『葉っぱのフレディ』(レオ・バスカーリア著)あらすじ

この物語は、フレディと親友のダニエルという二枚の葉っぱが、公園の木で一緒に過ごすお話です。

季節の移り変わりを楽しんでいましたが、冬が近づくと、フレディは落ちること、そしてその先にあるものを恐れるようになります。ダニエルは、春が夏に、夏が秋に変わるように、死もまた自然な流れであると優しく教えます。

やがてダニエルは静かに葉を落とし、フレディは一人で自分の恐れに向き合うことになります。最終的にフレディも避けられない変化を受け入れ、命の自然な循環の中に安らぎを見いだすのです。

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変化への恐れ(抜粋 1)

「死ぬのが怖いよ」とフレディはダニエルに言いました。「下に行ったらどうなるのか分からないんだ。」

ダニエルは答えました。「私たちはみんな、知らないことを恐れるんだよ。それは自然なことだよ。でも春が夏になった時も、夏が秋になった時も、君は怖がらなかっただろう? それらも自然な変化だよ。じゃあ、死という季節をなぜ恐れる必要があるのかな?」

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生きる目的について(抜粋 2)

「僕たちはただ落ちて、死んでしまうだけじゃないか。じゃあ僕たちは、なぜここにいるの?」とフレディはまた尋ねました。
ダニエルは言いました。「友だちのために、太陽や木陰のために。風や人びと、秋の色を思い出してごらん。それだけで十分じゃないか。」

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ビベカ比丘のことば(注釈)

私たちが智慧をもって気づきと共に生きるなら、どの瞬間もそれだけで十分であり、すでに満ち足りていて、欠けるものは何もありません。

そうした瞬間を、友人や家族とともに、自然の中で過ごしながら、ほんとうに生きている実感を目一杯味わうことができるのです。

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昨日のマインドフルネスの会で、ビベカ比丘がこのお話をシェアしてくれた。

法話のテーマは『無常  impermanence』
最近ビベカ比丘の友人の母親が亡くなり、その友人がこの物語を教えてくれたそうだ。

『無常』形成されたすべてのものは変化すること
それを自然としてあるがままに理解した時、フレディの恐怖は消えた。
 
私がとても感銘を受けたのが、ビベカ比丘の最後の言葉で、
ほんとうに生きている実感を目一杯味わう
("touch the fullness of being truly alive")
というところだった。


ほんとうに  いきている  実感を  

目一杯  味わう


今、この瞬間に
 
🍁🍁🌳

 

 
数カ月前、今年のVassa(雨安居)リトリートに参加したいと思い、
ミャンマー仏教の瞑想ができるセンターがタイあたりにないか友人に尋ねてみた。
 
友人は、そのまた友人のタイ人の元サヤレー(尼僧)に尋ねてくれた。
 
彼女は、バンコクの西の方にチャンミェ瞑想センターのブランチ【Dhammodaya】があると教えてくれ、
創設者の娘さんのNayさんという女性を紹介してくれた。
 
Dhammodayaは英語ではほぼ情報がなく、
あるのはタイ語のFacebookと、Googleマップの写真だけだった。
 
少し不安だったけど、信頼する人の信頼する人からの紹介だったので、
ただ瞑想ができればいいという思いで、Nayさんに参加のお願いメッセージを送った。
 
少しのやり取りで、すぐに了解の返事が返ってきた。
 
雨安居のヴィパッサナー・リトリートに参加するのは6年ぶりだったが、
いろいろ迷う間もなく、1か所目ですんなり決まった。
 
 
バンコクにいる友人に夏に行くことを伝えると、すぐにタクシーの手配をしてくれ、
更に同じ時に香港の仲間もバンコクに来ることが分かり、リトリート後みんなで再会できることになった。
 
あまりのトントン拍子に、【意志さえ生じれば、後は全てが整えられている】という、
ミャンマー時代の記憶が蘇った。
 
 

Dhammodaya内の地図

 
2018〜2019年のルンビニのパンディタラマ瞑想センター以来のサイレント・リトリートだったが、
2日くらいすると徐々に心が思い出し始めた。
 
やり方はパンディタラマと同じくマハシ系だが、チャンミェ瞑想センターでは、
歩く瞑想に更に力を入れている印象を受けた。
 
先生はマレーシア人で、チャンミェ・サヤドー(Chanmyay Sayadaw)の弟子のU Nyanaramsi サヤドー。
中国語と英語を話す先生なので、滞在している瞑想者は8割以上が中国語話者、
あとはわずかにシンガポール人、タイ人などの英語を話す人がいた。
 
 
先生は、私の滞在期間が短いため、特別に1日おきにインタビューをして下さった。
 
十分な時間を取って、本当に丁寧に、熱心に指導・助言して下さり、
早いうちに感覚を取り戻すことができたのは、間違いなく先生のおかげだった。
 
Dhammodayaの自然は美しい

 
最終日の朝、初めてNayさんとゆっくりお話しすることができた。
 
Nayさんと彼女のお母さんは、90年代に
ヤンゴンのチャンミ・メディテーションセンターで出家した。
2人とも8年間、サヤレー(尼僧)として瞑想修行に励んだそうだ。

その後、Nayさんのお母さんは、たまたま、
現在Dhammodayaがある場所の土地を得ることとなり、
その土地をチャンミ・サヤド―に寄付して、瞑想センターを設立することとなった。

今は緑豊かなこの場所だが、寄付した当初は、草しか生えていないただの広大な土地だったそうだ。
 
 
還俗したNayさんと、尼僧のお母さんはタイに戻り、
Dhammodayaの近くにある大きなお寺に滞在し、
 
毎日毎日、何もない土地に通って二人で木を植えた。
 
 
それから二十数年経った今、ここは大きな木々の生い茂るセンターとなった。
 
当時の二人は、どんな思いで、一本一本、木を植えていたんだろう。
巨大なガジュマルの木は、二人の歴史を物語っていた。
 
緑は、焼け付く日差しから私たちを守ってくれる


 

Sayadaw U Nyanaramsiは、Nayさんたちと同時期にチャンミェ・サヤドーの元で修業なさっていた。
90年代当時、U Nyanaramsiは30歳くらいで、

チャンミェ・サヤドーの最も優秀なお弟子さんの一人だったそうだ。

U Nyanaramsiは、チャンミェ・サヤドーからDhammodayaに送られて、6年になる。

 

 

タイのこの素晴らしいセンターは、ひっそりとそこにあって、

 

ダンマを実践する人たちを、力強く支えている。

 

 

作品No.4

ソフトパステルの使い方が分からないけれど、分からないから自由に描けていいのかもしれない。

釈迦如来像 室生寺 平安時代前期


さて、7月27日(日)は、ビベカ比丘のマインドフルネスの日。

こちらは前回の。


心の静けさと温かさを皆で共に感じる時間になった。



先日、パステルを購入した。
色合いがあまりに美しく、素朴で、見ているだけで幸せな気持ちになる。


パステル画を描いてみたいだけで、特に描くものも決めてなかったし、試しに仏像を描くことにした。

中宮寺に行ったとき、菩薩半跏像のはがきを買っていたので、三枚描いてみた。
これは作品No.2。
アルカイックスマイルより若干スマイル多めの仕上がりに。

作品No.3


高校と大学時代、石膏デッサンが好きだった。


ギリシャ彫刻(レプリカ)を前に画用紙に向かう。
落ち着いた時間。
静かな情熱。


仏像を描くのは生まれて初めてだったが、描きながらなんだかそんな心を思い出していた。


こんな風に、昔と今が繋がるのが、なんだかとても嬉しい。


今日は、月に2回の「See For Yourself(自分で確かめる)」オンライングループに参加した。

ここ数カ月は仏教の八正道について探究している。

 

私以外全員が香港在住だが、人種も国籍も様々だ。

言語は英語で、メンバーの中で私が一番上手じゃないが、あまり気にしていない。
大切なのは心なのだからニコキラキラ虹

今日探究したのは、先週に引き続き『正命』、パーリ語では sammā-ājīva 。

 

今日の練修パートナーはJulieという女性だった。

以下が、Julieとの話す瞑想と全体でのシェアリングで起こった気付きだ。

 

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正命は英語でRight-Livelihood(正しい生活・生計)と訳されることが多いが、

今回ファシリテーターたちがシェアしてくれた読み物の中では、Wise-Livelihood(賢い生活・生計)という言葉があった。

「正しい」という言葉よりも「賢い」=「智慧のある」という言葉の方が、するべきことがはっきり見えてくる。

 

私は先生という職業ではあるが、自分=先生というのが何か変な感じがする。

自分の考えが絶対的に正しい訳がないと思っているし、誰かを自分の考えによって変えたいという思いがない。

 

ただ、様々な煩悩が生じると、心が思考に支配される。

 

私たちは、役割について思考する。

先生、生徒、保護者、親、子、妻、夫、客、店員などなど・・・

役割を果たすために、何をすべきかと。

 

役割があると、分断が生まれる。

いや、役割じたいが悪いわけではない。

 

役割はただの概念。

 

ただ、役割に執着すると問題が起こる。

 

 

私は、自分が「自分の役割」に「期待すること」を満たすために行動していた。

 

いや、ちょっと待った・・・

 

自分が期待していることだと思っていたがが、

実は「他者から期待されている」(もしくは期待されている思い込んでいる)役割だったと、気づく。

 

(自分が思い込んだ)他者の期待に応えるために役割を頑張っていた。

 

 

これは、正命と言えるのだろうか。

正しさは智慧から生まれる。
智慧があるとき、私たちは苦しみから自由である。

 

 

最近の自分の仕事を振り返ると、他者からの期待を満たすために行動することが、自らに苦しみを生み出していたことに気付く。


そこに苦しみがあるとき、智慧はない。
 

では、どうするのか?

 

Wise-Livelihood(智慧ある生活)という言葉に立ち返る。

智慧があるとき、そこには期待も執着も、自分も他人もない。

 

その役割において、人としてすべきことは何かを考え、行動する。

 

他者から期待されている(もしくは勝手に期待されていると思い込んでいる)役割を果たそうとすると、
「こうした方がいいんじゃないかな」「ああした方がいいんじゃ」

という思考が生まれる。

 

そんなときは、智慧に帰ってくる。

執着から離れ自己からはなれたとき、本当に正命を生きることができる。

 

正命とは、仕事だけではなく、生き方そのものであると言える。

 

 

最後に皆がそのことに気付き、深い喜びと感謝の中、今日の八正道の探究は終わった。

でも、それぞれの探究は終わらない。

 

 

この集まりが本当に楽しい。

楽しい。

 


 

久しぶりに動画をアップできました。
2025年2月9日分
日本語通訳付き、ビベカ比丘によるガイド付き瞑想と法話

法話のテーマは『確かなよりどころ』

変化し続ける内と外の世界にあっても、確かな拠り所はいつもそこにある。
それらに気がつき、そして気付きを保ち続ける。

 
そのためには、一緒に練習を続ける友人たちの存在は、
なくてはならないものだと感じます。

感謝 合掌 
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毎月1回、日曜の夜にビベカ比丘とオンラインでインドフルネス瞑想&法話の会を開催しています。
また別日に、月1回グループ練修(ビベカ比丘不在)も始めました。

次回は3月16日(日)ビベカ比丘との練修
参加を希望される方は日々のダンマのメールでご連絡ください。
グループの信頼性の観点から、顔と名前を出して参加いただいています。

★Instagram:
https://www.instagram.com/dhamma_in_d...
★bhikkhu Viveka's Website/ビベカ比丘のウェブサイト(英語/フランス語):
www.maisonbodhi.org

【ビベカ比丘の紹介】
ビベカ比丘は気づきの練修と慈悲を実践する生き方を教えている僧侶です。
1990年代初頭から瞑想を始め、2002年に最初のリトリートに参加、
2013年にミャンマーで師であるサヤド―・ウ・テジャニヤ長老の下で出家しました。
20年以上に渡りアメリカ、ヨーロッパの在家の先生や、アジアの師から指導を受ける機会を得てきました。
6年前から様々なリトリート等で瞑想を教えています。
現在はカナダ東部に暮らしています。

和尚さんの自宅で火災があったのが、2月7日の夜だ。
 

和尚さんと奥さんと1匹の猫ちゃん以外、ほとんど全てが燃えてしまった。

 

その日ちょうどベトナム人のハイさんのバイバイパーティーがお寺であったので、

新美さんや和尚さんの息子さん、その他たくさんの人たちがお寺に集合していた。

 

そのお陰で、和尚さんと奥さんは一命を取り留めた。

また、本当に幸いだったのが、どこにも延焼することなく火は消し止められた。

皆が口々に、これを奇跡だと言う。相生山の森は家のほんの横にある。

 

和尚さんたちは着の身着のままの状態で助け出された。そして何もかもが灰と化してしまった。

 

後の和尚さんからのメッセージには、
あまりにも完全で、まるでこの世に生まれたばかりの赤ん坊の如しです。
と書いてあった。

消火活動の最中、新美さんから電話がかかってきて、私は火災のことを知った。

 

新美さんはその時和尚さんに電話を変わってくれ、

私が無事で安心したことをお伝えすると、和尚さんは、

もう少しで大涅槃でした。

と、冗談か本気か分からないことをおっしゃった。

 

 

 

それから3週間余り経ち、スマホも手に入ったとのことで、和尚さんに電話をかけた。

 

ちょうどお昼寝の最中で、私は和尚さんを起こしてしまった。

 

火災のお見舞いのつもりだったが、和尚さんが相変わらずすぎて、お見舞いの言葉は宙へと消えていった。

その代わり、今和尚さんの心が向かう果樹園のお話をたくさん聞かせてくれた。

 

果樹園にはすでに100本以上の果樹を植え、更に100本くらいこの春に植えるそうだ。

私は3月末に名古屋に行ったら、自分で果樹を植えさせてもらう約束を取り付けた。

 

今住んでいる場所はいかがですか?と尋ねると、「非常に快適」とのことだった。

 

でもなんとなく腑に落ちない感じがしたので、もう少し探っていくと、

今の住処にあるものは全て色んな方からいただだいたもので、

自分で買ったものは何もないが、自分としては何か物足りない。

ない時は作ったり工夫したりしたい、

というような気持ちを感じ取った。

 

流石だ。

 

20分弱の通話だったが、自分の中に眠っていた、和尚さんといた頃の感覚がふっと目をさますのを感じた。

 

こんなにおもしろい人間を他に知らない。

決して後ろを振り返ることがない。

本人にとってはただそうであるだけなのだろうが、私はその生きる様子に感銘を受けるのだ

 

 

 

自分にとっての原点、還るべき所。

優しさというのは、世界にあふれている。
 

それは、「誰か」から「誰か」に向けられた「優しさ」という、概念的な意味ではない。

 

 

それは、空気中に漂う酸素のようなものなのかもしれない。

 


「優しさ」という概念から自由になると、

 

優しさの粒子は、世界に溢れていることが分かる。

 


例えば静かな微笑みを見るだけで、


土に触れるだけで、


概念を越えた、優しさそのものを経験するかもしれない。

 


 

粒子の構成物であるこの身体と、優しさの粒子が溶け合わさる。

 

すると心と体が、すーっと優しさで満ちていく。




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今日から2日間、インサイト・ダイアローグ(智慧の対話)の世界リトリートが始まった。

48時間オンラインで世界中どこからでも参加できる。

Liberation Through Relationality: Around the World Insight Dialogue Retreat

 

今日は友人のChoとJaneのセッションに参加した。

 

たくさんの参加者がいたが、私の練習パートナーはDaveだった。

Daveは82歳で、長年瞑想やインサイト・ダイアローグを教えている。

先生と練習できるとは有難いことだった。

 

Daveの智慧の導きは、心を概念に留まらせず、概念を越えた経験をもたらした。

 

その瞬間に生じる他者の智慧に、ありのままに触れる。

そうすると自分の中にも同じ智慧が生じてくる。

 

そんなことが簡単に起こってしまう。

この練習の力強さを感じずにはいられない。

 

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そしてどういうわけか、Daveに誘われ、

私も明日23日、インサイト・ダイアローグのセッションをすることになった。

多言語で行うため、私が英語、友人のJessicaが中国語で行う。

 

英語って私には本当にハードルが高いのだが、今は仕方がない。

日本人がインサイト・ダイアローグを見つけてくれることを、心から願うのです..🙏

 

 

今朝から、香港にいるEvaとGenが隔週で開催している『See For Yourself(自分で確かめる)』グループに参加することになった。

 

2人やグループの何人かとは、年末の香港リトリート等で既に何度か一緒に練習したことがある。本当に素敵な友人たちだ。

 

このグループでは、八正道のそれぞれの要素について、学ぶこととと実践の両方を通して深めている。

既にこれまで正見と正思については一通り終わっていて、今日は正語(正しい言葉)についての2回目だった。

 

流れはインサイト・ダイアローグ(智慧の対話)と似ていて、最初瞑想をして、次に全員がチェックインしてから今日の本題に入る。

 

今日は増支部経典(アンガッタラ・ニカーヤ)10.69にある、『意義深く有益な対話のための、10の尊い話題』について、ペアになって、今この瞬間自分にとって感じられることを言葉にした。

 

10の話題とは、

  • 慎み Modesty (appicchatā)
  • 満足 Contentment (santuṭṭhi)
  • 閑居 Seclusion (paviveka)
  • 不執着 Non-entanglement (asaṁsagga)
  • 精進の奮起 Arousing persistence (viriyārambha)
  • 戒 Virtue (sīla)
  • 定 Concentration (samādhi)
  • 慧 Discernment (paññā)
  • 解脱 Release (vimutti)
  • 解脱知見 Knowledge & vision of release (vimuttiñāṇadassana)
今回のパートナーは香港で知り合った、大先輩の比丘尼(尼僧)だった。
リトリートでは彼女の深い智慧とユーモアのセンスに触れ、私は彼女の大ファンになっていた。
 
最初自分の番だったが、「私はこの10の話題について、職場や家で話題として話すことはほとんどなく、話すのは専らこんな風にダンマフレンドと集まるときだけだ」というようなことを話した。
日常生活で10の話題を話せる機会があまりないことに残念な気持ちになったが、こうやって互いに高め合える存在が世界にはいることを思い出した。
 
比丘尼のシェアは、私の想像をはるかに超えてきた。
彼女はインサイト・ダイアローグの6つのガイドラインに10の話題を当てはめ始めた。
 
1. 止まる ー 慧、閑居
2. リラックス ー 解脱 
3. 開く ー 解脱知見、満足 
4. 現れに心を合わせる ー 不執着、慎み 
5. 深く聞く ー 定、精進の奮起 
6. 真実を話す ー 戒
 
初め理解できなかったが、聞いているうちに、
彼女は10の話題を心の質として捉えて、自らの経験を元に当てはめたのだと分かった。
 
そして彼女は私に、
「先ほど、日常生活で10の話題について話すことはないと言ったけど、こんな風に考えると、普段話す姿勢に、この10の話題が反映されてると言えないかな?」
と言った。
 
私は10の話題そのものを話題として話すのだという風にだけ捉えて、普段それをする機会があまりないことを残念に思っていた。
 
しかし、彼女はそれを全く『別の見方』で理解し、示してくれた。
彼女は、10の「話題」とうい言葉にとらわれず、私の中にある固定観念をぶっ壊してくれた。こういうのを、ハッとする瞬間というのだろう。
 
確かに私は日常生活で、10の話題=性質のいくつかを、常に意識して他者と話をしていることに気付いた。
 
良い意味での彼女の破壊力に、私は衝撃を受けた。
 
そしてそのことは、他の様々なことにも通じているのではないかと感じた。
言葉通り、額面通りに受け取っていると、それに縛られてしまう。
言葉は縛ることも、自由へと導くこともできる。
 
それは受け取り手の姿勢にかかっている。
 
そんなことを比丘尼は、にこにこ笑いながら見せてくれたように感じる。
 
彼女の自由な心は、智慧の風になって、私の心に心地よく吹き込んだ。
 
 
 
 
 
 
 

ああ、この身は久しからず

地に横たわることになろう

意識が亡くなり、捨てられる

まるで無用な棒切れのごとく

 

《因縁》
この方は、仏が、サーヴァッティ(舎衛城、祇園精舎)に住んでおられたとき、
ティッサ長老について説かれたものである。
 
あるとき、修業に励んでいるティッサ長老の身体に腫れ物が生じた。
最初は芥子だねほどであったが、
だんだん大きくなってベールヴァの実ほどにもなり、
やがて破裂した。
 
全身に穴が開き、
プーティガッタ・ティッサ(悪臭身のティッサ)と呼ばれるようになった。
まもなくもろもろの骨も壊れ、
法衣は膿で汚れて、
弟子たちにも見捨てられ、
独り臥していた。
 
ときに、仏は智慧をもって世界を眺め、
ティッサ長老のあまりにも悲惨な状態を知られた。
同時に、かれに阿羅漢となる機根があることをご覧になり、
精舎巡行の後、火堂に行き、湯を沸かし、
長老のもとに趣かれた。
 
弟子たちはベッドを用意し、
かれを火堂に運び入れた。
仏はかれの身体を湯で丁寧に洗われ、
比丘たちは法衣を洗った。
 
かれは身体が軽くなり、心も安定し、
ベッドに臥した。
そこで仏は、かれに
「比丘よ、そなたのこの身体は、意識もなくなり、棒切れのようにこの大地に横たわるであろう」
と言って、この法を説かれた。
その終わりに、かれは阿羅漢の境地を得、
まもなく息を引き取ったという。
これが法句41の因縁話である。
 
(片山一良「ダンマパダ 全詩解説」p.62,63より抜粋)
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All too soon this body, (Aciraṁ vatayaṁ kāyo)
will lie upon the earth, (pathaviṁ adhisessati)
bereft of consciousness, (Chuddho apetaviññāṇo)
tossed aside like a worthless log. (niratthaṁva kaliṅgaraṁ)
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