2019年5月4日に、大分県杵築市歴史散策の続き。
「杵築城」の続き。
杵築城(その1)のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12506896836.html
「城山公園石造物群」を抜けると、本丸に到着。やっと御城らしくなって来た(笑)
「杵築城復興記念碑」があって…。
石垣の上には「社日塔」がありました。天保3年のもの。本丸にも石造群の一つが…。
天守閣が見えて来ました♪
「杵築城址・杵築城御殿跡」の絵図。
その下には、城内展示品案内がありました。杵築藩主松平侯使用の具足・陣羽織や石田三成の兄石田正澄の兜などが展示されているんですね。楽しみ♪
天守閣の前には、一段高くなっている場所があるんですよね。
登って見ると…。おお~杵築湾がよく見える♪物見台になっているのか~
その物見台から、杵築城天守閣を…。
天守閣入口脇には「木付城趾」と刻まれた大きな石碑があります。大正13年建立。「杵築」ではなくて「木付」なんですね…(^^;
入館料300円を支払って中に入ると、「雪笹紋鬼瓦」が展示してあって…。守江のお茶屋のもので、参勤交代の際に城鼻が乗船し、大阪(安治川口)まで海路としましたが、潮待ち風待ちの為、守江のお茶屋に滞在したと、あります。
杵築藩の領地を記した絵図に…。
昔の「杵築城」の絵図や壺も展示されていて…。
藩主より拝領した盃。どれも立派ですね!
木付領主木付氏の遺品。江戸時代より前に領主だった木付氏のものになるんですね。
館内を進むと、おお~甲冑がありますね~♪
それも、いくつもあって、壮観だな~♪
こちらは、立派な兜ですが…
兜の横に由緒書きがありました。「石田三成の兄 石田正澄着用の兜」何故、杵築に…?
文禄2年(1593)豊臣秀吉によって太閤検地が実施され、鳥取城主宮部善祥坊継潤は「杵築城」に居住して、豊後北部四郡(国東・速見・玖珠・日田)の検地奉行となりました。
宮部継潤の子宮部豊景は関ヶ原の合戦の後、徳川家康軍に属し2,400余の兵を率い、石田三成の居城佐和山城を攻めました。佐和山城の本丸に父の石田正継が、三の丸には兄の石田大工頭正澄が守備していましたが、宮部軍の猛攻により落城、宮部豊景は石田正澄を討ち取り、後に、彼が愛用した兜は徳川家康より宮部豊景に下賜されました。
その後、宮部家は能見松平家に仕え、大工頭正澄の兜も先祖伝来のものとして、宮部家に受け継がれて来ました。
そういう訳~面白い(^^)
こちらの甲冑もまた立派ですが…
「浅井長政の次男 万菊丸着用の具足」織田信長に攻め滅ぼされた近江小谷城主浅井長政の次男万菊丸は、細川公の家臣となり、名を浅井直政に改め、子孫は杵築藩主松平英親公に仕えました。
石田三成や浅井長政ゆかりのものが、ここ杵築になるなんて…興味深いものがありますね。
こちらは「松平侯甲冑」永正年間(1504~1520)のもの。兜銘は相州住、明珍信家。
陣羽織。杵築藩主松平侯のものですから、立派ですね~♪
その下には、鎧のようなものがあって…。
この鎧は「南蛮胴具足」。天文年間に西洋甲冑が輸入されてから、目新しさと鉄砲に対応する堅牢さが武将たちに大いに受け入れられ、輸入した胴などに和製のものを加えてセットしたものを南蛮胴具足と呼びました。
由来はハッキリしませんが、三階菱の家紋が見られることから、小笠原家から松平家に入り6代目となった松平重直が使用したものかも知れません。
試し打ちの痕が残っているなど珍しいもので、この鎧は南蛮胴を模して作られたものです。
こちらの具足も、杵築藩主松平侯のもの。
藩主着用の兜も…。
藩主着用の陣笠。一番左は祐筆浅井政憲のものだそうです。
鏃(左)に、鳴鏑(かりかぶら)(右)。鳴鏑は矢に取り付けて、射ると音が鳴る装置になります。
松平藩遺品の兜。いくつもありますね~
「杵築城その2」に続く。
杵築城
大分県杵築市杵築16-1
https://www.kit-suki.com/tourism/index.php?action=story&sub_cat_id=1#229(杵築市観光協会HP)
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