“意識の眼”でプラーナを観察するとプラーナはゴミのような形態で浮遊又は流れている。


“意識の眼”と言うのは内側の世界で使用する“眼”のことである。外側の世界では肉眼を使うが内側の世界では意識(の眼)を使う。それと“ゴミ”と言ったが形や大きさはほぼ同じであり離れて見れば粒子のように見える。逆に極間近で見るとミトコンドリアのような形をしている。このミトコンドリアを拡大してみるとその中はミトコンドリアで埋め尽くされている。その中のミトコンドリアもミトコンドリアで埋め尽くされており、いわゆるフラクタル構造をしている。

というわけでここではわかりやすく“ゴミ”や“ミトコンドリア”ではなく“粒子”で統一しようと思う。

 


チャクラはこの粒子状のプラーナを引き寄せて取り込む。

私の観察したところによればチャクラに引き寄せられたプラーナはチャクラの周囲にドーナツ状の雲を形成して高速で回転している。これは丁度、ブラックホールが周囲からガスを引き寄せるのと同じである。ブラックホールの重力に引き寄せられたガスはブラックホールに落ち込む前に回転するドーナツ状の雲を形成する。プラーナもこれと同じである。


雲状に集合したプラーナは回転しているうちにチャクラの振動数と同調し、そのチャクラの持つ固有情報を共有するようになる(ようだ)。

チャクラに引き寄せられたプラーナはチャクラの周囲を回転しているうちに互いに連結して糸切れ状の形態を形作るようになる。この糸切れ状のプラーナは2本が対となって2~3巻き程度の二重らせんを形成する。

プラーナの雲の中を観察するとこのDNAの切れ端のようなものが粒子に交じって浮遊しているのが見える。この切れ端のDNA状のものは連結して、より長い二重らせん構造を形成する。こうして長さを増しながら螺旋状の紐を形成する。

 

プラーナはこの紐の形態で流れ、そしてプラーナ管へと続く。プラーナ管の内部にはそれぞれの固有のチャクラの情報を携えた紐が何本も延びており、それぞれが回転しながら波のように流れている。

 


頭上にはチャクラが7つあるのでプラーナの紐は7本あると思われるが実際に確認できたのは5本である(それぞれの紐は高速で回転しているので正確な数を把握できないのであるが7本まではないようである)。
話によれば頭上からは5本の紐が体内に降りてきて体内7つのチャクラの7本の紐と合わさって計12本の紐となり、これが12本のDNAを元になるという。これが正しければ頭上の紐の数が5本というのは正解かもしれない。


目を閉じるとそこには縦横に格子のようにプラーナが流れているのが見える。すでにグリッドが完成して機能しているのがわかる。おそらくこうしてすべての細胞のDNAが活性化していくのだろう。

2年前の2024年6月に「何もない日々」というテーマで手記を上げた。

“何もない”とは内側の世界におけるスピリチュアル的体験である。例を挙げれば異次元世界の訪問やチャクラを通して様々な情報を得る事等である。
 

その時の手記で“何もない”と言ったのは主に光の言語とヴォルテックスを利用した異次元への旅の2つである。当時はこの2つが私のスピリチュアル的体験の大部分を占めていた。これらがなくなってしまったのである。

光の言語というのはスピリットからの六次元的な交信でヒエログリフ、ヘブライ文字、漢字、ひらがな(のように見えるもの)といった文字のほか、様々な幾何学図形や特殊図形等でやってくる。そしてヴォルテックスによる異次元世界への旅は私がヴォルテックスを創ってその孔へ入っていく。この孔を抜けると五次元世界へ出られるというものである。

このヴォルテックスによる次元移動は今でもやろうと思えばできるが労力が見合わないのでやらない。

 

当時の手記でも述べているが当時はこの2つの体験が2年間毎日のようにやってきており、まさに激動の2年間であった。


その前年2023年には覚醒現象もなくなっていたので私にとって主要なスピリチュアル的体験が突然3つもなくなってしまった。尚、覚醒現象と言うのはクンダリニー覚醒で代表されるような大きなエネルギーの体内流入現象であるが、こういった大きなエネルギーの流入はクンダリニー以外にもいろいろあってこれらのほとんどがなくなってしまった。

 

当時は毎日のようにチャクラのスクリーンに光の言語が現れた。ヴォルテックスを使った次元移動も比較的容易であったのでやろうと思えば毎日できた。これらが私の体験から消えてしまったインパクトは大きかった。

この2つ以外はどうかと言うと例えば意識の離脱による異次元世界探索(*1)や異星人ほか高次意識体との接触等については、頻度は低いながらも継続していたのでスピリチュアル的体験が全くのゼロということはなかった。だが現在はそれらを含めすべてがなくなっている。


考えてみればこの二十有余年、私はスピリチュアル的体験の連続であった。当時の私にとってこれらはとても興味をそそる体験だったのでこれらがなくなってしまったら寂しさを感じていたであろう。だが今の私は何とも思っていない。関心はゼロではないが興味は全くない。


私は永年の経験からこうしたスピリチュアル的体験が意味するものを知っている。一言で言えばそれは「調整」である。私の身体をあるべき状態にするための波動的調整である。

つまり物理次元専用の身体から本来の多次元的な身体になるための調整である。そしてこれを肉体に適合させるという作業である。
何もないということはこうした調整が完了したということだろう。私は今、肉体を持って多次元性という本来の姿を体現しようとしている。

 

(*1)これはヴォルテックスを用いない次元移動で意識だけを別次元へ飛ばす。特には映像世界へ入ることが多いが入った世界から別の世界へと次元を転々とする。この場合は五次元に限定されない。

最近、時間の感覚がおかしい。

だがここがおかしいと明確に言えない。

以前の私の時間に対する感覚を思い出せないのである。ただ強い違和感だけがある。間違いなく私の時間感覚について何かしらの変化が起こっている。

 

そんな中でひとつ感じているのは時間の流れである。

今、私は時間が連続して流れているという感覚がない。

では以前はどうだったのだろう?

思い返してみようとするがやはり思い出せない。あるのは違和感だけである。過去を遡ろうとする行為も時間が関係しているからであろうか。

 


今、私は物事が連続して進行せず、その断片、断片が目の前に現れる感覚がある。
例えば目の前に広がる風景を見た時、映画のように連続する映像が流れていくのではなく風景写真の一枚、一枚が入れ替わるように目の前に現れる感じである。だから何を見てもそこに時の流れを感じない。 感じない? この表現で正しいのだろうか。これもわからない。以前の状態が全く思い出せないからだ。


私の前にあるのは風景の一断片である。日常の風景を単に眺めている限りにおいては気づきにくい。だが確かな違和感がある。成長の早い植物を見ていると少しそれが見えてくる。だがそれが違和感の理由として同じものなのかはわからない。


家の庭には大株に育ったヘメロカリスが何株かある。一日花であるが毎日、何十という花を咲かせる。私はそれを毎日、ベランダから眺めている。ヘメロカリスは一日花であるが次から次へと花を咲かせるので開花期間は結構長い。だが私には何十個と咲いている最盛期の姿と花期が終了して花が1,2輪しかついていない姿しかない。一瞬で花が満開になり、次の瞬間には花が終了している。毎日見ているはずなのに私の意識にはこの2つしかない。

これはヘメロカリスに限ったことではない。桔梗もそうだ。室内ではモンステラがそうである。モンステラの葉が成長していく過程が直線的ではない。こちらも成長段階毎の写真を見せられている。


私は以前と全く同じものを見ているはずだ。だがすべてが断片的でその間(の記憶)が存在しない。以前の感覚で言えばおそらく今の私の状態は時間がものすごい速度で流れているように感じるかもしれない。私は移りゆく世界を直線ではなく階段状に感じている。

興味や関心を失うこと。

これはスピリチュアルの観点で言えば課題がクリアされたことを意味する。

課題のクリアとはプラスでもマイナスでもない完全な中立地点に立つことであり、対象に対して一切の執着が消えることである。波動的に言えば自然の状態に戻ることを意味する。つまり、意識から一切のノイズが消え意識がその持てる力を遺憾なく発揮できる状態である。

私は今、すべてのものに興味も関心もなくなっている。つまり、すべてが自然の状態にある。実はこの状態こそがすべてを自然の流れに委ねることができる状態である。

必要なことは必要な時に必要なタイミングでやってくる。私は今、やってくるものが何であれ信頼し安心してそれを受け入れることができる。

 


波動の世界はバランスである。すべてが調和している。例えば夢やカルマは偏ったエネルギーの調整であり、バランスを整えるためにある。
肉体もライトボディもその他のエネルギー体もすべて絶妙なバランスの上に存在する。宇宙とこれらの身体の関係も同様である。

例えばハトホルの書(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著/ナチュラルスピリット)によれば霊的成長には4つの基点となるものがあってこれらが並行して上昇していかないとだめだという。その基点とは次の4つである。
①自己と肉体との関係
②真の自己及び他者との関係
③他者への奉仕活動との関係
④自己と肉体及び地球を構成する聖なる元素との関係
 

本書によればこの4つが基点となって上昇螺旋を描いて霊的進化が進むという。
この例で言えば、すべての基点が均等に成長していくのが望ましい。どれか一つの基点が跳びぬけて進化したり、或いは停滞していたりすると(実際にどの程度こうした状態が存在するかはわからないが)バランスは崩れ、霊的成長がスムースに進まないだけでなく歪みによって障害が起こる。

バランスの崩れた状態では最も低い基点が成長するまで他の基点は待機することになる。つまりその間、成長が止まってしまう。


すべてにおいてバランスが求められるのはエネルギーが螺旋を描きながら進むのと関係している。4つの基点の例で言えば螺旋がそれぞれの基点を通過しながら上昇していく。

基点は大きく分ければ4つになるのかもしれないがバランスを必要とする要素はたくさんある。

 

例えば私は以前からKa及びエネルギー諸体に対して肉体が追いついていない感覚を持っている。そのため肉体にしわ寄せが行っている。私が10時間以上眠るのも肉体の遅れを取り戻すためである。前回言った通りこれも私が特別、意識してやっているわけではない。バランスを求める自然の流れである。夢と同じである。

 


外側の世界(肉眼で見る世界)に関して興味を失うのは当然として内側の世界の出来事に対して興味を失うことの意味とは何か。これこそが冒頭で言った課題のクリアである。

 

内側の世界は真に魂を成長させてくれる場所だ。魂は成長するに従って自分の身体に合わなくなった服を脱ぎ捨てていく。

私の歴史を振り返ればクンダリニーの覚醒に伴う異次元世界探索から始まり、チャクラで見る様々な世界、異次元世界での創造体験、光の言語、体外チャクラ及び球状チャクラ、次元の壁からのパラレルワールド探索、アセンションと続く。この他にもまだある。

 

こうして私は次々に興味を失っていった。あんなにも興味のあったものがある日突然私の意識から消えている。

例えば会社員時代、異次元世界の旅は日ごろのストレスを解消してくれる場であった。唯一私が自由になれる場所であった。だからその機会が得られない期間が続くのはつらかった。待ち遠しかった(一定の周期で何もない期間がある)。

何百回(否それ以上か)体験しても同じ体験は一度もなかった。だから飽きるということはなかった。

私にとってこれほど重要な地位を占めていた異次元世界の旅に対する興味が知らないうちに消えていた。すべてそうだ。気づくと興味から消えていた。次のステップに進むにはこうした荷物は不要なのである。

2001年、クンダリニー・エネルギーが梵の座を開いた。

自分が何者であるかを知る旅路のスタートが切られた。

それは内なる世界への旅である。

出会うものすべてが新鮮だった。新たな発見・出会いの連続だった。私の人生は一変した。


私は宇宙と繋がった。もう私を物理次元に閉じ込めておく鳥かごは存在しない。私は自分の羽で次元を超えてどこへでも飛んで行ける。後は自分のマインドをどう機能させるかだけだった。

 

異次元世界の旅への興味は尽きなかった。行く先々で新たな発見があった。だがこれらはすべて自分を知る旅の初期で経験する一時的なものである。

「自分はもともと多次元的存在であり、同時に無限の力を持ちあらゆるものを創造する。これが私だ。」

最初に実際に体験させてこうした基本を悟らせる。完了するとこうした体験は減り、同時に興味も消えていく。そして次のステージへ向かう。


本来の自分の姿がぼんやりと見えてくるとアセンションへの興味が湧いてくる。

「とりあえず五次元へ向かおう。」

地球も五次元へ向かっているから遅れるわけにはいかない。「否、むしろ自分は地球を助けるためにここに居る。」

どこからともなくそうした声がやってくる。

 

私は「意識」(魂)から次元上昇を阻害する(物理次元で付いた)垢を取り除く。

阻害要因を知れば後は勝手に洗い流されて消えていく。

阻害要因を一度意識に留めればよい。後はそれらに余計な意識を向けない。これを実行すれば阻害要因は自然と消えてなくなる。余計なことをしないことが一番早い。これは波動全般に共通する。

 

この作業ともいえない作業を2,3年やっただろうか。気づくと私からアセンションに対する興味が消えていた。いつ消えたのかは覚えていないが二年ぐらい前からだろう。

 

一年くらい前になるとすべてのものに興味がなくなった。

願望実現や引き寄せの法則といったものも然りである。好きだった映画やネイチャー番組も観なくなった。そもそも物事に対する興味がない。時間に対してもそうだ。自分の年齢にも関心がない。


外側の世界に関するものは大分前から興味はなかった。政治、経済、文化、対人関係と言ったものだ。目まぐるしく変化していく世界情勢もどうでもよい。だからテレビも新聞も雑誌も見ないしスマホも見ない。

私は一人が好きだから一向に構わない。一人の時ほど心が平穏な時はない。一人の時、私の心は最も安らかで満ち足りている。

趣味といえば散歩とガーデニング。それとたまにツーリングをすることぐらいだから時間はたっぷりある。だから夜の7時か8時には寝ている。と言っても眠くないので瞑想を兼ねている。

起きるのは朝の6時前後だから10時間以上は寝ている。

“寝過ぎだろう”と思うかもしれないがこれにはちゃんとした理由がある。思考と感情を肉体の外に置くためだ。細胞に対する思考や感情の影響をなくすのである。

これが目的だから瞑想よりも眠ることが優先される。細胞は神(宇宙)と直接対話できるので余計な思考や感情の影響を受けなければ最もバランスの取れた状態になる。

これは肉体でアセンションするためだ(と思う)が意識してやっているわけではない。自然の流れである。だがそれは必然である。自然の流れに委ねていれば必要なことが必要なタイミングでやってくる。それを私は受け入れているだけだ。