長水城(宍粟市山崎町片山・宇野・五十波・大谷)
別名:朝水山城・広瀬城
市街地より北西に約五キロ、五十波地区と宇野地区に跨がりそびえる標高約584mの長水山上に築かれた山城で、南北朝時代に赤松円心の三男則祐によって築かれたと伝わる。西播磨守護代を努めた赤松一族宇野氏は、室町中期まで篠ノ丸城に本拠を置いたが、戦国期になると防備に優れた長水城に拠点を移したと考えられている。
播磨北西部の城としては規模が大きく、現在信徳寺の本堂が建つ山頂部に東西約10m、南北約23mの主郭を置き、南北と北東方向へ延びる尾根を約100mにわたり段々に削平して郭を設けている。主郭の石垣は最高で約6mあるが、大部分は後世に積み直されたものと考えられている。
なお、宇野地区の伊水小学校は大手口の居館跡と推定されており、地名などの残りからこの地域には原初的な城下町があったものと推測されている。また、搦手口の五十波地区にも五十波構と呼ばれる平城があった。
天正八年(1580)四月、聖山城に本陣を置いた羽柴秀吉は宇野方の拠点を次々と攻略して長水城に是り、所々に砦を構えて包囲を固め、一端英賀(姫路市)へ転戦した。同年五月、奮闘虚しく城を脱出した宇野正頼・祐清父子は美作方面へ逃れようとしたが、蜂須賀家政・荒木重堅・神子田正治らの軍勢に追いつかれ、千種大森で討ち死にしたとされる。
なお、江戸後期成立の『長水軍記』は、黒田官兵衛の調略で裏切った家臣の放火により長水城が落城したと伝えている。その真相は不明であるが、宇野氏の滅亡によって播磨の反織田勢力は一掃され、当地の戦国時代は終焉することとなった。
その後、宍粟は神子田正治、次いで黒田官兵衛らの領地となり、元和元年(1615)宍粟藩主となった池田輝澄が山崎城を築城して近世城下町を整備し、長水城はその役割を終えることになった。
(※現地説明看板より)
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