秩父山城(姫路市新在家1丁目)
別名:秩父山構
『播磨鑑』に「領主は秩父八左衛門一伝 英賀の家臣、水原山に居す。旧名を改めて秩父山と号す。永享の頃也」とあって、秩父山はもと水原山と呼んでいたことが分かる。『姫路城史』巻一に永享十二年(1440)に赤松満祐は自己の下知に従わぬ姫路地方の豪族を閉戸追放しているが、その中に「水原山構主山之井刑部二郎一光」なるものが記されている。いずれも永享年間と書かれているが、水原山から秩父山に呼び名が変わった事からみて、山之井刑部二郎一光が先に居住し、追放された後へ秩父八左衛門一伝が城主になったのであろう。
『播磨鑑』にも「今不残山畑に成」としるしている如く、現在も遺構はどこにもみられない。山の大部分は削られて、わずかに西南の一部が残っているにすぎない。そこにはまだ樹木が繁っていて山であったことを表している。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
秩父山城跡