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「余白」と「匂わせ」のあいだ🫧
最近、文章を読んでいて、ふと思うことがある。
何かを伝えたいときに、
真正面から言えばいいことを、
あえて別の話題から始める文章がある。
季節のこと。
暦のこと。
家族のこと。
少し残念だった出来事のこと。
そうした柔らかな入口をいくつも用意して、
最後には、なぜか別の場所へ着地する。自分が元々狙った着地点へ。さりげなく偶然を装って、実は意図的に🎯
もちろん、それ自体が悪いわけではない🌿
日々の出来事はつながっているし、
ひとつの感情を説明するのに、
まっすぐな道だけが正解ではない。
むしろ、遠回りの中にこそ、
その人らしさが出ることもある。
ただ、ときどき思う。
これは本当に「気づき」の文章なのだろうか。
それとも、本当は最初から見せたいものが決まっていて、
そこへ向かうために、
いくつもの出来事を配置しているだけなのだろうか、と。
たとえば、
何かに挑戦していること。
勉強を続けていること。
家族に背中を押されたこと。
自分もまだ主役になれるのだと感じたこと。
そういうことは、とても素敵なことだと思う👏
努力しているなら、
努力していると言えばいい。
挑戦しているなら、
挑戦していると言えばいい。
誰かに応援されて嬉しかったなら、
嬉しかったと書けばいい。
けれど、そこに少しだけ、
「私はアピールしているわけではありません」
という偽りの衣をまとわせた瞬間、
読む側には別のものが残ることがある。
偶然のように見える暦。
残念な知らせのように見える報告。
家族との温かな会話。
控えめな弱音。
そして、さりげなく置かれる、
「実は頑張っている私」。
その構成が上手であればあるほど、
かえって輪郭が見えてしまう。
見せたいものを、
見せないふりで見せる文章には、
独特の湿度がある☁️
正面から誇ることは、
案外すがすがしい。
「私はこれを頑張っています」
「これに挑戦しています」
「応援してもらえて嬉しかったです」
そう書かれた文章には、
読み手も素直に拍手を送りやすい。
一方で、
何かのスケジュール変更や、暦や運勢や、家族のひと言を借りながら、
最終的には自分の努力や充実をにじませる文章には、
少しだけ受け取り方が難しいところがある。
もちろん、誰もが自分の人生の主人公だ。
日常の中で、
自分を少しよく見せたい日もある。
頑張っている自分を、
誰かに知ってほしい日もある。
それは人として自然なことだと思う。
ただ、その気持ちをあまりに偽りに包みすぎると、
包み紙の方が目立ってしまうことがある🎁
言葉には、余白がある。
でも、余白のふりをした演出もある。
読む側は、意外とその違いに気づく。
そして、気づいたときに、
感じる違和感。嫌悪感。
まっすぐ書かれた自慢は、
まだ気持ちがいい。
でも、
自慢ではない顔をした自慢は、
なぜだろう、少し長く心に残る。
悪い意味で。
だからこそ、
自分も文章を書くときには気をつけたいと思う。
何かを誇りたいなら、誇ればいい。
嬉しいなら、嬉しいと言えばいい。
頑張っているなら、頑張っていると書けばいい。
遠回りの文章が美しいのは、
目的地を隠すためではなく、
そこに至る景色に本当に意味があるときなのだと思う。
自画自賛で文章が上手いと自負していそうなことも、正直痛い。