2017年2月2日の大村歴史散策の続き。
「稲荷神社」を参拝した後もまた、お城の方に向かいました。
稲荷神社のレポ。
最初は「尾の上小路」と呼ばれ、後に「上小路」と呼ばれました。「針尾九左衛門屋敷」から「往還路(長崎街道)」までの長い通りで、「五小路」の中で、最も長い通りになるそうです。
「上小路」はここから延びています。こちらは…後程、散策してみましょう。
この「上小路」の南側の突き当たりには、「針尾九左衛門屋敷跡(針尾家家老屋敷跡)」があるそうなんですが、由緒書きがなくて、良く分からず…。こちらの古そうな建物がそのようなんですが…。
更に進むと、大通りに突き当たりますので、そこを右折。その交差点は広場のようなスペースがあり、大村の観光マップがあるんですが、その横には「石井筆子の像」があります。
「石井筆子」の由緒書き。近代女性教育と知的障害児の教育・福祉の先駆者になるのですね!
文久元年(1861)城下の岩船で大村藩士 渡辺清と妻ゲンとの間に生まれました。
最初の夫 小鹿島果(おがしまはたす)との子どもが知的障害児だったことから、その福氏と教育に関わるようになり、小鹿島果との死別から11年後、日本初の知的障害児施設「滝乃川学園」の創設者 石井亮一と再婚してからは人脈を活かして学園の運営に尽力した…。
「石井筆子の像」のすぐ隣には、古そうな木戸があります。
由緒書き「五教館御成門(ごこうかんおなりもん)」。「五教館」は大村藩が設立した藩校で、その起源は4代藩主 大村純長公が寛文10年(1670)に設立した藩校「集義館」まで遡り、その特徴は、武士の子弟だけではなく、広く一般にも聴講を許した点にあります。
その後、入学者が増加し、従来の施設では対応できなくなり、天保2年(1831)現在の大村小学校の地に移転。
この御成門は通称「黒門」と呼ばれ、藩主が来校した時の専用門として使用されていました。
現在では、大村小学校の入学式と卒業式の時だけ開かれ、子ども達がくぐることになっているのですね。
「五教館御成門」を別角度から…。
「五教館御成門」から更にお城の方に進むと、「史跡 本小路武家屋敷跡」という由緒書きがありました。大手入口(大村神社一の鳥居)を起点として、正面400m余りの通りで、小路を割り出した「本」であることから「本小路」という名になったのですね。
「本小路」を進みます。正面が御城になります。
「史跡本小路」と刻まれた石碑もあって…。
石碑の側面には、由緒書きがありました。
この石碑は、大村小学校の門の脇になります。
「上小路」「針尾家家老屋敷跡」「石井筆子の像」「五教館御成門」「本小路武家屋敷跡」を見学した後もまた、「大村城跡」に向かいました。
「上小路」由緒書き
長崎県大村市玖島1-78-2付近
針尾家家老屋敷跡
長崎県大村市玖島1-57-1
石井筆子の像
長崎県大村市玖島1-126-4付近
五教館御成門
長崎県大村市玖島1-126-4付近
本小路武家屋敷跡
長崎県大村市玖島1-51-1付近
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