山崎城 旧宍粟郡山崎町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

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現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

山崎城(宍粟市山崎町鹿沢)

別名:鹿沢城・宍粟城・山崎藩陣屋


初代城主は釜内小次郎範春という。釜内家は赤松頼範よりの分流支族で、さらに釜内家よりの分流として、樋山氏ほか18氏が挙げられている。『赤松秘士録』の「籏揃」には「宍粟郡笹丸城主釜内小次郎家春 籏紋香車、騎馬十三人歩兵二百人」とある。『宍粟郡古城誌』のなかの熊見城(篠ノ丸城)の項には「釜内小次郎範春」を釜内家の元祖としている。範春と家春は同一人物ではなかろうか。『播磨鑑』には「範春は元弘の項宮方で軍功を働き、建武の頃より尊氏に属す」とあって、一層両者の同一人物であることを教えてくれる。

この城は嘉吉の変(1441)に落城したが、応仁の乱(1467)に乗じて再興した。赤松氏が播磨地方を支配するとともに長水城篠ノ丸城もその一族の居城となっていった。天文十一年(1542)尼子氏が播磨に進攻、長水城篠ノ丸城の2城を攻略するや、鹿沢城跡に砦を築いて家臣に守らせたという(『宍粟郡誌』)。永禄四年(1561)毛利氏により播磨より尼子氏の勢力が一掃されるや、宍粟郡内の諸城は三度赤松一族の居城となった。天正五年(1577)羽柴秀吉はこの城を攻略し、同十二年龍野城主羽柴勝俊の所領となり、篠ノ丸城の南端の台地に新城を築いたとある。鹿沢城跡に再築したことになる。

慶長五年(1600)池田輝政が播磨52万石の領主となるや、その重臣中村主殿助がこの城に入り、山崎地方を支配した。その後元和元年(1615)池田輝澄が領有し、3万8千石の山崎藩が誕生、鹿沢城に居住した。以後松平(5万石)、本多(1万石)と続いた。当時の城は台地の南端に本丸を置き、その東西に二の丸、三の丸を構え、これを堀と土塁で区画したいわゆる梯郭式の平山城で、その外側に城下町を設けた。

(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)


現地の絵図
表御門食い違い虎口
角櫓説明看板
紙屋門
主郭
埋御門跡
西御殿跡
北内堀跡
表御門跡