遥か彼方から聞こえる、暁乃音。
その、あかつきノート。
何が記されているか知らないけれど、きっと、確かな、感情と熱量だけで支配されて配列されているのだ。
世界は広い。知りもしったそんなことを、あらためて、あたためて、言葉にして、噛み締める。
どこそこで燃え上がる炎もあれば、消えてしまう灯りもある。
どちらも正解であり間違いである。
そもそも正解か間違いかなどどうでもよく、ただその軌跡だけがひっそりと残り、手にすくえばこぼれ落ちる砂のように、30年も40年も、一瞬の刹那であって、50年たてば、100年の半分を見てきたことには、まがりなりにもなるわけで。
どんなものを見て聞いて、どんなことを体験してきたが、その人の心の豊かさがはかれるというなら、間違いなく、歩き疲れて途方に暮れていたほうが、ゆたかな人生だということになるわけだ。
セッションのような即興性が、文章においても音楽においても必要とするならば、意味などどうでもよく、そんなものは後からついてくるものであって、今見えているこの風景が、3パーセントでも伝わればよいと筆を走らせる。
止まったら終わってしまう。書けなくなってしまう。
書いたとしてもそれはまがいものだ。
わかる人には分かるだろう。
似て非なるように、まったくの別物になる、異次元のものが対比する。
極限状態には、何も考えなどおよばない。
あるのは目の前と脳内の錯覚、ねじれた現実世界の虚像だろう。
闇夜に照らされる月は、見上げればいつでもそこにある。
気がつかないのは、人間だけだ。
そんなことを考えていたら、偶然にも、9月11日だった。