児島惟謙屋敷跡と鹿島谷暗渠・大森貝塚の碑(大森貝墟)・中世道路跡発見の地 ~東京都品川区・大田区 | 九州下町おやじの珍道中

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20205月上旬の旧東海道歴史散策・大森界隈散策の続き。

 

大井鹿嶋神社」をお参りした後は、「児島惟謙屋敷跡」に向かいました。

 

 

大井鹿嶋神社のレポ

 

 

 

 

 

大井鹿嶋神社」から「大森貝塚遺跡庭園」の前を通り過ぎて、池上通りを大森駅方面に進むと、左側のビルの敷地の一角に、由緒書きを発見。

 

 

 

 

その由緒書きには「土地由来」とあります。

この辺りは、天領で「大井村鹿島谷」と呼ばれ、幕府代官の支配地で、この一廓の南側に、今は暗渠となっていますが、小川が流れ、これが大井と山王の境界をなしていました。

 

 

 

この流れの水源は、大井・原(今、西大井4丁目)の水神池の湧水で、途中、鹿島・庚塚遊園地の中程で品川用水と合流、この団地の下を流れて海に注いでいるもので、昔は当地を流れるときは渓谷をなし、岸には樹木が茂り、「鹿島谷」の名の所以を思わせるものでした。

 

小川の南側は山王地区で、江戸時代は旗本・木原氏の所領地で、前のバス通りは、律令時代の東海道で、江戸期には平間街道とも呼ばれました。

 

明治9年に「大森駅」が設けられると、翌10年には貝塚が発見・発掘され、農地が宅地に造成され始め、華族や高級軍人・政商等の別荘が建ち始めました。

この一廓(旧大井村鹿島谷2950-51番地)に、児島惟謙が広大な屋敷を建てたのは、明治36年頃のことで、大津事件のときの大審院院長として名をあげました。

大津事件とは、明治24年、当時のロシア皇太子ニコライ2世が日本を訪問された際、滋賀県大津で護衛の巡査津田三蔵に切りつけられた。時の松方首相西郷従道内相らは、皇室に対する犯罪と同質であり極刑に処することを主張したが、児島は司法権の独立と裁判の神聖のため、あくまでも法律の明文によるべきであると主張し、その結果、津田は謀殺未遂罪として、無期刑に処せられました。

 

児島はその後、大審院長を退任、貴族院議員などを歴任、退官後大井村鹿島谷に居を定め、地元との交流につとめ、大森倶楽部の創立に際しては、発起人の首班として務め、初代委員長として、在住名士・財界人等と親交を深め、明治41年72歳で亡くなるまで、ここに居を構えていました。因みに電話番号は「大森局 壱番」でした。

 

 

児島惟謙と言えば、愛媛県「宇和島城」に、銅像がありましたね~

この地に、住んでいたのですね。

 

 

児島惟謙像(宇和島城)のレポ

 

 

 

 

 

周辺マップ。

 

 

 

 

児島惟謙屋敷跡」のある敷地の先、左側にある路地。

 

 

 

 

池上通りの向かい側にも路地があります。

 

 

 

 

左側の路地を進んで行くと、曲がりくねった下り坂になっていて…

 

 

 

 

更に進んで…こちらが先程の由緒書きにあった「鹿島谷」のようで、この道路の下は暗渠になっているようです。

 

 

 

 

池上通りに戻り、大森駅方面に歩きます。

 

 

 

 

道路の向かい側に、神社がありますね~後程、お参りしてみましょう。

 

 

 

 

池上通りを更に進むと、左側に、モニュメントがあります。

大森貝塚発見発掘142周年」という看板も…1877年9月16日なので、2019年は142周年になる訳ですね。

 

 

 

 

左手のビルの横に通路には、「史跡大森貝塚」の案内板があって…

 

 

 

 

通路を進むと、また案内板があります。

 

 

 

 

フェンスにも案内板が…午前9時から午後5時まで、見学できるんですね。

 

 

 

 

ビルの横の通路を進みます。

 

 

 

 

階段を下って…

 

 

 

 

階段下には、由緒書きがありました。

 

 

 

 

モース博士と大森貝塚

アメリカのエドワード・シルヴェスター・モース博士は、明治10年(1877)6月、横浜から新橋へ向かう車窓で、大森貝塚を発見。土器、石器、人骨など多数の資料を発掘し、その成果を「SHELL MOUNDS OF OMORI」として刊行しました。

 

 

 

モース博士は東京大学の動物学の教授となり、進化論を最初に紹介したり、国内を広く旅行し多くの人々と交流を深め、日本陶器や風俗を研究、日本文化を海外に紹介し、日米文化交流の上に偉大な功績を残しました。

 

 

 

奥に進むと、JR東海道本線の線路が見えて来て…丁度、京浜東北線の電車がやって来ました♪

 

 

 

 

その奥に、ありました!「大森貝塚の碑」。「大森貝墟」と刻まれています。

 

 

 

 

石碑の奥からも…本当に線路際である…

 

 

 

大森貝塚の碑」は、先程見学した「大森貝塚遺跡庭園」にもありましたね…

2つあるのは、何故?

こちらは、大田区。「大森貝塚遺跡庭園」は品川区。2つの区がそれぞれ碑を建てた、ということでしょうか…

 

 

 

池上通りに戻ると、モニュメントが並んでいて…

 

 

 

 

左のモニュメントには、「モースゆかりの地」。

 

 

 

 

中央には、「大森貝墟」。先程見た石碑のスケールダウンしたもののようです。

 

 

 

 

右には、「《大森貝墟》碑の由来」が刻まれています。

大正14年12月、大森貝塚を発掘し、江戸・明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース博士の訃報が伝わると、博士と関係のあった石川千代松岩川友太郞臼井米二郎佐々木忠次郎松村瞭宮岡恒次郎の6名が発起人となり、大森貝塚の顕彰とモース博士の偉大なる功績を後世に伝えるため、調査場    所に記念碑を建てることになりました。

 

 

 

その場所は、発掘に参加した佐々木忠次郎の日誌と記憶、並びに当時の地形、立木、村道の位置、大森駅との距離などにより、小林脳行店主の臼井米二郎の所有地(東京府荏原郡入新井町字新井宿山王下255番地・現在の大田区山王1丁目3番1号)としました。

21名の研究者らが発起人となり建碑を呼びかけましたが、昭和2年にアメリカで起きた世界恐慌が日本にも及び、献金は集まらず、臼井米二郎が土地と資金を提供し、《大森貝墟》碑が完成したと、佐々木忠次郎は語っています。

 

 

 

大森貝塚の碑」モニュメントと池上通りを、今一度…

 

 

 

 

池上通りを向こう側に渡ると、ビルの前に由緒書きを発見。

 

 

 

 

その由緒書きは、「中世道路跡発見の地」。

平成13年、ビル建築主による遺跡調査において、道路の跡が発見されました。

調査の結果、長さ約16m、幅約4mの道路跡で、中世後期(室町時代)の陶器が出土したことから中世の道路跡と考えられ、池上通りの前身である江戸時代の池上道に沿っており、池上道鎌倉街道に関係することから、注目すべき発見と言えます。

 

 

 

道路跡の路面下から奈良時代の須恵器が出土しており、この道路跡が古代東海道の「大井駅」に至る駅路に関連する道路の可能性が考えられます。

 

 

 

児島惟謙屋敷跡」「鹿島谷暗渠」「大森貝塚の碑(大森貝墟)」「中世道路跡発見の地」を見学した後は、「日枝神社」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

児島惟謙屋敷跡

東京都品川区大井6-21

 

 

鹿島谷暗渠

東京都品川区大井6-21・大田区山王1-1の間

 

 

大森貝塚の碑(大森貝墟)

東京都大田区山王1-3

 

 

中世道路跡発見の地

東京都大田区山王1-6-4付近

 

 

 

 

 

 

 

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