嘉吉の乱(1441)で一時断絶していた赤松氏は、応仁の乱(1467)に乗じて播磨・備前・美作の三ヶ国を取り戻して赤松家を再興した。文明元年(1469)、赤松政則は置塩山に城を築いた。政則が永年赤松氏の本拠地であった白旗城を捨てて新たに置塩山に城を築いてここを新しい拠点とした理由について、白旗城の周辺は土地が狭少で、家臣団を城下に集結さすことが困難であったことが挙げられている。初代政則から政村(義村)、晴政、義祐、則房と五代続いたが、その間において赤松一族の内紛や山名氏との争いは絶え間なく続き、領地も次第に減じて、遂には僅かに飾西・飾東・神東の三郡のみとなった。天正五年(1577)、羽柴秀吉の播磨侵攻に際し、則房は秀吉に降伏したため置塩城は攻略から免れたが、則房はその後置塩城を出されて阿波国で一万石が与えられることになった。赤松政則の築城以来百余年にして置塩城は赤松氏の手からはなれるに至った。天正九、年羽柴秀吉は姫路に城を築いくにあたり、置塩城の建物その他を移したと云われている。
以来、置塩城は廃城となったが、この城の築城は、ここを中心として夢前渓谷全般に渡って防御施設が築かれていたことが注目される。すなわち、姫路方面からこの谷の入口にあたる玉田に大門を、西の方莇野谷には谷の大門を置き、西南の間道にあたる寺村には御門という地名が残っていて、ここにも関門があったことがわかる。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
南十四郭
南十五郭
南十六郭
南十六郭東帯曲輪
南十三郡
南十二郭(伝茶室)
南十二郭東帯曲輪上段
南十二郭東帯曲輪下段
南十二郭南帯曲輪
東帯曲輪群
南西十二郭
南西十三郡
南西十四郭
南西十四郭の北西石垣
南西十五郭
南西十一郭東下段
南西十一郭の東登り土塁
南西十一郭西上段
南西十一郭の西石垣
馬場
南西十郭西腰曲輪
南西十郭西腰曲輪の西土塁
南十郭西腰曲輪の北土塁
南十郭
南十郭の北東登り土塁
南西九郭東帯曲輪
南西九郭(二の丸)
南西九郭の東土塁
南西九郭の西土塁