「もうあの方にお渡ししました。」蘧太守が言った。「全部でどれだけあったかね?」公孫が言った。「二百両の銀子しか受け取れませんでしたが、その尽くをあの方にお渡ししました。」蘧太守はたいへん喜んで言った。「おまえは本当にそなたの父親に似ているな。」そう言って、曾て父親が家督を引き継ぐ時に言いつけた事を、また一度話した。公孫は祖父に会うと、部屋に入って母親の劉氏に会った。母親は旅の上のことをあれこれ尋ね、その苦労を労(ねぎら)った。そして部屋に戻って休んだ。翌日、祖父の前でまた言った。「王太守の枕箱の中には、まだ何冊か本がありました。」取り出して祖父に渡すと、蘧太守はそれを見た。皆写本であった。他の本はどうということもなかったが、その中の一冊が、『高青邱集詩話』(明の高啓、字が青邱。明太祖の文字の禍で殺され、明初に禁書にされた)といい、百ページ余りの本で、青邱自ら毛筆で書き写したもので、極めて丁寧に写本し装幀されていた。蘧太守が言った。「この本は長年皇帝のお住まいに秘蔵されていたもので、数十年来、多くの才人が一目見たいと願ってもかなわず、天下に二つと無いものだ。おまえは今思いがけずこの書を得たのは、真に天の与えた幸いで、須らく収蔵し、容易く人に見られてはならない。」蘧公孫はそう聞いて、心の中で思った。「この本が天下にふたつと無いものなら、いっそのこと、これを丁重に写本して装幀し、わたしの名前を添えて、出版すれば、これで有名になることができるんじゃないだろうか。」考えが決まると、遂に版を起こして、高季迪(季迪も高啓の字)の名前を上に書き、下に「嘉興蘧来旬駪夫氏補輯」(蘧公孫の本名は来旬、字は駪shēn夫。補輯bǔ jíは補足収録の意)と書いた。版を刻み終えると、数百部印刷し、親戚や友人に遍く送った。人々はこれを読んで楽しみ、手放すことができなくなった。これより、浙江西部の各郡都では蘧太守の孫(公孫)が少年名士として敬慕された。蘧太守はそのことを知っていたが、既に起こってしまったこととて何も言わず、これ以降はしばしば孫を教え導くのに詩を作り、一二尺四方の紙に書くと、何人もの名士に贈ったり返答されたりした。
ある日、門番が入って来て申し上げた。「娄のお屋敷(娄lóu府)のおふたりの若様(少老爺)がお越しになりました。」蘧太守が孫(公孫)を呼んだ。「娄の家のいとこ(表叔biǎo shū)が来たから、早く行ってお迎えして入ってもらいなさい。」 公孫は命令を受けて、急いで出て行って出迎えた。このふたりは娄中堂(大学士の尊称)のご令息(公子)であった。中堂は朝廷に二十年余り勤め、薨御(薨逝hōng shì)された後、祭葬jì zàng(死者への追悼ろ葬儀の儀式)を賜り、諡(おくりな)は文恪kè(ぶんかく)、湖州の人氏であった。長子は現在通政司大堂に任じられていた。三男(三公子)は諱(いみな)を瑧zhēn、字を玉亭といい、挙人(孝廉xiào lián。科挙の合格者)であった。四男(四公子)は諱を瓚zàn、字を瑟sè亭といい、国子監で勉強していた。彼は蘧太守の妻方の甥(内侄nèi zhí)であった。公孫がふたりに従い入って来ると、蘧太守は喜び、自ら広間の外の軒の下まで出迎えに出た。ふたりは入って来ると、叔母のご主人に上座に座ってもらい、その前に跪いて礼をした。蘧太守は自ら手で助け起こし、孫に傍に来させていとこに挨拶をさせ、座ってもらい茶を奉った。ふたりの娄家の公子が言った。「叔父様とお別れしてから、指折り数えてもう十二年経ちました。わたしたちは都で、叔父様が官を辞して故郷に帰られたと伺いました。あなた様の高明なご考察に敬服しない者はひとりもおりません。今日叔父様にお目にかかることができました。髭も鬢ももう真っ白におなりで、お役目中のご苦労が偲ばれます。」蘧太守が言った。「わたしは元々役人になるつもりはありませんでした。南昌で数年お勤めしたものの、特に何の成果も上げられず、虚しく朝廷の俸禄を浪費しておりましたので、官を退いた方がよいと思いました。思いがけず、家に戻って一年して、息子が亡くなり、益々胸の中が冷たく感じられたのですが、よく考えてみますと、おそらくやはり役人をしておりました報いでありましょう。」娄家の三男が言った。「お兄様は生まれつき才知に溢れ、大らかで細かいことにこだわらない方でしたが、こんなに早く逝かれるなど誰が思いましょう。幸い甥御さんがもう成人され、叔父様の元に付き従っておられるのは、せめてもの慰めでございます。」娄家の四男が言った。「わたしたちはお兄様の訃報を聞き、子供の頃に仲良くしていただいたことを思い出しました。その後思いがけず分かれ分かれになり、臨終にお別れを言うことができず、兄と共に深い悲しみにくれ、発狂せんばかりでした。一番上の兄も思い出しては、一日中涙が止まりませんでした。」蘧太守が言った。「お兄様は、お役目を愉快になされていますか?」ふたりが言った。「通政司は暇な役所ですから、兄は役所であれこれ起こったことに、これまで何も意見を申し出たことがなく、またとりたてて言うことも無いのです。だからわたしたちも都にいても次第に無聊をかこつようになり、故郷に帰った方がいいと相談しているのです。」
しばらく座っていたが、衣服を着替えると、ふたりはまた中に入り、嫂(あによめ)にお目にかかった。公孫が付き従い、書斎にお連れした。目の前は小さな花園になっており、琴、酒樽、炉、小テーブル、竹、石、小鳥、魚といったものが、物寂しくも好ましく配されていた。蘧太守も葛布で編んだ質素な服に着替え、天台山に産する紅藤の杖を付き、出て来て一緒に座った。食事が並べられ、食事が済むと、茶を淹れ清談(政治や権力にとらわれない自由な議論)をし、江西寧王の謀反の話を始めた。「幸いなことに新建伯(明代大儒王陽明(王守仁))が非凡な智慧を発揮して独自に計略を巡らし、大功を打ち建て、この度の大難を除かれました。」娄家の三男が言った。「新建伯はこの度大功を建てられたのに、褒賞を受けようとなさらず、このような態度は真に得難いことです。」四男が言った。「わたしが見るところ、寧王のこの度の挙動は、成祖(永楽帝)と余り違いがないと思います。ただ、成祖は運が良かったので、今や聖人様神様とあがめられ、寧王は運が悪かったので、叛徒と蔑まれ、捕虜に身を落とした訳で、不公平な話と見做せるのではと思います。」蘧太守が言った。「成功か失敗かで人を論じるのは、固より凡人のものの見方です(成敗論人、固是庸人之見)。けれども本朝の事件で、わたしたちが臣下として関わったことは、ものの言い方に慎重であるべきです。」四男はそれ以上ものを言う勇気がなかった。誰知ろう、これらふたりの公子は、科挙の試験がうまくいかず、若いうちに状元、榜眼、探花といった優秀な成績で合格して、翰林院に入ることができなかったので、心の中に不満が鬱積してぶつぶつ文句を言い、いつもたたこう言ってこぼしていた。「永楽帝が位を簒奪してからというもの、明朝は正しい秩序を失ってしまった。」いつも酒を飲んでほろ酔い気分になると、こうした議論をしないではいられなかった。(一番上の兄の)娄通政もこれを聞き捨てておけず、問題が起こるのを心配し、それで彼らに浙江へ帰るよう勧めたのであった。
そうしてまた少し世間話をしてから、ふたりは尋ねて言った。「お孫さんの学業は、最近は成果が出ておられますか?またご婚姻を済まされたお喜びなどはございませんか?」太守が言った。「おふたりの賢明な甥に正直に申し上げると、わたしにはこのひとりの孫しかおらず、小さい時から甘やかして育ててきました。わたしはいつもこうして勉強をみてもらっている先生を見ても、彼らはたいした学問も無く、ただもっともらしい振舞いをして、ともすれば生徒を威圧して威張っているだけだと思っています。人様が先生を頼まれる時、口を開けば厳しく教えるように言われますが、わたしはあまりに気ままにさせていて、この子を今はやりの先生に習わせようと思ったことがないのです。息子が生きていた時は、自らこの子に儒家の経典や史書を教えていましたが、息子が死んでからは、わたしは心の中で一層この子が愛おしくなり、この子のために国子監の監生の身分を買ってやり、科挙の試験のことはあまり真剣に考えたことがないのです。最近わたしは田園や山林に退き、いつもあの子に何首か詩を作り、内なる心情を詠ませていますが、この子は、天意に順応し、運命に安んじて怨まないことを理解すべきで、それにはわたしの傍に付き従い、孝行を尽くし、一家団欒を迎えられれば十分です。」ふたりの公子が言った。「これは猶のこと叔父様のご高見です。俗にも申します。「元気を消耗し尽くした進士を出すぐらいなら、暗に徳を積み、経書に通じた儒者を育成した方がましだ」(与其出一个斫削zhuó xuē元气的進士,不如出一个培養陰騭yīn zhì的通儒)と。このことは急を要します。」蘧太守はそれで公孫を呼んで、平素作った詩を何首か持って来て、ふたりのいとこに見せた。ふたりはそれを見て、称賛が止まらなかった。そのままふたりを引き留めて四五日逗留いただくと、ふたりはお暇(いとま)を言って帰ろうとした。蘧太守は酒を準備して送別の宴を催し、酒の合間に公孫の婚儀の事を持ち出した。「こちらの金持ちの家にも、お願いに言いに行ったことがあります。わたしは貧しい役人なので、彼らが結納の金額を競い合うのを恐れ、それゆえなかなか話が進まないのです。いとこのおふたりは湖州におられるから、もしご親戚や姻戚関係のお家がありましたら、よろしくお願いします。多少貧しい家でも構いませんから。」ふたりは承諾した。
その日の酒席は終了した。翌朝、船を呼ぶと、先に荷物を発送した。蘧太守は公孫に船の上まで見送るよう言いつけ、自ら出て来て広間でお別れをし、こう言った。「わたしは最も近しい親戚が来られたので、ここで数日ご滞在いただき、普段通りの食事でおもてなしさせていただきましたが、接待が簡単すぎたことを責めないでください。おふたりがお屋敷に戻られたら、既に亡くなられた太保公とお父上の文恪公の墓所に行き、わたしの名を出して、わたくし蘧祐は年老いて歩行も困難で、自ら再びお墓にお参りに来ることはできませんと申し上げてください。」ふたりの公子はそれを聞いて、厳かに敬慕し、叔父に別れを告げると、蘧太守は手を取って屋敷の外の門まで送った。公孫は先に船の上で、ふたりが到着するのを待っていたが、いとこにお別れを言うと、船が漕ぎ出すのを見送り、それからようやく屋敷に戻った。ふたりの公子は一艘の小船に乗り、旅装は簡単で粗末なもので、暮らし向きも清貧で簡素さを保っていたが、見ると川の両岸は桑の木が生い茂って日光を遮り、鳥の飛ぶ羽音が聞こえたが、半里余りも行かぬうちに、小さな港に出て、中から船が漕ぎ出して来て、菱やレンコンを売っていたので、ふたりの兄弟は船の中で言った。「わたしたちはここ数年というもの都の塵や土埃の中にいたので、このような幽玄で優雅な景色を見たことがあっただろうか。正に宋代の人の詞に言うように、「推し量るに田園に帰ることこそ正しい選択だ(算計只有帰来是)。」果たしてその通りだ!」
見ていると空が暗くなり、とある町(鎮)に着いた。桑の木の茂みの下で、人家に灯りが点り、その灯りが川面を照らし出したので、ふたりの公子が言った。「船頭に言って船を止めて下船しよう。ここには人家があり、岸辺で酒を買って、共にこの美しい夜を過ごし、ここで一泊しよう。」船頭が同意したので、船を止め、ふたりの兄弟は船舷に寄りかかって酒を痛飲し、古今の事を語り合った。翌朝、船頭が船中で食事の用意をし、ふたりの兄弟は岸辺をぶらぶら散歩していると、ふと家並みの曲がり角をひとりの男が歩いて来るのが見え、ふたりを見ると、頭を下げて礼をし、言った。「娄家の若旦那、わたしのことを憶えておられますか?」この男に出逢ったがために、幾つかのことが起こった。公子たちは為人(ひととなり)が物惜しみせず人と交わるのを好む、非常に名望のある、学識豊かな大学者であった。高官や権勢家のお屋敷で宴席が開かれると、いつもまだ官職に就いていない読書人や隠士が集まって来た。果たしてこの人物は誰でありましょうか、次回に解説いたします。





























