2019年8月12日の山口県周南市・徳山の歴史散策の続き。
「八正寺」「東川緑地公園」「大成寺」と回った後は、「徳山藩毛利家墓所」に向かいました。
八正寺・東川緑地公園・大成寺のレポ
「大成寺」の脇の路地を東に進むと、鳥居が見えて来ます。
鳥居の脇に由緒書きがあって…。「徳山藩祖毛利就隆夫婦の墓所」。
毛利就隆公は、毛利輝元公の二男として慶長7年(1602)に生まれ、元和3年(1617)都濃・熊毛郡内の3万石余りを分知され、初めは下松に居を構えましたが、慶安3年(1650)に居館を野上に移し、徳山と改称しました。
奥方は、就隆公の側室で3題藩主毛利元次公の生母に当たり、宝永元年(1704)に没しています。
墓石はともに各部別石からなる大部で立派な構造で、近世における大名墓石の典型と言え、正面に戒名、両側面に紀年を刻んでいて、周南市の文化財に指定されています。
鳥居脇の狛犬。
鳥居をくぐり、石段を上ります。
石段を上ると、また鳥居があって…。
鳥居をくぐると、左手に建屋が見えました。
ここにも由緒書きがありました。「毛利家墓所」。
徳山藩祖毛利就隆公は、延宝2年(1674)京都妙心寺の竺印和尚を招請して大成寺中興開山とし、ここを菩提寺としました。
この墓所には、9代までの藩主及びその妻子の墓などが建立されています。
3代毛利元次公は、明敏で好学の聞こえ高く、文化面で治績を上げましたが、本藩との争い(万役山事件)によって改易の憂き目にあいました。
7代毛利就馴(なりよし)公も、藩校鳴鳳館を創設するなど、文教興隆の基礎を築きました。
8代毛利広鎮(ひろしげ)公は、41年間の治績により幕府から城主格を与えられ、4万石を認められました。
9代毛利元蕃(もとみつ)公は、徳山藩最後の藩主で、幕末維新に際しては本藩に橋梁して活躍。元蕃公は広鎮公の七男で、禁門の変の責任者として自刃を命ぜられた本藩家老福原越後の弟、藩主毛利敬親公の嗣子となった毛利元徳公の兄に当たります。
そうか、「大成寺」が菩提寺となったので、その近くの山に墓所がある、ということなんですね。
目の前の石段を上り、正面に3基並ぶうちの右側の墓石から。玉垣で囲われていて、立派ですね~墓石には、「浄願院」とありますので、7代毛利就馴公室の墓石のようです。
その左横には、小さめの墓石があって…。子どものお墓のようです…
その左にも立派な墓石があって…。
その隣にも、小さな墓石が…
その左には、6代毛利広寛公の墓石。
その左側には、先程見えていた建屋があって…。
建屋の中に入ると、石造りの門が見えて来て…
こちらが、徳山藩祖毛利就隆公の墓石です。
墓石の側面には、没年の延宝7年の銘があって…。反対側の側面には、亡くなった日付8月8日の銘がありました。
毛利就隆公の覆い屋を横の方から…
毛利就隆公の墓石から、左手奥の方に進みます。
すると、毛利齋四郎墓と刻まれた墓石があって…。
その隣にも、毛利家の方の墓石が…
毛利就隆公墓所の後ろにも、覆い屋がありました。
その覆い屋の中に入って…
こちらは、毛利就隆公の側室性雲院の墓石になります。
側面には、没年の寛永元年の銘があって、反対側には、12月21日の銘がありました。
毛利就隆公室の墓石の向かいには、「従三位子爵毛利元功卿室鈺子墓」と刻まれた墓石があって…。
その隣には、「従三位勲三等子爵毛利元功卿墓」と刻まれた墓石が並んでいました。
毛利元功(もといさ)卿とは、徳山毛利家10代当主。
奥には、更に墓石が並んでいます。
奥に向かう通路の左手には、小さな墓石が4基並んでいて…
毛利就隆公室墓所の隣には、2代毛利元賢公の墓石があります。
その隣には、女性の墓石が…
「その2」に続く。
徳山藩毛利家墓所
山口県周南市舞車町4付近
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