城山城 旧揖保郡新宮町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

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城山城(たつの市新宮町馬立字亀山・菖蒲谷・下野田字菖蒲谷・平井字亀ノ山)

城山城は赤松則祐が築いたとされている。『教王護国寺文書』巻一の「矢野荘年貢算用帳」によると、文和元年(1352)の頃に城山城築城人夫のことがあり、貞和元年(1362)にも矢野荘から城山城へ材木運搬のことが記されている。貞和二年になると兵糧米や塩が運びこまれているから、ようやく城ができて軍兵が駐留していたことがわかるが、なお倉作人夫や材木が矢野荘から運搬されている。すなわち、城山城は全盛時代の赤松氏の権力をもってしてもなお10年以上の歳月を要したのである。東麓の新宮町馬立に守護屋形があったとされているが、越部にもあったらしく、「於越部、守護屋作、白土持夫十人、二日役粮米」という貞和二年の資料がある。また、新宮町宮内の城が鬼門にあたるため、ここに城禅寺を建てたとされているが、同じく貞和二年の史料に「予守護方、城山本堂修造料人夫三人」とある。両寺の間に何らかの関係があるのではなかろうか。
嘉吉の変(1441)で書写坂本城を捨ててこの城山城に籠った赤松満祐は既に敗戦を覚悟していたといわれている。攻撃は山名軍を主力としてこれに細川軍や一族赤松満政らが加勢した。城山城主であった赤松義雅は子千代丸を連れて赤松満政の陣に下り、千代丸の助命を託して自殺した。千代丸は後に赤松家を再興した政則である。嘉吉元年(1441)九月十日、城山城は落城、満祐以下一族六十九人が自刃した。落城後百年近くも廃城となっていたが、天文七年(1538)、尼子晴久が播磨へ侵入した。晴久は城山城を再興し、天文九年に播磨から撤兵するまで三年間ここを本拠とした。このことは天文七年の『鵤荘引付』に英耒大法師が九月二十七日城山へ罷出て尼子殿に見参したと書かれていることによってもわかる。尼子軍の撤退後、再び廃城となった。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
北東竪堀
西竪堀
東竪堀
北横堀
北西竪堀
本丸曲輪群北三郭
本丸曲輪群北二郭
本丸曲輪群主郭
本丸曲輪群西二郭
二の丸曲輪群北帯曲輪
二の丸曲輪群西出郭の石垣
二の丸曲輪群西出郭
二の丸曲輪群主郭
二の丸曲輪群東二郭
二の丸曲輪群南東四郭
二の丸曲輪群東三郭
二の丸曲輪群東五郭
二の丸曲輪群東六郭
二の丸曲輪群東七郭
二の丸曲輪群西八郭
二の丸曲輪群西七郭
二の丸曲輪群西六郭西帯曲輪
二の丸曲輪群西六郭
二の丸曲輪群西五郭
西五郭の北土塁
三の丸曲輪群西四郭
三の丸曲輪群西三郭
三の丸曲輪群西二郭
三の丸曲輪群主郭
三の丸曲輪群東二郭
三の丸曲輪群南西六郭
三の丸曲輪群南西七郭
三の丸曲輪群南西八郭
三の丸曲輪群南九郭
二の丸曲輪群南東十一郭
二の丸曲輪群南東十二郭
二の丸曲輪群南東十三郭
二の丸曲輪群南東十二郭東帯曲輪
二の丸曲輪群南東十郭
二の丸曲輪群南東九郭
二の丸曲輪群南東八郭

城山城遠望
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