今朝、面白い体験をした。複数の人間を同時にRPGゲームのように自在に操ったのである。もちろんこれは物理次元におけるものではない。
 

この話題に触れる前に幾つかお話ししておいたほうがよいだろう。
チャクラでは様々な映像を見ることができる。同時にその映像の世界へ入って行くことができる。その世界は物質界に居るのと何ら変わらない。

訪れた世界がパラレルワールドの場合もあるし、私が創造した世界もある。

 

映像の世界に入ると私はひとつの意識体やエネルギー体又は肉体を持った人間として行動する。パラレルワールドだと思うが私の意識がその世界の住人の意識に完全に転換してしまうということもある。


こうしたケースとは別に映像の世界へ入らず、その世界を客観的に見ている場合がある。これはシュノーケリングで海の中を見るのに似ている。顔だけがその世界に入っている(*1)。私は別次元からその世界を客観的に見ている。この時、私はRPGゲームのようにその世界にいる人々をコントロールすることができる。


映像の世界へ入ることは極めて容易であり、多くの場合、知らないうちに入っている。別次元から客観的に眺めるというケースはそんなに多くない。


さて本題に戻るが、私は何度か映像の世界の人をRPGゲームのように操ったことがある。昨年10月に触れた(*2)がこの時私は三人の意識を操っていた。それまで一人の経験しかなかったので三人の意識を同時に操れることに驚いた。ところが今朝は何と操った人数が十人近くいた。その時私は人数が何人であっても可能であることが感覚的にわかった。

さて、もう一つ面白い体験がある。これも昨年お話ししているが、私はその時、チャクラで森の中をトレッキングする数人の男女を見ていた。私が彼らを見ている時、ふと目の前の空間に粒子の渦巻をつくってみようと思いついた(*3)。
私がそう意識するとすぐに視線の先に粒子の渦巻が現れた。すると思いもよらぬ事が起こった。スクリーンの外にあった渦巻が次の瞬間、映像の中で砂のつむじ風となってたまたま私の視線の正面にいた彼らを襲ったのである。彼らはみるみるうちに砂に埋もれていった。

私は彼らのことが心配になった。それは映像であってもその世界へ入れば彼らは生身の人間であるからだ。この物質界と何ら変わるものではない。その彼らに対して私は意図したものではないといえ危害を加えてしまったのだ。私は意識が次元を越えて作用することを知っていたがこのような出来事は想定外だった。

かつてロバート・A・モンロー氏は高次の知的生命体から創造主による地球創造に関する知識を得た。

モンロー氏によれば創造主はルーシュ(*4)を生産するための畑として地球を創造した。創造主はルーシュの効率的な収穫を目指して試行錯誤を繰り返した。作物(生物)の改良を重ね、失敗すると作物(生物)を一掃した。地球上では過去に5回の大量絶滅があったといわれるがこれは創造主によるものだろう。ちなみに改良作物の最新版が人類である。


私が別次元から何人もの人間をRPGゲームのように操り、砂のつむじ風で男女を砂に埋もれさせたことは規模の大小はあれ創造主がかつて地球で行ったことと同じである。我々人類はみな神の子なのである。
 

私は高次元の世界へ移行した時に全能ともいえる状態を何度も体現しているが全能である自分自身についてどうこう思ったことはない。そこではもはや“比較”という概念が存在しないからである。

そして自己の意識が拡大し、より大きな意識の一部になったとしても、“私”という意識は消えない。今度は大きな意識が“私”になるのである。主体は常に自分なのである。だから自分がどうあるのかが大事なのであり自分自身の波動を上げていかねばならない。他人のお節介などしてはいけないのである。


(*1) この時私はスクリーンで見ているという感覚はなく実際その世界にいるように感じる。だが私の意識がその映像世界に存在していないのでその世界を客観視できるのである。
(*2)「意識の多次元性」参照
(*3) 目を閉じると目の前は暗闇のように見えるが実際は奥行きのある空間である。この空間を少し進むとチャクラのスクリーンがあるのだが手前の空間には意識で容易に粒子の渦巻を発生させることができる。これはチャクラにらせんを描いて流れ込むプラーナ粒子である。
(*4)ルーシュについて
モンロー氏の著書「魂の体外旅行」(日本教文社)によればルーシュは有機的生命を持つすべてのものが異なる純度で生成するものであるという。人間においては感情の引き金になるもので、人間の活動から発生する透明で強力なエネルギーであるという。地球上の生命が生産するルーシュの純度は様々であるが最高純度のものは人類が生産する「愛」(無条件の愛)であるという。