ゴブリンの洞窟
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自分がこのブログを去ることになったきっかけの議論を一応、整理しておく。

 

 

花のヤンさんとの対話 その1

https://ameblo.jp/nozomi2016/entry1-12253129225.html#cbox

 

34. Re:Re:Re:バックれ秒読みだなw
>金多まさるさん
金多まさるさんはどの程度の知識があるのか知らないので、中高生にも分かる程度の話をさせてもらいますね。

まずリカードの比較優位論のモデルに、のぞみさんが記事にリンクしている菅原晃さんの記事の中のモデルを使わせてもらいますね。(単位は省略します。)

[ポルトガル]
ワイン労働者 1
ウール労働者 1
ワイン生産量 1
ウール生産量 1
[イギリス]
ワイン労働者 5
ウール労働者 4
ワイン生産量 1
ウール生産量 1
[生産量合計]
ワイン生産量 2
ウール生産量 2

ここで、資本の移動が国家間で自由でなく国内での移動のみ自由であれば、ポルトガルはワインにイギリスはウールにすべての資本を投入した場合①とポルトガルはウールにイギリスはワインにすべての資本を投入した場合②を比較する。


[ポルトガル]
ワイン労働者 2
ウール労働者 0
ワイン生産量 2
ウール生産量 0
[イギリス]
ワイン労働者 0
ウール労働者 9
ワイン生産量 0
ウール生産量 2.25
[生産量合計]
ワイン 2
ウール 2.25


[ポルトガル]
ワイン労働者 0
ウール労働者 2
ワイン生産量 0
ウール生産量 2
[イギリス]
ワイン労働者 9
ウール労働者 0
ワイン生産量 1.8
ウール生産量 0
[生産量合計]
ワイン生産量 1.8
ウール生産量 2

よって比較優位の①の場合が2国合計のGDPは最大となる。

続きます
anna-frederica 2017-03-05 01:30:24

 

 

35. Re:Re:Re:バックれ秒読みだなw
>金多まさるさん

続きです

では、資本の移動が国家国家間で自由なとき、ワイン業者は資本をイギリスからポルトガルへ、ウール業者も資本をイギリスからポルトガルへ移動させる場合③と、比較優位でGDPが最大になったワインはポルトガルへウールはイギリスへ資本を移動させる場合④を比較する。


[ポルトガル]
ワイン労働者 6
ウール労働者 5
ワイン生産量 6
ウール生産量 5
[イギリス]
ワイン労働者 0
ウール労働者 0
ワイン生産量 0
ウール生産量 0
[生産量合計]
ワイン生産量 6
ウール生産量 5


[ポルトガル]
ワイン労働者 6
ウール労働者 0
ワイン生産量 6
ウール生産量 0
[イギリス]
ワイン労働者 0
ウール労働者 5
ワイン生産量 0
ウール生産量 1.25
[生産量合計]
ワイン生産量 6
ウール生産量 1.25

資本の移動が自由でないときは比較優位が成り立って(①>②)いましたが、資本の移動が自由になると比較優位(④>③)が成り立たちませんね。

反論があればどうぞ。
anna-frederica 2017-03-05 01:32:32

 

 

リカードの比較優位が成り立たない証明としてこのエントリのコメント34と35でこのように書かれている。要約すると文中にあるように資本の移動が自由な状況では比較優位④に特化するより絶対優位③に特化した方が生産量は増えるので比較優位論は成立していないと論じている。

 

この論述でおかしいのはまず④が比較優位である根拠が示されていない。なぜポルトガルはワインを、イギリスはウールを生産した方が得か、機会費用から導き出していない。それをこの論者の支持者に転向した者が代わりに計算しているが、その機会費用はワイン又はウールはポルトガルかイギリスのどちらで生産する方が得か?と同財を産地で比較している。リカードの比較優位論は交換の利益を説いたもので機会費用は交換する財を比較しなければ意味がない。これでは単に技術力の高い生産設備で生産した方が得だと言っているに過ぎない。この論述で証明されていることは、分業して生産するよりも技術革新やどこかからの技術移転による方が生産量が多くなることもある、と言っているに過ぎない。

 

これで何故、リカードの比較優位論が成り立たないと否定できることになるのだろうか。成り立たないとされるのならば、それは技術革新や技術移転が起こった時には分業が起きない、又は分業しても生産量は増えないことが証明されなければならない。

 

例えば、Aという方法では生産量が2倍になった。Bという方法では3倍になった。比較するとA<BとなりBという方法が生産性競争では優れているということになる。しかし、Aが成り立たない事を証明するのならBという方法をとった時、Aという現象は起きないことにならなけれなならない。

 

 

では確認してみよう。

 

まず始めに自給自足の時に技術革新が起きて生産性が倍増したとしよう。

 

(自給自足のとき技術革新により生産性が倍増)

[ポルトガル]
ワイン労働者 1
ウール労働者 1
ワイン生産量 2 ←生産量が倍
ウール生産量 2 ←生産量が倍
[イギリス]
ワイン労働者 5
ウール労働者 4
ワイン生産量 2 ←生産量が倍
ウール生産量 2 ←生産量が倍
[生産量合計]
ワイン生産量 4 ←生産量が倍
ウール生産量 4 ←生産量が倍

 

ここから比較優位に分業特化する。

 

①’(技術革新により生産性が倍増してから分業特化)
[ポルトガル]
ワイン労働者 2
ウール労働者 0
ワイン生産量 4
ウール生産量 0
[イギリス]
ワイン労働者 0
ウール労働者 9
ワイン生産量 0
ウール生産量4.5 
[生産量合計]
ワイン 4
ウール 4.5

 

このように生産量は単に技術の進歩の恩恵だけでなく分業特化した方が大きくなる。

なんのことはない技術の進歩が起こっているときにも比較優位論は成り立つ。そもそも技術の進歩によって比較優位は変化するのだから④が比較優位の結果だとするのはミスリードだ。資本の移動が自由になるということは限りなく国境が無くなったと言えるわけで二国二財が一国二財になり、どちらの国が得かと問うこと自体がナンセンスだ。

 

結局、国家観としては受け入れられない話というだけで「経済現象の事実」としてのリカードの比較優位論は全く否定されていない。

 

そして機会費用は国家観も含んでいる。国家観などの価値観に基づいて人々は選択をしているわけで反経済学徒たちの言うグローバリズムとは相容れない。反経済学徒たちは価値観の問題だというが、リカードの比較優位論は価値観を内包(肯定)している。グローバリズムは既存の価値観を排除するものでリカードの比較優位論がその理論的根拠だと考えているようだが、それは彼らの単純な勘違いによるものだ。

 

それでも彼らは間違い続けるだろう。自らの顕示欲、承認欲を満たすために彼らは事実を受け入れることはできない。まぁこのブログ界隈で一生やっていればいいさ。