2020年3月下旬の墨田区向島散策の続き。
「長命寺」をお参りし、長命寺桜もちをお土産に買って、隅田公園の桜を堪能した後は、「牛島神社」に向かいました。
長命寺・長命寺桜もち山本や・隅田公園の桜・石窯パン工房KAMEYAのパンのレポ
「牛島神社」に到着。隅田川に隣接しているので、すぐ社殿前に出られるんですよね。
参道を下って、振り返って…いい眺めだ♪
狛犬。
「牛島神社」も、サクラがキレイでした♪
境内には大きな石碑があります。
こちらは「二峯先生之碑」。
幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことで、二峯の生涯を称えるこの碑は、明治30年(1897)8月16日に二峯が没した翌年の3月、円通寺(押上2)に建碑され、後に現在地に移設されました。
二峯は、文政2年(1819)上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれ、生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。
天保14年(1843)幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ましたが、菱湖はすでに亡くなっていたので、中国の古筆の研究を進め、独自の書法を確立するに至ります。
二峯の書は、向島百花園の「しのぶつか」、「きゃうけん塚」などの碑で見ることができます。
碑文を担当したのは長男の寛で、五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、更に中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立て、篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。
建碑の中心となったのは、今泉雄作。東京美術学校(現在の東京藝術大学)創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。
庶務を担当した、佐羽喜六。11才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。
裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。」
その横には「堀辰雄ゆかりの地」という由緒書きも…
明治37年(1904)麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれ、2歳とき母志気(しげ)に連れられ向島小梅町(現在の向島3丁目)に住む叔母の家に移り、明治41年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町32番地で暮らし始めます。
その2年後、大水の影響で新小梅町2ノ4に移り、ここから牛島尋常小学校に通い、府立第三中学校(現 都立両国高校)卒業後は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。
関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くし、大正13年(1924)父・松吉が隅田公園東隣の新小梅町8番地に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和13年(1938)まで父と共にそこで暮らしました。
人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や「幼年時代」などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記していて、「幼年時代」に、牛島神社境内の撫牛のことが記されています。
昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた「聖家族」をはじめ、「風立ちぬ」「美しい村」など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和28年(1953)に没しました。
明治41年に母志気が上條松吉と結婚して暮らし始また、向島中ノ郷町32番地とは、先日レポした「すみだ福祉保健センター」になりますね。
堀辰雄住居跡(すみだ福祉保健センター)のレポ
「牛島神社」から東側の路地を進んで振り返って…
大正13年(1924)から昭和13年(1938)まで、父と共に暮らした家は、この辺りにあったようですが…案内板はなくて…涙
この路地は、正面に東京スカイツリーがキレイに見えるんですよね~♪
大通りに出たら右折し、源森橋方向に進むと、橋の手前に史跡案内板があります。
その案内板は、「荻野医院跡 -日本女医第一号 荻野吟子開業の地-」。
荻野吟子は、嘉永4年(1851)3月3日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現 熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に生まれ、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけ、医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。
吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治12年(1879)、私立医学校「好寿院」に入学しました。
女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、明治18年3月、医術開業試験に合格。時に吟子35歳。同年5月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。
開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようで、北海道での理想郷建設を目指す14歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治27年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐え、その後、閑静な地を求めてこの地に開業したのは、志方と死別して間もない明治41年12月、58歳の時でした。
晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続け、大正2年(1913)6月23日、62歳で亡くなりました。
「荻野医院跡」から、大通りを「牛島神社」の方に戻って、言問橋東交差点で右折すると、左手にお寺があります。
こちらは、「常泉寺」。
「常泉寺」の由緒書き。
慶長元年(1596)牛島村の草創者の一人、高橋新右衛門が開基、弟の仙樹院日是贈商人が開山した日蓮正宗の寺院で、江戸中期に6代将軍徳川家宣公の御台所天英院殿が帰依し、寺料30石が給されるようになり繁栄。この時期に大伽藍を築き、境内には本行坊、本種坊、本住坊の3つの塔頭がありました。
嘉永6年(1853)島津斉彬公が13代将軍徳川家定公の御台所となる養女篤姫の輿入れ成就を祈願。当時、隣地は水戸藩下屋敷で幕府からは葵御門の使用を許され、高い格式を誇っていました。
昭和3年(1928)言問橋の完成に伴い、言問通りが境内の中央を横切ることになり、国は代替地を提案して来ましたが、古刹としての歴史を重視し、寺域を縮小して現在地にとどまりました。
境内には江戸の儒学者で石の朝川善庵の墓や、ドイツなど海外で研究を重ね日本で初の薬学博士となった尾張犬山藩士下山順一郎の記念碑などがあります。
「常泉寺」から横の路地を入って行くと、変わった形の建物が見えて来て…
こちらは「円通禅寺」。
「円通寺」から更に路地を北に進むと、マンションの植え込みの中に、史跡案内板を発見。
この案内板は、「饗庭篁村旧居跡」。
安政2年(1855)下谷龍泉寺町に生まれた篁村は、「安政の大地震」で母を失い、父は無事でしたが、乳飲み子だった篁村を育てるのは難しく、それを助けたのが、近くに住む「竹村氏」で、その恩を忘れないため、後に「篁村」「竹の屋」の号を用いることにしたといいます。
11歳で日本橋の質屋に奉公に出たが、主人に可愛がられ、観劇のお供や貸本読み放題などの高待遇を受けたため、劇、俳諧、花柳界などに関する知識を身につけました。
19歳になった篁村は、読売新聞を発行していた日就社に校正担当として入社。
2年後に読売新聞の編集記者となって活躍。
31歳の時、読売新聞に「当世商人気質」を連載して大好評を博し、篁村の名を不動のものにしました。
向島小梅町や寺町の地に居住し、依田學海と一緒に酒を飲み明かしたエピソードなどを東京朝日新聞に連載した「隅田の春」に書いています。
この後、帰路に着いたので、この日の散策はこれにて終了です。
地元・墨田区の散策。良く知っていると思っていましたが、新たな発見ばかりで…
とても充実した散策になりました(^^)
また地元をゆっくり歩いてみたい♪そんな気持ちにさせてくれる散策でした!
牛島神社
東京都墨田区向島1-4-5
荻野医院跡
東京都墨田区向島1-8
常泉寺
東京都墨田区向島3-12-15
円通寺
東京都墨田区向島3-11-6
饗庭篁村旧居跡
東京都墨田区向島3-10-2
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