今日は、月に2回の「See For Yourself(自分で確かめる)」オンライングループに参加した。
ここ数カ月は仏教の八正道について探究している。
私以外全員が香港在住だが、人種も国籍も様々だ。
言語は英語で、メンバーの中で私が一番上手じゃないが、あまり気にしていない。
大切なのは心なのだから![]()
![]()
![]()
今日探究したのは、先週に引き続き『正命』、パーリ語では sammā-ājīva 。
今日の練修パートナーはJulieという女性だった。
以下が、Julieとの話す瞑想と全体でのシェアリングで起こった気付きだ。
--------------------------------------------------------------------
正命は英語でRight-Livelihood(正しい生活・生計)と訳されることが多いが、
今回ファシリテーターたちがシェアしてくれた読み物の中では、Wise-Livelihood(賢い生活・生計)という言葉があった。
「正しい」という言葉よりも「賢い」=「智慧のある」という言葉の方が、するべきことがはっきり見えてくる。
私は先生という職業ではあるが、自分=先生というのが何か変な感じがする。
自分の考えが絶対的に正しい訳がないと思っているし、誰かを自分の考えによって変えたいという思いがない。
ただ、様々な煩悩が生じると、心が思考に支配される。
私たちは、役割について思考する。
先生、生徒、保護者、親、子、妻、夫、客、店員などなど・・・
役割を果たすために、何をすべきかと。
役割があると、分断が生まれる。
いや、役割じたいが悪いわけではない。
役割はただの概念。
ただ、役割に執着すると問題が起こる。
私は、自分が「自分の役割」に「期待すること」を満たすために行動していた。
いや、ちょっと待った・・・
自分が期待していることだと思っていたがが、
実は「他者から期待されている」(もしくは期待されている思い込んでいる)役割だったと、気づく。
(自分が思い込んだ)他者の期待に応えるために役割を頑張っていた。
これは、正命と言えるのだろうか。
正しさは智慧から生まれる。
智慧があるとき、私たちは苦しみから自由である。
最近の自分の仕事を振り返ると、他者からの期待を満たすために行動することが、自らに苦しみを生み出していたことに気付く。
そこに苦しみがあるとき、智慧はない。
では、どうするのか?
Wise-Livelihood(智慧ある生活)という言葉に立ち返る。
智慧があるとき、そこには期待も執着も、自分も他人もない。
その役割において、人としてすべきことは何かを考え、行動する。
他者から期待されている(もしくは勝手に期待されていると思い込んでいる)役割を果たそうとすると、
「こうした方がいいんじゃないかな」「ああした方がいいんじゃ」
という思考が生まれる。
そんなときは、智慧に帰ってくる。
執着から離れ自己からはなれたとき、本当に正命を生きることができる。
正命とは、仕事だけではなく、生き方そのものであると言える。
最後に皆がそのことに気付き、深い喜びと感謝の中、今日の八正道の探究は終わった。
でも、それぞれの探究は終わらない。
この集まりが本当に楽しい。
楽しい。