衣笠氏は明石の奥、櫨谷町の寺谷にあって、別所・魚住・間嶋氏などと共に播磨赤松氏の旗頭として、よく神を敬い、仏閣を建立した。そのことは「文応元申年 枦谷保司衣笠法眼祈祷所而呉道士ノ筆ノ十六善神弘法ノ筆ノ三尊大不動並大般若経六百内絹旗三流当山ニ寄付 其後文永年中ニ信州ヨリ諏訪大明神ヲ勧請シテ氏神トシ且亦満願寺宝福寺新長谷寺衣笠氏親族ノ菩提寺トシテ建立シ」と記してある『如意寺旧記』等の古文書から伺える。
この衣笠氏がいつ頃この櫨谷の地に居住し、どこにその居館を定めたかは詳かではないが、先の文書から文応元年(1260)以前の鎌倉時代中頃には櫨谷の荘園管理の任務についていたと考えられる。そして、その居館は寺谷の端谷城の近くに衣笠氏の氏神諏訪神社の「元諏訪社」跡といわれるところがあり、その隣接地が有力地としてあげられる。また『如意寺寺社改』には、文永年間に衣笠法眼が満願寺(寺谷村)と宝福寺(福谷村)を、衣笠左衛門佐が友清村に新長谷寺を建立したとあり、一族は櫨谷川沿いの村々にそれぞれ居館を設けて分布していたらしいことが伺える。
端谷城に関する戦記は見当たらないが、衣笠法眼以来、衣笠氏は端谷城を本城として代々櫨谷の地を領有し、勢力を温存していたようである。嘉吉の乱(1441)では衣笠政重が、応仁の乱(1467~1477)では衣笠祐盛が赤松氏に属して活躍している。『村上源姓衣笠氏族譜』によると、祐盛は応仁の乱の戦功により衣笠姓を与えられたと伝えている。さらに『赤松記』には三石城主浦上村宗の乱に際し、永正十七年(1520)十二月に「公方様義晴将軍、御ともにて小塩御のきなされ、明石の沖にはし谷と申所に衣笠五郎左衛門館にて御としをめされ」とある。これは、次期将軍足利義晴を奉じた赤松義村が端谷城に一時身を隠して、戦力を養った時のことを記したものであって、衣笠氏の勢力を伺い知る唯一の史料である。この衣笠五郎左衛にとは、最後の端谷城主となった範景の父範弘のことである。そして、この範弘は櫨谷荘・押部荘十八村を支配し、「士民を愛すこと子の如し、士民の親しむこと父母の如し」(『村上源姓衣笠氏族譜』)と慕われた領主でもあった。
端谷城は範景の時、三好長慶の攻撃を受け、別所方七ヶ城の一つとして天文二十三年(1554)に落城した。その後、衣笠氏は長慶に属して各地に参戦している。天正六年(1578)、織田信長による三木城攻めが開始された。その時、範景は淡河城主淡河弾正正忠定範・魚住城主魚住頼治・福中城主間嶋彦太郎らと共に人質を別所長治に送り、長治への一味同心を誓った。しかしながら善戦およばず、信長の侍大将織田七兵衛や生駒甚介・浅井新八・明石与四郎ら五百余騎の攻撃を受け、三木落城後の天正八年二月二十五日に落城し、廃城となった。範景の最期については不詳であるが、端谷城跡内にある万福寺境内に墓碑が残されてある。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)