47 その厳しさのなかに | LOVE1000句

LOVE1000句

37歳のリアルな妊娠生活。勝手に大好きなひすいさんLOVE1000プロジェクトにひっそりと便乗?!させていただきました。

47 その厳しさのなかに愛はあったのだろうか


最近吐き気再来でブルーです。。。胎盤もちゃんと出来ていて、おなかの子は順調に育っているようですが、

ツワリが終わる気配がないです。。。はあ。

ブルーになると実母を思い出し涙が出ます。甘えたいとかそういう涙ではないです。理由はわかりません。

母は自他共に厳しい人でした。昨晩ふと思ったのが、母という人は一点の曇りのない青空のような人だったなぁと。よどみまくっている私はそんな母に近づくのも怖かったです。まっすぐで正しすぎて非の打ち所がないがゆえ。母親の要素より父親の要素が大きかったかもしれません。父も健在ですが、父は子育てに殆ど関わらなかった、というか、関われなかったので。青空の次にふっと思ったのが、母は子育てを親としての仕事=責務として、あくまで責務遂行のスタンスで子育てをしていたのではないか、ということ。子供といて楽しい、楽しんでいるという気持ちより、この子が成人したときにみっともない大人にならないようにしなければ、という思いのほうがかなり強かったのでは。思い出すのが、「あなたがそんなことしたら、母親である私がみっともない」「親の躾がなってないと言われる。親が恥をかく」と非常に口酸っぱく言われていたことです。母が望まないことは何か分かっていたので、それに反することをやってみたくて悩んでいたことがありましたが、馬鹿にされると分かっていたので一言も言えませんでした。でも、そんな母を振り切れるほどの勇気や根性もなかった自分が一番ふがいなく悪いのです。結果、自分は口だけでホントのホントは何事も本気でなかったということなのです。自分に自信がなかったということです。そんな半端な思いじゃ何も出来ないに決まっています。当時はそれは自分では分かりませんでしたが。

結局20歳になって家を出た時、無意識に今までの思いが爆発してしまい、その後親子関係は悪化の一路を辿ります。

私は色々我慢の限界だったのですが、それは自分の思い通りにならない娘をみてイライラがつのるばかりだった母も同じだったということです。話し合って自分が打ちのめされるのが怖かったので、いわゆる人生の岐路において母に相談したことは一度もありません。反論された時、論破するだけの頭と強い思いを持ち合わせていなかった自分なりの稚拙な防衛手段だったのだと思います。両親には結果報告 のち お願い(大抵のことは金銭がらみなので)だけでいいと思っていました。後にそれは 進学や就職の時相談もしてくれなかった、と言われましたが、相談しようと思ったこともなかったのが本音です。のちに、精神的に頼れる人が出来て、自信をもてるようになり論破できるようにはなったのですが。

もちろん、母の力は偉大で、母なしではここまでこれなかったのは嘘偽りない事実で、それは今後も変わることはありません。それに対してはただただ感謝です。ただ感情レベルで相性があわないのだと。だからどうしようもないと、私が母に好まれるように努力しなかったわけで、母にもっと歩み寄ろうと本気ださず結果逃げた自分がいけない、それも今は分かります。今出来る最後のほんとうの親孝行とは一体何なのか。難しく考える必要はないのかもしれないけれど、正解はないのだろうけれど、分からずにいます。


と、ここまで書いたところで、おなかの子がボコボコしだした。うぉおおお~~