神功皇后の伝承を追って帆柱山を巡っていますが、ここにも伝承が残っているようです。
こちらは帆柱山の裏手になります。
御祭神(主殿)
誉田別命 -ほむだわけのみこと- (応神天皇)
帯中津日子命 -たらしなかつひこのみこと- (仲哀天皇)
息長帯比売命 -おきながたらしひめのみこと- (神功皇后)
御祭神(相殿)
速須佐之男命 -はやすさのおのみこと-
奇名田姫命 -よしなだひめのみこと-
事代主命 -ことしろぬしのみこと-
伊古奈姫命-いこなひめのみこと-
御由緒
当社は今からおよそ1800年もの昔、第十四代仲哀天皇さまと神功皇后さまは、熊襲征伐と朝鮮への出兵のため、洞の海(洞海湾)へこられ、おとどまりになり船団を整えました。その船の帆柱を切り出したのが帆柱山でした。
神功皇后さまと皇子(応神天皇)と共に皿暮山(陽が暮れた山=更暮れ山)に登り国見をされました。下山の途中この大蔵谷に立ち寄られ、この地の安泰を祈られ、又、皇子応神天皇さまにお乳を与えられたのが、現在の社地です。
後、1662年(寛文2年)大字大蔵(大蔵村)の産土神(うぢがみ)様として、村人がこの聖地に社を建立し、氏子の人々により祭りを続けてきました。
大蔵地区の平安と繁栄を日夜守り導いて下さっている神様です。
神社HPより引用
どうもこの辺りの伝承では、三韓出兵後に応神を出産したのではなく、出産後に出兵したような印象を受けます。
拝殿
御神徳絵図