三韓征伐 | 事代主のブログ

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神社の伝承と遺跡をめぐり、真実の古代史を編集するのが目的です。

対馬を出た神功皇后は、朝鮮半島に入ります。

   

三韓征伐というと百済・新羅・高句麗のことを指すと思われる方もいらっしゃると思いますが

三韓
三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した種族とその地域。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。 wiki

     

その当時の三韓とは、どうやら後の図の方のようです。

その当時の朝鮮側の資料を見ると

朝鮮史書『三国遺事』によると、文武王(661~681)は大鐘川の河口に、倭兵を鎮(しずめ)るため、感恩寺を創建したとする。倭はしばしばこの川を伝って侵攻した事がうかがわれる。

朝鮮史書『三国史記』新羅本紀
奈勿尼師今(なふつにしきん)九年四月(王暦年次によると奈勿尼師今九年四月は西暦364年の4月となる。)

『倭兵、大いに至る。王これを聞き、恐らくは敵(あた)るべからずとして、草の偶人数千を造り、衣(ころも)を衣(き)せ、兵を持(じ)せしめて、吐含山(とがんさん)の下に列べ立て、勇士一千を斧けん(山+見)の東原に伏せしむ。倭人、衆を恃(たの)み直進す。伏せるを発して其の不意を撃(う)つ。倭人大いに敗走す。追撃して之を殺し幾(ほとん)ど尽く。』

中国・朝鮮の史書との関連
中国史書(『宋書』など)の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、朝鮮側の史書『三国史記』からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。
『三国史記』『三国遺事』といった朝鮮側の史料には、「オキナガタラシヒメあるいは倭女王の来襲(『三国史記』には卑弥呼の遣使は記載されている)」という記述は見られない。ただし、『三国史記』には新羅に倭兵が攻め込んだという記事が頻出するため、記紀に伝わる新羅征伐の伝承それ自体は、格別不審な伝承ではない。また『日本書紀』にある新羅王子の人質の件に関しては、5世紀初頭の、王子未斯欣の人質と、新羅王の部下朴堤上による王子奪還(王子は新羅に逃れたが朴堤上は倭国側によって処刑された)事件と合致することが指摘されている。

   

広開土王碑
広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。
李進熙は、1972年に好太王碑改竄説を主張し、広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍が大日本帝国の半島進出を正当化するために碑に手を加え改竄したとしたが、2005年(平成17年)6月23日に墨本が中国で発見され、さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定された       wiki

では、日本側の資料では

日本書紀によると舟は追い風を受け一気に新羅に至り、潮浪が国の中までおよんだとする。川を遡上して内陸部へ侵攻したとあります。

また津屋崎町の宮地嶽神社は、新羅侵攻にあたって、この神社の裏山で戦勝を祈願し、帰還の後この地に神社を安置したとする伝承があり。

また新羅侵攻には、「松浦の君」と「胸肩の君」が軍団の長となったとする。唐津から壱岐を経由して対馬に至った軍団の他に、津屋崎から沖ノ島を経由して対馬に至った軍団と思われ後の世に「海北道」(うみのきたみち)と呼ばれる大陸への渡海ルートと同じルートである。

この後の神功皇后の伝承をたどって真意を確かめたいとおもいます。


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