「宅見若頭暗殺」(その2) | なんでも書いちゃってます

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平成最後の極道スクープ 

山口組若頭射殺事件「最大の謎」が明らかに

「中野太郎」(元中野会会長が告白)!

山口組抗争「宅見若頭暗殺」の真相

 

私(夕貴)は余りに生々しい

「渡辺」5代目組長と「中野太郎」会長の

電話のやりとりに強烈な衝撃を受けた!

 
 

 

墓場どころか・・・・・

地獄まで持って行こうと決めていたことがいくつかあった。

しかし、これらのことを話さないうちは死ねないと、

今さらにして思い始めた。

私、中野太郎と「中野会」について、

皆さんが知りたいことがあるとすれば、

「あの事件」をおいて他にはないだろう。

 

<元中野会会長・中野太郎氏(82)は、静かに語り始めた。

「喧嘩太郎」「懲役太郎」の異名を持ち、

山口組史上最凶と恐れられた伝説のヤクザその人だ。

 

’97年8月28日、午後3時20分ごろ。

兵庫県神戸市内の「新神戸オリエンタルホテル」

4階のティーラウンジで、

五代目山口組の宅見勝若頭(当時61)が

4人組の男たちに頭や首などを撃たれ、死亡した。

裏社会最大の謎とされる「宅見殺し」である。

あのとき、「山口組奥ノ院」で何が起きていたのか。

事件の”当事者”である中野氏が、

自身初の著書『悲憤』のなかで、すべてを明かした。>

 

「まだか? まだか? はようカシラ(宅見若頭)を……」

事件の1年くらい前のこと。毎日のように、

私のもとへ「五代目」から電話がかかってきていた。

五代目山口組・渡邉芳則組長である。

五代目はいつも苛立ちを隠さず、

私たちは、ときには何時間も、「この件」で話し込んだ。

私は正座したまま、電話の向こうの五代目の声に耳を傾けた。

五代目の「望み」は、ただ一つだった。

「とにかくはよう、カシラの」命(タマ)を殺(ト)れ、ということである。

自他ともに認める「五代目の親衛隊長」である私にしか、

五代目はこんなことを頼めなかったのだと思う。

だが、宅見は事実上の山口組ナンバー2である。

「喧嘩太郎」「人斬り太郎」と呼ばれ、

「そんなもん、いてもうたれ」が口癖の私であっても、

簡単に「ハイわかりました」と言える話ではない.

 
 
 

 

「宅見は、病気でもう長いことないと自分で言うてますし、

引退も考えてますやろ? ほっといても死にますわ」

 

「……あかん、今や。今、トるんや」

 

なぜ、五代目はそこまで宅見を憎んでいたのか。

真意は、私にもわからない。

 

ただ五代目は・・・・・

宅見から「五代目にしてやった」というように言われるのが

堪(たま)らなかったようではあった。

五代目山口組組長の候補者を選ぶ際に、

「若くて経験が不足している」と異を唱える親分衆も少なくなかった。

そうした不協和音を調整できるのは、宅見をおいて他になかった。

だが、それをいつまでも恩着せがましく言われたら、

腹も立つというものだ。

 

「あのガキ、なめやがって……」

五代目はいつもそう言っていた。

 

かつては山口組という組織のためを思って活動していた

宅見を変えたのは、昭和末期の不動産バブルだと思う。

宅見は山口組に多少は残っていた

「任侠道」を「金狂道」一色にしてしまった張本人である。

 

「あんた、だれのおかげでそこ(組長の座布団)に座っとるんや?」

 

圧倒的な資金力を誇った宅見は、いつしか

「当代の重み」(5代目の事)を無視するようになり、

五代目に対してそういう言い方をするようになっていた。

 

親分の意を汲んだ若い衆

 

「最初は『謹慎』で辛抱してくれんか?

 いずれ折をみて必ず復帰できるようにするから」

 

五代目は私に「絶縁にはしない」と強調した。

ヤクザの世界で、組織の掟に背いた者に対する処分のうち、

最も重いのが絶縁だ。

復帰の余地がある破門に対し、

絶縁にはその余地がない。

 

本来なら、同じ組織の幹部を殺すことなど

大罪中の大罪であり、絶縁処分は必至である。

 

「弱ったのう……」

 

独りで逡巡する日々が続いたが、

五代目は相変わらず毎日、電話をかけてくる。

 

「まだか? 後のことは心配せんでもええ。はよ……」

 

悩んでいても仕方ないので、

私は側近で中野会副会長の

弘田憲二(弘田組組長)らを呼び出して、

相談することにした。

 

「ええっ? 宅見のガキを殺(ヤ)れと?

 あれはもう肝臓ボロボロなんでっしゃろ?

 ほっといても死にますやろ?」

 

弘田らはとても驚いていた。

 

「そうは言うても、コレがな……」

私は親指を立てた。「親分」という意味である。

弘田は黙り込んだ。

その後も「結論」は出ず、日にちばかりが過ぎていった。

だが、私の気持ちを察して、

彼らは作戦を練り始めたようだった。

傘下の組織の者から、

宅見の日常の動向を探るための「偵察部隊」と、

襲撃のための「実動部隊」を作り、

銃撃のチャンスを狙うことにしたのである。

そして、とうとう「その日」を迎えてしまった。

 

宅見射殺の第一報を聞いたのは、

事件後すぐだった。

ついにやってしもうたか……

私はこれから起こるさまざまなことに思いをめぐらせると、

暗澹(あんたん)たる気持ちになった。

すぐに(山口組)執行部の組長たちも本家に集合した。

その日のうちに「中野会の犯行」と知られていた。

居合わせたカタギの歯科医師にも流れ弾が当たったことで、

事態はいっそう深刻になった。

 

宅見の葬儀は、8月31日に行われた。

葬儀後の幹部会で、

私の「破門」が決まった。

ほとんどの組長が私の絶縁を望んだのに対し、

五代目は「まだ犯人とわかってないやないか」と反論したという。

だが、9月3日、入院していた歯科医師が亡くなったことで、

執行部は私の絶縁処分を決定する。

 

「話が違うやおまへんか!」

 

私は電話口で五代目に怒鳴った。

 

「それが……。執行部に押しきられてしもてな……」

 

「ワシは五代目のためにがんばったのに、

おかしんちゃいますか?」

 

「すまん……」

 

そう言ったきり、五代目は、その後は電話にも出なくなった。

まさにハシゴを外されたのだが、後悔しても遅かった。

組の者から「五代目の姐(ねぇ)さんが会うと言っている」と聞き、

話をつけようと試みたこともある。

自宅周辺は機動隊が詰めているので、

妻名義の自家用車のトランクに入り、

近くの喫茶店の駐車場で別の車に乗り換えるなど

スパイ映画のようなこともやった。

だが、結局、五代目はおろか姐さんにも会うことはできなかった。

帰りは、もう邪魔臭くなり、助手席に乗って堂々と帰った。

「会長、どうやって出たんでっか?」

自宅に詰めている警察官たちにもびっくりされた。

ヤクザとして生きた

事件の翌年である’98年2月。

宅見が殺された新神戸オリエンタルホテルの

監視カメラに写っていた男が、

中野会関係者であることが報じられた。

中野会風紀委員長の吉野和利である。

さらに20日ほどして、

吉野を含む実行犯4人が特定された。

しかし、宅見射殺の決め手となる物証が乏しかったせいか、

それぞれ別件の暴力行為や詐欺容疑で指名手配された。

逮捕も時間の問題となったが、

吉野は同じ年の7月・・・

潜伏先の韓国で遺体となって発見された。

宅見組のカエシ(報復)という見方以上に、

「中野会による口封じ」との噂が広まったが、

もちろん私はこのようなことは指示していない。

 

<その後、’99年3月に実行犯の中保喜代春と吉田武、

7月に川崎英樹が殺人容疑で逮捕される。

事件から9年後の’06年6月には、

鳥屋原精輝の遺体が神戸市内の倉庫で発見され、

’13年6月には見届け役の財津晴敏が逮捕された。

 

その間、実行犯以外にも次々と幹部を失ったが、

中野氏は独立組織として中野会を存続。

しかし’03年1月に脳梗塞で倒れ、

2年後の’05年8月、ついに解散と引退を決意する。>

 

ヤクザは、「親分が白と言ったら黒いものも白」の世界だ。

私にとっての親分は渡邉芳則だった。

私が直参として仕えた山口組組長は、渡邉だけである。

親分(トップ)と若頭(ナンバー2)がゴタゴタしている。

そういうときは、親分に従わねばならない。

ヤクザとして生きる途を選んだ以上、それは必然だった。

ただ、その結果として若い者たちを苦しませ、

あるいは死に追い込んでしまった。

その当時のことを思い返せば、

いまも悲憤に明け暮れるばかりである。

 

 


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