福沢近藤両翁学塾跡と、赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石と、芝神明町町家跡遺跡と、芝大神宮と ~旧東 | 九州下町おやじの珍道中

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20205月の旧東海道歴史散策の続き。

 

旧東海道に出て、「新橋親柱」を見学して、「日比谷神社」をお参りした後は、「神明小学校跡」に向かいました。

 

 

新橋親橋・日比谷神社のレポ

 

 

 

 

日比谷神社」から国道15号線を暫く南に進み、浜松町1丁目交差点を過ぎて、左に路地を入って行くと、マンションの植え込みの中に、「記念碑 港区立神明小学校」と刻まれた石碑があります。

 

 

 

その記念碑の隣には、「神明小学校跡」を記すプレートがあって…

平成7年3月まで、この地に、大正3年に東京市神明尋常小学校として開校した神明小学校がありました。

 

 

 

そのマンションの裏側に回ってみると、昭和53年の校舎改築記念碑がありました。

 

 

 

その記念碑の上部は、日時計なんですね!

 

 

 

芝地区旧町名由来碑

かつては、神明町、新銭座町、宇田川町、宇田川横町、三島町という町名だったんですね。

 

 

 

その近くには、「福沢近藤両翁学塾跡」という石碑があって…

この地は、1868年から1871年まで慶応義塾があった場所で、福沢諭吉は築地鉄砲洲にあった家塾をここに移し、新たな塾舎を建て、時の年号に因んで称しました。

 

 

1871年、慶応義塾跡を譲り受けた「攻玉社」は、築地一橋邸跡から越して来て、1925年西大崎に移るまで、この地で学校を経営しました。

設立者は、近藤真琴。和魂漢洋才、質実剛健、礼譲を重んじ誠意を旨とすることを理想とし、中壮年部は英漢数の三科を主として海軍兵学校入学志願者を養成、他の上級学校進学希望者の為に、歴史、地理、物理、化学等の諸科をも教授し、後に中学校に改めました。

1879年に創設した陸地測量習練所は、後に量地黌、土木科、工学校、高等工学校と改称して、土木工学の基を開き、幼年部、女子部、商船黌 、専修数学科もある期間、設けられていました。

 

 

 

その石碑の後ろには、「都旧跡 福沢 近藤 両翁 学塾跡」という碑がありました。大正7年に指定されています。

 

 

 

その石碑の道路を挟んだ向かいには、大きな石を回して造られた花壇があって…

 

 

 

その花壇には、「赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石」という由緒書きが!

この地は江戸時代、播磨国赤穂藩森家の上屋敷で、北隣には旗本屋敷が構えられていましたが、赤穂藩はこの隣地との境に構築した境堀の護岸として石垣を設け、江戸湾側にも石垣を組み、護岸としました。

 

 

石垣に用いられた石材の大半は安山岩で、積み直しが確認された所もありましたが、江戸時代前半の構築当初の姿をよく留めています。

 

この花壇の石は、境堀の護岸として利用された石なんですね。スゴい!

 

 

 

赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石」から、国道15号線に戻ろうと路地を進んで行くと、また石積みの花壇があるんですよね。この植込みにも、案内板がありました。

 

 

 

その案内板は、「芝神明町町屋跡遺跡」。

かつてこの辺りは、旧東海道(現在の第一京浜国道)を挟んだ芝大門一丁目とともに、「神明町」と呼ばれた町人居留地で、昭和62年、再開発に当たり遺跡の発掘調査が実施され、排水用の木樋、地割に用いた石垣、長屋の基礎、井戸跡、土蔵造りの基礎などの遺構や、陶磁器、漆器、寛永通宝等の貨幣、釘・かすがい等の建築用材など、多くの遺物が出土しました。

 

 

ここに使用されている石は、いずれも遺跡で検出された石垣に用いられていた間知石で復元されたものです。

 

ここにも、出土した石を利用して、花壇を造っているんですね!これもまた、スゴい!

 

 

 

その由緒書きの横には、江戸時代の絵図も掲示してあります。

 

 

 

この石が、かつて間知石として使用されていたものなんですね。

 

 

 

国道15号線に出て、大門交差点の手前右側は、「芝大神宮」という石碑があるんですよね。

 

 

 

この道路は、「芝大神宮」の参道。

 

 

 

暫く進むと、大きな鳥居が見えて来て…

 

 

 

鳥居の脇には、銅製の灯籠があります。

 

 

 

生姜塚」も…

 

 

 

反対側には、「貯金塚」という石碑もあります。

 

 

 

その横には、「貯金と災厄」という碑があって…

関東大震災後、預金の全額払い戻しを断行し、東京の復興に多大の貢献をした銀行があるのですが、それは「不動貯金銀行」、牧野元次郎翁が頭取の銀行でした。

その不動貯金銀行本店の当時の焼跡から出た欄稈破片2個は、これです。

 

 

倉は焼けても貯金は焼けぬ」…なるほど!

 

 

 

芝大神宮の文化財

社伝によれば、平安時代の中頃、寛弘2年(1005)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる湊区内有数の古社で、毎年9月中旬に「だらだら祭」と呼ばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られていることでも地元とのつながりが深いです。

 

 

所蔵する文化財として、絵画は江戸末期の建部巣兆の「箱根詣図(紙本着色)」、古文書は建武4年(1337)の足利直義御教書(勝利の祈祷を依頼したもの)、天正16年(1588)の吉良氏朱印状があります。

 

歴史ある神社なんですね。

 

 

 

石段を上り、狛犬。

 

 

 

社殿。

 

 

 

境内の一角には、ちょっとした緑のスペースがあって…

 

 

 

手水所。

 

 

 

そして、力石もありました。50貫もある石なんですね。

 

 

 

有形民俗文化財 芝大神宮の力石

川口町 金杉藤吉」の名がありますが、明治時代に活躍した有名な力持ち力士の一人、芝金杉町の山口藤吉(慶応三年生)のことで、この石を片手で差し上げたと伝えられています。

 

 

 

その隣には、「星野立子、椿、高士三代」という句碑がありました。

 

 

 

福沢近藤両翁学塾跡」「赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石」「芝神明町町家跡遺跡」「芝大神宮」と回った後は、「首尾稲荷神社」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

神明小学校跡・福沢近藤両翁学塾跡

東京都港区浜松町1-13-1

 

 

赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石

東京都港区浜松町1-6-7

 

 

芝神明町町家跡遺跡

東京都港区浜松町1-18-16

 

 

芝大神宮

東京都港区芝大門1-12-7

 

 

 

 

 

 

 

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