先月に私が最近、古代文字、幾何学図形、特殊図形、絵画、映像といった光の言語が現れないこと、ヴォルテックスやアジナーチャクラの映像を利用した異次元世界への旅がなくなったこと等を述べた(*1)。

目まぐるしい日々を過ごしていた私に突如訪れた平穏な日々に戸惑いながらも少し寂しさを感じていた。だが、“何もない日々”は私に一旦、立ち止まってみることを教えていた。


思えば6年前に会社を辞めて以来、新たな発見や出会いの連続であった。まさに激動の6年であった。これまでの遅れを一挙に取り戻しているかのようであった。私はスピリチュアル的に大きな成長を遂げたのであった。日記(過去のブログ含む)を時系列で読み返せば成長の過程が手に取るようにわかるだろう。

 


私は様々な体験から多くの知識を得た。私は体験によって“知った”のである。もはやそれは“信念”ではない。完全に私の身体の一部になった。だがそれを思いのままに使いこなすには時間がかかった。つまり意識することなく呼吸するかのように自然な状態に持って行くのである。


わかりやすい例を一つ挙げよう。それはパラレルワールドへ出かけた時の私の意識状態である。

あるパラレルワールドでは、私は病気や怪我を何の意識もせず瞬時に癒している。また別のパラレルワールドでは、私は病気や怪我を癒してはいるが私はそれを私の持つ能力の一つとして認識している。そのため私は治療に当たって“治す”ことを意識する。

前者は病気や怪我が“治る”のは当たり前のことだから呼吸と同じようにそれを意識することはない。後者は“治る”ではなく“治す”だからそこには私の治そうとする意志が働く。

両者の間には治癒効果に決定的な差がある。前者は治せないものは存在しない。どんな病気や怪我も瞬時に且つ完璧に治る。だが後者は治せないものがあるほか、治るまで時間を要するものも多い。理由は私が治すことを意識しているからだ。私は“治る”ことを知っているがそれを意識しているうちはまだ完全ではないのである。


私は昔から願望実現の方法としてひとつの経験則を持っていた。それは、“こうありたい”という願望があったなら、まずその対象を心に植え付けること。そしてそれを忘れるのである。潜在意識に願望を植えつたら後はもう関知しない。できれば完全に忘れてしまう。願望に対する執着が消えると、早晩、結果が現れる。そして私は、“そういえばこういう願望を持っていたなあ”と思い出すのである。当然ながら願望が意識に残っているうちは実現しない。周知の通り、この場合は創造のためのマインドが願望、つまり“達成されていない状態”になっているからである。


バシャールは物質界ではマインドから具現化にはタイムラグがあるから具現化するのをワクワクしながら待ちなさいと言っている。

この物質界を離れれば具現化は瞬時である。マインドとして意識した時点ですでに具現化は終了しているのである。だからそれが物質界に現れるのを待てばよいのである。
 

私はそのことを知っている。私にとってマインド~具現化は信念ではない。だが心のどこかに疑念があった。具現化のタイムラグが疑念を生んだのである。疑念をなくそうとすればするほど疑念は強くなることも知っていた。わかっていてもそうなってしまう。こればかりはどうしようもなかった。だから私は忘れられる程度の願望しか叶えることができなかった。


だが、冒頭で述べたように今回、私に一旦立ち止まる時間が与えられた。そこで私は今の自分を観察してみた。するとそこには以前とは全く違う自分が居た。

具現化のタイムラグに疑念を抱いている私はいなかった。これまでのことが嘘のようにワクワクしながら具現化を待っている私がいた。それだけではなかった。過去を思い返す私も未来をあれこれ考える私もいなかった。私は“今”に生きていた。もはやそれは私にとって普通のことだった。そして私に起こること、私がやること、何もかもがベストなタイミングで起こっているのであった。

(*1)「何もない日々」参照