篠ノ丸城(宍粟市山崎町門前字横須・加生)
別名:熊見城
『日本城郭大系』によると、篠山は古くから赤松氏の一族である釜内小次郎家春が山岳陣地を築いていたという。法雲寺蔵『赤松大系図』によると赤松茂利の子に範資、範春等があり、範資は円心の養子となり、範春は釜内系分流として、釜内小次郎豊前守蓬莱家祖宍粟郡山崎城主紋地扇両引、元弘頃宮方軍功顕とある。釜内家春もこの系統の人であろう。この陣地に城を築いたのは『宍粟郡誌』には「貞和年中赤松則祐の創建せし所、後に則祐長水城を築くに及び篠の丸城はその出城となれり。此の地但州と往来の便あり。山河の形勢頗る兵略に重要なり」とあり、さきの『日本城郭大系』には「貞和年中(1345~1351頃赤松貞範が初めて城を築いた」とある。『日本城郭全集』には「赤松則祐当国を領し、国郡巡見の際、篠の丸城を築いた。貞範の子顕則を城主として居城させた。顕則が飾磨郡庄山城に移った後は釜内小次郎範春が守った」とある。これは『宍粟郡古城誌』の引用であろう。この『宍粟郡古城誌』によると、釜内小次郎範春から政則、成久、成勝、と続いた後、長水城主宇野丹波守景顕が篠の丸の城主を兼ねた後、熊見景範、景純と続き、次いで宇野蔵人光景が城主となったが、天正七年(1579)六月十五日落城すとある。天正七年は八年の誤りであろう。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
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