大学入学共通テスト「国語」第5問の「漢文」の現代語訳と解答・解説です。
※この現代語訳や解答速報は、吉田裕子が個人の趣味で作っているものです。出講先とは関係がありません。
※速報性・簡潔性を重視して発表しております。誤字脱字や事実誤認などにお気づきの際はコメントやinfo@yusendo.clubあてでお知らせいただけましたら幸甚に存じます。
※学校などの授業で使われたい場合はご自由にどうぞ。申告は不要です。解説を増やすなどの加工も問題ありません。
【文章Ⅰ】『論語』『論語繹解』
先生(=孔子)が言うには、「子貢よ、そなたは私のことを多く学んで多くのことを知る者だと捉えるのか。」と。(子貢が)答えて言うには、「そうです。違うのですか。」と。(孔子が)言うには「違うのだ。私は一つのことで貫くのだ。」と。
孔子が思うに、いつも子貢が孔子を褒めるときの言葉を聞いたところ、多く色々な経典を学び、さらに、その文章を知って暗記することが出来て、それで、自身の人格的徳を成し遂げることができる人なのだと捉えているようだ、と。これゆえ、孔子は子貢の考えを推し量って、それで、このことを尋ねたのだ。[言うには「違うのだ。私は一つのことで貫くのだ。」と]という部分は、そう述べている趣旨は、[学問の理として、多くの内容を貪って、博識を目指し、雑然としてまとまりのない状態になって、自分の智恵を曇らせてはいけない。ただ一つの重要な道理をつかんで、それを中心にするだけだ]ということだ。
【文章Ⅱ】『学資談』
淇園先生が常々、書物を読むことに関して言っていた、「日々数頁を読み終わるのは、一日に数文字を理解できることに及ばない。これは遠回りに見えて、むしろとても早道である。」と。それで、私は加えて言うことに、「色々な書物に大ざっぱに目を通すのは、一つの書物に精通するのに及ばない。これは視野が狭いように見えて、(淇園先生の言葉と)同様に(むしろ)実は博識である。」と。世間では、多く読書をする者を言うのに、博学であると称し、いつもこれを羨む。これは、(単に)多い知識で博学と言うことはできないと知らない(から羨む)のだ。博学と言うのは、深く理解していないところがないことを言うのであり、一つの書物に深く精通しているのも同様に博学と称するのが良いのである。
問1 (ア)③(イ)①(ウ)④
(ア)「女」という字は「汝」という字同様、「なんぢ」として二人称代名詞としての使い方がある。
(イ)「非」は「非(あら)ず」と読む。「与」という字は直前の「 」でも疑問の文末に使われている。
(ウ)「毎」は「ごと」や「つね」と読んで、いつも、毎回、というニュアンス。
問2 ④ 理由を問われている問題だが、直前に「是の故に」とあるので、前文を解釈すればよい。
問3 ② 「AはBに如かず」(=AはBに及ばない)という比較の句形。理解しにくいときは、同じ構造で筆者が述べている注9の文も参考にしよう。
問4 ② 「通達しない所がない」(二重否定)=「全てに通達している」(強い肯定)は後ろに続く「精通」(=物事によく通じている)という表現とうまくつながっていく。
問5 a ④ b ③ 同じ「また」という読み方でも、「又」「亦」はニュアンスが異なる。「又」は通称「さらまた」。「さらに」という意味。「亦」は通称「もまた」。「~もまた同様に」という意味で、今回の③の例文はちょうど「運もまた」という形になっている。※文脈によっては同じ使いかたのときもあるので、本文をきちんと読むようにしよう。
問6 ④ 文章Ⅰの「言ふこころは」以降、文章Ⅱの注9がついている「 」の部分などから。