任那 伽耶(甕棺 支石墓)
今回の韓国の調査で日本書紀にある瓊瓊杵尊が目指した倭の「槵觸の峰(くしふるのみね)」と金官伽耶の許黄玉の墓の横にある「亀旨峰(くしふるみね)」が同音であること その亀旨峰は金首露をはじめ伽耶の五人の王が生まれたと伝わる場所であり 伽耶と倭国の埋葬形態が同じであることが注目すべき点である。金海の亀旨峰には寺があり 一番上位に祀られているのは「山の神」であった。伽耶山の「山の神」は金首露や大伽耶の伊珍阿豉(イジンアシ)の母(正見母主)と伝承にあるが その祠に祀られていた山の神は男性の姿の絵が掛けられていた。調べてみるとこの男性は「檀君神話」にある山神の精霊であり 太古の昔、桓因(ファンイン)という天帝の庶子の桓雄(ファンウン)で部下3000人を率いた桓雄は、太伯山(テベクサン)上の神壇樹(シンダンス)下に下りて神市(シンシ)とした。かれは風伯、雨師、雲師をしたがえて穀・命・病・刑・善・悪をつかさどり、人間の360余事を治めさせたとあった。亀旨峰(くしふるみね)では糸島や吉野ケ里遺跡で見る甕棺と支墓石を見かけた。まず甕棺だが黄河流域、中流域で仰韶(ぎょうしょう)文化が栄え(紀元前4800年-同2700年頃)。そのなかの陝西省西安市の半坡(はんぱ)遺跡は、環濠で囲まれた集落で、墓も発見され、成人が土壙墓、幼児や子供は甕棺に入れられており同じ中流域の河南省鄭州市の西山遺跡(紀元前3300年-同2700年)は、中国最古の城塞都市として話題になった。そこからも、子供を埋葬した甕棺が出土した。この遺跡は、「史記」に登場する五帝の初代「黄帝」の城跡ではないか、との説もあるそうである。韓国では今回見逃したが半島の古い甕棺は「三国史記」にあるように百済人の地では無く倭人が住んでいたと云われる全羅南道・全羅北道南部(羅州、霊岩、扶安、全州、高敞、光州)で甕棺、古代栄山江の支配者の墓 遺体を入れて埋葬するために土器製の甕棺を使用してる。栄山江流域の甕棺は、馬韓時代に本格的に登場し、次第にこの地域を代表する埋葬方法であった。日本の甕棺は吉武遺跡群(福岡県福岡市西区) -紀元前200年頃から100年頃 立石遺跡 三雲 井原遺跡が弥生中期 平原遺跡 須玖岡本遺跡が弥生中期 安国時甕棺墓 吉野ケ里遺跡などが弥生期に見られる。三雲・井原遺跡(福岡県糸島市三雲453) - 弥生時代中期後半の甕棺墓(三種の神器が3点セットで出土)。須玖岡本遺跡(福岡県春日市岡本3丁目) - 弥生時代中期後半の甕棺墓(三種の神器が3点セットで出土)。平原遺跡(福岡県糸島市有田1) - 弥生時代後期の甕棺墓(三種の神器が3点セットで出土)。御床松原遺跡(福岡県糸島市) - 弥生時代中期前半(紀元前150年頃)の甕棺墓が出土。副葬品の板状石製品は国内最古級の硯(すずり)とみられる。安国寺甕棺墓群(福岡県久留米市山川町字池廻・西神代) - 弥生時代中期後半を中心に一部後期におよぶ祭祀遺跡を伴う。甕棺墓62、土坑墓4基、祭祀遺構11か所、その他土壙4基が東西60メートル、南北90メートルの範囲で確認された。吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町) - 弥生時代の墳丘墓が遺跡全体で3,100基以上確認。吉野ヶ里丘陵の尾根では長さ約600メートルに渡り計1,500基がまとまって分布。この中には、頭部がない状態の成人男性の人骨、貝の腕輪を身に付けた少女の人骨が埋葬された甕棺があったほか、甕棺の中から衣服の一部の絹織物片、毛髪、管玉、勾玉、鉄製品なども出土した。また、高く盛られた墳丘墓に支配層のものとみられる甕棺墓14基が確認されている。金海式甕棺はほぼ九州の甕棺と同時期で九州北部の甕棺の一形式で、韓国慶尚南道の金海で出土したためこの名がある。金海のものは搬入品とされ、九州で製作されていた形式である。次に支石墓だが支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。朝鮮半島では紀元前500年頃(無文土器時代)に見られ、遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。北方式と南方式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域と半島東南地域である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。朝鮮半島の南部には、支石の低い碁盤状支石墓(南方式支石墓)があり、北部には支石が高い卓上支石墓(北方式支石墓)が分布している。北九州では支石墓と甕棺の二種類及び併用が見られることから遼東から来た民族と中国黄河から来た民族がほぼ同時期に北九州から上陸したのではないかと推測される。これは西山遺跡(紀元前3300年-同2700年)の黄帝のことを云っているのならば金官金氏の祖はここにあると云っているのかもしれない。一方 金首露や大伽耶の伊珍阿豉(イジンアシ)の父とされるのは天神『夷毗訶之』(イビガジ)である。後の時代の金官伽耶の王族 金庾信(キム・ユシン)はその祖先は中国黄帝の子・少昊金天氏であるとしている。山の神が支石墓の埋葬形態の民族だとすれば金首露 伊珍阿豉(イジンアシ)の父 『夷毗訶之』(イビガジ)は甕棺の埋葬形態をとる黄帝の子孫のことかもしれない。いずれにせよ支石墓と甕棺の埋葬形態を共有する伽耶と倭国は同族もしくは近い民族といえるかもしれない。