2018年12月上旬の墨田区立花散策の続き。
「北向地蔵尊」をお参りし、「平井橋」を渡り、「平井の渡し跡」を見学した後は、「行徳道」を進んで、「妙光寺」に向かいました。
北向地蔵尊・平井橋・平井の渡し跡・行徳道のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12590834014.html
「平井の渡し跡」から行徳道を進むと、突き当たりにお寺があります。
こちらは「妙光寺」。
門前には、題目塔があって…。
山門の扁額には「妙光寺」とあります。
「妙光寺」の由緒書き。安立山と号し、慶長3年(1598)に安立院日饒上人が創建したと伝えられる日蓮宗の寺です。元禄年間(1688~1704)に津波で堂宇を流失しましたが、日信上人が中興し、大正2年(1903)に日台上人が再興しました。
現在の本堂は、水害防止のため床を高くしてあり、昭和41年(1966)30世日喜上人が改修したものです。
木像日蓮聖人坐像(江戸川区指定有形文化財)
像高40.4cm、寄木造。京五条大仏師田村式部卿作の祖師像で、体部前面に円形の掘り込みがあり、中に小さな経巻を納めてあり、胎内の銘文から、承応3年(1654)の製作と分かります。
田口初右衛門筆子塚(江戸川区登録有形文化財)
読み書きを指導した寺子屋の生徒を筆子といい、成長した筆子が師匠の菩提を弔うために建てた供養塔や墓誌を「筆子塚」と呼びます。
妙光寺の田口家墓所には「門弟中」と台石に刻まれた墓石があり、初代初右衛門の教えを受けた筆子たちが携わったと考えられています。
初代初右衛門は、文化9年(1812)寺子屋を開き、江戸川区内では最も早いもののひとつで、同じ墓石には2代目初右衛門の戒名も刻まれています。
2代目は安政4年(1857)に先代から寺子屋を引き継ぎました。
山門をくぐり、本堂を…。確かに高くなっていますね、床が…。この辺りは、海抜0m地帯ですから、水害が多かった町でもありますよね…
「妙光寺」から行徳道を道なりに進むと、祠と由緒書きが見えて来ます。
こちらは「下平井の観世音菩薩浅草道石造道標」。
道標は、明治以降の地図と比較して制度の低いとされる絵地図類を補うものであり、江戸時代の当地域をめぐる交通史上極めて有用な歴史資料です。
この道標は、行徳道と呼ばれた旧道上にあり、行徳道は、旧中川平井の渡しから東小松川村、西一之江村、東一之江村を経て、今井の渡しに達する道筋でした。
元の位置は、ここから東の突き当たりにあり、浅草方面から来た人が平井の渡しを越えてまず目にした道標でした。
「享保十九年甲寅」の観世音菩薩像の右脇に「あさくさ道」、左脇に「是より佐り、ぎやうとく道」とあり、平成17年に現在地に移設しました。
道標となった観世音菩薩をじっくりと…。注連縄もあり、文字も風化していて、読みにくかったですが、享保19年というと西暦1734年。結構古いですね。
ちなみに、上記「是より佐り」は、「これよりひだり」と読みます。
路地を進むと、突き当たりに出ます。この「下平井の観世音菩薩浅草道石造道標」は、かつて、この辺りにあったようです。
その突き当たりの左角には、鳥居があります。
突き当たりを左折すると、また鳥居が見えて来て…
こちらは「諏訪神社」。祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)で、享保年間(1717~1735)「燈明寺」の恵祐法印が、出身地である信州の諏訪大社から神霊を勧請したのがはじまりと伝えられます。
境内中央の社殿は、昭和42年に明治百年を記念して建てられ(44年完成)、その旧本殿が境内北隅に移築されています。
諏訪神社旧本殿(江戸川区登録有形文化財)
天保14年(1843)の再建で、外壁彫刻が江戸後期の神社建築の過飾的な特色をよく伝えています。
「平井の富士塚 附 板絵着色富士講奉納図額(一面)」(江戸川区登録有形民俗文化財)
大正9年頃、旧下平井村の丸富講の人々によって造られました。
境内の絵馬堂には、丸富講が大正2年に奉納した図額もあります。
平井にも、富士塚があったのか~全然知らなかった…(^^;
「平井諏訪神社」の由緒書き。合祀祭神は、春日明神。当社創建以前より下平井村の氏神であった旧平井3丁目鎮座の四所神社(春日明神)を昭和8年に本殿に合祀し、旧本殿は、末社稲荷神社(白崎稲荷、伝十郎稲荷)として奉斎されています。
鳥居をくぐり、境内に入ると、「鈴木和吉翁頌徳碑」があって…。
社殿。
社殿手前には、狛犬。
拝殿に近づいて…
神楽殿。
拝殿に向かって左手には、大きな銀杏の木があります。
その銀杏の足元には、鳥居があって…。この鳥居は、大正13年の銘がありました。
鳥居の脇には、由緒書き「平井の富士塚」があります。
富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが富士山の容姿を形どって築き上げた小高い塚のことで、富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。
「平井の富士塚」は、大正9年(1920)頃、旧下平井村の丸星講(丸富講の誤り?)の人たちによって造られました。
登山道が2つに分かれ、1本は頂上に、もう1本は中腹の小御嶽神社に通じています。
頂上の石祠には、大正9年の造立銘があり、小御嶽神社の前には、丸富の講紋と「小御嶽神社」と刻まれた石碑があります。
塚の高さは約1.5mです。
鳥居をくぐり、富士塚に近づいて…
正面の一番高い所には、浅間神社の石祠があって…。こちらが、山頂になるんですね!大した高さではありませんが…(^^;
富士塚の左手には、大己貴命、少彦名命と刻まれた石碑があります。
その奥には、石祠と石碑が並んでいて…。こちらが、先程の由緒書きにあった2つに分かれた道のもう1つの方だと思われます。左の石祠には「水神社」、右の石祠には「八幡神社」と書かれていました。
に続く。
妙光寺
東京都江戸川区平井6-12-9
下平井の観世音菩薩浅草道石造道標
東京都江戸川区平井6-12-36
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e_bunkazai/bunkazai/toroku/046.html(江戸川区教育委員会HP)
平井諏訪神社
東京都江戸川区平井6-12-36
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