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今日は子どもが学校のイベントで楽しそうだった。

本来なら、それだけで十分な一日である。

「楽しそうでよかった」
「頑張っていて嬉しかった」

それで終わっても、何ひとつ不足はない。

……はずなのに、どうしてもそれでは終われない。

「昔は引っ込み思案で」
「転校ばかりでいつも泣いていて」
「恥ずかしがり屋でイベントが苦手で」
「でも今はこんなに成長して」
「でもこれからも人生には辛いことがあるだろうけれど」

気づけば、今日の笑顔は単なる笑顔ではなくなる。

過去の苦労。
親の心配。
本人の努力。
未来の試練。
そして、それをそっと見守る健気な母。

全部盛り。

まるで、幸せというものは単独では存在してはいけないかのようだ。

ただ楽しかった。ただ嬉しかった。ただ誇らしかった。

そういう軽やかな感情では、物足りない。

幸せには、必ず「過去の苦労」という証明書が必要になる。

子どもが学校のイベントで笑っていた。

それでいいではないか。

「今日は楽しそうだったね」「頑張っていたね」「見ていて嬉しかったよ」

その一言では足りないのだろうか。

足りないのだろう。

なぜなら、そのままだと、母親である自分の物語が立ち上がらないからである。

子どもの笑顔を見た。嬉しかった。

それだけでは、あまりにも普通だ。

だから、そこに過去の不安を持ち出す。

「あの頃はこうだった」
「こんなに心配した」
「でも乗り越えた」
「これからも心配だけれど見守っていく」

すると一気に、単なる学校行事が感動巨編になる。

主人公は子どものようでいて、実は少しずつ母親に移っていく。

苦労を乗り越えた子ども。

そして、その苦労を誰よりも近くで見守ってきた私。

不安な日も、泣いた日も、そばにいた私。今日の晴れ姿を見て、胸を熱くする私。これからも心配しながら、健気に見守る私。

なるほど。

これは子どもへのメッセージの形を借りた、母親としての自己PRなのだ。

もちろん、子どもを愛している。

そこに疑いはない。

けれど、本当に大切な我が子へのメッセージなら、なぜそれを全世界に公開されているブログで発する必要があるのだろう。

「これからの人生も今日の経験を糧に乗り越えていってね」

「日々の楽しい経験を大事に、大事にね」

本当にそう思うなら、本人に直接言えばいい。

手紙に書いて渡せばいい。

家でそっと抱きしめて伝えればいい。

わざわざ読者の前に差し出して、「私はこんなにも深く子どもを見つめています」と披露する必要はあるのだろうか。

我が子への祈りのように見えて、実際には読者に向けた演出になっていないか。

子どもへの愛情表現のようでいて、本当は「こんなふうに子どもを見守っている私を見てください」になっていないか。

そこに、どうしても違和感が残る。

人生には確かに苦労がある。

子どもだって、これから先、辛いことも不安なことも経験するだろう。

でも、だからといって、今日の幸せにまで毎回「未来の不安」を添える必要はない。

せっかく子どもが笑っているのに、親がわざわざその背景に涙の照明を当てなくてもいい。


今日くらい、ただ明るく祝えばいい。


今日くらい、過去の苦労を引っ張り出さずに喜べばいい。


今日くらい、未来の試練を予約せずに、目の前の笑顔をそのまま受け取ればいい。


幸せとは、過去の苦労を証明して初めて価値を持つ勲章ではない。


「こんなに大変だったから、今日が尊い」のではなく、

「今日、楽しそうだったから、今日が尊い」

それで十分である。


結局、毎回「苦労からの乗り越えストーリー」に仕立てるのは、子どもの人生を語っているようでいて、母親としての自分の価値を認められたいからなのだろう。

「私はこんなに心配してきた」
「私はこんなに見守ってきた」
「私はこんなに深く愛している」
「そしてこれからも、心配しながら健気に見守り続ける」

その姿を、誰かに分かってほしい。


だから、我が子へのメッセージのような顔をして、実際には全世界に向けて発信する。


たぶん、本当に届けたい相手は、子どもだけではない。


読者である。


もっと言えば、

「いいお母さんですね」
「愛情深いですね」
「涙が出ました」

そう言ってくれる誰かである。


子どもの笑顔すら、自分の母親物語を輝かせるための材料にしてしまう。


幸せは、ただ幸せであっていい。

子どもは、ただ笑っていていい。

そして母親も、ただ嬉しかったと言えばいい。

それ以上の物語を毎回盛りつけたくなるとき、人はもしかすると、子どもではなく、自分自身を見ているのかもしれない。