Dr.誠です。
先日7/8(土)、多治見市社保協の立ち上げ講演会にお越しいただいた方、ありがとうございました。おかげさまで多数の方にご来場いただけました。
今回のテーマは広く一般の方に向けて、まず「要求しようよ」ということを掲げ、その上で「社会保障推進協議会」という団体がどういう役割を果たせるか、この岐阜県の中でどういう役割を果たしてきたかを時間をかけてお話ししたつもりです。私のスライドを一部ご提示いたします。
この「要求してもいいんだ」という当たり前のことが、しかしなかなか広く受け入れられがたい行為なのだということも、こういう活動をしていてよく感じます。「要求するなんて恥ずかしい」「自分たちの自己努力がまだ足りないのではないか」などと多くの人が思っているからこそ、先進国で当たり前に行われている社会運動が発展していかない。私はこういう、よく言えば「奥ゆかしい」日本人のメンタリティを、戦前の従順かつ多数派が少数派を排除しようとする「帝国臣民」の姿になぞらえて「クソ臣民様しぐさ」と呼ぶのですが、人間としての当たり前の権利、当たり前の行動がどうしてこうもこの国にそぐわなくなってしまうのか、ずっと考えてきました。
はい、答えがありました。
動画はジャーナリストの菅野完氏の今朝の配信。
キーワードは「通俗道徳」と「公正社会仮説」です。どういうことか。
動画を見ていただくとよくわかるのですが(「マイナンバーカードの交付率」と「自治体の無投票選挙がどれぐらい続いているか」の関連性という、面白い切り口からのスタートです、ぜひ気楽にご覧下さい)、日本の「道徳観」こそがネックになっているのだと菅野氏は説明します。
曰く、「江戸時代中期に発生した日本の生活文化上の革命『通俗道徳革命』」により、「貧富や幸福不幸や健康や病気は、個人の道徳的な徳目の実践いかんによって決まる。したがって、不幸な奴・貧乏な奴はどこかに道徳的欠損があるに違いない…という世界観」が形成されたのだと。そして「明治末にはこの民衆のドグマを、明治政府が国民統治の道具として利用しはじめ」てしまったために、「いま、貧困であるのは、自分の道徳的徳目の履行にどこか欠損があるからだ」と自己認識するよう社会的に刷り込まれてきたからなのだ、と。だから権利運動や示威行為がなじまないのだ、と。(以上本日のTwitterより(リンク ))
主たる原因は、江戸中期に発生した日本の生活文化上の革命「通俗道徳革命」なんだろう。貧富や幸福不幸や健康や病気は、個人の道徳的徳目の実践如何によって決まる。したがって、不幸な奴・貧乏な奴は、どこかに道徳的欠損があるに違いない…という世界観。
— 菅野完 (@noiehoie) 2023年7月10日
つまり、清貧とか倹約とかいった「二宮金次郎的な生き方」こそが正しく、成功している人はそれを実践しきった人たちであり、ふりかえって成功していない人たちは「何かが足りないからなんだ」という、「自己責任論を強化する」考え方が通俗的な道徳観としてもともと強く刷り込まれており、明治以降も政府がそれを強化する形で(社会主義運動を抑え込むうえでも)利用してきたがために、日本人は「主張することは悪だ」と刷り込まれてしまっている、というわけなんですね。そしてこの社会は「公正にできている(から成功している人は素晴らしい人に違いない)」ということもまた、意識の中に組み込まれてしまっている。だからこそこの呪縛は非常に解きがたいものになってしまっているわけです。
というわけでスライドに立ち返って、あらためて。
「要求すること」は恥ずかし事ではなく、「わきまえること」は己を中世の住人にとどめおくことに他ならないと、私は思います。主張しましょう。とにかく主張しましょう。今、困っているんだから。そして社会は変わるし変えられるんだから。
「近現代に生きる」「人間」でいましょうよ。
それが知性です。































