窪山城(姫路市林田町林田字聖岡)
別名:林田陣屋・林田城・鎌倉城
創築年代や創築者は明らかでないが、永正十七年(1520)置塩城主赤松義村が浦上に通じる松山城、窪山城を攻略した時、窪山城主は谷沢甲斐太郎であった。『播磨鑑』の記載は天正の頃とされているから、この落城後鎌倉城と名を変えて横野権太夫政信が城主として居住した。政信は置塩城赤松氏の幕下でその子横野助右衛門と続いたものと考えられる。その後、羽柴秀吉の播磨平定後はその領地となったが、この時窪山城で攻防戦があったという記録はないようである。
元和三年(1612)建部三十郎長政が林田藩1万石の領主として林田に入部し、塩岡に城を構えた。聖岡は窪山城のあった所で、その頃はすでに廃城となり、円福寺、聖丸祠や三木定久の邸宅があったが、これを移して塩岡の名を聖岡と変えてここに林田城を築いた。林田藩建部氏は明治維新まで続いた。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)