需要曲線は右下がり | ゴブリンの洞窟
某所で、ある一つの財の価格が下がったとき、一般物価が下がるか、他の財の価格が上がるのか、という議論があった。いわゆる安い輸入品が増えるとデフレになるという「輸入デフレ論争」だ。経済学の世界では答えが出ている話だろうが、夜の床屋ではまだまだホットな話題らしい。

この問題に対し、普段からデフレは貨幣要因では無く、財の需給関係によるものだと主張する人たちが、何故かもう一方の財の価格は変わらないか下がることになると主張している。どうも本当に需給関係を重視しているようには思えない。



ある財の需要における価格と数量の関係は、縦軸を価格、横軸を数量とすると、右下がりになる。

数量が少なければ価格が高く、多ければ安くなる。需要が増えれば価格は上げることができ、減れば下げざる負えない。ここからデフレで供給(数量)を増やすと物価が下がるという主張があったはずだ。


例えば、ある財の生産コストを下げることに成功して大量生産が実現したとする。

供給曲線は右にシフトし、価格は下がって需要は増えることになる。
いわゆる需要と供給の関係だ。供給増はデフレ圧力という訳だ。

ここで二つの財について考える。例えばジュースとみかんの価格が同じだったとしよう。


みかんを一個ならジュースは四杯、三個なら二杯といった具合に限られた予算の中で選択できるバリエーションがいくつか存在する。あなたは、お財布の中身と相談しながら自分が最も満足する買い物をしようとするだろう。



ここで、みかんの値段が下がったとする。ミクロで考えた場合、ある財の価格変化によって、もう一方の財の価格は変化しない。変化するのは数量だ。みかんを購入できる数量は増えることになる。

あなたの購入できるみかんの数量は三個から四個に増えて、あなたは満足度を高めることができる。ただ、あなたはみかんを多く食べたいかもしれないが、私はあまりすっぱいものはほしくない(笑

私はジュースを増やすことにしよう。一方の財の価格が下がるともう一方の財の需要を増やすことができる。増えるのは購入しようとする数量であり消費者の満足度だ。


ここでマクロの場合で考えてみよう。

みかんの価格低下によってみかんの需要が増えたとしよう。需要と供給のバランスから需要が増えれば価格は上がる。みかんはいずれ元の価格へと収斂されていくだろう。長期で見れば価格の変動は無い。

反対にみかんの需要が増えなかったとしよう。みかんの価格は据え置かれて需要は他の財へ置き換えられることになる。私がジュースを選んだようにジュースの需要は増えることになる。需要が増えればジュースの価格は上げても売れることになる。このように財の需給関係に拘ってみれば、一方の財の価格を下げればもう一方の財の価格は上がることになる

普段からデフレは貨幣現象では無く、財の需給関係によるものという主張をしている者たちが需要と供給のバランスを無視した論理を展開したがるのは何故だろうか。



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単純に個別価格と一般物価の違いと言ってしまえばそれまでという気がするが、財の需給関係に拘る人たちには説得力に欠けるように思い、この問題をうまく説明できる方法はないものかと考えたが...うまくいかなかった。経済学ではあくまで消費者(生産者)は効用を最大化することが前提であり、リチャード・クーが言うようにデフレはその前提を成立させないものと認識されているからだ。予算が余っても消費に向かわないと考えれば他の財に置き換わらないと思うだろう。

もっとも、余った予算に限界消費性向を掛けるのはどうかと思う。例えば、それは500円玉貯金をする人がいて、物価下落のおかげで余ったお金を貯金したということだろう。しかし、物価下落も500円玉貯金をすることも予め織り込まれたことだ。それを含めた結果が消費性向だと言えるだろう。