~“不条理“現世への向き合い方~

 

「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪い。」

 

「天災の最中で教えられること、

すなわち、人間のなかには軽蔑すべきものよりも、

賛美すべきものの方が多くある。」


(A・カミュ『ペスト』より)

~参考~
【 ヨブ物語 】(旧約聖書の中の教訓書)

 

 

 

 

 

参考

第二次大戦の只中、

「異邦人」「シーシュポスの神話」等の作品で

「不条理」の哲学を打ち出し

戦後の思想界に巨大な影響を与え続けた

作家アルベール・カミュ (1913- 1960)。

彼が自らのレジスタンス活動で培った思想を通して、

戦争や全体主義、大災害といった

極限状況に、

人間はどう向き合い、どう生きていくべきか

を問うた代表作が「ペスト」である。

 

番組では、カミュが描き出そうした、

人間にとって不可避な「不条理」に光を当て、

「ペスト」という作品を通して、

人間は「不条理」とどう向き合い、

生きていけばよいのか

を読み解いていく。

第一回は、
やがて多くの人々や行政をも突き動かしていく医師リウーや
その友人タルーたちの姿を通して、
極限状況下における人間の尊厳とは何か
を考えていく。

第二回は、

人々を絶望な状況に立ち向かわせる「希望の源」は何なのか

に迫っていく。

第三回は、
それぞれの闘いを通して、
人は「神」という存在なしに
倫理を貫き人間の尊厳を守り続けることができるのか
…というカミュの根源的な問いについて考える。

第四回は、

思想家の内田樹さんを交えて、彼の思想の根幹にある

キーワード「反抗」の深い意味を明らかにし、

人間は、私たちを打ちのめし続ける「不条理」と

どう向き合えばよいのか

を探っていく。

 

~参考~
〔個々の思想的ポリシーが完全欠落した『日和見主義』的日本民族に内在した悪魔の本質〕

~大衆迎合(ポピュリズム)社会の恐ろしさ~

  個々の思想的ポリシーが完全欠落した

    『日和見主義』的日本民族に内在した悪魔の本質

 

  (陽)調和&全体主義(陰)迫害&差別&いじめ

 ⇒(多数派に対峙して)少数派にとって不条理社会の温床

       「絶対的正義」「相対的正義」

⇒(科学的、択一的思考[=絶対的]と対峙して)

世相的「価値観」[=相対的]というのは、

極めて移ろいやすい性質のもので、

「絶対的正義」を前提とした価値観

など存在しようもないことは明らか。

それにもかかわらず、

「絶対的正義」を前提にした価値観を

一方的に押し付ける行為は、

「迫害主義」を前提にした暴力行為に他ならない。

とりわけ、圧倒的多数派を前提とした少数派弾圧の

「大衆迎合(ポピュリズム)社会」(全体主義社会)も

悪魔思考の側面も兼ね備えていると言える。

これらの最大の要因は

個々の思想的ポリシーが

ほとんど確立されていない(ほぼ完全に欠落している)

ことに起因することは言うまでもない。

更に、究極的には「法治国家」における特に裁判官にしても、

特に時の権力or大衆迎合の「全体主義的」法の運用によっては、

悪魔に加担している側面も否定できないのである。

 

 

【異邦人(1968/伊仏)】

(アルベール・カミュ原作/ルキノ・ヴィスコンティ監督)

https://www.youtube.com/watch?v=Jc3oQ20ZoOA&t=34s

 

アルベール・カミュ(1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、

フランスの小説家、劇作家、哲学者。フランス領アルジェリア出身。

第二次世界大戦中に刊行された小説『異邦人』、

エッセイ『シーシュポスの神話』などで注目され、

戦後はレジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍した。

また『カリギュラ』『誤解』などを上演し、劇作家としても活動した。

戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなったが、

エッセイ『反抗的人間』において左翼全体主義を批判し、

反響を呼んだ。

小説『転落』発表の翌年、1957年、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した。
1960年、交通事故により急死し、

未完に残された小説『最初の人間』が1994年に刊行された。
カミュの著作は

「不条理」という概念によって特徴付けられている。

カミュの言う不条理とは、

明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる

不合理性のことであり、

そのような不条理な運命を

目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。

そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が

人々の間で連帯を生むとされる。
カミュの文学的営為は、

病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、

人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。

それに対して、

彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、

超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探しもとめた。

彼は「父」としての「神」も、その代理人としての「歴史」も拒否した。
カミュは何よりも時代の妥協しない証言者であった。

彼は絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義、マルクス主義と対立した。

ソビエト全体主義に対する批判は、

彼をコミュニストたちと対立させ、サルトルと絶交するに至った。

彼の著作のヒューマニズムは、

歴史の最悪の時期における経験のなかで鍛えられたものであり、

この意味で、彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物のひとりである。

 

~思想~
カミュはその思想的な近さから

実存主義者に数えられることがしばしばあるが、

カミュ自身は実存主義との関係をはっきり否定していた。

「不条理(absurde)」という感情は

カミュによれば、

単にあるものの感覚や印象の検討から生じるものではなく、

馬鹿げた計画と明白な現実との比較、

理に合わない結果と当然予想される結果との比較

というように、

「事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、

ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくる」

ものであり、

したがって

それは人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく

「両者の共存のなかにあるもの」

「両者を結ぶ唯一のきずな」である。

そしてカミュは

自殺を不条理な運命を見つめない態度として退け、

逆に

不条理を明晰な意識のもとで見つめ続ける態度を

「反抗」と言い表し、

それが生を価値あるものにするものだとして称揚している。
『反抗的人間』でカミュはこの「反抗」に対する考察をさらに深めていく。

「反抗」とは、

例えば長く虐げられてきた奴隷が突然主人に対して「否(ノン)」を突きつける態度である。

このときこの「否」には、

「これ以上は許すことができない」という境界線の存在が含意されている。

つまり境界線の外側のものを「否」として退け、

内にあるものを「諾(ウイ)」として守ろうとすることであり、

言い換えれば自分の中にある価値に対する意識である。

そして不条理の体験が個人的な苦悩に終わるのに対して、

他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる反抗は超個人的なものであり、

そこから連帯が生まれる。

また『反抗的人間』ではかなりのページを割いて

革命を中心とした歴史の記述に当てられており、

そこでは

「無垢への郷愁」であるところの反抗から起こったあらゆる革命が

必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく

様子が考察される。

しかし革命に必要な政治的暴力を批判するカミュのこのような態度は、

上述のように(コミュニストでもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった

(カミュ=サルトル論争)。

論争の直接のきっかけはフランシス・ジャンソンが

サルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に

『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、

これに対してカミュがサルトル宛に反論、

さらにジャンソンとサルトルが反論するという形で起こったが、

ここでサルトルはカミュの思想を曖昧な態度と見なし、

彼がモラリスムに陥り

「美徳の暴力をふるっている」として徹底的に批判している。

この論争では

カミュの文章が文学的な曖昧さを持つこともあり、

論理の明晰さにおいて

サルトルのほうが優勢なのは明らかだが、

カミュの思想もまた

革命や党派性の限界を示すものとしてその意義を失っていない

ばかりか、

左翼革命の幻想が潰えた今日ますます価値を高めている。

 

~参考~

〔「自分で考えることを放棄した人間は もはや人間ではない」 (ハンナ・アーレント)〕

 

 

 

 

<(いじめ&差別問題含む)

 全体主義(集団主義)下における
      人間(集団)悪の根源>
 
「思考したところで、
行動する力を与えられるわけでもない。」
(マルティン・ハイデッガー)
しかし、
「自分独自の思考を止めた時点で、
人は人でなくなる。」
(ハンナ・アーレント)
(⇒「全体主義」の歴史の渦に
    心身ともに容易に巻きこまれる。
但し、「全体主義」が常に悪側とは限らない。
特に、「理性」が著しく退化し、
「感情」に支配されたものは、
野生動物の「動物的本能」と同趣旨で、
もはや人ではなく、野獣そのものである。
[⇒「民主主義」(多数決原理)の理念(実質)
と乖離する集団論理の恐ろしさ])
 
価値「相対(多元化)主義」/「開放的」
   (異種「受容型」)
*少数派との摩擦&軋轢リスク:×
*多数派との摩擦&軋轢リスク:〇
⇒本物の「調和&友好&共存」ベクトル
⇒各自の「自由意思」に基づく
    
          価値「絶対(一元化)主義」/「閉鎖的」
              (異種「排他型」)
           *少数派との摩擦&軋轢リスク:〇
           *多数派との摩擦&軋轢リスク:×
          ⇒偽物の「調和&友好&共存」ベクトル
         ⇒各自の「自由意思」に基づかない
          (「意思」を暗黙的に強制される
           事実上の多数派支配の
            社会的&慣習的圧力下にある)
  
   
逆に言えば、
「自分独自の思考」を停止する方が
多数派を占めた時点で
「新たな全体主義」の萌芽が
生まれてしまうのである。
(⇒特に、没個性的な特別公務関係者[特に軍隊]に
全体主義の萌芽が生じやすい所以。)
 
参考
 
自分でものを考えることを放棄した人間は
もはや人間ではない
 
「"復讐"の果てにあるものは、
双方が滅亡するまでの
"報復の連鎖"以外のなにものでもない。」
⇒そこには、最低限(相手を)「赦す」という
人道的&倫理的&宗教的内心的規範の存在
も大きい。
「赦す」という行為は、終局的には、
神(「天地の摂理」)が人類に与えた
「共倒れによる滅亡を防ぐための
最後の歯止め」でもあるわけで。
神(「天地の摂理」)は、何時どこでも、
個々人の人間性を試されている。
復讐(動機)そのものを生じさせた
「偶発的・悲劇的事象」が、
神(「天地の摂理」)が与えた"試練"と
捉えるならば、復讐そのものも、終局的には、
神(「天地の摂理」)による超法規的・制裁に
全面的に委ね、
自然の成り行きを鳥瞰的に静観する姿勢も
極めて重要である。