昨日、甲子園が開幕しました。そこで、始球式が行われました。 

 今年も、どこかの市長さんか、高野連関係の偉い方が投げるのかなあ、と思ってみていたところ 、野球のユニホームを着た高校生がマウンドに登りました。

 この高校生は、京都の高校に通う野球部員で、この夏の甲子園には出場していませんが、以前に川で溺れているおばあさんを助けたことが理由で、今回始球式を任されることになったそうです。

 

 世の中には、人にために役立つようなすばらしい人がたくさんいるけれど、その役立ち方は一様ではありません。

 社会の多くの人に影響を与えるようなことができる人もいれば、自分の周りにいるほんの少しの人のためだけに役立つ人もいます。

 でも、必要性に対して真摯に行動したならば、それはどちらがすばらしいというものではなくて、棲み分けの違いに過ぎないように思えます。

 高野連関係の偉い方は、私たちに高校野球を見せてくれているのだからすばらしいし、今回始球式をした高校生も人の命をひとつ救ったのだからすばらしいです。

 

 世の中には、こうした人たちが両方必要です。

 今年の始球式からは、このようなメッセージが、私には感じ取れました。

 

 先日、ある資格予備校が主催する行政書士試験の模擬試験を受けてきました。

 この試験は、法律系科目の問題(46問)と一般教養問題(14問)とで構成されていて、全体で6割以上正解すれば、合格すると言われている試験です。でも、法律問題と一般教養問題で、それぞれ5割以上正解しないと、たとえ全体で6割以上正解しても、不合格になってしまいます。つまり、足切りがあるんです。

 

 私は、法律系の資格だということで、短い間でしたけれど、法律については少しずつ勉強をしていたので、なんとか今回は大丈夫だったんですが、一般教養のほうは見事に足を切られてしまいました。

 

 やっぱり、世間に目を向けられなかった時期があまりにも長かったことが原因だと思います。


 止まってしまっていた私の時間を取り戻すためにも、もっとしっかり勉強をしようと思いました。

 

 落ち込みきって、疲れきってしまった心に対して、劇的に効果のあるものは、この世にないのではないかと思います。というのは、そのような心には、例えて言うなら、既に膜のようなものが張ってしまっていて、目の前に在るものごとを、その在る通りには、なかなかうまく感じることができないからです。
 私の場合、四年間程は良いと言われる映画を見ても、本を読んでも、音楽を聞いても、少しも心が安らかになったり、軽やかになったりすることはありませんでした。
 むしろ、これらをした直後は、刺激が強すぎたのか、無理をし過ぎたのかはわからないけれど、よりひどい状態になってしまいました。

 でも、そのような繰り返しの中で、知らず知らずのうちに、私の心の膜は、少しずつではあっても、薄くなってきていたようでした。
 今では、まだ心がうまく働かないこともあるけれど、多くの場合、外部のものごとに対して好意的に集中することができるようになりました。

 自暴自棄になり諦めそうになったこともあったけれど、自分の心にとって良いと思うことを、自分の心で判断して、少しずつでも繰り返しやり続けたから、今、私はこうしていられるのかなと思いました。

 先日、夜、テレビでスタジオジブリのアニメ映画「ハウルの動く城」がやっていました。

 

 ハウルという心の不安定な青年の魔法使いと、魔女から魔法をかけられたために老婆となってしまったソフィーという普通の若い娘さんが、共に力をあわせて困難に立ち向かっていくことで、それぞれのもつ心の問題を少しずつ解消していく物語です。

 

その中で、こんなエピソードがあります。


 ソフィーがハウルの城に入ったとき、中は掃除などが全くなされておらず荒れ放題でした。

 だから、ハウルのことが好きなソフィーは、老婆心と若い娘としての愛情などから、城の中を徹底的に掃除します。

 その結果、ハウルのバスルームの用具の配置がソフィーによって勝手に変えられてしまいます。、

 そしてそのために、元々そこにかけられていた魔法の内容が変わってしまい、シャンプーをしたハウルの髪の毛が、これまでとは全く違う赤茶けた色に変色してしまいます。

これに驚いたハウルは、半べそをかき悲鳴を上げながら、バスルームから飛び出してきて、ソフィーのことを目いっぱい責め立てます。そして今度はひどく沈み込んだかと思うと少しも動かなくなり、あげく、体から緑色のゼリー状の物質を大量に放出します。

 

 一見するだけでも、ハウルという青年の極端な性格が存分に出ていて、おもしろいシーンだし、目立つシーンです。

 髪の毛の色が、変わったくらいで何もそんなに怒ったり落ち込んだりしなくても、そりゃ、年頃だし多少は腹が立つかもしれないけれど、また染め直せばいいのだから、と普通は思うから、おもしろいのかなあとおもいます。


 でも、もしこの時、ハウルが本当は、正確には髪の毛の色が変わってしまったことに対して怒っていたわけではないとしたら、どうでしょうか。

 

 ハウルには、解決しなければならないもっと別の大きな心の問題があり、それがこの作品を貫く一つのテーマでもありました。

 でも、それに対して、恐怖から、正面きってなかなか立ち向かえない心もまたハウルにはありました。

 ハウルが本当に怒りたかったかったものは、きっとこの辺りに潜んでいたはずです。


 ハウルは、アニメの主人公であり、彼の心と行動は私たちに公開され続けているから、私たちは彼の心を一つの流れの中で追うことが出来ます。

 だから注意深く見れば、髪の毛のことでひどく怒ったことは、彼が普段、外に出すことが出来ない大きな怒りがこういう形で噴き出してしまったのかもしれないと気づくことができます。


 でも、現実の生活の中では、相手がなぜそれに怒っているのか、本当は何に対して悲しんでいるのか、判断するのはものすごく難しいです。相手の心を一つの流れの中で追うことが通常不可能だからです。

 物語の中にいるソフィーも、ハウルがなぜそんなに怒るかについては、理解ができずとまどっていました。


 誰の心も追い続けることが出来ない。誰にも心を追い続けてもらえない。

 だからこそ、私たちは、時に心がさびしい思いをするのではないのかな、と思いました。

 

 私の好きな小説の中に、少し古い作品ですが、夏目漱石の「こころ」があります。


 高校の教科書などに載っているので、誰もが一度は触れたことがあるものかもしれませんが、

学生時代などを経て、社会に出た後、改めて手にとって読むという機会は少ないかと思われます。


 すべての小説には、登場人物が必ずいます。

その各々に感情があり意思があるため、ぶつかりあったり、とけあったりします。そのような、プロセスが物語を深め、おもしろくさせているんだと思います。

 だから、突き詰めれば、すべての小説が人の心をテーマにしていることになります。


 逆に言えば、小説というからには、人の心をテーマにしているのはむしろ当たり前なのかもしれません。


 では、それにもかかわらず、漱石があえてこの作品に「こころ」というタイトルをつけたのは、なぜなのでしょうか。

 私は、国文学を専攻していたわけではないので、本当のことはわかりません。

 でも、一読者として、感じたのは、漱石は自分の思い通りになかなか行かない自分の心との格闘とその苦しみを、この作品を通じて見せてくれているのかなと思いました。

 

 漱石自身も、ひどい神経衰弱に悩まされて、胃の状態がかなり悪かったようです。


 私は、心が苦しかったとき、この本を読みました。

 何もしたくない状態だったので、少しずつ少しずつ読みました。一日一ページどころか、一日4行くらいの日もありました。

 そして、この本を読み切った後も、少しも元気になりませんでした。


 ただ、読まないよりは、読んでよかったなあとは思いました。


 やらないよりは、やってよかったなあ、という経験。

この積み重ねが、自分の心を立て直し始めくれたのかなあと、最近少し思います。

 


 「そんなことをいつまでも気にしていても、仕方がないから、早く忘れた方がいいよ」
 「君よりつらい思いをしている人は、他にもいるよ」
 
 心が深く傷付いているときに、それでも勇気を出して相談をしたら、逆に追い撃ちをかけるように、このような言葉にさらに傷付けられてしまうということがあります。
 言われなくても、早く忘れた方がいいのは、わかっている。
 世の中には、自分よりつらい思いをしている人がたくさんいることもわかっている。

 欲しかったものは、そのような事実の指摘ではありませんでした。
 早く忘れられないから苦しんでいるのだし、
 他の人がつらいことで私のつらさが和らぐわけではない。
 
 欲しかったものは、堪え難い現実を受け止め切れず拒絶している私の心、
 ーこの宙ぶらりんで不安定な心ーの着地点がどこにあるかを一緒に探してくれるということでした。

 本当に一緒に探してもらえたら幸せです。でも、もちろん他人に多くを望み過ぎるのもよくありません。
 ただし、もしあなたの大切な人が苦しんでいて、あなたに時間と精神的余裕があるならば、あなたがそれをしてあげるのは、よいかもしれません。でも、そのときも、自分の心をまず大切にして下さい。
あなたの大切な人にとってもきっと、あなたの心が大切なはずです。