自然 必然と、


しているのでしょうね。





昨日の記事に 引き続き、

紡いで、まいります。




より


久米島の君南風(きみはえ、方言では「ちんべー」)は、
琉球王朝の三十三君(高級神女)の公職名
だが、その始まりは往古まで遡るとの伝承がある。

通称『君南風由来記』(1700年頃)によれば、
〜神代に三姉妹の神女が降臨した。
長女は首里の弁が岳に降り、
次女は久米島の東嶽に降りたが、
やがて八重山の於茂登岳に移り住んだ。
三女は久米島の西嶽に住んで、君南風になった。〜

また、語り部が本島玉城の神女おばあから聞いた
ところでは、神女三姉妹はヤマトから来たといい、
なかでも三女の君南風はズバ抜けて霊能力が高かった。

〜尚真王の時代、八重山征伐(オヤケ・アカハチの乱)
のときに御神託があって、ヤマトから三姉妹が来たが、
それがスサノオの御子たちなのか、
豊後海部の日巫女三姉妹なのか、はたまた、
宗像三女神なのかは、はっきりとはしない。
とにかく、長女は弁が岳に降り、
次女は八重山の於茂登岳に、
三女は久米島に降りられた。
そのなかで、いちばん霊力が高かったのは、
久米島の君南風になられた三女。
どれほどの霊力高(しじだが)だったかというと、
海の上を草履を履いて歩き、呪術をよく使った。
君南風が一振りすれば、風が舞い、火が起きた。〜

語り部は「君南風は市杵島姫命のことでしょう」と言う。
そして私は、この海神族のプリンセス三姉妹とは、
神代この琉球諸島に降臨した女神だったのではと思う。
 


石垣島に行ったとき、大浜でアカハチの銅像を見た。
 王府に反旗を翻した島の英雄だったが、オヤケ・アカハチの乱
(1500年)で、君南風の参加した王府軍に誅伐された。

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さて、神女・君南風は
弁財天の霊力で王府軍を戦勝に導いたが、
では、その弁財天と王府の関係はどうだったのか。
実はその女神を聞得大君が崇めていた痕跡が残っている。



1927(昭和2)年、
鎌倉芳太郎氏は、尚侯爵家に野嵩御殿(尚泰王の子の妃)
を尋ね、聞得大君御殿の神壇について聞き書きした。
↓そのスケッチが『鎌倉ノート13 北部神座考』にある。
右ページのいちばん上に「弁財天掛物」と。(※原文は辨財天)
つまり神壇の真正面に弁財天の絵が掛かっていた。
左ページは掛物のスケッチで、真ん中に女神像とメモがある。


また上の左ページのメモは次のような内容だ。
(原文のカタカナ表記は平仮名に変換)

〜中央掛物図様
これは「ウミナリウシジ」にして風の御神なりと云う。〜

(中央掛物の女神像についてのメモ)
〜これを弁財天と呼ぶも疑問多く、故 尚泰侯爵もこれが
弁財天とは考えられたるも、古来かく伝えられたる
ゆえしか称す。されど不思議なりと、野嵩御殿に御話
ありきとうけたまわる。〜

いっぽう、
これと同じ掛軸を、伊波普猷氏は田島利三郎氏による
スケッチで見たと「火の神考」に記したが、その図柄とは…。
〜ひとりの女神が胡座にかけていて、その
右手(向って左)にお供らしい女が三人立っている。
それに相対して左手には、お供らしい
七人の女性に取り囲まれた弁財天女の立像がある。〜


「7人のお供に囲まれた弁財天像には、
どんな意味がありますか?」
資料を閲覧した国会図書館から、語り部に電話した。
すると、こんな答えが返ってきた。
「弁財天のお供が7人いるのですね。それは、
昔から“七ぬウミナイ”と呼ばれた日巫女たち。
久高島の祭・イザイホーで神女が籠る七つ星は、
ここから来ているのです」
「すると、弁財天は聞得大君の先祖というわけですか?」
「そういうことになりますね」



とんでもない方向に話が展開してきた。
イザイホーで、七つ屋の近くに建てられていた小祠。
それは、普段は久高島の旧港・君の泊にあるアカララキ
そこに坐す神とはアラハバキだと、昨年の旧正月に書いた。
旧港を上がり、向って左の森にアカララキはある。




天女=弁財天=アカララキ=アラハバキ=市杵島姫=瀬織津姫。
するとやはり聞得大君とは、琉球王朝に始まった神職
ではないのかもしれない。その発祥は神代に遡る?

かつて、語り部は言っていたものだ。
「聞得大君は、ヤマトで言えば菊理姫なのです」と。






秘女の名に


囚われること なきよう


すべては、波動。