淡河城 神戸市北区 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

淡河城(神戸市北区淡河町淡河)

承久の乱(1221)で勝利した執権の北条氏は、淡河庄を北条時房の所領とした。翌年に地頭職として北条一族の右近将監成正が派遣され、淡河氏を名乗って淡河城を築いたという。だが、天正六年(1578)二月、淡河氏が属していた三木城主の別所氏が織田信長に反旗を翻し、播磨全土は戦乱の巷となった。淡河氏は三木城の後詰の城として、国境の守備を担い淡河城の守りを固めた。羽柴秀吉の攻撃で、三木城の支城が次々と落城するが、知略に優れた淡河定範の守る淡河城は最後まで残り、「三木の干殺し」が進むなか、重要な食料補給基地としての役割を果たした。
天正七年四月、秀吉は淡河城の四方に付城を築き、補給ルートを封鎖。五月には秀吉勢はおりからの風雨をついて丹生山に夜襲をかけ、全山に火を放ったため、丹生山明要寺は炎上し落城した。これを聞いた淡河定範は、一族郎党らを集め、車菱を敷き、逆茂木や大綱を張り巡らせるなどの防備を固めた。また、近在より牝馬を集め、防戦の支度を整えたところで、「淡河の城では、連日のように城外に出て作業をしている」と噂を流した。これを聞いた秀吉勢は、同年六月、羽柴小一郎秀長が五百騎を二手に分けて攻め寄せた。だが、車菱に足を痛める者が続出、さらに淡河定範は牝馬を秀長勢の中に放った。秀長勢は大混乱となり、そこへ淡河勢が攻め込み、秀長勢は敗走した。大勝した淡河勢だが、羽柴秀吉が大軍で再度攻め寄せれば再びの撃退は無理とみて、城に火を放ち一族郎党と三木城へ籠城。天正七年九月十日、毛利の将生石中務と三木城の別所方が平田村の谷大膳の陣を攻撃、戦いは秀吉方の大勝に終わったが、この合戦で谷大膳は壮絶な討死を遂げた。この戦に参戦していた淡河定範は手傷を受け、主従五騎で逃げ延びようとしたが、追っ手に追い付かれ、定範主従は敵方を撃退はしたが、力尽きて主従共に自害して果てた。「誠に惜しき良将かな」と、定範の死を惜しまぬ者はなかったという。こうして、三百六十年続いた淡河氏は滅亡したのである。
天守台
本丸
本丸の西土塁
西空堀
南空堀
淡河家廟所
二の丸
馬出状の本丸門跡
本丸門跡の北西土塁
南の丸

淡河城遠望