2022年3月29日の大阪散策の続き。
「旧緒方洪庵住宅(適塾)」の続き。
緒方洪庵旧宅・適塾跡(その1)のレポ
家族部屋を通って…
こちらは、台所。
土間には、竈と流し台があって…
井戸もありました。
由緒書き「適塾改修の沿革」
この建物が建設された時期が明らかではありませんが、この辺りが広範囲に焼けた寛政4年(1792)の大火の後だろうと推測されていて、緒方洪庵がこの建物を買い求めたのは弘化2年(1845)でした。
当時船場の中心部である瓦町で医業と塾を開いていた洪庵の元には、患者だけでなく門人となって教えを乞う者が次第に増え、より広い家屋を求め、知己を得ていた両替商の天王寺屋五兵衛の世話で、五兵衛の分家に当たる滋賀屋忠右衛門の持ち家を購入しました。
文久2年(1862)に洪庵が江戸へ出府してからは、四女八千代の夫であった緒方拙斎が適塾を継いでいましたが、明治19年(1886)頃に閉鎖され、診療所として開業されていたようで、この頃、背後の居住棟に2階を増築。
明治35年(1902)頃から六男緒方収二郎が住み、明治40年(1907)内部を改装して診療所を充実させたようです。
大正4年(1915)大阪市街整備の為、表通りが拡張され、建物もオモテ側の半間通りが切り取られた為、オモテ構えが1・2階とも変更されています。
大正13年(1924)井尻辰之助が建物を借りて華陽堂病院を開設したことにより、従来の形態は尊重されながら、病院として必要な施設や衛生的な配慮による改修が施されました。
こちらは…何だろう?機械・装置のようですが…?
こちらは、「仕口ダンパー・耐震リングカットモデル」。
この模型は、耐震改修工事で柱と横架材4の接合部(仕口)に取り付けた「仕口ダンパー」と「耐震リング(R10)」という製品の取り付け方を示したものです。
この建物の改修工事を行った際に取り付けた、地震の際に揺れを吸収し耐震性を高める装置・部材なんですね。
その隣にも、耐震改修工事の展示が…
由緒書き「耐震壁カットモデル」
この模型は、「複合鋼板パネル」を埋め込んだ「複合鋼板耐震壁(セーフティウォール)」という耐震改修工法を示したもので、2枚の鋼板の間に粘弾性体という材料を挟んで厚さ3.5mmとし、これを壁に取り付けることによって地震の揺れを吸収し建物を強くします。
既存の柱や貫はそのまま残し、内部に枠を組み、複合鋼板を専用のビスで留め付けています。
階段を上って、2階に移動。2階も上がれるって、いいな~♪
屋根の様子も見えました(^^)
2階も展示スペースになっています。
「適塾」の模型があって…
内部の模型も…これは分かりやすい♪
「適塾」に使用されていた瓦や、和釘、カスガイなどの部材が展示されていて…
こちらは、「適塾」の客座敷床の間の壁土。
続いての展示は…
おお!「『解体新書』(複製本)」(左)だ!すごい!
右は「『臓志』(複製本) 山脇東洋 宝暦9年(1759)」。
宝暦4年(1754)京都六角獄舎前において行われた刑屍体の解剖記録に小論文及び注釈を加えたものだそうです。
奥は、「『病名彙解』(複製本) 蘆川桂洲 貞享3年(1686)序」。
「『外科新編図』(複製本)」(左)
「『内科撰要』(複製本)」(右) 文政5年(1822)
「『魯西亜牛痘全書』(複製本)」(奥) 嘉永3年(1850)
『「西洋精錬窮理」(複製本)』(左手前)
『「絲漢堂製煉秘訣」(複製)』(右手前)
「『解体発蒙』(複製本)」(左奥) 文化10年(1813)
「『整骨新書』(複製本)」(右奥) 文化7年(1810)
『「平天儀」(複製) 岩橋善兵衛 享和元年(1801)(文政10年[1827]写)』(左手前)
『「暦象新書」(複製)』(右手前) 寛政10年(1798)
『「平天儀図解」(複製) 岩橋善兵衛 享和2年(1802)(文政10年[1827]写)』(左奥)
「[大黒天像](写真・部分)」(右奥)
説明パネル「大坂の蘭学」
大坂に蘭学の基礎を築いたのは、もと杵築藩医の麻田剛立(1734-1799)で、明和年間(1764-1771)に脱藩、大坂に天文暦学の塾を開きました。大坂は、政治の中枢である江戸と比較して「学問のための学問」が優先される風潮があったと言われます。
寛政7年(1795)門下の高橋至時(1764-1804)と間重富(1756-1816)が改暦事業のため幕府に出仕したことに象徴されるように、剛立の天文暦学は当時としては最高水準のものでしたが、この頃の大坂の蘭学研究は翻訳書に依拠していて、直接蘭書を解読するには至りませんでした。
蘭書原典による本格的な蘭学研究は、橋本宗吉(1763-1836)に始まります。
北堀江で傘屋の紋描きをしていましたが、間重富と医師小石元俊(1753-1808)にその才能を見出され、江戸の蘭学者大槻玄沢(1757-1827)に学び、寛政10年(1798)前後に医院兼蘭学塾の絲漢堂を開き、医療と後進の教育に従事する傍ら、多くの著訳書を著し、大坂のみならず関西における蘭学の祖と言っても過言ではありません。
その門下や周辺には、伏屋素狄(1747-1811)や大矢尚斎(1765-1829)、洪庵の師中天游(1783-1835)らがいて、大坂における蘭学を牽引して行ったのです。
説明パネル「江戸時代後期の洋学」
「解体新書」(安永3年[1774])の翻訳をきっかけに、日本における本格的場蘭学研究が盛んになり、19世紀になるとオランダ系以外の学問も移入され、このような西洋の知を総称して「洋学」と呼ばれ、洋学の発展には、当時の国際関係のあり方が強く影響しています。
18世紀末以降、西洋諸国の東アジア進出によって、日本では対外的危機意識が高まりつつあり、天保11年(1840)アヘン戦争の情報がもたらされて以後、更に強まり、西洋の砲術・兵学などの導入が急がれ、軍事科学分野が重視されるようになりました。
開国以降は、西洋の法律や歴史といった人文学分野の研究も盛んになり、その学問分野・内容・水準ともに、著しい拡大と充実を見せました。
続いてのお部屋は、「ヅーフ部屋」。ヅーフって…?
説明パネル「オランダ語学習」
適塾のみならず、当時の蘭学塾ではオランダ語文法のテキストとして「ガランマチカ」(「和蘭文典 前編」)が、文章論のテキストとして「セインタキス」(「和蘭文典 後編」)が広く活用されました。
福沢諭吉の「福翁自伝」によると、適塾では、初学者はまず「ガランマチカ」を学び素読を行う一方で、先輩塾生の講釈を聴き、「ガランマチカ」を終えると、次に「セインタキス」を同様に教えられると言います。この2冊を理解できるようになって初めて、蘭書の会読に参加できるようになり、本格的な蘭学の学習が始まるのです。
会読の予習段階では理解できない箇所があっても、他人に質問することはできず、適塾に備えられていたヅーフ辞書を頼りに自習しなければなりませんでした。
それでもなお疑問が解決できない場合は、より上級者向けとされたウェーランドの辞書を使用しました。
洪庵はこれらの書物の利用を奨励する一方で、ヅーフ部屋からの持ち出しを禁じていました。
塾生たちは辞書を奪い合うようにして勉学に励み、ヅーフ部屋には夜通し灯りが点っていたと言います。
展示物は…左が『「ヅーフ・ハルマ」(複製) ヘンドリック・ヅーフほか』。
この辞書が「ヅーフ部屋」の名の由来なんですね。
右は、「GRAMMTICA OF NEDERDUITSCHE SPRAAKKUNST(和蘭文典前編)(複製) 箕作阮翻刻 天保13年(1842)」。前述の「ガランマチカ」ですね♪
こちらの右が、「SYNTAXIS OF WOORDVOEGING DER NEDERDUITSCHE TAAL(和蘭文典後編)(複製) 安政3年(1856)」。「セインキスタ」ですね~♪
「その3」に続く。
旧緒方洪庵住宅・適塾
大阪府大阪市中央区北浜3-3-8
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先週、大阪で会えたな~♪嬉しい♪
狂ったように踊れ~♪今だけは自由だ~♪