2020年8月下旬の横浜根岸散策の続き。
「根岸森林公園」の中に「根岸競馬場一等馬見所跡」を見学した後は、「根岸森林公園」の園内を進んで、「馬の博物館」に向かいました。
根岸森林公園・根岸競馬場一等馬見所跡のレポ
「根岸森林公園」の一角に、「馬の博物館」はあるですよね。
ゲートをくぐると、馬の像がお出迎え。「トキノミノル」「幻乃馬」とあります。
台石の裏面には、「トキノミノル号略歴」を記したプレートが埋め込まれています。
昭和23年出生、競争成績は10戦10勝。
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トキノミノル(1948年 - 1951年)は日本の競走馬である。10戦10勝・うちレコード優勝7回という成績でクラシック二冠を制したが、東京優駿(日本ダービー)の競走17日後に破傷風で急死、「幻の馬」と称された。
戦後中央競馬で10走以上した馬で、唯一全勝を記録している。(後略)(ウィキペディア「トキノミノル」)
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負けなしの馬か~す、すごい…
「馬の博物館」の建物。ガラス張りのような外観で、オシャレ~♪
入口。入館料は大人100円です。
【閲覧注意】
この後、動物の骨の写真が掲載されていますので、ご注意下さいm(._.)m
説明パネル「洋式競馬のはじまり」
始めた人たちということで、F.H.ヴァイス(イギリス領事)、R.リンダウ(スイス領事)、D.G.ポールスブルック(オランダ領事)、3名の写真が掲示されていました。
安政6年(1859)開港した横浜で、居留外国人たちは海岸を埋め立てた広場を利用し、競馬を楽しみましたが、その始まりは確定できませんが、万延元年(1860)9月、現在の元町で行われた記事が最も古く、開催記録が残っている最初の競馬は、現在の中華街で文久2年(1862)に行われました。
その後、根岸競馬場で行われる前年までは、イギリスの軍人を中心としたギャリソン(駐屯軍)競馬が、山手の練兵場や射撃場で行われました。
説明パネル「本格的な洋式競馬場 根岸に競馬場誕生」
当初は居留地背後の沼地を競馬場建設場所に予定していましたが、慶応2年(1866)話し合いで根岸に移すことになり、この内容が根岸競馬場着工後交わされた「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約定書」第1条に記されています。
コースはイギリス駐屯軍ボンド中尉が、グランド(一等)スタンドはウィットフィールドとドーソンがそれぞれ設計し、同年12月(和暦11月)我が国初の本格的な洋式競馬場として、完成。
7月(和暦6月)運営組織として、横浜レースクラブが発足しました。
「伊藤博文馬主服(複製)」
こちらは、「根岸競馬場一等観覧席」の模型ですね~
この模型の上には、説明パネル「S.アイザックスとJ.H.モーガン」があって…
アイザックスは、明治23年(1890)頃に来日し、根岸競馬の発展に寄与した大功労者で、最後の日本レースクラブ理事長を務め、馬主としても「ステーツ氏」という仮定名称を用い、バージニア号、アトランター号、ラレード号など、その所有馬から帝室御賞典の優勝馬を出しています。
大正9年(1920)2月に来日していたアイザックスの友人であるモーガンにスタンドの設計を依頼。日本で最初の鉄骨鉄筋コンクリートである1・2等スタンドが大倉土木(現 大成建設)の施工で完成しました。
モーガンはこの他、東京の丸ビルやホテルニューグランド(改造)等の設計者として知られています。
「根岸競馬場一等観覧席」の模型を横の方から…
「現在の馬の博物館・根岸競馬記念公苑と根岸森林公園空撮」
動物の骨も展示してあって…「山鹿貝塚出土の犬骨」
山鹿貝塚(福岡県芦屋町)は縄文時代の遺跡として有名ですが、縄文犬にしては頭蓋骨が大きく、むしろ、中世以降の犬に近く、現在の柴犬より一回り大きい中型犬ではないかと考えられ、弥生時代以降、海外から持ち込まれた犬との混血が進み、大型化していった歴史を物語ってくれる貴重な資料です。
「さんが」とふりがながありますが、「やまが」が正しいようです。
こちらの史料は、「江戸名所図会 巻之一」。
親子連れと思しき犬は、首輪をしておらず、まるで野良犬のようで、狆を除くと、江戸時代まで室内で犬を飼う習慣はなく、首輪もしませんでした。
こちらの骨は、「猪の下顎骨」。
鹿児島県鹿屋市で採集された猪の下あごの骨です。雑食性で鹿と比べると、様々な食物を咀嚼できるよう上下の歯の接触面が広いことが分かります。
前歯がシャベルのような形をしているのは、地面を掘り起こして木の根や昆虫などを食べるためです。
「鹿の下顎骨」
出土地などの詳細は不明。鹿は、牛と同じ反芻動物で胃を4つ持ち、主食の草は想像よりも硬く消化し辛い為、口の中で細かく破砕する必要があり、三日月のような形の月状歯(かなは「げつしじょう」とありますが「げつじょうし」が正しい?)をしているのが特徴です。
こちらの書物は、「吾妻鏡」。鹿食について書かれている部分のようです。
おお~お馬さん♪
こちらは「埴輪馬」。島根県松江市平所遺跡出土。
馬の文化は4世紀末から5世紀初頭に朝鮮半島を経由して日本列島に伝わりました。
初期の馬文化を埴輪馬から見ると、口元の鏡板やお尻にある杏葉は実用的な馬具というよりも装飾品で、耳と耳の間にある突起はタテガミを結んだもので、首筋のタテガミもカットされて整えられています。
こちらも大きな馬の像ですね~
こちらは「水干鞍着装模型」。中世の馬装を再現した模型で、日常使いのシンプルなもので、足を置く鐙はスリッパ式となっているため立ち易く、刀や槍を振り回すなど馬上で運動するのにも向いています。
古代の馬具は中国や朝鮮半島の影響が大きかったですが、平安時代後半から独自の形式に発展して行きました。
こちらは、壁画のようですが…
「竹原古墳壁画複製」(福岡県宮若市竹原)
6世紀後半の円墳で、国指定史跡。横穴式石室の奥壁中央に壁画があり、図の上に怪獣もしくは天馬と思われる動物がおり、左右にさしば、下に波が配置されていて、その中に人・馬・船が描かれています。馬の輸送をモデルにしたものかも知れません。
石像もありました。「馬頭観音像(複製)」
元石像所在地は茨城県稲敷郡美浦村信太。造立年不明。
「馬頭観音石碑」。
長野県北佐久郡望月町(現 佐久市)寄贈。建立年不明。
馬頭観音像ではなく、「馬頭観世音」という文字のみが彫り込まれていて、文字塔は観音像を浮き彫りしたものよりも費用を抑えることができます。
こちらも、馬頭観音像。
この馬頭観音像は明治2年(1869)のもので、木曽馬の産地としていられる長野県木曽郡に所在していたもので、頭頂に馬頭を表し、忿怒の形相で手に根本馬口印を結ぶ姿は正当な姿を受け継いでいますが、一面二臂の馬頭観音が二体並列するのは異例で、道祖神信仰との混交の結果と思われます。
馬頭観音像がもう一体。
長野県北佐久郡望月町(現 佐久市)寄贈の石像で、頭頂に馬頭を載せることで馬頭観音と分かりますが、両袖の長い衣を着け合掌して立つ姿に忿怒尊の面影はありません。
望月町は「延喜式」所載の望月牧があった所で、古来馬との関係が深く、同町には文字碑を入れると1,500にも余る馬頭観音像があると言い、本像はその中でも古い物の一つです。
「その2」に続く。
馬の博物館
神奈川県横浜市中区根岸台1-3
根岸森林公園
神奈川県横浜市中区根岸台
https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/negishi/
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