三石城は、『太平記』によると、元弘三年(1333)、後醍醐天皇の討幕挙兵に呼応した三石保の地頭伊東大和二郎宣祐が築城した。建武三年(1336)には、九州へ敗走する足利尊氏と新田義貞の間で合戦が繰り広げられた。その後、播磨・備前・美作の守護赤松氏の重臣で、備前守護代の浦上宗隆の居城となる。応仁の乱後は浦上氏が赤松氏を凌ぐようになり、宗隆の五代後の浦上村宗は主家赤松義村と対立、永正十六年(1519)、村宗は籠城し、赤松義村は三石城を包囲したが、浦上方は包囲軍を敗走させた。大永元年(1521)に、村宗は義村を殺害、備前東部と播磨西部を支配する戦国大名となった。現在確認される遺構は、村宗によって築かれたと云われる。村宗が没すると、兄の浦上政宗が播磨の室津城へ移り、弟の浦上宗景が享禄四年(1531)に備前和気の天神山城に居城を移したため、廃城となった。
三石城(備前市三石)