第311回吉良上野介義央公毎歳忌 | 稲垣昌利オフィシャルブログ「まさとしのティータイム」Powered by Ameba

稲垣昌利オフィシャルブログ「まさとしのティータイム」Powered by Ameba

稲垣昌利オフィシャルブログ「まさとしのティータイム」Powered by Ameba

本日12月14日は吉良上野介義央公の命日であり、


毎歳忌法要が営まれましたひらめき電球






稲垣昌利オフィシャルブログ「まさとしのティータイム」Powered by Ameba



吉良氏は鎌倉時代より現在の西尾市を本領として


室町足利将軍一門として重きをなした名族であり、


その後裔が「元禄事件」または「赤穂事件」


で有名な義央公ですひらめき電球


元禄14年(1701)、


五万三千石の赤穂藩主浅野内匠頭長矩


勅使(天皇の使者)の御馳走人(館伴)を命じられ、


その指導を吉良上野介義央が行いましたひらめき電球


伝えられるところでは、


浅野内匠頭義央に意地悪をされ我慢できず


同年3月14日


江戸城大廊下(松の廊下)で


「この間の遺恨覚えたるか」と叫び


義央に切りかかったそうですビックリマーク





幸い義央は致命傷にはなりませんでしたが、


その日は「御返答日」といい、


将軍が勅使に対してお礼を奏上する重要な日であり、


激怒した将軍徳川綱吉は内匠頭に即日切腹を命じ、


赤穂藩は取りつぶしとしました!!





一方、


義央に対しては殿中をはばかり手向かいしなかったことは


殊勝であるとしてお咎めなしであったので、


世間では余りにも不公平と赤穂に同情的でしたひらめき電球





赤穂側では47人の浪人が大石内蔵助を中心に、


元禄15年12月14日深夜3時頃


本所松坂町(現墨田区)の吉良邸を夜襲し、


義央の首を取るという大事件を引き起こしました!!


歴史上これを元禄事件、または赤穂事件とよんでいますひらめき電球




元禄事件を題材とした赤穂浪士の敵討ちの物語は


「忠臣蔵」と呼ばれ、


義央は悪役として面白おかしく描かれいつの間にか、


吉良上野介といえば「天下の極悪人」という世評をうけましたひらめき電球





しかし、実際に悪人ぶりを示す史料はほとんど残っていません!!


現代でも「忠臣蔵」は映画やテレビで放映されるたびに


人気を博しますが、


物語・フィクション楽しんでいただく反面、


領民のために尽力し領地では名君と慕われた


吉良上野介義央の実像を知っていただくことを切に望みます。