ADHDって何? | 誰もが違うということを前提とした教育にしていこう!

誰もが違うということを前提とした教育にしていこう!

主に特別支援教育、インクルーシブ教育、ASD、ADHD、LD等について書いていましたが、社会全体が大きく変わってきており、特定した話だけでは答えのない答えを導き出せない時代がやってきたと感じています。そのため何でも思いつくままに書いています。

発達障害というと、たいてい自閉症について語られることが多く、
私もあまりADHDについてはふれていなかったので、
今日は少しばかりですが書いてみたいと思います。

実はADHDについて
そう簡単に書くことはできないのです。
というのも、ADHDの特性を多く持っていたとしても
みんなそれぞれ違っていて、
十人十色だということは知っておいてくださいね。

さて、ADHDの特性をたくさん持っている場合、
自閉症の特性が強い人とは違っていて、
対人関係は比較的うまくいくことが多いようです。
小学生の頃は「心やさしいガキ大将」だったという人に
私は何人か出会ったことがあります。

そういった方が「友達も多かったですよ~」と
おっしゃるのを聞くと、、、
家庭や学校などでは「やんちゃなだけ」と思われて
見逃されることも多くなるだろうな~と思うわけです。

そのため、叱責や注意を繰り返し受けて育つため、
自己肯定感が下がったまま
大人にならざるおえないように思います。

この自己肯定感が下がるというのが、
実に、大人になってからの人生に悪影響を及ぼすのですね。

誰しも、自分自身に対して否定的な見方があれば
他者に対しても否定的な捉え方をしやすくなってしまうものです。
そうすると、他者や物事に対して、
誤解したり、否定的に
受け取ることが多くなってしまいます。

そういったことから、
他者から注意を受けると
「教えてもらった」と受け取るのではなく、
「批判された」と受け取りやすくなっている人にも
かなりの数、出会いました。

そうすると、衝動性も加わって、
すぐにカッとなってしまったり、
他者を攻撃したりして、
周りの人を困らせることになってしまいます。

また、態度にも出やすくなってしまうため、
周りの人達をいたたまれない
気持ちにさせてしまいます。

そして、そのことに気づいたとき、落ち込むことになります。

こういったことを繰り返して
更に自己肯定感を下げていかないようにするためにも、
自分と周りの人たちがADHDを正しく理解して、
ADHDの特徴に気づくことができるチャンスが
誰にでも、あればいいのだろうと思います。

しかし、実際にはそう簡単に正しく理解できる場がないというか、
チャンスがないというのが現状ですから、
ADHDに関するいい本やブログなどに出会うといいのかな?と
思ったりします。

人だけでなく、本などでも、いい出会いがあれば、
自己調整できたり、自身の勘違いにも気づくことができますね。

また、相手に申し訳ないことをしたことに気づくこともできますから、
他者に謝ることもできます。
生きやすくなるように、何らかの工夫をすることもできます。

でも、自分も周りもADHDに気づくことができない場合は、
両者ともに怒りという感情が洪水のようにやってきますから
攻め合いになってしまいます。

どちらも、勘違いして怒ってしまったことを
謝ることもできなければ、
よくしてもらった人へ感謝することさえも
できない状態のままになってしまいます。

そうすると平均的な人たちから、
ADHDのある人たちは誤解を受けてしまい、
「社会性がない」「失礼だ」と言われてしまうわけです。

こうなってくると、両者ともに、ますます生きにくくなってしまいます。

また、不注意で物忘れや遅刻が多かったり、
提出物の期限が守れない、
おしゃべりが止まらない、
部屋が片付けられない等で
本人はもちろんのこと、
周りも困っていることも多いものです。

しかし、自分も周りもそれに気づいて理解を進めていけば、
対策を考えることができますから、
共に、前向きに工夫したり、
楽しく生きられるように考え方を変えることもできます。

そうすると、診断名や社会的支援はいらなくなります。

評論家の勝間和代さんが
ご自身のADHDについて面白おかしく
分かりやすく書かれていますので
読んでみられると理解が深まるかもしれませんよ↓
http://www.katsumaweb.com/news.php?id=2125

また、先日、モデルの栗原類さんが
ADDだと告白して話題となりました。
こちらからもADHDについて理解をすすめることができます↓
http://grapee.jp/45590

やはり、発達障害というのは「障害」と捉えるのではなく
「理解と工夫で個性になる脳タイプ」と
捉えた方がいいように思うのであります。

理解と工夫の先には、光があります