~影に生きる~
宗教的迫害と原爆の歴史的荒波を乗り越え
キリスト教でもない、仏教でもない、
長年の苦難と歪んだ因襲の中で、
新たな独立宗教として進化した見方も。
典型的なのが
(キリスト教弾圧に対するカモフラージュ的側面を
はるかに超越した)
「マリア観音像」
(聖母マリア[キリスト教]と観世音菩薩[仏教]の完全融合形態)


マリア観音とは、
おもに江戸時代の禁教令によって弾圧を受けた
キリシタン(キリスト教徒)達によって
信仰の対象とされた聖母マリアに擬せられた観音菩薩像。
その多くは中国製の青磁、あるいは白磁の慈母観音像であった。
慈母観音とは中国発祥の観音菩薩像で、
稚児を抱き慈愛に満ちた造形表現となっており、
肥前(長崎県)の浦上(現・長崎市浦上)や
外海、五島などの潜伏キリシタンは、
これに聖母マリアを投影してその像とした。
その形状は
地域によってさまざまであり、
中には菩薩像の胸に十字架を彫刻したり、
国内で窯焼きされたものもあったと考えられている。
これらの像は、
キリシタンとして信仰の灯を絶やさぬよう
神(デウス)や聖母マリアへ祈りを捧げるのに使われたという。
また、潜伏キリシタンがいた地方でも、
平戸などマリア観音が用いられなかった地域もある。
1873年(明治6年)に禁教令が解かれるまで、この状態は続いた。
芥川龍之介も蔵していた(芥川龍之介「わが家の古玩」)。
日本の江戸時代に江戸幕府が禁教令を布告して
キリスト教を弾圧した後も、密かに信仰を続けた信者である。
以下の2つに分けられるが、一般に両者を区別せずに呼ぶ。
①強制改宗により仏教を信仰していると見せかけ、
キリスト教(カトリック)を偽装棄教した信者。
②1873年(明治6年)に禁教令が解かれ
潜伏する必要がなくなっても、
江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信者。
敢えて両者を区別する場合、
①は「潜伏キリシタン」、
②は「カクレキリシタン」(すべてカタカナで表記)と呼ぶ。
~①「潜伏キリシタン」~
日本では、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して以降、
キリスト教の布教がおこなわれて
次第に改宗する者(キリシタン)が増えていった。
しかし、江戸時代には、
1614年に徳川家康による禁教令によって
キリスト教信仰は禁止され、
さらに1637年に起きた島原の乱の前後からは
幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まり
が行われた。
当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、
表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、
また1644年以降は
国内にカトリックの司祭が一人もいない状況ながらも、
密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。
これを「潜伏キリシタン」と呼ぶ。
「潜伏キリシタン」は、ごく小さな集落単位で秘密組織を作って
ひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを続け、
慈母観音像を聖母マリアに見立てたり
(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、
聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの
聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、
キリスト教伝来当時にならったやり方で
生まれた子に洗礼を授けるなどして信仰を守りつづけた。
~②「カクレキリシタン」~
江戸時代潜伏していたキリシタンたちは、
200年以上もの間司祭などの指導を受けることなく
自分たちだけで信仰を伝えていったため、
長い年月の中で
キリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、
仏教や神道、民俗信仰などとも結びついたり、
あるいは地元の殉教者に対する尊崇を
精神的な拠り所としつつ、
キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、
殉教者が没した聖地などを
主要な信仰対象とするものに変化していった。
このため、
明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて
再びカトリックの宣教がなされても、
地域によっては半数以上のキリシタンは改宗に応じなかった。
その後も独自の信仰様式を継承している人たちが、
長崎県の一部地域に現在でも存在する。
現地では「古ギリシタン」「旧キリシタン」「元帳」
などと呼んでいるが、
学術的には、これを「カクレキリシタン」と呼ぶ。
カクレキリシタンが未だカトリックに復帰しない理由については、
さまざまな要因が考えられているが、
主なものとしては、
先祖からの伝統形態を守り続けることが正しいとする考え方。
仏教、神道を隠れ蓑として来たが、
長い年月のうちに精神と生活に定着し、
神仏を祀るのに矛盾を感じなくなり、
カトリックへ復活することによって
神仏や先祖の位牌を捨てることへの抵抗感。
先祖から受け継いだ習慣を放棄すると、
罰を受けるのではないかという恐れ。
などが挙げられている。
カムフラージュであったはずの
仏教や神道の信仰が強くなって
キリスト教の信仰理解が失われてしまい、
カクレキリシタンにとって大切なのは、
先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を、
本来のキリスト教の意味は理解できなくなってしまっても、
それを絶やすことなく継承していくことであって、
それが先祖に対する子孫としての務めと考えられている。
また、
明治初期のカトリック教会による宣教の際には、
前述の浦上四番崩れなど
直前にあった激しい迫害や差別を恐れたり、
当時のカトリックの教義が厳格であったため
容易に戻って行けなかったことなども、
理由として考えられている。
そして現代においては、
カトリックとカクレキリシタンの間での認識の違いも生じていて、
カトリック教会・信者の側は
カクレキリシタンもカトリックと同じ信仰だとみなしているが、
カクレキリシタンの人たちは
「カトリックとは違う」と意識している例が見られる。
あるいは、
現代日本において仏教や神道でも見られるように、
強い信仰心が失われて
単なる伝統として宗教を受け継いでいるに過ぎず、
カクレキリシタンもまたその例外ではなく、
それゆえにあえてカトリックに復帰する必要性を感じない
というケースも見られる。
ただ、前述の外海地区のように、
同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいても
カトリックに復帰した者とカクレに留まった者が
混在している例は多く、
また、そもそも信仰心は個人の内面の問題であって
当然ながら他人からは伺い知れないものであり、
一概に明確な理由を見出すことは困難である。
妙法蓮華経「観世音菩薩」普門品“偈“
法華経(全28品)の第25品にある経典。
観音経と呼ばれることも多い。
本文(長行)と詩(偈文)から構成されている。
特に、後半の偈文の部分を普門品偈という。
偈文では「念彼観音力」と繰り返えされ、
「かの観音の力を念じれば」
観音菩薩の力により様々な災いが去ると書かれている。



生きるも地獄。死ぬも地獄。
現世(六道「人界」)の本質が
特に六道「修羅界」と紙一重であることを
決して忘れてはならない。
総じて、人間の宿命の本質は哀しき定めなり。
~六道~
天界:「感謝(←喜び、赦し)の心&行為」
人界:「穏やかな心&行為」
修羅界:「特に慢心に基づく特に闘争行為」
畜生界:「愚かな心(←苛立ち、嫉妬)&行為」
餓鬼界:「むさぼる心&行為」
地獄界:「怒る(←孤独)心&行為」





妙法蓮華経「観世音菩薩」普門品
第二十五偈
(現代語訳)
そのとき、お釈迦様は「偈」をもって語られました。
無尽意菩薩が私に、
観世音菩薩の名についての意義と理由を尋ねた。
観世音菩薩とは、誓願の大海です。
幾百劫という考えられぬほどに長い間、
幾千万億という多くの仏のもとで、
彼が誓願を清浄ならしめた次第を、
私の説き示すところから聴きなさい。
その名を聞き、彼に見え、さらに彼を念ずるとき、
彼は人間達すべての苦悩を、消滅させるのです。
悪意のあるものが、
殺そうとして火坑に落とし込んだとしても、
観音を心に念ずれば、
水をかけられたように、火は消えます。
海の難所や、竜や海の怪物の住処に落ち込んでも、
観音を心に念ずれば、
海中に沈むことはありません。
悪意のあるものが、
須弥山の断崖から突き落としたとしても、
観音を心に念ずれば、
太陽となって虚空に留まります。
殺そうとして誰かが
金剛造りの山の大石を頭に投げつけたとしても、
観音を心に念ずれば、
一本の毛髪さえ害うこともありません。
剣で危害を加えようとする敵の集団に取り囲まれようとも、
観音を心に念ずれば、
たちまち彼らは慈しみの心を起こすでしょう。
刑吏の手によって、まさに処刑されようとしても、
観音を心に念ずれば、
そのとき剣はばらばらに砕けます。
手かせ足かせ、首かせなどに自由を奪われようとも、
観音を心に念ずれば、
たちまち自由を得るでしょう。
呪いや毒薬、鬼霊や悪鬼など人の体を滅するものは、
観音を心に念ずれば、
それを用いた当人にかえってゆきます。
人の体力を奪う夜叉や毒竜、
人間に憑く鬼霊や羅刹などに囲まれていても、
観音を心に念ずれば、
一本の毛髪さえ害うことはありません。
鋭い歯と爪をもつ恐ろしい猛獣に
囲まれることがあっても、
観音を心に念ずれば、
それらはたちまち諸方に逃げ去るでしょう。
吐く火焔の物凄く恐ろしく、
まなざしに毒をもつ蛇どもに囲まれようとも、
観音を心に念ずれば、
そのとき、彼らの毒はなくなります。
雲から稲妻がきらめき、
激しい雷雨が襲ってこようとも、
観音を心に念ずれば、
雷雨はたちまちにして静まります。
幾百の苦悩に打ちひしがれ、
多くの苦悩にさいなまれた人間を見て、
勝れた知恵の力を持つ彼は、
察知して、
神とともに住む世界において
救済者となるのです。
神通力の蘊奥を極め、
広大な知恵による方便に長じた彼は、
この世のあらゆるところに、
その姿をあらわします。
難儀と困窮の恐怖につつまれて、
地獄、畜生、餓鬼の世界にいる人間たちにとって、
生・老・病・死の苦も次第に消滅するのです。
輝かしい、慈悲と理智と知恵の眼の持ち主よ。
憐みと清浄の眼の持ち主よ。
汚れなく、濁りなく、輝きある者よ。
あなたは照り輝いて、この世を照らす。
憐みの徳を持ち、慈しみを轟かせ、
勝れた徳と慈悲の心を持つ大きな雲の如き者よ、
人々の煩悩の火を鎮め、甘露の教えの雨を降らす。
争いの際に、戦いの折に、大きな危険に晒された時、
観音を心に念ずれば、
凶悪な敵も直ちに退散す。
妙ある音、世を観ずる音、梵の音、海潮の音、
彼の世間に勝れた音あり。
この故にすべからく常に心に念ずべき者。
念念に疑いを生ずることなかれ。
苦悩や不運や、死の厄いに際して、
観世音菩薩は
救済者であり、庇護者であり、最後の拠り所となる。
すべての徳を完成させ、
すべての人間に慈悲の眼を持ち、
徳の化身であり、徳の大海である
観世音菩薩を、わたしは礼拝する。