坂本城 姫路市 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

坂本城(姫路市書写西坂本字構江)

坂本城の築城年代は明らかでないが、本城の利用者に羽柴秀吉、山名持豊、赤松満祐、足利尊氏らが挙げられているところからみると、あるいは赤松円心時代に既に何らかの形が出来ていたのかもしれない。しかし本城が有名になったのは嘉吉の変(1441)にあたり、将軍足利義教を殺して播磨に引き揚げてきた赤松満祐が最初に曲輪にしたのがこの坂本城であったからである。満祐はここに三千余駒を集めて室町幕府の追討軍と戦ったが、敗れて城山城に転進した。嘉吉の変後は山名持豊は播磨国を領し坂本城に入城した。応仁の乱後赤松政則が赤松家を再興するとともに政則と山名政豊との間に真弓峠や坂本城を中心に播磨地方一帯に戦いが始まった。長享二年(1488)七月、山名軍は坂本城を出て但馬に帰ったが、大永二年(1522)、山名誠豊は再び播磨に進攻し書写山の浦上軍を攻めて大敗し但馬へ帰った。その後坂本城が廃城となった時期などは明らかでない。この城を御構の御所と呼ぶ訳は「赤松満祐がこの地に入るや、応永二十九年(1422)平城をこの地に築き塁石壁門を堅くし、総郭廻りには大堀をほらせ依之堀の城とも御構の御所とう云也」とあることによってわかる。
『日本城郭大系』には坂本城付近の字限図の小字から城のあった当時の地形を復元して現在城の土塁としているところは池の堤防であるとしている。築城当時は大堀があったと云われているところから、これが池に拡張され、さらに又埋め立てられたとすれば現在残っている土塁は池の堤防であり、堤防である前には大堀の土塁であったことも考えられるであろう。いずれにしても古い時代の平城として価値あるものであるところから正確な発掘調査を期待するところである。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)

城碑
現地説明看板
坂本城跡
土塁と堀跡?
土塁