この城の創建については、源季房の白旗出現の夢見による築城が伝承されている。すなわち、源季房が播磨国の国司に任ぜられて播磨の加古川に留まっていたとき、ある夜の夢枕に、播磨国の西方の険しい峰で、前に川が流れていて人跡希なところに一流の白旗が天から降るのを見た。その後幾日か経て、赤穂郡赤松荘の人々が夜ごとの夢に白旗が現れるという不思議が起こり、このことを村の人々が国衙に訴え出た。季房はこれを聞いて直ちに赤松荘に赴いて格好の山を求めてここに城を築いた。これが白旗城であるという。しかし、季房が播磨に来たのは国司としてではなく、流人として監視下に置かれていたはずである。当時の高官が播磨に配流される時はその西隅の佐用郡が選ばれるのが例であった。また円心が本拠を構えていた赤松村はこの佐用荘の一部であって、その白旗伝承が赤松村中心であることは、それが円心の佐用荘支配の完成後に起こった伝承であることを示しているとえいよう。それまでの円心は佐用荘赤松村の一荘官にすぎなかったのである。白旗城築城に関する今一つの伝承は、建武三年(1336)、足利尊氏の西走を追って新田義貞の大軍が西下してきたとき、これを白旗城で食い止めるためにここに急遽白旗城を構築したのが始まりというのである。義貞軍の西下の際、これに備えて白旗城を修築したことは、円心が鵤の弘山に陣する義貞に偽って播磨国守護に任じてくれるなら味方になってもよいという条件を出した。義貞はこの提言を真に受けてこれを都へ持っていって協議をはかった。その間に白旗城の修理を完成することができたというのである。現在残っている遺構からみても、その築造には相当の歳月を要したことは確かで、すでに元弘三年(1333)の六波羅攻めの旗を上げる以前にここに城が築かれていたことが想像される。
宝林寺所蔵の『播州諸城交替連綿之記』によると、「天永三年四月十四日 赤山建城郭名白旗城、改氏号赤松氏、本丸十二間余南北二十七間三馬(鷹)丸と号、二丸櫛橋丸東西十八間余南北十九間余、走廻拾丁余、此山田境一里に横二十町余二丸遠櫻門」とあり、続いて「天永三年四月十一日より什三位源季房継白旗城一保延二年まだ在住二十五年也。赤松源太季則保延二年継領白旗城一保元二年まで在住二十二年也。山田伊豆守頼範保元三年再領白旗城一仁安三年まで在住十一年也。宇野播磨守則景嘉応元年再領地白旗城一建久七年まで居城二十八年也。赤松左衛門尉家範建久八年継領白旗城一建保五年迄在住二十一年也。赤松播磨守久範建保六年継領白旗城一寛元二年迄在住二十八年也。赤松次郎茂則寛元三年再領白旗城一乾元元年迄在住五十八年也。赤松内記次郎茂利嘉元元年受領白旗城一正和四年迄居城十三年也。赤松次郎左衛門尉則村入道円心云者正和四年継領白旗城一貞和元年迄在住三十年也」とある。円心が創めて白旗城を築造したとすると、ここに長々と引用したことは全て嘘ということになる。この『播州諸城交替連綿之記』は文学中に「本丸」などの記載が見えるところからみても近世に書かれたものであることは推定されるが、どこまで真実性があるかは問題であろう。白旗城はその後嘉吉元年(1441)まで百二十余年間赤松氏の本拠として一門の繁栄の拠点となった。『播州諸城交替連綿之記』によると、円心(正和四年-貞和元年)、範資(貞和二年-文和二年)、義房(文和三年-貞治六年)、光範(応安元年-康暦二年)、義則(永徳元年-応永九年)、満祐(応永十年-永享六年)とある。
赤松氏繁栄の理由については、赤松渓谷の狭少で攻め難く守り神易いことが挙げられている。また地の利よりも円心が早くより上洛し都の識者との交誼による学識思想の検索による人間の完成にその因があるとも云われている。これらの理由に加えて、佐用の鉄、金出地、横山千軒という地名が物語る銅などの生産が経済的優位をもたらした結果ではなかろうか。この城における最大の合戦は建武二年(1335)、新田義貞との攻防戦であった。西下した義貞軍は鵤荘広山の安楽寺に陣を構えていたが、その間に円心の謀略にかかり、二週間遅れて白旗城を包囲した。その間に城の修理を完了した赤松軍は、海老名・岡・内海ら近隣の土豪が籠城に参加して防備を固めたため五十日間に及ぶ義貞軍の攻撃に耐えることができた。しかし籠城の長引くとともに白旗城内にも漸く兵糧が不足し始めたため、円心は一日も早い足利尊氏の東上を待ち、三男の則祐を九州大宰府に派遣してその東上を促した。これを受けて直ちに水陸に分かれて東上してきた尊氏の軍勢を恐れて義貞は遂に白旗城の囲みを解いて兵庫に退却した。当時の戦いは、かつての白兵戦は廃れて、弓矢による射戦がその主体であったため、地勢の優劣が著しく戦況に影響したといわれている。その点白旗城は守勢に極めて有利であったことは考えられるが、糧食の不足は作戦の外であって、白旗城の運命もまさに風前の灯となっていたのである。嘉吉の変に際して、白旗城は城山城よりも早く落城して満祐を嘆かしたといわれている。嘉吉の変後白旗城は廃城となり、その後赤松家を再興した赤松政則は白旗城を捨てて文明元年(1469)、置塩城を築いてここを赤松氏の本拠とした。その理由については、白旗城のある赤松渓谷はその立地からみて、所謂籠城防備型で、その地域の狭さが、ようやく興りつつあった城下町の建設、経営には不利であるところから、これを捨てて城を中心とする武家屋敷街すなわち城下町を造り、ここを経済の中心とする意図によるものとされている。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
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