津偕楽公園(その2)~三重県津市の神社・公園 | 九州下町おやじの珍道中

九州下町おやじの珍道中

下町おやじが、愉快に美味しく楽しく過ごす九州。
よかとこやね~九州は♪大好きバイ(^^)

20204月10日の三重県津市散策の続き。

 

 

津偕楽公園」の続き。

 

 

三重県護国神社・津偕楽公園(その1)D51蒸気機関車のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12603745374.html

 

 

 

園内を進むと、桜の花がたくさん咲いていました。

 

 

 

拙堂齋藤先生碑」という石碑。斎藤拙堂の顕彰碑のようです。

 

 

 

拙堂斎藤先生頌徳碑」の由緒書き。江戸後期の津藩が生んだ偉大な学者文人・齋藤拙堂を称えるため、没後50年に当たる大正5年(1916)に地元の有志によって建てられたもので、題字は伯爵藤堂高紹(藤堂宗家第13代)の揮毫、碑文は門人三島中洲(二松学舎大学の創設者)の撰によります。

 

 

齋藤拙堂は、寛政9年(1797)江戸の津藩邸で生まれ、幕府の学問所(昌平黌)教授古賀精里について学び、文政3年(1820)津藩校「有造館」の創設に伴い、24歳の時に教官に採用され、津に移りました。

29歳の時は、幼い11代藩主藤堂高猷の侍読(教育主任)を兼務。

その後は、藩校教育、藩主の学問指導と政治顧問の仕事に従事し、藩校督学(学長)として、津藩の文教を「天下の文藩」と言われるまでに向上させました。

拙堂は「拙堂文話」、紀行文「月瀬記勝」などの著作があり、天保大飢饉や外国船の日本近海出没という事態に遭遇して、内外情勢の研究を進め、有効な政策提言や有益な啓蒙活動を行いました。

59歳の時、幕府は拙堂の高い学識を評価し、儒官(昌平黌教授)に抜擢しようと13代将軍徳川家定公に謁見させましたが、津藩への恩義から就任を辞退。

63歳で藩校督学を退任し、津城北郊の茶磨山荘で自適の生活を送り、慶応元年(1865)69歳で没し、四天王寺に葬られました。

 

 

 

津偕楽公園」には、遊具もありますよ。

 

 

 

津偕楽公園」の由緒書き。この付近は、もと「下部田山」「御殿山」と呼ばれ、藩主の鷹狩り場の休憩所の御殿が建てられていたと言われ、承応年間(1652~1655)には藩士に労をねぎらうために、遊息の地として分け与えられたという記録があります。

 

 

11代藩主藤堂高猷公は、この地を家臣から買い上げて、安政6年(1859)山荘造成を行いまいた。

「御山荘」と呼ばれましたが、「偕楽園」の名は、園内の亭舎に「偕楽園」の扁額が掲げられていた為で、「人々が偕に楽しむ」という意味から来ています。

明治4年(1871)の廃藩置県後、国有地となり一時荒廃しましたが、整備して明治10年(1877)「三重県公園」として開設。

翌年園内にて「三重県内物産博覧会」が開催され、明治20年(1887)倶楽部が建設されました。

明治40年(1907)第9回関西府県連合共進会が開催され、60日間に78万人の見物客で賑わいました。

 

 

また、この由緒書きには、園内の石碑の説明も書かれていましたよ。

 

 

 

春先でしたので、お花がたくさん咲いていて…

 

 

 

古そうな石灯籠もあって…。

 

 

 

この石燈籠は「部田の常夜燈」。もともと塔世橋の南詰のあり「部田(へた)の常夜燈」と呼ばれていたもので、後に「四天王寺」の薬師堂前に移され、その後、「津偕楽公園」に移され、現在に至っています。

 

 

元治元年(1864)の「五十世作楽」には、津の城下町の北の入口に当たる門の傍に、この常夜燈が描かれています。

石柵に囲まれた中、石垣の上に春日型の常夜燈が建っていて、高さ3.5m、竿には奉献、天保元年(1830)の銘があります。

 

 

 

部田の常夜燈」の周りには、紫色のツツジのような花が咲き乱れていて、とってもキレイでした♪

 

 

 

園内には、池もあって…。

 

 

 

田上一雄君追懐碑」。先程の由緒書きには、日露戦争に従軍して死没した方の追懐碑とあります。

 

 

 

園内には、屋台が建ち並んでいましたが、どこも営業しておらず…

 

 

 

更に奥に進むと、大きなモニュメント、塔のようなものが見えて来ます。

 

 

 

その塔に近づいて…。

 

 

 

こちらは、「殉職警察官消防員招魂碑」。先程の由緒書きには、昭和10年(1935)警察協会三重県支部と三重県消防協会により建てられたもので、それまでの殉職警察官25柱、同消防職員6柱の招魂碑とのことです。

 

 

 

立派な招魂碑ですね。

 

 

 

こちらは「加藤嘉吉君碑」のようです。日清戦争に従軍した方の記念碑。

 

 

 

池に近づくと、朱の欄干の橋がありました。

 

 

 

橋を渡って…。

 

 

 

反対側は、桜の花びらが水面にたくさん浮かんでいて、キレイだったな~♪

 

 

 

こちらは、「孝女登勢碑」。登勢(とせ)は、天明8年(1788)員弁郡阿下喜村の農家に生まれ、奄芸郡山田井村で養女となり、更に6歳の時、安濃郡連部村の養女となりました。養父母の養うために、昼は奉公に出て、夜は養父母に孝養を尽くしました。津藩主10代藤堂高兌(たかさわ)公はその孝養を聞き、米20俵を与え賞し、田1反(約992㎡) 余りも授けました。

 

 

 

この石碑は「松本宗一碑」。伊勢新聞社の創始者の碑で、三重県内最初の日刊新聞となった第1号は「松本家志」によると、明治11年(1878)に発刊され、13部の手書きでした。

また祖父の松本安親は松本崎の開拓者として知られています。

 

 

 

稲荷大明神」の幟を発見。

 

 

 

幟の方に行ってみると、朱の社があって…。

 

 

 

その社に近づきます。扁額には「正一位稲荷大神」とあって…。

 

 

 

社の中の様子。

 

 

 

津偕楽公園」の外れには、サクラの大木があって、満開の花を咲かせていました。

 

 

 

津偕楽公園」を見学した後は、「四天王寺」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

 

津偕楽公園

三重県津市広明町

 

 

 

 

あらかわ家(5人姉妹弟の音楽ユニット)

オンラインライブやります!2020/8/1 14時スタート!

詳しくは、こちら↓

https://www.arakawaya.info/

 

 

 

にほんブログ村 福岡(市)・博多情報

https://localkyushu.blogmura.com/fukuoka_town/ranking.html?p_cid=10197823

↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!

 

 

人気ブログランキング

https://blog.with2.net/in.php?819555

↑ランキング参加中!クリックして戴けますと、嬉しいです!

 

 

Trip-Partner [トリップパートナー]

https://trip-partner.jp/

 

 

ぷらたび

https://platabi.com