INDEADRUM

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ぐずらもずら

10代、20代、30代、40、50、60、70、80、90代の音楽、ひとつひとつが素晴らしく愛おしい。世代を超えて、ジャンルを越えて、人種をも越えて。そのときどきの感性で紡がれる表現の豊かさよ。さざ波のように繰り返し繰り返される中で、本質が見え隠れするのですね。ありがとう。ただただ感謝。


どこに向かっていっても、自分が求めている、風のような草原な場所にたどり着くのかね。


歴史も社会も知識も常識もわかんなくなっちゃってさ。


だからって自暴自棄になってるわけでもないんだ。


救われたり救ってあげたり、自然にあふれ出る想いだけを信じて生きていくんだ。


この先のゆく末を見届けようとか、そういうたいそれたことじゃなくて。


日々の時間、陽が登り陽が落ちる情景をみながら目覚めたり眠りに落ちれたら最高だって、ただそれだけなんだとおもう。


いろいろごちゃごちゃしてるけど、きっと、シンプルなことなんだとおもう。


大切なことなんてものは。

焚き火に薪をくべ、雨の中をやりすごしたら、朝日が輝くように山あいから顔を出した。それだけで十分だとおもう。生きる理由は、それだけで。今日も昨日もありがとう。

遥か彼方から聞こえる、暁乃音。


その、あかつきノート。


何が記されているか知らないけれど、きっと、確かな、感情と熱量だけで支配されて配列されているのだ。


世界は広い。知りもしったそんなことを、あらためて、あたためて、言葉にして、噛み締める。


どこそこで燃え上がる炎もあれば、消えてしまう灯りもある。


どちらも正解であり間違いである。


そもそも正解か間違いかなどどうでもよく、ただその軌跡だけがひっそりと残り、手にすくえばこぼれ落ちる砂のように、30年も40年も、一瞬の刹那であって、50年たてば、100年の半分を見てきたことには、まがりなりにもなるわけで。


どんなものを見て聞いて、どんなことを体験してきたが、その人の心の豊かさがはかれるというなら、間違いなく、歩き疲れて途方に暮れていたほうが、ゆたかな人生だということになるわけだ。


セッションのような即興性が、文章においても音楽においても必要とするならば、意味などどうでもよく、そんなものは後からついてくるものであって、今見えているこの風景が、3パーセントでも伝わればよいと筆を走らせる。


止まったら終わってしまう。書けなくなってしまう。


書いたとしてもそれはまがいものだ。


わかる人には分かるだろう。


似て非なるように、まったくの別物になる、異次元のものが対比する。


極限状態には、何も考えなどおよばない。


あるのは目の前と脳内の錯覚、ねじれた現実世界の虚像だろう。


闇夜に照らされる月は、見上げればいつでもそこにある。


気がつかないのは、人間だけだ。


そんなことを考えていたら、偶然にも、9月11日だった。