2019年3月下旬の谷中界隈の続き。
「経王寺」をお参りした後は、「延命院」に向かいました。
経王寺のレポ
「経王寺」から御殿坂を進んで行くと、右手に「延命院」があります。
境内に入ると、由緒書き「延命院のシイ」があって…。
慶安元年(1648)慧照院日長上人の開山による日蓮宗の寺院で、天保7年(1836)の「江戸名所図会」巻五「日暮里惣図(ひぐらしのさとそうず)」に、現在地と思われる位置に椎の姿が描かれており、かつては樹高16.2m、幹回り5.5mの巨樹でしたが、平成14年(2002)幹内の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全の為、現在の樹形に保っています。
由緒書き「七面大明神と延命院の大椎」。
開基は、4代将軍徳川家綱公の乳母三沢局。家綱公出生の際、安産を祈祷した慧照院日長が甲州身延山の七面大明神を勧請、慶安元年(1648)別当寺として開創したと言います。
七面大明神には胎内に慶安3年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師弥兵衛の手で作られたことを記した銘文があります。秘仏とされ、七面堂に祀られていて、これに因んで、門前から宗林寺方面に下る坂は「七面坂」と呼ばれています。
境内には、樹齢600年を越えると言われる大椎(東京都指定天然記念物)があります。
その由緒書きの後ろには大木が!これが「延命院の大椎」なのですね。デカい!
椎の木の幹に近づいて…確かに右側がバッサリ切れているような感じですね…
「七面大明神安置」と刻まれた石碑。
大きな石碑もあって…記念碑のようです。
境内を奥に進みます。
正面の堂宇。「七面堂」でしょうか…
日潤聖人と刻まれた石塔。墓石?記念碑のようでもありますね。
こんな由緒書きも…
明治11年(1878)5世尾上菊五郎と12世守田勘弥が東京・新富座において歌舞伎「延命院日当」を上演するに当たり、延命院16世行硯院日潤上人(通称:日当)追善の為、これを建碑しました。
享和3年(1803)の「延命院事件」を題材にし、後に河竹黙阿弥の「日月星享和政談」によって脚色劇化されました。
「延命院事件」とは、日潤上人が幕府権力と繋がった女犯の容疑で処刑されますが、正しくは江戸城内の御本丸大奥と西丸大奥の権力紛争によって捏造された事件と言われます。
こちらが本堂でしょうか…
石製の扁額があって、「七面堂」とあるようです。昔の鳥居にかけられていたものなんでしょうね。
阿弥陀如来でしょうか、石仏が安置されていて…
「延命院」の門前辺りで、御殿坂は二股に分かれているんですよね。
左側の路地を進むと、緩やかな下り坂になっていて…。
この坂道が「七面坂」。御殿坂上から台東区長明寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称:萩寺)の前へ下る坂道で、名前の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂に因んでいます。
「七面坂」の途中には、祠があって…
中には、お地蔵様でしょうか、石像が安置されていました。
「七面坂」を坂の下から坂ノ上を眺めて…
また別の「七面坂」の由緒書き。
宝暦年間の「再校江戸砂子」に、「宗林寺前より七面へゆく坂」とあって、七面堂は、甲斐国身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神「七面天女」を祀るお堂です。
坂は「御府内備考」の文政9年(1826)の書上によれば、幅2間(約3.6m)ほど、長さ50間(約90m)、高さ2丈(約6m)ほどでした。
宗林寺は「再校江戸砂子」に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく光もよいと記され、後には、境内にハギが多かったので,萩寺と呼ばれました。
七面坂の坂下の突き当たりには、お寺があります。こちらは「本授寺」。
本授寺の本堂。
本堂に近づいて…扁額には山号の「圓妙山」とあります。
本堂の前には、石仏が並んでいて…
「延命院」をお参りし、「七面坂」を下って、「本授寺」をお参りした後は、「長明寺」に向かいました。
その様子は、また後日。
延命院
東京都荒川区西日暮里3-10-1
七面坂
東京都荒川区西日暮里3-14・台東区谷中5丁目の間
本授寺
東京都台東区谷中3-11
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